香り
「ここを見てみろよ。ぼくの言った通りになったじゃあないか」
疲れたような顔をした三色菫は、表情と同じような声を出しながら目木薫を詰めた。三色の責めるような視線から逃げるように、目木は目の前に転がるものを見た。
「……本当に? 嘘ですよね」
「信じなくても、これは現実だぜ」
「とにかく、警察にも電話します!」
目木はポケットからスマホを取り出し、慣れた手つきで警察へと電話をかけ始めた。その間に三色は、目の前に転がっている〝成人男性の死体〟を探り始めた。
―――数時間前。
がちゃり。
そんな音を耳が拾ったことにより、沈んでいた三色の意識は緩やかに浮上する。それはまるで、水泡が水面へ浮き上がってくるような速度であった。瞼だって閉じたままだけれど、ああ、すぐそこに自身の意識が迫っているのを確かに感じていた。この37℃のぬるま湯な微睡みの中を、きっと幸せと呼ぶのだろう。
「三色さん、早く起きてください!」と、目木は勢いよく三色の布団を剥ぎ取った。
突然、吹っ飛んだ幸せに三色は「……うぅ」と唸る。
ゆっくりと両目を開けていけば、ばたばたと世話しなく動く目木がいた。――なにか予定があっただろうか? と、寝ぼけた頭を回転させようとする三色のために目木が今日の予定を口にする。
「ほら、前にも言ったでしょう? 今日はいつもお世話になっている弁当屋の娘さんに結婚祝いを買いに行きますよ!」
「………ああ、そうだったけね」
「ほら早く顔を洗ってきてください。その間にパンが焼けますからね、今日は特別に目玉焼きも作りますから」
「それなら―――」
「卵は二つ、ですよね。わかってますよ」
三色を洗面所へ送り出した目木は、目玉焼きを焼くために台所へ向かった。
しっかり名を現している目玉焼きを食べながら、三色は目木に「やっぱり、ぼくは行かない方がいいと思うんだが?」と口にする。
「まだいいますか? あんなに話して、三色さん納得してくれたじゃないですか」
「ああ、そうさ。きみの失恋がかわいそうだからね。だけど、よくよく考えてくれたまえよ、ぼくが外に出たら必ず〝第一発見者〟になるんだ。それはきみも知っているはずだろう?」
「訂正させてください。必ず〟じゃあないです。僕の姪の誕生日プレゼントを買いに行ったときは、大丈夫でした。それと、僕は失恋してないです」
「それは、……そうだがね」と、三色は目を伏せた。
「それに―――三色さんはもっと太陽の光を浴びるべきだと思いますよ」
目木の言葉に言い返せない三色の口から出たのは、諦めたような溜息だけだった。
それから朝食を食べ終えた二人は、服を着替え、街へと繰り出した。さまざまお店をはしごしたが、女性の喜ぶものなんてわからない二人が買ったのはタオルだった。途中で「もう現金でいいんじゃあないか、一番喜ばれるだろう」なんて、投げやりにもなった三色であったが、いつも醤油ベースのおいしい唐揚げ弁当を提供してくれる店主には、よくしてもらっている手前ちゃんとしたものを選べてよかった。ちなみに、今治タオルのバスタオルだ。とても気持ちがいいぞ!
買うことができた安心感と、なにごともなく家に帰れそうな喜びに包まれたまま、はやく帰ろうと近道である路地に入ったらそこに―――スーツ姿の男性がうつ伏せに倒れていた。
弾かれたように三色は男へと近づく。
男に意識を確認しようと顔を近づければ、こちらにも匂いが移りそうなほどアルコールの臭いが充満していた。――かなり酒を飲んでいるな。と、三色は眉をわずかに寄せた。
「大丈夫ですか、わかりますか? 目木ッ!」
「わかってます! 今コール中です!」
目木が救急車に電話をかけている間に、気道を確保しようと三色が成人男性をひっくり返す。ひっくり返した男の首には、ぐるり、と首を絞めるように青紫の痣があった。その痣を見た三色は沈痛な面持ちで瞳を閉じた。意を決して、首元に触れる。通常なら感じる鼓動が、一切感じることができない。呼吸で上下するはずの胸は、微動だにしない。確信と、ちょっとした違和感。
「………目木」
「どうしました? 救急車はすぐに来てくれるそうですよ」
「ここを見てみろよ。ぼくの言った通りになったじゃあないか」
三色が指をさす首元を見て、目木は信じられないとても言うように、三色を見る。
「……本当ですか? 嘘ですよね」
「信じなくても、これは現実だぜ」
「とにかく、警察にも電話をします」
―――現在。
「それで? またお前たちが第一発見者になったと」
きちり、と揃えられた前髪、少し高めの位置でくくられた後ろ髪、鋭い視線を隠すようにかけられた眼鏡、三色と目木に高圧的な態度で接する女性―――白木蓮は、神経質そうに眉をよせた。
「そうなんだよ、白木警部」
「はぁ。前も言ったとおもうが、お前は外に出るな」
「ぼくもそうしたいのは山々だが、それを許さない親友がいるものでね」
肩をすくめて、おどける三色から、鑑識捜査官と話し込んでいる目木へと白木は大股で近づいた。
「おい、うちの鑑識の邪魔をするな。お前ら二人とも捜査の邪魔だ。後日改めて聴取させてもらう」
近く通った警察官に「おい、この二人を下宿先まで送ってやれ」と、声をかける。
「心配不要だよ、白木警部。家に帰るぐらいできるとも」
「誰がお前ら二人の心配をするか」
「三色さん、少し静かにしてください」
白木からの凍えるような視線と、目木からの言葉を受けた三色は口を閉じた。三色がしっかり口を閉じたことを確認した目木は、空気を変えるように「コホン」と咳払いをした。
「白木警部、お気遣いありがとうございます。お言葉に甘えて、家までよろしくお願いします」
「……しっかり三色を見張っておけよ」
「はは、善処します」
目木の言葉に、白木は苛立ちを隠すことなく舌打ちをした。
白木の部下のおかげで、無事に下宿先まで辿り着いた三色は、すぐさま愛用しているロッキングチェアに腰掛けた。ずいぶんと使い込まれているのか、色あせ、所々に傷がついている。揺れるたびにギィギィと小さく悲鳴を上げる椅子に、目木は近いうちに壊れてしまうのではないか、と内心ひやひやとしている。
インスタント(粉末タイプ)の紅茶を二人分淹れ、片方を三色へ手渡し、目木はシンプルな一人掛けソファに座った。
「さあて、いろいろ聞いたんだろう? 聞かせてくれたまえ」
「それじゃあ、まず三色さんも知っていることからいきますね。男の名前は島田浩一、職業はフリーの記者です」
「ああ、彼が持っていた名刺にもその名前があるからね、間違いないだろう」
そう言いながら三色は、ロッキングチェアと一人掛けのソファの間に置かれたテーブルに遺体から拝借した名刺を一枚置いた。
「ええ! な、なんてことしてるんですか、三色さん!」
「別に名刺の一枚ぐらいバレやしないさ。ついでに確認した財布の中は免許証、保険証、交通系ICカード、その他諸々はそのままだった。それからお札はなく、小銭は残されたままだった」
「……ちゃっかりしてますね」と呆れを隠すことなく目木は呟いた。
「しかし、札がないってことは金目当ての可能性もまだあるのか」
「可能性はいつだって0ではないけれど、今回は金銭目当ての犯行ではないよ」
なんてことなく話す三色に、目木は疲れたような顔をしながら視線だけで続きを促した。
「彼の周りに鞄は落ちていなかった。彼自身のスマホと財布はそれぞれズボンの左右のポケットに入っていた。スマホの方は白木警部が解析中だろう。彼は記者だ。記者には必要なものがあるだろう?」
