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ベッカライウグイス⑫ アクシデント

少しずつベッカライに馴染んでいく古賀さん。そんな古賀さんをめぐる、

シューさんの見つけた人形と、さくらさんの運んだアルバムは、どんな関係が?

そして、古賀さんは、突然、姿を消してしまう。なぜ?!

えっ、みっちゃんたちって……?驚きのベッカライウグイス第12話です!

 ベッカライウグイスの日曜日。

 大きな嵌め殺しの窓から差し込む夏の日差しは、庭から朝露を連れ去ったが、まだ屋根の上への遷移をあぐねている。

 みっちゃんとシューさんは、仲良くカウンターでコーヒーを飲んでいた。

 水琴みなこと庵からいただいたお土産、干菓子の吹き寄せがおともである。

 シューさんの大きな手に、生砂糖きざとの美しい葡萄の葉がひどく脆そうで、みっちゃんはそばでその成り行きを見守っていた。

 そうっと、かみ砕く小さな音が聞こえてきそうなくらい、慎重に、シューさんはそれを口に運ぶ。色の滲んだ繊細な干菓子は、シューさんによって形を失う。

 みっちゃんは、シューさんの口の中に消えてしまった小さな夏から目をそらし、箱の中から、ビードロに似た有平糖を摘まんで、窓辺へ翳した。窓から降り注ぐ夏の陽は、指の間に収まった小さな世界にたくさんの火花を散らせて見せ、その消えゆく静寂しじまを惜しんだ。


 二人は、溜息をついて、コーヒーを飲んだ。

 溜息の似合わない二人であった。

  


 日曜の午前中は、ベッカライウグイスが週の中で最も混み合う時間である。

 のんびりと目覚めた人々が、ふと、美味しいパンとともにブランチの時間を過ごしたくなるのだ。

 家族連れも多く訪れるし、店内も賑やかになる。リスさんは、日曜日の子どもたちのためだけに作るパンを準備してお客さんたちを待っている。今日は、猫の形の食パンである。模様は、ぶち。ぶち猫たちも、親子連れに引き取られていかれ、もう店頭に残ってはいなかった。

 


 それは、お客さん波が退き、午後からのパンが焼けるまでの空白の時間帯のことだった。

 カランコロン

 お店の扉が押された。

 「いらっしゃいませ」

 リスさんと私は、同時にお客さんを迎えたが、外のぬるい空気のほか、誰も入ってくる気配はない。


 あれ?

 私たちは顔を見合わせた。


 そこへやっと、そろりと、俯いて入ってくるお客さんが現われた。パン屋さんに俯いて入ってくるお客さんなど、私は初めてだった。


 黒々とした真っ直ぐな髪が、印象的である。

 「……あの……」

 片手に、なにやら紙類を詰め込んだ袋を提げている。

 お客さんが、ゆっくりと顔を上げると、身につけている水色のTシャツの胸がはっきりと見えた。


 ユニコーン!!

 あろうことか虹色のたてがみをもった、紛れもないユニコーンが描かれたTシャツだった。


 なんて、ユニコーンが好きな人なんだろう……私は、思わず一歩後じさった。だが、リスさんは動じない。平静で、いつもとなんら変わりないリスさんである。

 「いらっしゃいませ」

 私は、リスさんを心の底から尊敬した。リスさんには、その人が先日不審な様子だったことを話してあったはずだった。


 「今日は、次に焼けるまでもうあまり残っていなくて……すみません」

 リスさんは、ユニコーンに詫びた。

 「い、いえ」

 ユニコーンは、真っ直ぐな黒髪の頭を、ぶんぶん振った。揺れた髪は、重たげにすぐに纏まる。

 「えっと……」

 ユニコーンは、恥ずかしい気持ちを隠しているようなどこか取り繕った表情で、一歩前へ出ると、ショーケースの中に残っているパンを探した。


 そこへ、仲良く干菓子をためつすがめつしながらいただいていた、みっちゃんとシューさんの会話が聞こえてくる。

 「ぼくも久しぶりに行ってみようかな」

 「日本の芸術です」

 「シューさん、上生はいただいた?」

 「もちろんです。夏紅葉をいただきました」

  

