第二十七回
第二十七回:一人の御膳、母の甘酢と嵐の前夜
一勝一敗。水刺間の頂点、最高尚宮の座を懸けた女たちの戦いは、ついに最終局面を迎えていた。
「最終課題は、皇太后様の誕生祝に出す御膳とする」
王の御前で告げられたその一言が、宮廷の空気をピリリと引き締める。皇太后は、味に厳格であることで知られる。その舌を満足させた者こそが、名実ともに朝鮮一の料理人となるのだ。
ハン尚宮は、独り静かに蔵の奥へと向かった。彼女の胸には、ある確信があった。
(ミョンイ……。あなたと一緒に埋めたあの「甘酢」が、今、私たちを助けてくれるわ)
それは数十年前、親友であったミョンイ――ソリの亡き母と共に、友情の証として土深く埋めた秘密の味だった。時を経て熟成されたその酢は、もはや調味料の域を超え、命の輝きを放つ琥珀色の雫となっているはずだ。
一方、ソリもまた、母が遺した古い日記の行間に、隠された真実を見出していた。
「……『友情を土に預ける。いつか娘が、この味を継ぐ日のために』」
掠れた文字をなぞるソリの指が、かすかに震える。日記の記述を頼りに、夜の帳に紛れて宮廷の隅、古びた木の下を掘り起こすソリ。カツンッ――手応えがあった。泥を払い、現れた小さな瓶の栓をポンッと抜いた瞬間、芳醇で、どこか懐かしい香りがフワァと鼻腔をくすぐった。それは母の愛そのものだった。
その頃、チェ尚宮は孤独な戦いに身を投じていた。
「……小細工はいらない。私は、私自身の腕で、あの女を屈服させる」
彼女のプライドが、卑怯な真似を許さなかった。一族の宿命、クミョンの期待、そして何よりハン尚宮への積年の対抗心。チェ尚宮は、最高級の食材を前に、鬼気迫る表情で包丁を研ぎ澄ませていた。シュッ、シュッという音は、まるで自分自身の魂を削り取っているかのようだった。
だが、その潔白な決意を裏切る影が、暗闇で蠢いていた。
「妹よ、お前は黙って料理をしていればいい。……汚れた仕事は、この兄が引き受けよう」
チェ・パンスルは、冷酷な笑みを浮かべて部下に命を下した。万全を期すため、ハン尚宮の「足元」を掬う準備を整えたのだ。
翌朝、悲劇は静かに、だが決定的な形で訪れた。
ガシャァァーンッ!――ハン尚宮が用意していた極上の食材が、何者かの手によって無残に踏み荒らされ、異臭を放つ泥水に浸されていた。
「……そんな。これでは、皇太后様の御膳は作れない……!」
ソリが絶望に立ち尽くす中、ハン尚宮は毅然として立ち上がった。
「ソリ、泣いている暇はないわ。私が今から宮中を出て、代わりの食材を直接調達してくる。あなたはここで、残された道具と、あの甘酢を守りなさい」
ハン尚宮は、トックの用意した小舟に飛び乗り、海を渡る。だが、その船の進路が、次第に不自然な方向へと逸れ始めた。
「……船頭さん、道が違います! 港はあちらのはず……!」
ハン尚宮の叫びに、船頭は無言で笠を深く被り直した。ザブォォォン――激しい波の音と共に、船は予定とは全く異なる孤島へと向かっていく。パンスルが放った刺客による、組織的な誘拐だった。
一方、宮廷では刻一刻と制限時間が迫っていた。
「……ハン尚宮はまだ戻らぬのか!」
王の側近たちが苛立ちを募らせる。チェ尚宮は、完璧に仕上がった料理を前に、ハン尚宮の不在に言いようのない不安と怒りを感じていた。
「逃げたというのか……? 私との勝負を捨ててまで、命が惜しかったというの、ハン尚宮!」
「……いいえ、ハン尚宮様は必ず戻られます!」
ソリの声が、静まり返った水刺間に響き渡る。だが、無情にも開始の太鼓がドォォォーンと鳴り響いた。
「ハン尚宮不在につき、この競合は中止、あるいはチェ尚宮の不戦勝とすべきではないか」
重臣たちの囁きが広がる中、ソリは一人、母の甘酢を抱きしめた。
(母様、ハン尚宮様……。私に力を貸してください)
ソリの瞳に、絶望を焼き尽くすほどの強い光が宿る。主不在の調理場で、ソリは静かにエプロンの紐を締め直した。たった一人で、朝鮮最高の権威に挑むために。
ザッ、ザッ――孤独な足音が、嵐の前の静けさを切り裂いていった。