「もしかして、ネタ帳のことですか? それなら今のご時世、それこそスマホやパソコンにデータとして残しておくものじゃないんですか?」
「ああ、恐らく彼もそうしていたことだろう。しかし、彼の持ち物で一つ足りないものがあったのさ」
「足りないもの? ネタ帳以外で、ですか?」
「ああ、そうだ。――――――彼は家の鍵を持っていなかった。家の外に出るんだ、鍵は持って然るべきだろうさ。ここまで言えば、きみもわかるだろう」
「―――探し物は家の中」
「しかし、犯人の探し物は彼の家にも無いだろうね」
三色は紅茶を一口飲む。
「どうして家に無いと断言できるんですか? 見たわけでもないのに」
「それは、」
目木の質問に三色は、たっぷりと間を置いてから口を開いた。
「まだこの目で確認したわけではないから言えないな」
「なんですか」
「これはまだ憶測さ。きみに聞かせて、先入観を与えたくないからね」
「はいはい。それは、ご配慮ありがとうございます」
「それで、きみは鑑識さんにいろいろ聞いたんだろ?」
「ありがたいことに、宮さんがいろいろ教えてくれました」
目木は手帳を取り出し、パラパラとページをめくる。お目当てのページを見つけた指先は生真面目に止まり、書き留めたことを読み上げる。
「死因は恐らく絞殺。抵抗らしい、抵抗の痕跡はないとのことです。まぁ、臭うほどのアルコール臭です。首を絞められているときには意識がなかった可能性が高いそうです。それと宮さんの長年の経験から、その策条痕から恐らく凶器は〝ネクタイ〟だろう、とのことでした」
目木の言葉を聞いた三色は、「ふふ」と肩を揺らす。
「なんだ、見当がついていたんですか?」
「いや、一目見ただけではさすがに凶器まではわからないさ。でも、人間は楽をしたがる生き物だからね、手近なものだとは予想していたよ。それにネクタイが凶器なら納得できるからね」
「なにを納得できるんですか?」
「あの遺体が〝ネクタイ〟を持っていなかったことにさ。ジャケットも着ていて、ジャケットのポケットにはボイスレコーダーが入っていた。彼は仕事していたはずさ。……まぁボイスレコーダーの中身は今回の事件には関係ないだろうけどね」
「三色さんそう言うなら、そうなんでしょうね」
「あ、それと」と何かを思い出した目木が言葉を続ける。
「宮さんが言うには、首を絞められているけど、もしかしたら死因は違うかもしれないって言っていました」
「なるほど、ね。……ま。あとは、白木警部が情報をそろえてくれることを待とうか」
「他力本願だなあ」
「はは! ぼくはここから出ない方が世のためだからね」
そう言いながらコップを片手に立ち上がった三色に、目木は「贈り物は?」と聞く。
「きみ一人で渡してくれ。ぼくがいないほうがきみも気が楽、じゃなくて、いいだろう?」
「……はいはい、お気遣いありがとーございます」
拗ねた子どものように、そっぽを向いた目木に三色はケラケラ笑いながら自室へと向かった。
私には、墓場まで持っていくと決めた秘密があった。
25年前のあの日、あの場所で、燃え盛る炎の中で見捨てることのできなかった小さな命。わかっていたし、知っていた。この小さな命をごうごうと音を立てながら迫りくる赤色に置いていったほうがいいことなんて知っていた。知っていたんだ。
いまでも考える。
あの日、あの場所で、あの小さなそれを置いていったなら、いまごろ私はこんな思いを背負わなくてよかったのだろうか? そうならなかった未来を想像しても無駄だ。だって、そうはならかったのだから。わかっていながら25年間飽きもせず想像を繰り返す私を愚か者と呼ばずに、なんと呼ぶのが正しいのか誰か教えてほしい。
罪には罰がある。
私のこの罪悪感が、罪に対する罰と言うのであれば、一生逃れることはできないのだろう。
弁当屋である〝竹本弁当〟が開業してから25年目にして、店長である竹本優の最愛の娘である竹本はるみに婚約者ができた。お相手は誰もが一度は名前を聞いたことがある長谷川コーポレーションを一代で築き上げた長谷川正治の息子であり、次期社長である長谷川健だ。
長谷川健と竹本はるみの出会いは、なにも劇的なものではなかった。まだ平社員であった健が、外回りの途中で腹を満たすために立ち寄ったのが竹本弁当であった。
「いらっしゃいませ!」
からり、と笑ったはるみに、健は所謂一目ぼれをしたのであった。きらきらと遠くで瞬いている星のような瞳に吸い込まれた後、健の記憶はなかった。意識が戻ったころには、職場に戻り、購入した唐揚げ弁当を食べ終えていたのだ。
それから、なるべくお昼を竹本弁当で購入したかいがあったのか、じんわり太陽の熱が届く秋から二人の関係は少しずつ変わっていった。
「今日は季節のキノコ弁当がおすすめですよ」
「へ?」
実に間抜けな声をもらしながらはるみを見れば、熟れたトマトみたいに頬を真っ赤に染めながら「突然すみません」と彼女ははにかんだ。
「……いつも唐揚げ弁当ばかりだから、ときには野菜も食べたほうがいいって思ってたんです! それにですね! 父の作るしいたけのバターソテーは本当においしいんですよ!」
途中、開き直ったのか勢いよく話すはるみに、健は目を丸くした。必死に季節のキノコ弁当の良さを語るはるみに健は「それじゃあ、今日は季節のキノコ弁当にしてみます」と手に取った。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
本当に嬉しそうに笑うはるみを見て、心の中に一つの願いが流れ星のように落ちていく。
――ああ、この人を俺が幸せにしたい。
自覚をすればあとは早いもので、健とはるみの関係は季節が移ろっていくように店員と客という間柄から、婚約者へと変化した。
「嫁に行っちまうのか。寂しくなるなあ」
弁当を店頭に並べるはるみを見ながら、優はぽつり、と呟いた。
「もうっ! まだ婚約者! 今すぐに嫁いで、ここから出ていくわけじゃありません! ほら、口より手を動かして!」
娘にせっつかれながら、一緒に弁当を並べる。それだけの作業に、じわじわと目頭が熱くなり、つん、と鼻先が痛む。遠くない未来に思いを馳せる優を見たはるみは「なあに、もう泣いているの? 早いなあ」と笑う。
「……しっかり幸せしてもらうんだぞ。俺はお前に苦労かけさせちまったから」
「なに言ってるの? わたしは苦労なんてかけられた覚えなんてありませんけど~」
くすくすと肩を揺らしながら笑うはるみは、アスファルトを貫き、澄み渡る青空に向けて咲き誇る路傍の花のようであり、太陽のようにすべてを照らしつくしてしまうような輝きを放っていた。彼女の眩しさに目を細める。妻はおらず、男手一つで育てた娘から自身の手元へと視線を向けた。
優の二つの目に映るのは、どこにでもあるような弁当だけだった。
「すみません。開店前に失礼します」
突如背後から聞こえてきた声に、はるみと優は後ろへ振り返る。店先に立っていたのは、申しわけなさそうな顔をした目木薫が立っていた。
「ああ、目木くんじゃあないか! こんな朝早くからどうしたんだい?」
優は手に持っていた弁当を並べてから、目木へ話しかけた。
「僕たちからはるみさんのご結婚祝いです」
目木の言葉にはるみも手を止めて、「そんな! 申しわけないですよ」と眉を下げながら目木の持つ贈答用の紙袋を見た。
「あなたにそんな顔をしてほしかったわけじゃあないんですがね。これは僕たちから竹本弁当さんへの感謝と祝福の気持ちです。どうか受け取ってくれると嬉しいです」