 ユニコーンは、ショーケースに残っていた二つのパンを指さした。

 「えっと、ええっとですね、レーズンクッペと、甘夏のデニッシュをください」

 甘夏のデニッシュは、初夏以来好評で、まだ店頭に出され続けている。少し軽やかに調整したナパージュの上には、ブルーベリーが3粒載せられている。

 リスさんが、ショーケースを開けたので、私はコーヒーサーバーを持って、みっちゃんたちのところへ行った。


 「ありがとう、来春こはるさん。そういえば、智翠ともあきくんには会った?」

 私は、にっこりとして答えた。

 「はい。餡子あんこを届けてくれる人だったので、びっくりしました」

 みっちゃんは、心なしか、意味ありげに言った。

 「リスちゃんと智翠くんはね、結婚するかもね」

 えっ?!

 

 私が、思わずそちらを見たのは、ユニコーンが私たちがいるカウンターを大仰に振り向いたからだった。彼の目は、驚きに満ちていた。みっちゃんを、じっと見つめる瞳が、黒いガラスのようにつるりと光った。

 「智翠くんの、あき、っていう漢字はね、リスさんのっていう漢字と同じなんだ。お母さん同士が仲良くってね。二人とも、生まれたときからの付き合いだから」

 私は、ショーケースの中のリスさんを見た。

 リスさんは、否定的な意味でどうしょうもないわね、という表情で口を結び、小さく首を振った。

 だが、そんなリスさんをユニコーンは見ていなかった。みっちゃんたちに釘付けだった目を執念の力で引き剥がすと、ようやくリスさんの方を向いた。そのとたん、彼の口から、湯水のごとく言葉があふれ出した。袋を持っていない方の手を、胸に当てて訴えかけている。レインボーユニコーンの存在と相まって、なにやらメルヘンな雰囲気である。


 「リ、リスさん。ぼく、この前のパン教室に参加していたんです!」

 リスさんも、みっちゃんから目を離し、ユニコーンの方を向いた。

 「はい。覚えていますよ。ご参加くださって、ありがとうございました」

 リスさんは、レインボーのユニコーンが目に入っていないのだろうか。いや、そんなはずはない。

 ユニコーンは、必死な様子で、声がうわずっていた。

 「あ、あの!それで、リスさんの作るパンが大好きになってしまって……」

 パンが?と私は心の中でユニコーンに冷たく問いかけた。

 「それで、あの、これから必ず、時間があれば買いに来ます!!」

 少し間があったが、リスさんはにこやかにお礼を言った。

 「ありがとうございます。お待ちしていますね」

 社交辞令である。だが、ユニコーンは縮み上がるように背筋を伸ばすと、

 「はいっ」

 と元気よく答えた。


 ユニコーンは、二つだけ残っていたパンを受け取ると、大事そうに抱え、重い扉を引いてベッカライウグイスを後にした。


 みっちゃんは、あれ誰?という目を私に向けた。

 「この前、私が庭に水撒きをしようとしていたときに、やってきた人です」

 ああ、例の、というふうにみっちゃんは頷いた。

 シューさんが、

 「ユニコーンのTシャツだったね。いいね!」

 と言うのに、みっちゃんはややうさんくさそうな目を向けた。

 「あれから、よく来るの?」

 「いいえ、満を持して今日来たんだと思います」

 「そう。なんていう人なの?」

 私は、思わず自分の脳内で繰り返していた言葉を言ってしまった。

 「ユニ……いえ、すみません」

 先日は不審者じみていたが、今日はお客さんなのでそんな呼び方は失礼である。私は、言い直した。

 「すみません、お客さんのことを……古賀さんです……」

 「別に、構わないと思うよ。きっとお客さんじゃないから」

 えっ?

