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『絶対味覚の毒見侍女と、父を陥れた天才包丁人――宮廷に潜む嘘を、私は舌で暴く』  作者: 水前寺鯉太郎


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第二十五回

第二十五回:権力の空白、太平館の「命を懸けた御膳」

 ゴホッ、ゴホッ――静まり返った水刺間スラッカンの回廊に、不吉な咳の音が響く。「疫病」という名の見えない怪物が、王宮の空気をも凍りつかせていた。感染の疑いがある女官たちは、文字通り掃き出されるように宮中を後にする。その列の中に、力なく輿に揺られるチョン最高尚宮チェゴサングンの姿があった。

 「最高尚宮様……!」

 ソリが駆け寄ろうとするが、兵士たちの槍がガシャンッとその前を塞ぐ。

 「近寄るな! 下がれ!」

 チョン最高尚宮は、青白い顔でソリを見つめ、力なく首を振った。彼女は疫病ではない。長年の持病が悪化しただけだ。だが、チェ一族にとって、これは天から与えられた好機に他ならなかった。

 「……さて。あるじのいない巣を、どう整えましょうか」

 物陰でその様子を眺めていたクミョンの瞳は、冬の月のように冴え渡っていた。彼女の指先が、扇の骨をパチンと弾く。その音は、新たな時代の幕開けを告げる合図のようでもあった。

 「おめでとうございます、叔母様。……いえ、最高尚宮代行」

 最高尚宮の居室に居座ったチェ尚宮に対し、クミョンは深々と頭を下げた。女官長への根回し、各部署への賄賂、そして「チョン最高尚宮は再起不能」という噂の流布。そのすべてを完璧に、かつ音も立てずにやってのけたのはクミョンだった。

 「ふふ……。代行という名は、じきに取れるわ。すべては計画通り。だが、あの目障りな二人をどうする?」

 チェ尚宮の視線が、鋭く光る。ハン尚宮とソリのことだ。クミョンは薄く微笑み、机の上の地図を指差した。

 「太平館テピョングァンへ送るのです。明からの使者が参ります。……『死の任務』を携えて」

 「太平館への異動……?」

 ハン尚宮の声が、微かに震えた。そこは明の使者を接待するための迎賓館だが、実態は政治の濁流が渦巻く「牢獄」も同然だ。王位継承の問題を抱えた今回の使節団は、無理難題を突きつけてくることが目に見えている。失敗すれば命はなく、成功しても恨みを買う。

 「……わかりました。謹んでお受けいたします」

 ハン尚宮はソリの肩をグッと抱き寄せ、静かに、だが凛とした声で答えた。

 出発の直前、ソリはトックの姿を物陰に見つけた。

 「トックおじさん! お願い、チョン最高尚宮様の様子を……」

 「わかってる、わかってるよソリ! このトック様が、こっそり特製の薬湯を届けてやるからな。お前は……お前は自分の身を一番に考えるんだぞ。いいな!」

 ドタバタと走り去るトックの背中を見送りながら、ソリは決意を固めた。

 (母様の酢、そして最高尚宮様の教え。それがあれば、どこへ行こうと私は屈しない)

 ドォォォーン――重厚な太鼓の音が響き、明の使節団が到着した。先頭を歩く使者の男は、脂ぎった顔に傲慢な笑みを浮かべている。彼は「山海の珍味を食い尽くす食通」として知られていたが、その実、気に入らなければ料理人をその場で打ち据えるほどの暴君でもあった。

 「何だ、この料理は! 味が薄い! 私を愚弄する気か!」

 ガシャァァーンッ!――初日の御膳は、一口も付けられずに床へ叩きつけられた。極上のアワビも、贅を尽くした鹿肉も、使者の怒りの前ではただのゴミ屑と化した。

 「……ハン尚宮様、見てください」

 ソリは、床に散らばった料理と、使者の様子をじっと観察していた。「使者の様子の異様さ……。あの激しい怒り、異常なまでの喉の渇き、そして足元のふらつき。……これは」

 ハン尚宮もまた、厳しい表情で頷いた。

 「ええ。長旅の疲れだけではない。……糖尿病が、深刻な段階まで進んでいるわ」

 「使者は、脂っこいもの、甘いもの、刺激の強いものしか口にしたくないようです。……ですが、今の彼にそれを与えれば、この地が彼の死に場所となるでしょう」

 ハン尚宮の言葉に、ソリは息を呑んだ。もし使者がここで倒れれば、接待役の自分たちは打ち首だ。だが、彼の望むままに「珍味」を出し続ければ、それはもはや料理ではなく「毒」を盛ることに等しい。

 「ソリ。料理人には、二つの道がある」

 ハン尚宮は、ソリの手を優しく、しかし力強く握った。

 「口が喜ぶ毒を出すか、体が喜ぶ真実を出すか」

 ソリの脳裏に、母のあの香りが蘇る。

 「……真実を、出しましょう。たとえ、それが剣を突きつけられる結果になろうとも」

 翌朝。太平館の厨房に、シュッ、シュッというソリの包丁を研ぐ音が、静かに、だが決然と響き始めた。チェ一族が仕掛けた「死の包囲網」のど真ん中で、ソリとハン尚宮の、命を懸けた「滋養の戦い」が幕を開けたのである。

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