「はるみ、お前のためにわざわざ用意してくれたんだ。受け取ってやれよ」
受け取るのを渋っていたはるみであったが、父の言葉もあり「ありがとうございます」と目木から紙袋を受け取った。
「先にお伝えしておきますが、中身は今治タオルです。是非使ってください」
「今治タオルですか! わあ、今から使うのが楽しみです! 本当にありがとうございます」
「はるみ、目木さんには言わないのか? 結婚じゃなくて〝婚約〟ですって」
「もう、お父さん! 目木さんはいいんです!」
穏やかに娘と言い合う優であったが、一人足りないことに気づき目木へと問いかける。
「そういや、僕たちって言っていたが、アイツは来てないのか?」
「たしかに三色さんの姿が見えませんね」
「今日は都合が合わなかったんです」
まったくの嘘であったが、三色が目木と一緒に竹本弁当を訪れることは少ないため二人は「あいかわらず、忙しい人だなあ」と勝手に納得した。そもそも二人は三色とあまり会ったことはない。いつも目木が二人分の弁当を買いに来ており、三色が一緒だったのは片手で数えるぐらいしかない。
「ところで今日は唐揚げ弁当買っていくのか?」
「え、開店前なのにいいんですか?」
躊躇う目木を豪快に笑いながら「おたくはお得さんだからな、特別対応だ」と慣れた手つきで唐揚げ弁当を二つビニール袋に入れ、目木へ渡す。受け取った目木は「ありがとうございます」とお礼とともに受け取った。
「はは、いつか飽きると思ってたのに。あんたが買い始めて5年ぐらいか?」
「ええ、そのぐらいですね」目木の肯定に、優もはるみも「おお~」と声を上げる。
「それじゃあ、僕はこれで失礼します。はるみさん、改めてご結婚おめでとうございます。優さん、お弁当ありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざありがとうございます! 三色さんにもお伝えください」
「おう、気いつけて帰れよ」
お店から出ていく目木を、二人はただ見送った。
目木の背中が小さくなったあたりで、優はひっそりと息を吐き出した。口の端がわずかに震え、目はシパシパと乾燥し、ど、ど、ど、ど、と心臓が脈を打ち、手汗でぐっしょりの手のひらを握りしめた。気を静めるために小さく深呼吸をし、娘の愛らしい横顔を見る。
――ああ、もう少し、もう少しだけ。
視界の端で、赤色が揺らめいた気がした。
「どうぞこちらです」
品のいい妙齢の女性に案内された白木は、扉の前に静かに立った。
「ありがとうございます」静かに頭を下げた白木に、まるで百合の花弁がゆっくり開いていくように女性は笑った。白木は彼女が少し、ほんの少しだけ苦手だ。誰にも侵すことのできない穏やかな空気を纏い、少女のような純真無垢で武装し、本性を隠している。……というのは、白木の偏見ではあるが、職業柄か彼女――九条早苗は一筋縄ではいかないタイプなのはひしひしと感じていた。
九条家はこのあたりを治めていた地主であり、早苗は九条家の一人娘として生まれた。婿養子を迎えた。二人の間には子どもには恵まれず、早苗の旦那は結婚後すぐに発覚したすい臓がんで早く亡くしたが、それでも早苗は前向いて一人で生きてきた。三色が下宿を始めるまで一人で住むには大きすぎる屋敷で生活を続けた早苗は、少なからず白木が感じているような性格なのだろう。
早苗が慣れた手つきでノックをすれば、中から「はい」と生真面目な返事が聞こえてきた。中から扉が開かれ、目木が少し困ったような顔をして二人を出迎えた。白木は疑問に思いながら、部屋の中を覗き込む。―――足だ。足が見える。誰かが倒れている。
「……おい、もしかして」
「あ、ああー……」と言い訳を探しているのか、目木は視線をあちらこちらへと彷徨わせる。あからさまな態度の目木を白木は睨みつける。さながら蛇に睨まれたカエルのように、目木はその体を強ばらせた。
「なにかあれば呼んでくださいな」
微笑みを崩すことなく白木をその場に置いていく早苗の背中は「関わりたくない」と雄弁に語っていた。その背を静かに見送る二人に「いつまでそこで突っ立っているつもりなのかな?」と疑問を投げかける声が一つ。呆れたようなその声に白木の眉間は一気に皺を寄せ、目木を押しのけて部屋へと入る。
「やあ、白木警部。あれから一週間ぶりですね。てっきり、ぼくらの聴取はしないのかと思っていましたよ」
床に寝転がり、白木の名前を呼びながらも天井から視線を動かさない三色を見た白木は、わざと足音を立てながら三色へ近づき、顔を覗き込んだ。
「それが人に挨拶をする態度か? それと、お前らの聴取が必要なくなったからしなかっただけだ」
「ごもっともな指摘をどうもありがとう。これでも―――」
「ああ、いい。お前の事情なんてどうでもいいからな。さっさと本題に入るぞ」
寝転がる三色の話を遮り、白木は「この椅子、借りるぞ」と普段は三色が愛用しているロッキングチェアへと座る。目木は白木の分のインスタントコーヒー(彼女が勝手に置いていった)を淹れながら、白木へと話しかけた。
「こないだの事件のことで来られたんですよね? 聴取の必要がなくなったとのことですけど、僕たち第一発見者ですもんね」
「………そうだ」
彼女は悔しそうに目木の言葉を肯定した。
「その様子だと、どうやら進展があったらしい」
いまだに床に寝転がる三色は、どこか確信しているようであった。
「ニュースは見ていると思うが、あの事件が放送された次の日に犯人と名乗る男が自首してきた。―――だが、その男は犯人ではない」
「その根拠は?」
「死因だ。司法解剖の結果、島田浩一は確かに首を絞められていた。だが直接の死因は、首を絞められたことではなく転落し、頭を打ったことだ」
「宮さんの言う通り、死因は別だったわけだ」
三色の言葉を白木は「ああ」と頷いた。
「自首してきた男は〝ネクタイ〟を使って首を絞めたと自供したが、それだけだ。まあ、ご丁寧に凶器に使ったネクタイも持ってきてくれたもんだから、科捜研に頼んで分析してもらった。結果は言わずもがなだ。だが男は、島田浩一が転落したことを知らなかった」
「その自首した男は首を絞めたけど落としてはいない。もしくは―――首を絞めていなければ、そもそも島田浩一が死んだことを、ニュースを見るまで知りもしなかった」
わざとらしく言葉を止めた三色に、二人の視線が集まる。ゆったりとした動作で上半身を起こし、床を見つめながら独り言のように呟く。
「誰かを庇っている」
三人の痛いくらい沈黙が、三色の言葉を肯定していた。
「ところで白木警部」
空気を変えるように明るく自身の名前を呼んだ三色を、白木は睨む。彼女の鋭い眼光など見えていないのか笑いながら「ひとつ質問いいかな?」と問いかけた。
「なんだ?」
「自首したという男の名前は?」
「ああ、言っていなかったな。男の名前は竹本優。竹本弁当の店主だ」
聞き覚えしかない名前に、三色と目木は顔を見合わせた。目木に関しては先日、娘である竹本はるみに結婚祝いを渡したばかりである。その時は不審な様子はなかった。
「竹本優は自分が殺した以外の言葉を言わない。殺した動機さえも口にしない。この事件に関しては間違いなく白だ」
「この事件に関しては?」
「実は島田浩一は駅のロッカーを借りていた。そこに入っていたのが一つの香水だった」
「香水、ですか?」
