第三十三回
第三十三回:流刑の海、消えゆく師の灯火
「……アヒルは毒ではない。私が、この身を以て証明してみせる!」
内禁衛長の命により、宮中の緊張は極限に達していた。ハン最高尚宮とソリが再現したアヒル料理の試食が行われたが、その翌日、クミョンの放った「見えない毒(工作)」により、試食した役人が高熱で倒れる。この瞬間、真実は「大逆」へと塗り替えられた。
「チョンホ様、これ以上は内禁衛までもが連座の罪に問われます!」
部下の必死の制止により、改革の旗手であったミン・ジョンホは自らの家の蔵に幽閉される。腐敗したオ・ギョモの権力が、若き政治家の理想を物理的に封じ込めたのだ。
吹き荒れる拷問の嵐。アヒル屋の店主が苦痛に耐えかねて偽りの自白をし、すべてが詰んだ。
「……ソリ。聞きなさい」
血を吐くような取調べの中、ハン最高尚宮は愛弟子の手を握りしめた。
「私は罪を認めます。……あなたが生き延びるために。いつか、私の、そしてお母様の無念を晴らすために」
「嫌です! 一人はもう嫌です!」
ソリの絶叫は、冷たい牢獄の壁に虚しく響く。だが、ハン最高尚宮の瞳には、個人の死を超えた「志」が宿っていた。
「……料理とは、王の口を喜ばせるだけのものではありません。この国の、飢えと病に苦しむすべての民の命を繋ぐ……『医食同源』の真理なのです。ソリ、あなたは料理人を超えなさい。この国の病を治す存在に……」
オ・ギョモによる死刑の奏上。だが、王の僅かな慈悲か、あるいは政治的妥協か。下された判決は「済州島への終身流刑」だった。
荒れ狂う冬の海。小舟に揺られるハン最高尚宮の体は、すでに限界を迎えていた。
「……見て、ソリ。あの水平線の向こうに、新しい時代があるわ……」
師の体から力が抜け、静かにその灯火が消える。ソリの腕の中で、朝鮮一の料理人は、一人の罪人として波間に消えていった。
「ソリィィィ!」
幽閉を脱し、海岸へ駆けつけたジョンホが見たのは、すでに岸を離れ、絶望の島へと向かう一艘の船だった。
宮中に伝わる悲報。ヨンセンは慟哭し、トックは己の無力を呪う。
「あんた、今さら何しに来たんだ!」
トックの妻が、駆けつけたジョンホに罵声を浴びせる。
「ソリはね、あんたが傷を負ったとき、自分の命を懸けて介抱したんだよ! それを、あんたは蔵に閉じこもって……!」
ジョンホの衝撃。自分を救った「あの手」は、ソリだったのか。彼はその場で、政治家としての地位も、官職もすべてを捨てた。
「……待っていてくれ、ソリ。今度は私が、君を闇から救い出す」
済州島。そこは、希望の潰えた「地の果て」だった。何度も脱走を試み、そのたびに軍人クマンに捕まるソリ。彼女の瞳からは光が消え、ただ復讐の炎だけが燻っていた。
そんな彼女の前に、一人の女が現れる。同じ奴婢の身でありながら、どこか超越した雰囲気を持つ医女、チャンドク。
「脱走したいなら、手伝ってあげるわよ。……ただし、死ぬ気があるならね」
蔵の闇の中で、二人の女が向き合う。料理を奪われ、師を失ったソリ。だが、この出会いこそが、彼女を「世界史」の表舞台へと引き戻す、運命の第一歩となることを、まだ誰も知らなかった。




