独奏
ルリの背中は震えていた。声も、今にも凍りつきそうだった。
「お母さんはね、結婚する前はピアニストだったらしくてさ。そう聞くとピアノにも厳しそうって思うよね。でもそんなことなくて、私のピアノをいつも褒めてくれてた。」
振り向いたルリの瞳に浮かんだ涙は、母親との思い出を滲ませていた。
僕の心臓が強かに脈打つ。とても、他人事とは思えなかった。
「お医者さんから診断を受けた時、余命半年って言われたんだ。すごいよね、まだ、生きてるなんて。でもきっと、来年は迎えられない。だから、このピアノはどこまでも大切なの」
「全日本ピアノコンクール…」
「そう、私の演奏も、きっとそこで最後になると思う」
窓から突き抜ける風が彼女の涙を拐い、とめどない哀しみが木製の床にこぼれ落ちた。
僕は言葉を探した。
「ルリのピアノに感動した。でも、僕にこれ以上のアドバイスはできないよ」
「…いいの、」
ピアノに立てかけてあった楽譜を外し、スクールバックから取り出した楽譜に入れ替える。
「私はタツに感情表現を教わりたい訳じゃない。ただ、タツに聴いてほしいだけ」
凛とした佇まいでピアノスツールに座り、そっとペダルに足を落とし、ささやかに指先で鍵盤をなぞった。
「聴いて、私のピアノを」
"ラ・カンパネラ"。忙しない切なさの中に確かな美しさ、愛を感じる。
(あぁ、ルリ。君は今、僕の思い出の只中にいるんだね)
音が止まり、静寂だけが残った。
ルリはそっと手を離し、息をつく。
「…どうだった?」
そのまま、真っ直ぐ僕を見た。
「大好きなんだね、お母さんのこと。それがよくわかる良い演奏だった。でも……」
そこから先の言葉が、どうしても出てこなかった。
昔の自分が、頭に浮かんだからだ。
あの頃の僕も、同じように、独りよがりに弾いていた。
「わかるよ、タツの言いたいこと。これを全日本で弾くなんて、二つの意味で無謀……それでも、私は、私の積み上げてきたものを裏切らない」
彼女の言葉を聞いて、確信した。
「これで、ピアノを辞めるつもりなんだね」
ルリは悲しそうな笑みを浮かべ、頷いた。
「うん…」
朝の陽光が音楽室に射し込む。もう、始業の時間だ。
「教室行こ…遅刻しちゃうよ」
ルリの声はまだ少し、どこか落ち込んでいるようだ。
「うん…行こっか」
楽譜をスクールバックに仕舞い、音楽室を去る。
「それにしてもすごいね、全日本コンクールなんて。地区大会とブロック大会は通過したんだ」
改めて、思っていたことをルリに伝えた。
「うん……でも、逃げてたのかも。ピアノに向かってる間は、何も考えなくてよかったから」
ふっと息を吐いて、視線を落とす。
「お見舞いも、あんまり行けてなくて」
ルリは少しだけ笑った。
「……そのまま、何かあったらどうするつもりだったんだろうね」
ルリの声はさらに深く沈んでゆく
「…ごめん、こんなこと言われたって、困るよね」
「そんなことないよ。ルリの気持ち、よくわかる。それに、ルリがお母さんのこと大好きだって知ってるよ」
「…ありがとう」
自分で言っておいて、少し気恥ずかしくなった。
僕はそのまま、視線を外した。
教室が近くなった時、ルリが足を止めた。
「ごめん、先行って」
変な噂を流されたくないのか、ルリは僕とは時間差をつけて教室に入りたいようだ。
「うん」
簡素な返事をして、僕はルリと別れた
(ルリ、そういうの嫌なんだ)
さっきまでの距離が、急に遠くなった気がした。
そう思っただけで、なんとなく足取りが重くなった。
冬の空気は、やけに冷たかった。