「ああ、そうだ」白木はジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出し二人に見せた。写真には、どこにでもあるような香水が写っていた。正直、香水に興味のない二人は、それが有名なものなのかもわからなかった。
「20年前まで市販で売られていた香水だ」
「ということは、今はもう売られていない?」
「廃盤になっていた。市販品のため購入者から絞ることは厳しい。この写真を竹本優にも見せたら、顔色をずいぶんと悪くしていた。だが香水について話すことはなく、ただ島田浩一は自分が殺したの一点張りだ」
「それで、きみの上司はなんていっているんだい?」
見透かしているような三色の言葉に、白木は呼吸を整えるように息を吐き出した。
「上は竹本優が自首したことにより解決したと考えている。蓋を開ければ何一つとして解決していないから、書類送検するのを頼み込んで三日だけ待ってもらえることになった」
「なるほど。では白木警部は、のこり三日でこの事件を解決しろとぼくらに言いたいようだ」
「……正確には私ではないがな」
三色から顔を逸らしながら答えた白木に、思い当たる人物がいるのか隠すことなく顔を顰めた。そして納得した。白木警部が三日も時間を確保できるわけがない。上からの圧があったのは間違いない。いくら自首した人間がいるからといっても冤罪は避けたいのだろう。……いや冤罪を避ける、避けないではなく、その人物はどこかの誰かに嫌がらせをしたいだけだ。
「ま、ぼくにはあまり関係のない話だ。さて時間は限られていることだし、捜査を始めようか」
その言葉を合図に、三人は情報の共有を再開した。
改めて、殺された島田浩一はフリーの記者だった。あまりいい噂を聞かない男であった。もともと大手出版社に勤めていたが、目に余る行動を繰り返した結果、会社から追い出されフリーの記者へ。……いや、記者というよりパパラッチと呼んだがほうが正しいだろう。仕事の質が変わった男が落ちぶれるのは早かったが、ここ数年は羽振りがよかったことが捜査で明らかなった。島田浩一は周りの人間に「金の生る木を手に入れた」と吹聴していた。羽振りもよくなったことから、お金に変換できるなにかを手に入れたのは間違いない。
「島田浩一のいう〝金のなる木〟は、ここに写っている香水であり、竹本優のことだろうね」
「だろうな。竹本優は、島田浩一に強請られていた。この香水について明るみに出てほしくない過去があった」
「目木、きみはどう考える?」
三色の問いかけに、目木は少し考え、口を開いた。
「香水ってことは、その匂いが重要ってことですよね。脳と鼻は嗅神経を通じて直接つながっているから、その匂いを嗅ぐことによって何かを思い出す可能性がある、もしくは成分から何かが判明することを恐れている、とか?」
自分の言葉に自信が無いのか、言葉尻が小さくなり、伺うような疑問府をつけた目木をちらりと見てから、三色は目の前の天井を見つめた。
「ま、香水については、これ以上考えたところで何も浮かばないだろうさ。ところで白木警部、島田浩一はボイスレコーダーを持っていたと思うのだがね? 内容はどうだったか聞いても?」
「ボイスレコーダーに保存されていたのは、長谷川コーポレーションが先日行った会見だ。当たり障りのない事業拡大の話だったさ」
「重要なのはそこじゃあないのだろう」
「ああ。長谷川コーポレーションを調べた結果、竹本優との接点がわかった。―――竹本優の娘であるはるみと長谷川コーポレーション次期社長である長谷川健は婚約していた」
白木の話を聞いた目木は「実はあの時、僕たちは結婚祝いを買いに行っていたんです」と話す。
「そもそもだ、お前らはあの竹本弁当とどんな関係なんだ?」
「どんな関係もなにも、客と店員という関係以外のなにものでもないさ」
あまりの三色の返答に、白木は目木を睨みつける。なにも悪くもないのに睨まれた目木は、気まずそうに視線をあちらこちらへと彷徨わせながら口を開いた。
「いや、まあ、あの、三色さんのいうとおりなんですが、5年前から買い始めて今じゃ優さん本人から〝お得意さん〟と呼ばれるぐらいには通ってます」
「竹本優本人から常連と認識されたうえで、あの反応なのか……?」
信じられないとでも言いたげな表情で三色を見やれば、彼女の視線から逃げるように顔をそらし、子どもじみた表情でぽつりぽつりと話しだした。
「ぼくは数えるほどしか行っていない。竹本優およびはるみに認知されているのは目木だけだ。ぼくは―――」
「いやいや、二人とも三色さんのことも〝お得意さん〟って言っていましたよ」
「………そうかい」
照れているのか歯切れの悪い三色の言葉を、目木はニコニコと笑いながら見つめる。その表情を見たこちらがこそばゆくなるような顔に、三色は自らの手で顔を覆い「ぼくをみるな!」と叫んだ。
「……まあいい。人間不信に構っていると日が暮れる。日が暮れるが、ここまでの情報からなにか新しい発見はあるか三色」
白木に問われた三色は、上半身を起こし、いまだに顔を見られたくないのか俯いたまま話し始めた。
「新しい発見? そんなものはないさ。あるのは一つの疑問だけだとも」
「一つの疑問だと?」
「そうとも。そもそも竹本弁当屋はいつからあそこにある?」
「いつ開業したのかってことですか?」
「そうだとも。廃盤している香水と竹本弁当は切っても切り離すことのできない関係なのは島田浩一が竹本優を強請っていた事実から明らかだ。この揺るぎない事実から、どうして〝竹本弁当がいつから開業しているのか〟という疑問が出ないのかが、ぼくからしたら不思議だけどもね」
三色の言葉を聞いた白木は立ち上がり、大股で扉へと近づいていく。白木の急ぐ背に向かって「ついでに、長谷川コーポレーションについても調べてみたほうがいいだろうね」と投げかけた。ドアノブに手をかけたまま白木は、三色に「どうしてだ?」と振り返る。
「竹本弁当を強請ったところで、手に入るお金はお小遣い程度だろうさ。羽振りがよくなったのなら、島田浩一は別に相手を見つけたはずだ。それも一度に大きな額を要求できる相手をね」
「お前はその相手が、長谷川コーポレーション現社長の長谷川正治だと?」
白木の問いかけに対し、三色は答えることなく緩やかに微笑んだ。
白木は路傍に吐き捨てられた痰を気持ち悪がるような表情で「……気持ちわる」と、一言呟いてから部屋を出ていった。
「……きもちわるっていわれた」
置いていかれた言葉の鋭さに三色は、ぼうぜんと白木が出ていった扉を見つめた。その悲哀漂う三色を慰めようと、目木は紅茶を淹れるため立ち上がった。
「紅茶はいいよ。ぼくたちも出かける必要があるからね」
「出かける必要ですか?」
「そうだとも。あーあ、本当は外に出たくないのだけどね。ほら、きみもはやく準備したまへよ」
「さきに外でまっているよ」三色は、荷物を持たずに身一つで部屋を出たて行った。その背に置いていかれないように「ま、待ってくださいよ!」と叫びながら、慌てて荷物をまとめ、追いかけた。
二人が訪れたのは、廃れた商店街だった。ほとんどのお店が閉まっており、俗に言う〝シャッター通り〟と呼ばれる場所だ。人一人いない……わけではないが、寂しい場所なのは違いない。哀愁漂うシャッター通りを迷うことなく歩く三色には、明確な目的地があった。廃れているはずの商店街の路地裏へと入り、入り組んだ道を何度か曲がる。歩き続けたその先に、人知れず営業を続けている駄菓子屋が二人を待っていた。
