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『絶対味覚の毒見侍女と、父を陥れた天才包丁人――宮廷に潜む嘘を、私は舌で暴く』  作者: 水前寺鯉太郎


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第一回

第一回:選別の膳、泥水の茶に隠された慈しみ

 カカカカカッ、カツン――静まり返った水刺間スラッカンの広間に、乾いた音が鋭く突き刺さる。

 他の受験者たちが緊張で指を震わせ、ネチャッ、ネチャ……と鈍い音を立てて食材を潰している中、その少女の包丁だけが、まるで舞い踊るような軽快な旋律を奏でていた。

 トトトトトトトッ、シャッ――まな板の上で、鮮やかな紅色の五味子オミジャの身が、一寸の狂いもなく弾けていく。

 試験官席に座る義禁府の若き従事官、ミン・ジェハは、思わず身を乗り出した。彼の鈍い味覚では測りきれない何かが、その音の中に宿っている。

 少女――ソリは、手元を見ることなく、ただ空気の揺らぎを味わうように目を細めた。ペロリ、と静かに指先を舐めた瞬間、運命の歯車が音を立てて回り始めた。

 今日の課題は「王宮で最も尊い水」を使い、一品を仕上げること。

 他の受験者たちは、高価な香辛料や、遠くの名山から運ばせた湧き水を競って使っている。

 だが、ソリが選んだのは、宮廷の隅にある古びた井戸から汲み上げた、濁った水だった。

 ザラリ、ジャリッ――器の底に残る砂の感触。受験者たちからは、プッ、クスクス……と嘲笑が漏れる。

 だがソリには聞こえていた。その水が語る、隠された真実の声が。

 スゥーッ、クン――鼻腔を抜けるのは、泥臭さではない。微かな炭の香りと、喉を焼くような鉄の匂い。

 ソリの脳裏に、かつて父が語った「食の理」が蘇る。

 ギュッ、ギュッ――父の大きな手が結んでくれた、不格好な塩むすびの感触。あの時味わった、混じりけのない塩のシャリッとした輝き。それがソリにとっての、食の原風景であり、守るべき正義だった。

 だが、その父を奪ったのは、この宮廷に巣食う嘘だ。

 ガチャン、ジャラリ――父を縛り、刑場へ引き立てた冷たい鎖の音が、今も耳の奥に残っている。

 ソリは怒りを鎮めるように、五味子の実を水に浸した。プチャッ、ポチャン――泥水の中で、紅い実が涙を流すように色を広げていく。

 ソリはあえてその水を、じっくりと味わった。

 ジュルリ、チリッ――舌の奥を刺す渋み。

 やはりそうだ。この水は汚れているのではない。誰かが意図的に「毒」を投げ込んだ跡だ。そしてその手法は、十年前、父を死に追いやったあの男の手口に酷似していた。

 ジロリ――視線を上げると、試験官席の端に、冷徹な目を向ける男がいた。

 現在の宮廷料理人の頂点、ムジン。彼はソリの視線に気づくと、鼻先でフンッ、とせせら笑った。

 ソリは迷わず、調理を続けた。不純物があるなら、それを「味」に変えればいい。医食同源。毒を以て毒を制す。

 シャカシャカ、トトトッ――酢と蜜が混じり合い、五味子の酸味と泥水の鉄分が反応して、高貴な芳香へと変化していく。

 出来上がったのは、透き通った紅色の冷菜。

 ズズッ、ゴクリ――ムジンが一口、ソリの料理を啜った。

 直後、彼の喉がドクン、と大きく鳴った。顔色がサァーッ、と青ざめていく。

 ソリは静かに、彼にだけ聞こえる声で囁いた。

 「……熟成ねかせが足りませんね、ムジン様。十年前の『焦げた肉の脂』の臭い……。どんなに高価な香辛料で誤魔化しても、私には泥のように濁って味わえます。……ご馳走様でした」

 ゾクッ――ムジンの背筋を、見たこともない戦慄が走り抜けた。

 ソリはスタスタと、一度も振り返らずに会場を後にした。

 バシッ――外へ出たソリの腕を、逞しい手が掴んだ。ジェハだった。

 「待て! 今の一体何だ! あの傲慢なムジンが震え上がった理由を教えろ!」

 ソリはジェハの瞳をジロリと見つめ返した。

 「お役人様。いつか、あなたの舌でも分かる『真実の味』を、私がこしらえて差し上げましょう」

 だが、その言葉の余韻に浸る間もなく、非情な配属命令が下された。行き先は、呪われた死の場所――王妃の寝所。

 ギィ……、バタン――閉ざされた寝所を支配していたのは、ムワッとした重苦しい薬の匂いだった。王妃は寝台で、ヒュー、ヒュー……と細い糸のような呼吸を繰り返している。

 ドロリ――器に残された、真っ黒な薬湯。ソリはそれを指ですくい、ペロリと味わった。

 ピリッ、ギュッ――舌を刺す痺れ。やはりムジンの仕掛けだ。香炉からはチリッ、パチッと爆ぜる煙が漂っている。特定の茶葉と、この煙が合わさることで、王妃の胃の腑をじわじわと焼き殺しているのだ。

 「……もう、大丈夫です」

 ソリは立ち上がり、ジャラジャラと自前の松の実を取り出した。

 ゴリゴリ、スリスリ――死の静寂を打ち破るように、命の音が響く。シャリッ、サラサラと不純物を裏ごしし、コトコト、トプ、トプ……と慈しむように煮込む。

 出来上がったのは、雪のように白い粥。

 ソリは王妃の唇をピチャ……と濡らした。

 ゴクリ――数ヶ月ぶりに、王妃の喉が自らの意志で動いた。トロォ……、ジュワァ……と温かな熱が全身へ広がっていく。ポッ――王妃の頬に、微かな朱が灯った。

 「……はぁ……」

 それは、死の淵から戻ってきた、小さな、しかし力強い生命の吐息だった。

 ソリは窓の外、ムジンのいる大殿を見据え、心の中で静かに包丁を研いだ。

 シュッ、シュッ――。

 (父様……。奴らがこの国に仕込んだ毒、私がすべて味わい尽くして差し上げます)

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