第三十二回
第三十二回:毒のアヒル、崩れ落ちる戴冠
「……ミョンイの、娘……。あなたが、そうだったのね」
深夜の水刺間。ろうそくの火がゆらゆらと揺れる中、ハン最高尚宮はソリの手を、壊れ物を扱うかのように優しく、だが力強く握りしめた。
「はい、最高尚宮様……。母様が、ずっと、ずっとお会いしたがっていました」
二人の頬を、温かい涙が幾筋も伝い落ちる。数十年の時を超え、土の中に眠っていた親友の想いが、今、娘の手を通じてハン最高尚宮の心へと還ってきた。
「……これからは、私があなたの母になります。二人で、ミョンイの無念を晴らしましょう」
ガシッ――二人は固く抱き合った。だが、その感動をあざ笑うかのように、外の闇では冷酷な「死の包囲網」が音を立てて絞られていた。
数日後。王・中宗の静養地への行幸に合わせ、ハン最高尚宮が選んだ献立は、滋養強壮に優れた「アヒルの土鍋煮」だった。
「……このアヒルは、硫黄を食べて育った特別なものです。体内の毒を出し、気力を補う最高の食材です」
ハン尚宮の説明に、中宗は満足げに箸を進めた。グツグツと煮え立つ黄金色のスープ。湯気と共に広がる芳醇な香りに、誰もがその一品を「最高尚宮の真骨頂」と信じて疑わなかった。
異変は、その夜に起きた。
「……うっ。王様、王様……!」
静養先の寝所から、侍女たちの悲鳴が上がる。
ドサッ――中宗が苦悶の表情を浮かべ、寝台から崩れ落ちた。顔は土色に濁り、激しい嘔吐と眩暈が王の体を蝕んでいく。
「……王様が倒れられた! 料理に毒が盛られたぞ!」
ガシャンッ!――兵士たちが一斉に踏み込み、ハン最高尚宮とソリの腕を強引に捻り上げた。
「……待ってください! あれは滋養の料理です。毒など、断じて……!」
ソリの叫びは、冷たい怒号にかき消された。そこへ、待ち構えていたかのようにオ・ギョモとチェ・パンスル、そしてチェ尚宮が現れる。
「……硫黄とは、本来猛毒。それを王様に供するなど、正気の沙汰ではない。これは、最初から王様の命を狙った『大逆罪』である!」
オ・ギョモの冷徹な宣告。チェ尚宮の唇の端には、隠しきれない暗い愉悦の笑みが浮かんでいた。
「……仕組まれたのね。……最初から、この場所を私たちの墓場にするつもりで……」
ハン最高尚宮は、真っ白な顔で悟った。硫黄を飲ませて育てたアヒルが「毒」であるという偽りの証言。買収された業者。そして、何より王の体調を事前に悪化させていた密かな細工。すべては、ハン最高尚宮を極刑に処し、チェ一族が権力を奪還するための完璧なシナリオだった。
ドォォォーン――不吉な雷鳴が轟く中、二人は泥水の中に引きずり出された。
「……ソリ、絶望してはだめよ。……真実は、死なないわ」
激しい雨に打たれながら、ハン最高尚宮はソリに耳打ちした。だが、その声もまた、迫り来る過酷な「審問」の嵐にかき消されようとしていた。