三色は慣れた手つきで駄菓子屋と入り「お姉さん、いるかい?」と声をかけた。
「あら、珍しいお客さん。あなたが来るってことは、少しだけ厄介なことかしらね?」
お店の奥から出てきたのは、腰が少しだけ曲がり、杖をつく老婆であった。柔和な笑顔で二人を出迎えた老婆に、三色も同じような顔を返した。
「よっこらせ」なんて声とともに、受付に置かれた丸椅子へと腰掛けた。
目木はこの場所の雰囲気に慣れていないのか、少しだけ三色に近づいた。
「時間は25年、いや25年から30年前。場所は……ちょっとわからないな。人物は竹本優と長谷川正治。強盗、もしくは強盗殺人。放火の可能性もあるかもだ。理由はお金。方法はいわずもがな、かな」
「あ、いまおすすめの駄菓子は何かな?」と聞きながら、ラムネを2本、受付に置いた。
「わたしのまいむーぶは、このどーなっつだね」
店主である老婆の言葉を受けて、三色はドーナッツも二つ置き、自分も気になったのか、ドーナッツの横に置かれたチョコレートも二つ置いた。
「ああ、それとね。そこの棚のポン菓子もおすすめだわ」
何を調べているのか気が付いているのか、その鋭い視線に二人を見守っていた目木は固唾をのんだ。そんな固まる目木をよそに、三色は慣れたように陳列棚を見渡し、軽い足取りで勧められたポン菓子が置かれた棚へと移動する。慣れた手つきで棚から二つ取り出し、老婆の前へと置いた。
「ふふ、あいかわらず素直な子ね」
「それだけが取り柄ですから」
「そんな素直な子にはサービスしちゃうわ」
老婆は、自身から近い場所に置かれた棒つきキャンディを取った。
「目木、財布を出してくれ」
「は、はい、わかりました」
目木は、三色に言われるまま鞄から財布を取り出し渡した。三色は財布から2万円を取り出し「お代はここに置いておくよ」と受付へと置いた。
「はい、まいどあり」
購入した商品が入った紙袋を三色に渡した老婆は、おとぎ話に出てくる魔女のように笑いながら「どうぞご贔屓に」と言った。
駄菓子屋から出た目木は、ずっと息でも止めていたのか、大きく息を吐き出し、吸った。少し荒い呼吸を繰り返したのち、三色へと問いかけた。
「お目当ての情報は、入っていましたか?」
紙袋からラムネを一本取り出した三色は目木へと渡し、中から2枚の紙を取り出した。小さなメモと新聞の切り抜きだ。片方は、三色が聞いた内容で、もう片方はサービスと言っていた方だろう。とりあえずメモの方を開けば、そこには『生き残った少女』と書かれていた。
「生き残った、少女?」読み上げる目木は、なんのことはさっぱりわかっていないようだ。そして、残りのもう一枚を開けば、見出しには『深夜に燃えた社長宅! 犯人は不明』と見出しに書かれていた。日付は今から25年前である。
「なるほど、これが動機だったんだね」
ぽつりと呟いた三色に目木は「それじゃあ」と悲痛そうな表情で返す。暗い空気を切り替えるように、手を叩き「こんなところで、油を売っている場合じゃあないね」と目木へと声をかけた。
「ほら、ぼくたちには行くべき場所ができた、もたもたしてないで行くよ。―――それと、白木警部に連絡をしたまへ」
『パンジーちゃんは元気だったかしら?』
午後の木洩れ日のような女性の声が、車載スピーカーから白木へと問いかける。直属の上司ではないにせよ、三日の猶予を与えてくれた彼女の質問を無下にすることは白木にはできなかった。
「ええ、元気でしたよ。彼が望む情報を集めれば、事件は解決すると思います。部下に調べるように言ってあります」
『あら、そうなの。さすがはパンジーちゃんね』
三十路手前の男をパンジーちゃんなんて、愛らしいあだ名で呼ぶのは止めてほしいが、頼んだところで彼女がやめないことを重々承知している白木は吐き出したくてたまらないため息を飲み込んだ。
白木は三色と彼女の関係は知らない。過去に何があったのか、興味がないと言えば嘘になる。その興味の蓋を開けるには、白木には覚悟もなければ、興味もそこまでなかった。
「柏木官房長、そろそろ目的地に到着するので失礼します」
『わかりました。それでは白木警部、頼みましたよ』
通話が途切れた車内で、吐き出したくて堪らなかったため息を「はあぁああぁあああああ」と思いっきり吐き出してから目的地である長谷川コーポレーションへ乗り込んだ。
現社長である長谷川正治は、一代にして財を築いた男である。彼が出版した〝半生〟というタイトルの自伝は大ヒットとはいえないものの、買い手が途切れそうで途切れないところから彼に憧れる人が一定数いることがわかる。本の内容はタイトル通り、彼の半生について書かれたものだ。どこまで本当かはわからないが、長谷川コーポレーションの成り立ちにおいて、長谷川正治が当時勤めていた会社とIT産業への参入について折り合いがつかず、独立し、自分の手で今の地位まで上り詰めたところはどこか少年漫画のような展開である。
そして彼の半生について一番の幸運だと言えるのは、宝くじが当たったことだろう。詳しい金額までは書かれていないが、誰かに背を押されるように独立資金を手に入れた。まさに彼は夢を買い、手に入れた男といえる。
赤裸々ではないにしても、書かれた過去を読んだ白木の感想は「この男は隠し事をしている」だった。確証なんてものはないが、刑事の勘と呼ばれるものが白木の頭の中で、パトカーのサイレンに似た警報が、疑惑へと近づくほど大きくなっていく。
「……ん?」
やけにはっきりと聞こえる警報に立ち止まり、あたりを見渡せば自身の本当にパトカーが近づいてきていた。
「嘘だろ」
敷地内に入っていくパトカーと救急車を追うために走り出せば、ポケットに入れていたスマホが着信を知らせた。適当な場所に駐車してから、通話に出れば、新しくできた後輩が焦ったように『先輩! どこにいるんですか?!』と叫ぶ。
「用件を早く言え! こっちは急いでいるんだ!」
『こっちだって急ぎですよ! 長谷川正治が殺されるかもしれません! いまから迎えに行くんで、どこにいるか教えてください!』
「なら、迎えは不要だ。わたしはすでに長谷川コーポレーションにいるからな」
『は、はあ??! ちょ、どういう―――』
「切るぞ」
後輩の返事もろくに聞かずに、白木は通話を切った。切ったのだが、間を置かず鳴り出したスマホにイラつきながら「しつこいぞ! もう現着していると言っているだろう!!」と怒鳴った。
『ぁ、あの、初めて電話、しまし、た』
スマホの向こうから聞こえた目木の震える声に、白木は頭を抱えた。向こうから『ぁ、あのう……。白木警部、ちょっといいですか?』の問いかけに「なんだ、はやく言え」と早口で聞く。
『いまって、長谷川コーポレーションにいますよね?』
「……私がどこにいるかなんて、お前らには関係ないだろ」
『それはそうなんですが、三色さんが長谷川正弘さんに会いたいそうで……』
「はあ??」
『あ、それと。竹本弁当および竹本家について、わかったことがあるなら教えてほしいそうです』
「教えてほしいそうです、だあ?」
「ぼ、僕じゃなくて、三色さんです!」
怯えた声を上げる目木に、なんだか頭が痛くなってきた。きっと気のせいじゃない。絶対に気のせいじゃない。白木は二人を置いていくように、ずいずいと大股で進んでいく。……電話相手に置いていくもなにもないが、イラつきを軽い運動によって解消しないと、どうにかなってしまいそうであった。
「捜査結果はまた後で伝える。私は忙しいんだ、切るぞ」