 「どう見ても、お客さんじゃないでしょ」

 私は、半信半疑でゆっくりと首を傾けた。

 みっちゃんは、涼しい顔で言った。

 「僕なら、ファンシー」

 その日から、古賀さんは、ファンシー君と呼ばれることになってしまった。



 カランコロン

 「いらっしゃいませ」

 「お、おはようございます」


 翌日から、宣言通りに、ファンシー君はやってきた。

 「ファンシー君」と、リスさんを除く私たちからの呼び名が変わると、なぜかユニコーンの服もお蔵入りになったようだった。今日は、よくプレスされた白い襟なしのシャツに細身のスラックスという姿で現われ、それでもやはり、リスさんを前に緊張しているようで挙動は不審だった。今日も、紙の束が入った同じ袋を提げている。


 その時間、ベッカライウグイスのカウンターにはみっちゃんしかいなかった。みっちゃんは、射貫くような視線を、ショーケース前のファンシー君へ送っていた。「紙袋が破れそうじゃないか、ファンシー」私は、そんな声が聞こえるような気がした。


 かたや、ファンシー君は、宝物を見つけた子どものように、喜びに無邪気である。前回は閑散としていたが、その日は朝焼きたてのパンがずらりと並んでいる。腰を屈めてそのひとつひとつに見蕩れ、みっちゃんの、不審者を暴こうとする視線にはまったく気づいていない。みっちゃんは、ずずずっ、と音を立ててコーヒーを啜り、リスさんと私は、その音に不穏な空気を感じて、思わずみっちゃんを見た。

 なんと、ファンシー君も、そんなみっちゃんを見ていた。


 「あ、あの、コーヒーって、あそこでいただけるんですか?」

 リスさんは、にこやかに

 「もちろん、あちらで召し上がれますよ」

 と応対し、手のひらをみっちゃんの方へ向けた。その指先には、憮然とこちらを振り返っているみっちゃんの顔があった。

 みっちゃん……。


 「やった!」

 ファンシー君は、小さな声でそう自分に言い聞かせると、リスさんへ向かって微笑み、

 「じゃ、お願いします」

 と頭を下げた。なかなかに礼儀正しい人物であるが、どこか子どもじみているのも否めない。それとも、子どもがいるお父さんは、こんな感じになるのだろうか。

 一通り眺め終わったファンシー君は、注文をした。

 「この、リンゴフィリングのナッツロールをお願いします」

 パン屋さんでは、お客さんの注文の仕方は微妙に違うものである。長い商品名だと最初の方だけを読み上げたり、指を差して教えてくださったり、ご自分で付けた愛称で注文してくださる人もいる。ファンシー君は存外丁寧に端から端まで読み上げるタイプだった。

 私は、トレーに注文のパンを取り出した。昨日仕込んだ、リンゴをコンポートにしてさらに軽くバターでソテーしたものと、ナッツのフィリング入り巻きパンである。これは、アーモンド粉のしっとりとした、だがクレームダマンドよりもそぼろ寄りのリスさん特製フィリングが巻かれており、たいへん美味しい。


 

 ファンシー君は、カウンターへと向かった。そして、なんと

 「こんにちは」

 とそっとみっちゃんへ向かって頭を下げ、一つ開けた隣の椅子を静かに引き、再びみっちゃんへ

 「失礼します」

 と声を掛けてから腰掛けたのだ。

 その本格的な礼儀正しさに、みっちゃんはぐうの音も出ない様子で顎を引いた。


 リスさんが淹れたコーヒーを、パンと一緒の木のトレーに乗せ、私はファンシー君の元へと運んだ。

 「どうぞ」

 「ありがとうございます」

 ファンシー君は、私にまで丁寧だった。

 小さな声で

 「いただきます」

 と呟くと、後は庭を眺めながら静かにコーヒーを飲み、パンを食べた。特に、パンは美味しそうに味わっているのが、その小さく傾げた頭の動きから、伝わってきた。

 不思議なもので、食べ物を美味しく食べているかどうか、人は、意思を持たないサインを出している気がする。味気なく食べているときは、たとえその背中からでも、無味乾燥な感情が伝わってくるものだ。それは、作った人だけが敏感に感じ取る程度の、微妙な変化でしかない。だが、作り手はそれほど、美味しく食べてもらうことを願っている。

