熾る
英語のプレゼンは、想像以上に上手くいった。もっとも、僕は資料をめくっていただけで、英語を話していたのはほとんど綾野だったけれど。
放課後になって、僕は教室の掃除をしていた。
綾野はバスケ部に行ってしまったから今日は一人で帰ることになりそうだ。
部活動か、僕も入ればよかっただろうか。
綾野くらいしか友達のいない僕は一人で教室に残るのも寂しいと思い、掃除を終えると同時に早々に帰る準備を始めた。
「おい、宮本ちょっといいか」
先生に呼ばれてドキッとして振り返る。何も悪い事をしていなくても先生に呼ばれると妙に罪悪感を覚える。
「はい?」
「お前美化委員だったよな?実は今日空き教室の片付けがあってだな、お前も手伝ってくれ」
「えぇ〜」
綾野と一緒に“楽そうだから”と適当に選んだ委員会だったのに、こんな仕事があるなんて。しかも今日は綾野も部活だ。
「分かりました…。」
「おっ、ありがとな、じゃあ着いてきてくれ」
この先生、いかにも体育会系上がりの先生って感じでどうにも苦手だ。
面倒だとは思いながらも、先生の後について廊下を歩いた。入ってしまった以上、仕事はやるしかない。冬の夕方の校舎は冷たく、床に映る茜光がやけに物悲しく見えた。
キンコンカンコンーー。
部活終わりのチャイムが鳴った。気がつけばもう5時で日も沈みかけている。片付けもほとんど終わった。そろそろ帰ろう。
そう思っていた時、その旋律が聞こえてきた。今朝も聞いたあのピアノの旋律。「鬼火」それを聞いた僕はまるで誘われるかのように、ピアノの聞こえる音楽室へと向かった。
音楽室の扉の前に立ち、その扉を開けようかためらっていた。
(開けてしまおうか。でも、この中にいるのはきっと南方さんだ。彼女はピアノを弾いていることを隠しているのだろう。僕なんかが見ていいものじゃないのかもしれない)
ぐるぐると同じ考えを回しているうちに、曲は終わりに近づいていた。
鬼火が終わってしまう。今逃せば、もう二度とこの演奏を生で聞くことはできない。
そんな思いが頭をかすめ、気づけば僕の手は扉にかかっていた。
扉を開いてまず目に入ったのは彼女だった。
洗練されていた。体でリズムを刻み、鍵盤に感情を打ち込み、指先は川の水が落ち葉を流すように、静かに旋律を紡いでいる。
ッダーン。
鍵盤が鳴り止み、音楽室の空気が一瞬で凍った。
「遅い!いつまで待たせるつもりだったの」
彼女は身を乗り出し、詰問するように僕を見た。
「え、何言ってるの」
「何言ってるの、はこっちのセリフ。今日の私の視線に気づかなかった?私の演奏も聞こえなかったの?」
「ごめん、どういうこと?」
混乱したまま言葉を探した。彼女は何に怒っているのだろうか。
南方瑠璃は感嘆のようなため息をもらした。
「私はずっと話しかけてほしくてあなたに視線を送っていたの。今日ずっと“鬼火”を弾いていたのも貴方に音楽室への招待状を贈るため」
「…つまり、僕に来てほしくて今朝からずっとピアノを弾いてたってこと?」
「そういうこと」
あまりに予想外な展開に思わず言葉を失った。
南方さんってこんな人だったのか。
「で、どうだった?」
「え、えーっと、演奏について?」
「演奏と、私について」
私について?彼女は何を聞いているんだ。僕がそれになんて答えるのを期待しているんだろう。
「演奏は、素直にすごいと思ったよ。高校生で“鬼火“をこのレベルの感情表現を持って弾けるなんて。努力と才能、どっちも持ってる人なんだなって感じた。『私』ってのはよく分からないけど、こんなにピアノが上手いなんて正直意外だった」
なるべく角が立たないように答えたつもりだが、どうだろう。女心と秋の空ほど捉えがたいものは無い。
「ふーん、及第点ってところかな」
「及第点って僕の受け答えがってこと?」
「は?どうして採点結果をさらに採点する必要があるの。もちろん私の現状についてってこと」
「南方さんの現状…?」
「そ、わかってると思うけど、私は周りにピアノをしてることを知られたくないの」
「…どうして?」
僕がそう聞くと、南方さんの表情は少し曇って、今までの自信に満ち溢れた顔から不安そうな面持ちへと変わった。
「それは、怖いから」
「怖い?」
「臆病だって思うかもしれないけど、ピアノをしていることを、たった一人にだって馬鹿にされたくない。馬鹿にされて傷つくことが怖い。それでもし、ピアノを続けることが怖くなって、本気で打ち込めなくなるかもしれないって考えると、隠さずにはいられない。堂々とピアノをしてるって言えない時点で、どこかで自分を信じきれてないのかもしれないけどね。」
「違うんじゃないかな」
「え?」
「隠してるのは、ピアノに真っすぐ向き合うためなんじゃないかな。誰にも見せずに向き合うって、たぶん、本気だからこそできることだと思うよ」
…静かな時間が流れた。的外れなことを言ってしまっただろうか。少し恥ずかしくなってきた。
「やっぱり、優しいんだ」
南方さんがピアノスツールから腰を上げる。
「宮本くん、私と…友達になってくれないかな」
息を呑んだ。僕は戸惑っていて、“冗談?”って返そうとしたけれど、彼女の顔を見てその言葉も呑み込んだ。
きっと真剣に言っているんだ。
「こんな風に言われるの、小学生のとき以来だからさ…。なんて返せばいいか分かんないけど、どうぞよろしくお願いします。で、いいのかな」
「ほんと!じゃあこれからよろしくね」
南方さんが嬉しそうに返事をする。
僕は少し照れくさくて、思わず顔を背けた。
ガチャ
音楽室の扉が開き先生が入ってきた。
「おい、もう下校時刻だぞ」
「やばっ、もうそんな時間?宮本くんが来るの遅いからだよ!」
瑠璃はそう言いながら、鞄を肩にかけた。
「電車だよね?早く帰ろ」
校門を出ると、街灯が二人の影を並べた。
僕らは、そのまま同じ電車に乗った。