『あ、ちょ、まっ―――』
ぶちり。
またも、相手の言葉を聞くことなく切った白木は、長谷川コーポレーションへと入っていた。
長谷川健は父である、長谷川正治を尊敬している。平日は家族のために、言葉通り身を粉にしながら働き、休日は母の弥生を労るために家事をする。本当にいつ寝ているのかわからない父を、子どもながらに心配もした。その父の背中を見て育った彼は、父のような人間になるために努力をし、生きてきた。
憧れていたからこそ――――――息子として、男として、許せなかった。
社長室には、現社長である長谷川正治と次期社長である長谷川健の二人がいた。白木を見た正治は驚いた顔をしたが、すぐさま穏やかな表情で出迎えた。
「まったく健は、おおげさだなあ。警察のかたまでお呼びして」
のんきに笑う正治に対して、健は顔を顰めながら「でも、もう一週間前から届いています。それに今回は呼ばないわけにはいきません」と咎めた。
健のいう〝こんな手紙〟とは、今朝正治宛てに届いた手紙の事であった。手紙には『貴方の秘密を知っています。その秘密を自ら世間に公表しろ。公表しない場合は、貴方の命を持って償っていただきます。』とワープロで書かれていた。
「この手紙の内容に心当たりは?」
白木の問いに、正治は肩をすくめた。
「そんなものはありませんよ。あったら警察を呼ぶ前に、記者会見でもなんでも開きます。……死にたくないのでね」
正治の言葉を聞きながらも、念を押すように「本当に心当たりがないのですね?」と問いかける。
「何度聞かれましても、ないものはないですよ。警察というのは、しつこいですね」
「なにかあってからでは遅いんです。恨みを持っている人物に心当たりは?」
「恨みって……」
「警察のかたのいうとおりですよ。父さんに心当たりがなくても、その人にとっては重大なことだったのかもしれない。本当になにも覚えてないんですか?」
腕を組み、過去を思い出しているのかうんうんと頭を捻っているが、なにか出てくる様子はない。そんなときに、空気を変えるように部屋にノックの音が響き、扉が開かれた。
女性職員が困ったように「……あのう」と声を出す。
「どうかしましたか?」
どこか様子のおかしい女性職員へ健は問いかける。
「刑事さんのお知り合いというかたがお見えになっています」
彼女の言葉に白木は、思いっきり息を吐き出した。
「やあ、みなさん。はじめまして」
「これは幻聴、そうに決まっている」
「残念ながら、幻聴でも幻覚でもないさ。白木警部、ぼくも彼にいくつか質問しても?」
ゆったりとした足取りで室内に入る三色の後ろを、おっかなびっくりといったようすでついていく目木の姿があった。悠々とした足取りで正治の前で立ち止まった三色は、人好きする笑顔で座っている正治を見下ろした。
「……君は誰なんだ?」
「はじめまして、ぼくは三色菫です。そこに立っている白木警部の知り合いですよ。ついでに後ろに立っているのは、ぼくの親友である目木です」
紹介された目木は、少し気まずそうに会釈をした。
「刑事さんの知り合いが、なにかご用ですか?」
怪訝そうな表情で問う正治に「ですから、いくつか質問をさせてほしいのです」と、三色は微笑む。そんな三色の襟を白木は引っ張った。突然の苦しみに三色は、蛙ように「ぐえっ」と鳴いた。
「突然すいません、この馬鹿共が失礼を」
悪さをした息子の頭を無理やり下げさせる母親のように、白木は三色の頭を掴み下げさせた。後ろに突っ立っている目木に「お前の役割だろうが」と睨むが、目木は「無理ですよ!」と首を勢いよく左右に振る。そうこうしているうちに白木の腕から逃げ出した三色は、再び正治へと問いかけた。そのしつこさに疲れた正治は「なにを聞きたいんだ?」と言いながら椅子に座りなおした。
「ありがとうございます。まず一つ目ですが、この手紙はいつ、どこで、発見しましたか?」
「その手紙は自分が見つけました」自ら名乗り出た健に、三色は「そうなんですか」と言葉を返した。
「社長である父に仕事の事で相談があったので、社長室へ来たらその手紙は机の上に置いてあったんです」
「じゃあ、あなたがここへ訪れたとき社長はいなかった」
「私はちょうどトイレに行っていましてね。基本的には社長室にいるようにしているのですが、ここにはトイレはありませんから」
「なるほど、確かにここにはお手洗いはありませんもんね。それでは二つ目です」
「あなはたは、この手紙を呼んで、どう感じましたか?」
「どうって、ただのイタズラと感じたよ」
呆れたように話す姿は、言葉通りに手紙に対してイタズラとしか思っていないようだ。
「じゃあお前は、どう感じたんだ?」
「ぼくにはこれが、最終勧告に感じましたよ」
「最終勧告だと?」白木が眉を寄せた。
「きっと似たような手紙が、他にもあるのだろう? 丁寧な口調に挟まれた『公表しろ』はそのことに対しての隠しきれない怒り、丁寧な口調については、犯人はあなたの口から秘密を口にしてほしいと、自ら認めてほしいと願っている。きっとこの送り主はあなたの良心を信じているんだろうね。そして最後の『死をもって償っていただきます』は、もう待てないという意思表示だろうね。――――――まぁ、そんなことはいい。最後の質問です」
「………なにかね?」
「あなたが秘密を公表すれば、すべてが解決する。と言ったら、あなたはすべてを公表してくれますか?」
「だから、秘密なんて無いって言っているだろう!」
怒鳴る正治の姿は、誰が見ても秘密があるって自白しているようだった。そんな姿を見て満足したのか三色は「ありがとうございました」と楽し気に言った。
「それでは、ぼくたちは失礼します。ほら、二人とも行くよ」
「はあ?」
「ま、待ってください!」
颯爽と歩いていく三色の背を、白木と目木はそれぞれ追いかけた。
「ほら、早く開けて」
白木が乗ってきた車の前で、急かす三色に白木は舌打ちをした。隣で聞いていた目木は小声で「……三色さんがすみません」と謝った。
とにかく車に乗り込んだ三人であったが、白木は目的地を知らない。後部座席を陣取るように寝転がっている三色を、バックミラーに越しに睨みながら目的地を聞いた。
「それで、どこに向かうんだ?」
「竹本弁当屋に行ってくれ。きっと今なら、彼女は話してくれるだろうからね」
「白木さん、お願いします」
「くそ! お前が柏木官房長のお気に入りじゃなかったら、一発ぶん殴ってるぞ!」
「あはははは」と声を上げて笑う三色の声を合図に、三人を乗せた車は走り出した。
竹本はるみは、自分が父と血がつながっていないことを知っている。幼いころに父である優に、教えられたからだ。知り合いの夫婦の子どもであり、はるみが物心つく前に亡くなったそうだ。
「俺は本当の父親じゃねーんだ。だから、……だから、俺のこたあ」
「………おとうさん」
「っ!?」
「おとうさんは、おとうさんだよ」
「ああ、あああ、ありがとな、ありがとなあ」
力強く己を抱きしめる父の二つの瞳から溢れ落ちていく涙の熱さを、はるみは昨日ことのように鮮明に思い出すことができる。それでも、だとしても、自分の本当の良心が気にならない。と、言えば嘘になることもはるみは自覚していた。
しかし、はるみには調べる勇気も、聞く勇気もなかった。
平凡で平穏な日々を暮らしていた二人の前に、島田浩一は現れた。それから優は険しい顔をする日が増えていった。理由はわからなくても、原因はわかっている。どうにかしたかった。だから――――――。