 ファンシー君は、その背筋がよく伸びていることこの上なく、いい姿勢で食べていた。なんだろう、その姿勢に、ファンシー君の何かが現れている気がした。

 私は、どこかでそんな姿勢の人を見た気がしないでもなかったのだが、どうにも思い出せなかった。すっと背はのびているのだが、力が入っている感じがひとつもない。肩の力は抜けていて、自由で品のよい感じだった。



 カランコロン

 「こんにちはー」

 「いらっしゃいませ」


 ファンシー君の様子を探っていると玄関のベルが鳴り、お客さんが、3人ほど出入りした。今日は、自家用車で訪れる人が多いな、と思いながら、私は応対し、リスさんは工場のオーブンを見に行ったり、ショーケースの横にあるカウンターの上で、業者さんへ発注する材料の品目を確かめたりしていた。


 「すみません」

 みっちゃんの声だった。どうしたのだろう、リスさんと私はみっちゃんを見た。

 「おかわりををお願いします」

 「はい!」

 リスさんは、慌てて後ろにあるサーバーを持ってカウンターから出た。

 

 すると、みっちゃんは、

 「こちらの方に」

 と、一つ席を隔てた右側に座っている、ファンシー君を手のひらで差した。

 突然、自分を指され、ファンシー君はびくりを肩を揺らした。

 「え?……ぼ、ぼくですか?」

 リスさんは、コーヒーを、ファンシー君のカップへ注いだ。

 「気づかず、すみません。ここはお代わりできるんですよ」

 リスさんは、ファンシー君とみっちゃんへ笑顔で頭を下げた。

 「そ、そうなんですね」

 「はい。それで、少し料金を高めの設定にしているので、よろしければ、ぜひお代わりしていってください」

 ファンシー君は、先ほどまでの姿勢の良さが、リスさんの横で萎縮したのか、両肩が前へ出た。

 「あ、ありがとうございます」

 そして、少しおどおどした様子で、リスさんが注ぎやすいようにカップの位置をずらした。

 「あ、あの……」

 「はい?」

 何か、言いたいことがありそうだが、ファンシー君は、次の言葉が言えない。

 


 カランコロン

 「こんにちは!」


 そこへ、弘子さんがやってきた。

 「いらっしゃいませ」

 入り口からすぐ前にあるショーケースの中には、私しかいない。それは、よくあることなのに、弘子さんは、敏感に何かを察知した。

 弘子さんが素早く顔を向けた先には、にこにこと愛想よく話すリスさんとファンシー君の姿があった。弘子さんは、楽しげにそれを目に留めると、すぐに私の方を向いた。弘子さんの口角が明らかに上向いて、目がいたずらっぽく輝いている。

 「今日は何にしましょうか……」

 「うーん、今日は……、そうねぇ……」

 カウンターが気になる弘子さんであったが、軽く頬を膨らませ何度も首を揺らしながらも、平常を装い注文をした。

 「あ、今日は、この日よね。リンゴとナッツのフィリングが大好きなのよ」

 ファンシー君もそのようである。気が合うと……いいのかな?……と思いながら、私は笑顔で頷いた。

 「あと、コーヒーもお願いしますね」

 「はい」


 弘子さんは、大きな窓の真ん中、つまりみっちゃんとファンシー君の間に座った。

 「こんにちは」

 みっちゃんは弘子さんに言い、

 「こんにちは」


 ファンシー君は、弘子さんの方へ軽く黙礼をすると、体勢を立て直し、やや巻き気味になった肩の力をそっと抜いた。弘子さんは、その様子を横目で見ながら、やはり黙礼を返した。

