第三十四回
第三十四回:偽りの逃亡、隠された慈悲の針
「逃げたいなら、手伝ってあげる。……ただし、私の言うことを聞くことね」
医女チャンドクの言葉は、まるで市場の取引のように軽く、冷たかった。済州島の荒れた大地で、彼女は「逃亡」という餌をチラつかせながら、ソリを過酷な労働へと駆り出す。薬草を摘み、毒を扱い、時には血の滴るような傷口を縫わせる。
「……この人は、本当に医女なのですか? ただの冷酷な守銭奴ではありませんか」
ソリの瞳には、かつてのハン最高尚宮の慈悲深い姿とは正反対の、横柄で不遜なチャンドクへの反発が渦巻いていた。
その頃、漢陽の片隅では、別の意味で「命懸け」の事態が起きていた。
「……ああ、勿体ない。王様に捧げたアヒルが、こんなに売れ残るなんて」
トックは、事件の元凶とされたアヒルを自ら引き取り、毎日食べ続けていた。死を恐れぬ執念、あるいは妻への愛ゆえか。だが、変化は意外な形で現れた。
「……あんた、見て。私の肌が……ツヤツヤして、体中の節々の痛みがスッと消えたわ!」
アヒルを食べ続けたトックの妻の体に起きた、劇的な「好転」。ドクン、ドクン――トックの胸が高鳴る。
(もしこれが毒なら、なぜ俺たちはこんなに元気なんだ? ……やはり、あのアヒルは滋養の塊だったんだ!)
宮中では、孤独な戦いが続いていた。
「……ホンイが倒れる直前、ヨンノに呼ばれていたのは間違いありません」
ソリを慕うヨンセンは、震える手で真実の断片を掴んでいた。しかし、今はチェ最高尚宮の全盛。ミン尚宮は、ヨンセンの肩をギュッと抱き寄せ、苦渋の決断を促す。
「……今は、その声を飲み込みなさい。ここで潰れては、ソリを救う術がなくなるわ」
暗い水刺間の片隅で、ヨンセンは一人、声を殺して泣いた。正義が権力に踏みつぶされる音が、パキパキと音を立てて響くようだった。
一方、済州島のソリは、さらなる不審を募らせていた。
「……クマン様。兵士を総動員して、山中で何を隠しているのですか」
チャンドクと軍人クマンが、密かに何かを建設している。復讐の炎を燃やすソリは、それを不正の証拠だと信じ、ジョンホに告げ口する。
「……チョンホ様、彼らはここで私腹を肥やそうとしています!」
しかし、ジョンホが目にしたのは、全く異なる光景だった。クマンの号令の下、汗を流す兵士たち。そして、彼らが作っていたのは、略奪から民を守るための砦であり、病人が療養するための施設だった。
「……ソリ。クマン殿は、民からの信望が極めて厚い御仁だ。……そしてチャンドク殿もまた、ただの医女ではないのかもしれない」
ジョンホの言葉に、ソリはハッとして自分の手を見つめる。チャンドクに無理やり手伝わされていた仕事……。それはすべて、貧しい島民たちの命を救うための、過酷だが最も純粋な「医」の現場だった。
「……逃亡など、初めからさせるつもりはなかったのね。……あなたは、私に何を教えようとしているのですか」
ザブォォォン――荒波が岩を打つ音。済州島の冷たい風の中で、ソリは自分が持っていた「料理人」という狭い枠組みが、音を立てて崩れていくのを感じていた。