「すみません、誰かいますか?」
「誰かいますか、じゃあないだろう。竹本はるみは中にいるのだから」
「そうは言いますけど、確実にいる保証はないんですからね」
閉ざされたシャッターの向こうから聞き慣れた声に、気が抜けたはるみの口から空気が抜けていく。吐き出された空気に、無意識に息を止めていたことに気が付いたはるみは、困ったように笑った。今もなおシャッターの向こうで、やいのやいの騒いでいる二人のために、はるみは立ち上がった。
ガラガラと鈍い音を立てながらシャッターを開けたはるみの目の前には、想像通り三色と目木の二人がいた。
「ほら、いたじゃあないか」
得意げに話す三色は、なぜだが偉そうだった。
偉そうな三色とそれを咎める目木を招いたはるみは、三人分のお茶を注いだコップをそれぞれの前へと置いた。コトン、という軽い音を合図に、三色ははるみを真っすぐ見た。曲がることを知らない瞳は、すべてを暴き出そうとしていた。――ああ、逃れられない。とはるみは両目を静かに閉じた。ゆっくりと鼻から息を吸い、肺が大きくなる。それから、もっとゆっくり口から息を吐き出した。瞼を上げ、三色を見据えるはるみの瞳の奥は凪いでいた。
「島田浩一さんは、わたしが殺しました」
静かに告げられた罪の告白。
その音には後悔はなかった。あったのは、どうしたらよかったのかわからなかった。という諦めによく似た納得だけがあった。
「あの人は父を強請っていました。強請っていた理由は、正直知りません。ただ一つ知っていたのは、あの人が生きているかぎり父は苦しみ、いつかわたしの順番が来る。それだけです。……どこからか、わたしと健さんとの婚約を知ったあの人は、父を呼び出しました」
「それが、あの日だった」三色の言葉に、はるみは静かにうなずいた。
「見つからないようについていきました。あの人の家に行った父が、どんな話をしていたのかは知りません。きっとろくでもないことだったのでしょうね。家を飛び出し、怒りながら出ていった父の姿が気になり、わたしはこっそりと家の中に入ったんです。テーブルの前に座り込んで、お酒を飲むアイツがいたんです。かなり酔っていました。もう寝そうなのか、首がおもしろいぐらいかくんかくん動いていて、わたしは、わたしは殺せる! と思ったんです。目の前のコイツがいなくなれば、父は解放されるんだ! と思った。気が付いた時には、あの人はわたしの目の前で………、……息をしていなかった。ネクタイを手に持ったまま、わたしは家へと走った。でもそれがよくなかった、ネクタイを父に見られたんです」
「それじゃあ、ネクタイを見た優さんは、はるみさんが殺したと思って、あなたを庇って警察へ……」
「―――はい、そうです」
「もうしわけ、ございませんでした」頭を下げたはるみの体は、震えていた。その小さな背中に、目木はなにを言えばいいのかわからなかった。
「お二人に話をきいてもらえたからでしょうか、なんだか安心しました。―――今から警察に行ってきます」
「……全てが終わった後に警察へ行くといい」
「すべてが終わったあと?」
三色の言葉の意味が理解できないのか、同じ言葉を繰り返したはるみは首を傾げた。
「まだこの事件は、終わっていなくてね。―――あなたに協力してほしいのだが、よろしいですかな?」
「は、はい! わたしでできることであれば、なんでも協力させていただきます」
「それでは早速ですが――――――電話していただいても?」
ポケットに入れたままのスマホが、鈍い音を立てながら震える。取り出し相手を確認すれば、そこには世界で唯一大切にしたい女性の名前が表示されていた。彼女のからの着信であるのであれば、出ないという選択肢はない。慣れない手で画面を操作すれば、『健さんッ!』と必死に彼女が名前を呼んだ。
「はるみさん、どうしました?」
『どうかしましたか、て。もうやめてください!』
「やめるって、なにを?」
なんだか楽しくなってきて、自分の声が上ずっていくのがわかる。そもそもやめろと言われて、やめるのであれば最初からやってなどいない。
「そんなに焦って、はるみさんはかわいいですね」
『――――――は、ぃ?』
驚く彼女が息を飲む。その息遣いでさえかわいいのだから、罪な人だ。罪な彼女には、罪を犯した人間が集まってくる。それはもう、樹木に集る夏の虫のようにだ。彼女の父である竹本優、自分の父である長谷川正治、死んだ島田浩一、なにより自分自身もその一人だ。
「んーっ! んーっ!」
『!? 誰かそこにいるんですかっ』
「……誰もいないよ。はるみさん、すみません。ちょっと忙しくなってきたので、切りますね」
「待って、」
はるみの静止の声を無視して、通話を切った健は目の前の塊へと意識を向けた。椅子に固定され、猿轡をされた正弘がいた。通話が切れたスマホに、最後の希望の失った正弘は青ざめた。利き手で持っていたナイフを正弘へと向ける。今後、自分がどうなるかわかない恐怖心から、正弘は失禁していた。
「せっかく通話していたのに、どうして邪魔したんですか? あーあ、あーあ、漏らしたんですか? 息子として、父の失禁した姿は見たくなかったですね」
呆れや軽蔑を隠すことなく正弘を見下ろす健に、命乞いなんてしても無駄なのはわかっていても、死にたくない正弘は動かせない体を一生懸命左右に動かす。その惨めな姿を見て笑うことなどできず、むしろふつふつと水が沸騰するように、小さな水泡が奥底から、湧き上がってくる。
「……もういっか。彼女のために死んでください、父さん」
振り上げられたナイフに、唯一自由な両目を正弘は固く閉じた。
「そこまでだッ、長谷川健!」
背後から呼び止められた声に、健の動きは止まる。
「技術の発展は凄まじいね、逆探知だって昔と変わって数秒でできてしまう」
「危ないです、三色さん前に出ないでください」
つい最近見た顔だった。
「刑事さんと、その知り合いの……」
白木は拳銃を健へと向け、少しずつ距離を詰めていく。張りつめた糸のような緊張感が空間を支配するが、糸切狭でパチン、パチン、切っていくように三色は健へと近づく。
「もうナイフを下ろしてもいいんじゃあないかい?」
「…………」
疑うような視線に、三色は困ったように笑った。
「きみも知ってのとおり、彼女は刑事だ。ほら、言ってあげなよ」
「……くそっ」と悪態をついた白木は、縛られている正治の方を見て声を上げる。
「長谷川正治、25年前の強盗殺人および放火の疑いにより逮捕する!」
「っ!」健は咄嗟に、自身の父を見た。
信じられないもの見たように、その両目を大きく見開いた正弘は「ンーッ!! ンーッ!!」と、なにかを叫ぶ。
「……それじゃあ僕は、拉致の現行犯逮捕ですかね?」
大人しい態度の健にも油断することなく、白木は拳銃を構えたまま近づいていく。その彼女の用心深さを見て、健は手に持っているナイフの存在を思い出した。
「ああ、これオモチャですよ」
証明するように刃の切っ先を指で押せば、刃がするすると柄の部分へと収納されていく。かしゃんと軽い音を刃がすべて柄の中に収まった。どう見ても人なんて殺せそうもないナイフに、白木はどっ、と疲れたように息を吐き出した。その姿を見て三色は、にこやかに笑った。
「三色さん、失礼ですよ。正直僕だって、今の今まで本物のナイフだと思ってましたし……。それよりも、すべて、ちゃんと説明してくださいよ! なんだか怒涛の展開で、なにがなんだかわかりません」