 私は、弘子さんのところへパンと空のカップののった木のトレーを運び、リスさんが持っていたサーバーから湯気の出るコーヒーを注いだ。みっちゃんは、リスさんとファンシー君の会話がこれで途切れた、と胸をなで下ろした様子だった。

 弘子さんは

 「ありがとう、リスちゃん」

 と言った。弘子さんは、いつもなら「みっちゃん」と呼びかけるのに、みっちゃん、とも虎男とも言わず、黙って腰掛けた。なぜなのだろう。なんとなく、弘子さんはファンシーくんをまだ全面的に受け入れたわけではない気がした。



 ファンシー君は、三日と開けずやってきた。

 

 時に、みっちゃんとカウンターに共存し、自然、弘子さんやさくらさんと会うこともあった。だが、そうしてひと月が過ぎても、ファンシー君は、とくにリスさんとの距離を詰めたり、リスさんをどこかへ誘ったりすることもなかった。

 ファンシー君は、来る度にリスさんに迎えられ、ただ幸せいっぱいな表情をしているだけだった。そして、満ち足りた笑顔で、リスさんにパンとコーヒーを注文する。彼は、ショーケースの中のパンを、ひとつひとつ吟味し、制覇していった。

 そして、カウンター席へ移動すると、その端っこに腰掛ける。いつもみっちゃんが陣取っている左側とは逆の位置を必ず選んだ。


 その場所に腰を掛けると、ファンシー君は別人のように見える。

 彼の後ろ姿は、見たこともないほど背筋が綺麗に伸び、骨盤がぐっと立つようにして座わる。たとえば、地震がきても、椅子が壊れても自身はぐらつかないような、そんなしっかりとした座り方で、彼はベッカライウグイスに調和を図ろうとしているのかもしれなかった。

 片足は椅子の脚に沿わせ、もう片足は前に置かれていた。

 絵画の中の光景に思えるほど、大きな窓から降り注ぐ陽と彼の後ろ姿は歴然として見事だった。

 ベッカライウグイスの中で、彼の態度は、少しずつ落ち着いていくのと同時に、この場に溶け込むように馴染んでいくのを私は感じていた。

 パン教室ではじめて見かけたような風変わりさはすっかり鳴りを潜め、口数も多くはない。

 

 そういえば、庭であったときの彼は、パン教室の時のその人とは、いでたちが全く違い、私ははじめ誰なのか分からなかったほどだったことを思い出した。不思議な人である。今日も、眼鏡はなく、素直な髪も自然に整えられ、平穏な風情があの時の人と同一人物だとは思えなかった。

 私は……、古賀さんをどう判断していたのだろう。自分の印象だけで、危険な人物と彼に烙印を押した……それは、良くないことだったのかもしれない。私は、パン教室の時も今も、まったく様子の変わらないリスさんを思った。



 夏は、勢いを増した。

 私は、ベッカライウグイスの庭で、日に三度、水まきを始めた。

 盛夏が訪れたのだ。暑さは、ただただ募っていく。外に出る度に汗が額や首から噴き出しては、それを太陽がじりじりと焦がす、その繰り返しはいつになったらやむのだろうか、先が分からない。息に熱い湯気が混じっている気がする。風ひとつない、歩道に虫ピンで留めつけたような木蔭の中だけが、生きた心地にさせてくれた。それは、やけどをするような地面の上で必死に働く蟻たちも同じだったろう。黄色い蝶の飛ぶ姿が、熱気の狭間で、あまりにもゆっくりと止まりそうに見えた。


 そんな日にも、古賀さんはやってきた。

 みっちゃんは、みずほさんの話ではすっかり夏バテになってしまい、少量の素麺しか喉を通らないという。リスさんと私は、昨夜、冷たい果物のゼリーを作って、みっちゃんの家に届けた。従って、本日、みっちゃんは珍しくベッカライウグイスへ姿を見せてはいないのだが、それでも古賀さんは、いつもとなんら変わった様子はなかった。


 リスさんが工場へ行ったので、私がカウンターへパンとコーヒーを運ぶ。

 「どうぞ」

 「ありがとうございます」

 そう言うと、少し微笑んでトレーに載せられたうぐいすパンを、彼は見た。

 「いただきます」

 と行儀よく私に言ってから、うぐいすパンを手に持った。顔をほころばせそれを食べた。



 カランコロン

 「こんにちはー」

 私は、「いらっしゃいませ」と言いながら、ショーケースの奥へと戻った。

 お昼のお客さんの波が押し寄せ始めた。あまりに熱いので、冷たいショーケースに入っているサンドウィッチやペストリーがよく売れる。何人かのお客さんは、古賀さんの隣で、庭を眺めながらアイスコーヒーを飲み、パンを食べ、帰って行った。リスさんと私は、お客さんとお客さんとの合間に、工場とお店を行き来し、焼きたてのパンを並べ、午後からのお客さんに備える。

 慌ただしいお昼が過ぎると、つかの間の静寂が訪れ、リスさんと私は仲良くショーケース奥のスツールに腰掛け、コーヒーを飲みながら休憩をする。


 そんなときにまたお店のベルが鳴った。

 カランコロン

 「こんにちはー」

 さくらさんである。


 「外は暑いわよ~」

 さくらさんは、ハンカチを取り出すと、黄緑色のサマーセーターの首元の汗を拭った。その下のスカートは、深い森の木の葉のような、ほとんど紺色に近い緑で、さくらさんは色合わせがとても上手な人だった。

 「少し、涼しくなるといいですよね」

 「ここは中が涼しいけど、私は車庫の電気釜と一緒だから、どこでも汗だくよ?」

 私は、笑った。

 「じゃ、さくらさんはアイスコーヒーにしますね」

 「ありがとう!それと……今日は餡子の日!白あんぱんをお願いね」

 「はい」

 さくらさんは、カウンターへ向かおうとすると、一瞬立ち止まって古賀さんを見た。古賀さんは、さくらさんを目の端に止めると、軽く頭を下げた。さくらさんも、黙って頭を下げると、みっちゃんがいつも座る位置に腰掛けた。


 私は、透明な氷の音が鳴るアイスコーヒーと白あんぱんを、さくらさんの元へ運んだ。

 「ありがとう来春さん」

 さくらさんは、弘子さんやみっちゃんと違って、古賀さんに会うと妙に考え込むのが分かる。いつも賑やかなのに、口を閉じて、窓から庭を見ているはずが、今日は時折、古賀さんの横顔をちらちらと窺っているではないか。私は、いつさくらさんが声を掛けるのか、そして何を話し出すのか、ヒヤヒヤしながらその場を見守った。事実、さくらさんは、何度も声を掛けたそうにしていた。だが、そうはしなかった。

 工場からリスさんが戻ってくると、ショーケース横のカウンターを跳ね上げて、こちらへやってきた。

 「リスちゃん!あなた、毎年だけど夏場の工場は暑くてたいへんね」

 「夏は、そんなものですよ。その代わり、冬は暖かいですから」

 リスさんは、工場帽のままなので、いつものたっぷりあるリスの尻尾のような巻き毛は、不織布のネットにしまわれ、すっきりとした首筋が見えている。古賀さんは、そんなリスさんにそっと目をやったが、リスさんはまったく気づかない。