「しょうがないな。それじゃあ白木警部の部下が到着するまで話をしようじゃないか。―――あ、長谷川正治はそのままでいいよ、うるさいからね」
ゆったりとした動作で、正弘、健、白木、目木の顔を見てから、三色は語りだした。
「そもそもの発端は25年前の強盗殺人だ。もうみんなもわかっていると思うが、この事件の犯人は長谷川正治と竹本優だ。最初からそういう予定だったのか、偶然だったのかわからないが、家は燃え、二人を犯人と裏付ける証拠はなくなってしまった。……と、思われた。襲われた夫婦には一人娘がいた。それが竹本はるみさんだ。彼女は犯人である優さんに手によって育てられた。まぁ、このあたりは竹本優本人に聞くのが一番なのだが、きっと彼は幼い彼女を殺すことができなかった。かといって施設に預けておくのも怖かった。だから、彼女を自分の手で育てることを決意したのかもしれないね」
「確かにお前のいうとおり、竹本優とはるみは血のつながった家族ではないことが確認されている。……もしかして、お前ははるみが二人の犯行を見ていたと言いたいのか?」
「さてね。どこまでいっても、ぼくは当事者じゃないからわからないよ。だが、竹本優がすでに廃盤された市販品の香水で強請られていたというのであれば、その匂いで思い出してしまう可能性があった」
三色の言葉を聞いた目木は「あ」と声を漏らした。
「鼻と脳は直接つながっているから、幼少期の記憶を思い出すかもしれないってことですか?」
「それが事件の記憶なのか、はたまた本当の家族の記憶のどちらかなのかはわからない。いや、もしかしたら両方を怖がったんだろうね」
「25年前の事件について島田浩一に脅されていたのは間違いない。だが、竹本優は島田浩一を殺してはいない」
「……ということは」
目木の言葉に合わせて四人の視線が、長谷川正治へと集まった。白木、目木、健の三人の疑うような視線に必死に首を横に振る。
「島田浩一の殺害についても、一つずついこう。ここから先は、きみも関わっているからね―――長谷川健」
名指しされた健は、ゆったりとした動作で頷いた。彼の表情には覚悟があった。いや、覚悟とは少し違うのかもしれない。でもその二文字以外の言葉が当てはまらないのも事実だった。
「まず誰が彼の首を絞めたのか? それは竹本優だろうね。あの日彼は、島田浩一と会っていた。そしていつもどおり、お金の無心……と、いうとあれだな。強請っていた。いや正確には金の生る木を育てようとしていた、かな」
「金の生る木を育てる、だと?」
白木は低い声で呟いた。理解できない、したくないという表情の白木に、三色はこともなさげに「家庭菜園と一緒だよ」と言い放つ。
「三色さん、言い方! 失礼ですよ!」
「………ごめんなさい」
素直に謝る三色と、そんな三色を見守る目木の二人のやりとりは、なんだか気が抜けるようなものだった。話を戻すように三色は「とにかくだ」と、大きめの声を出した。
「人間って生き物は〝1〟を知れば、戻ることができず、どんどん積み上げたくなる生き物だ。だから島田浩一も同様に、今ある〝2〟では満足できずに、〝3〟、〝4〟と積み上げたかった」
「もしかて、島田浩一は竹本はるみと長谷川健も強請ろうとしていたのか?」
「そうだろうね」と三色は頷いた。
「竹本優もそれに気が付いた。だから島田浩一の首を絞めたのが、愛娘のはるみだと気が付いてしまった。家に見慣れないネクタイがあって、それは必死に隠そうとすれば、反対に目立つからね。……ああ、あと竹本はるみは、意識を失った島田浩一を見て、死んでしまったと勘違いをした。そして怖くなってその場から逃げ出した」
「でも、直接の死因は転落し……」
「そうだね。……おっと、もう時間が来てしまったようだ」
「ぼくからは、ここまでのようだ」と、三色は肩をすくめた。言葉の意味を問う前に、遠くから複数のパトカーのサイレンが近づいてきていた。
「長谷川正治、長谷川健のことは白木警部にまかせるよ。ほら、ぼくたちは帰るよ」
「え! ちょ、三色さん!」
すたすたと歩き出した三色と、その背を追う目木の足音が遠ざけるのを聞きながら、白木は二人の男に手錠をかけた。
下宿先へと帰ってきた三色は、愛用の古びたロッキングチェアへ腰掛け、ギィギィと鳴く音を楽しんでいた。そんな三色のところへ、目木は駄菓子屋で買ったポン菓子を差し出した。ロッキングチェアを揺らすのを止めた三色に問いかける。
「三色さん、質問してもいいですか?」
「……なんだい?」三色は受け取ったポン菓子を、きゅ、と握る。
「その、島田浩一さんを転落死させたのって……」
「―――長谷川正治だよ」
「どうして、彼なんですか?」
目木の質問に顔を顰めた三色は、数秒なにかを考え、嫌そうな顔をしながら口を開いた。
「そんなもの知るわけがないだろう。ただの結果として、長谷川正治が虫の息の島田浩一を殺した。それだけだ。……すべてのことには理由がある。その理由を探し、見つけるのが白木警部の仕事であって、ぼくの仕事じゃないのはたしかさ」
「……そう、ですよね」と目を伏せた目木に、三色は「でもま、」と言葉を続けた。
「憶測でしかないが、長谷川正治は解放されたかったんだろうさ。永遠と続く後悔と罪悪感、生きていくことと、白日の下にすべてがさらされる恐怖、神というものがこの世界にいるのであれば、それはきっと自分の過去だ。自分の過去と、島田浩一が重なってしまったんだろう」
「だから、島田浩一を殺せば解放されると思った……?」
「人間だれしも、窮屈なのは嫌だろう? ……でも、彼がすべきことは新たに罪を重ねることじゃなくて、法で裁かれることだったのにね。彼にとってそれは、人を殺してしまうより、難しく、恐ろしいことだったようだ」
「…………」
「………大なり小なり、何かを認め、受け入れるという行為は痛みを伴うものだから、その気持ちは理解できるけど、行為への納得はできないし、許せることではないけどね」
「ちなみに、三色さんはいつ長谷川正治が、島田浩一を殺したとわかったんですか?」
「ああ、それは長谷川正治に脅迫文が届いた時点で確証したよ。あの手紙は息子の健が仕掛けたものだからね」
「えっ?! そうだったんですか?!」
「子どもは親を、しっかり見ているものだよ」
「健さんは自首してほしかったんですね」
「そうだろうね。でも証拠がなく、証明できないから、あんな方法をとったんだろう。―――そんな彼でも、25年前の事件は知らなかったようだね。あんなにも驚いた顔をした人間は、初めて見たかもしれない」
少し楽し気に肩を揺らす三色に、目木は「不謹慎ですよ」と咎めた。
拗ねた子どものように、三色は再びロッキングチェアをギィギィと鳴らしはじめた。
「あ、すぐそうやって拗ねるんですから」
「拗ねてない」
速度のはやい返答に、目木は仕方なさそうに笑う。
「それじゃあ僕は、お茶を淹れてきますね。緑茶でいいですよね?」
「ああ、よろしく頼むよ」
席を立った目木を見送った三色は、握っていたポン菓子を見る。今回の事を振り返って、重いため息を吐き出しながら、ロッキングチェアへと深く腰掛けた。
「―――もう、外になんか出たくないなあ」
宙に舞った言葉が、誰かの耳に届くことなく天井へと消えていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
面白いと思ったら、高評価や感想をお願いします!
それでは、また会う日までさようなら!