 さくらさんとリスさんが他愛のない話をし、さらにお客さんが数人訪れた頃、夏の空模様は急変の兆しを見せ始めた。

 夏休みのプール開放から地上へ放り出された子どもたちが、大きな声でおしゃべりをしながら家路を急ぐ姿が見える。

 やがて、遠雷が聞こえ始め、さくらさんは席を立った。 

 「私、傘持ってきてなかったから、今日は帰るわね。リスちゃん!来春さん!ごちそうさま!」

 と会計を済ませ、慌ただしく注文していたパンを受け取り、お店の外へ出ようとしたときだった。

 一瞬、リスさんと私を振り返るとショーケースの前に戻って、小さな声でこう言ったのだ。

 「前から思っていたんだけど……私、あの人……どこかで見たことがある気がするの。どうしても思い出せないんだけど……」



 さくらさんが帰った後のベッカライウグイスに、古賀さんとリスさん、そして私がぽつんと残された。

 空は暗くなり、お店の中にも影が増した。

 間もなく、驟雨が訪れた。

 地上のあらゆるものにぶつかって、雨は礫を飛び散らせた。その膨大な数の音に、私たちの耳は塞がれてしまう。

 暗くなった店内に、リスさんが灯りを点けた。カウンター上のペンダントライトが、窓に映ると、滑らかなガラスのその場所だけが、古い船底のように見えた。

 リスさんは、古賀さんに淹れたてのコーヒーサーバーを持って行き

 「お嬢さんたちは、大丈夫ですか?」

 と聞いた。

 私は、工場へ入った。だから、それからのことは分からない。

 


 私は、薄暗くなった工場の灯りを点け、雷の音を聞きながら、あらゆる調理器具を消毒したり、床を掃除したりした。発酵機の中を拭き上げ、オーブンで焼かれている今日の終わりのパンを確認した。手を動かしながら、雨模様の外とともに、お店に残してきた二人を思った。 


 ユニコーンから、ファンシーへ、そして、彼、古賀さん。

 私の中で、呼び名が変化していくのは印象の変化であることを、この頃の私は感じていた。

 リスさんのパンを食べにやってくる古賀さんの、はにかみと幸福に満たされている表情を見る度に、少しずつそれは変わっていった。

 古賀さんは、ベッカライウグイスのお客さんになった。みっちゃんがそうは言わなくても、今の私には、はじめてユニコーンのことを説明したときの弘子さんの微笑みの意味が分かる気がする。

 古賀さんは、リスさんのことが好きで、お客さんから始めようと、時間があるとベッカライウグイスを訪れ、静かにパンを食べコーヒーを飲んでいるのだ。

 だが、リスさんは、そのことに多分気づいてはいない。古賀さんの静かな微笑みの理由にも、いつの間にか、みっちゃんのように、カウンターに座る古賀さんがこのお店にとても馴染んでいることにも。

 もしかして、気づかないようにしているのだろうか。私は、ふとそう思う。

 古賀さんには、五年生の娘さんと中学年の娘さん、二人の子どもがいる。万が一だが、結婚しているのかも知れない。こうして、ベッカライウグイスに足繁く通ってくる時間を考えても、どんな仕事をしているのか想像がつかない。

 ただリスさんのパンが好きな、お客さんだったらよかったのに……。

 だが、弘子さんとみっちゃんと私が考えるように、それは、違うだろう。


 不規則な閃光と雷鳴はやがて遠ざかり、雨の音は弱く霞んでいった。

 私が工場からお店へ戻る頃には、もう古賀さんの姿はなく、ただ、いつものようにリスさんがショーケースの中のスツールに腰掛け、一人、温かいコーヒーを飲んでいた。



 その夜は、夕立のあとすっかり暑さが遠のき、過ごしやすかった。窓を開け放ったベッカライウグイスの宿舎にて、私たちは夕食後、三人でお茶を飲みながらくつろいだ時間を過ごしていた。

 「虫の声が、しない?」

 私たちは、耳を澄ませた。

 かすかに、たぶん一匹だけ鳴いている。夏は盛りと思ったのに、もう秋へのきざはしが準備されているのだ。大きく緩やかな世界に、命の趨勢はめまぐるしい。

 「シューさん、帰国の予定は決まった?」

 リスさんが聞くと、シューさんは広げていた雑誌をぱたりと閉じて難しい顔で呟いた。

 「好事魔多し」

 リスさんと私は顔を見合わせた。

 「クラさん、難しい言葉を知ってますね」

 「なにか、アクシデント?」

 シューさんは、ゆっくり繰り返した。

 「アクシデント」

 それは、たいへん。

 リスさんと私は再び顔を見合わせた。

 「夜中に出ることがあったら、気を付けて行ってくださいね。タクシー、わかる?」

 シューさんのように、別の国同士のコンピューターシステムを構築する場合、相手方の時間に合わせる必要に迫られることがある。特に、緊急のトラブルの場合は、夜中だろうと仕事に赴かなくてはならない。

 リスさんは、スマートフォンを持つと、タクシーの手配についてシューさんに教えてから、お風呂へ向かった。

 シューさんは、そんなリスさんの後ろ姿を見送ってから、私に言った。

 「ね、来春、あのユニコーンだけど」

 シューさんの中では、古賀さんはまだユニコーンである。

 大きな膝をちんまりと揃えて、両手にお茶を持っている。その青い瞳が訴えるのは、真面目さなのかお節介なのか図りかねる。シューさんは、お茶をテーブルの上に置くと、身を乗り出してリスさんが浴室へ消えたのを確かめ、私に手招きをした。

 「ちょっと、いい?こっちこっち」

 そう言って、ソファから立ち上がり、リスさんのお父さんの書庫へ私を連れて行った。

 電灯を点け、カーテンを引く。

 シューさんは、

 「来春に、見て欲しい」

 そう言うと、唇の前で人差し指を立てた。「静かに」のジェスチャーである。

 それから、シューさんはおもむろに、私が届かない高い棚に手を伸ばした。

 私を見ながら取り出したそれは、小さな、七色のたてがみを持ったユニコーンの人形だった。

 私は、絶句した。

 見開いた目に、シューさんを飲み込むほどに。

 「これは、ドイツの有名なおもちゃ会社の人形。リスは、知ってるんだよ。あの人が、これを大事にしてること」

 シューさんの大きな手のひらに載ったユニコーンは、今にも走り出しそうに、美しかった。たてがみや尾が、まるで風に吹かれている瞬間をとどめ、幻想的な生息地から、ただ一頭ここへ迷い込んだかに見える。日本のおもちゃに見られる、子どもにおもねった風情が何一つない。自立した、意志を持った、生物そのもののミニチュアに見えた。


 「あの人、ドイツに住んでましたよ、きっと。もしかして、リスとどこかであったのかも……こんなアクシデント、あるんですね」

 それだけ言うと、シューさんは、元の位置にその人形を戻した。それは、私からはけっして見えない、高い場所にそっと戻された。

 アクシデント……。

 それって、まさか……?

 私が見上げると、シューさんは、フクロウか時季外れのサンタクロースのように

 「ホーホーホー」

 とお腹を揺すってウィンクして見せた。



 数日後、まだそれを知らないさくらさんは一冊のアルバムを持ってベッカライウグイスへやってきた。


 「ねぇねぇ、ちょっとこれ見てくれない?」

 さくらさんは、カウンターでアルバムを開いた。

 とうに夏バテから復帰したみっちゃんは、飲んでいたコーヒーを少し遠くへ置くと、右肘を付いてアルバムへ身を乗り出した。

 「リスちゃんたちも、ちょっと来て!」

 さくらさんに呼ばれ、リスさんと私は慌ててさくらさんの注文を準備すると、みっちゃんたちのところへ行った。

 「これ、この子なんだけど……」

 中学校の卒業アルバムのようである。さくらさんは、一人の男子生徒を指さした。

 古賀竜季こがたつき

 「古賀……?」

 リスさんと私は顔を見合わせた。

 「私、あの人をどこかで見たことがある気がするって言ったでしょう?それで、覚えがあるっていったら教え子に決まってるから、アルバムを探したのよ。古賀君は、一人だった。この子よ」

 さくらさんが指さす古賀君を、私たちはじっと見た。だが、どこまでじっと見ても、あの古賀さんの片鱗も見当たらない。

 リスさんが言った。

 「さくらさんのクラスだったの?」

 ん?クラス……教え子?

 私は、古賀竜季君よりも、重要なことにようやく気づいた。

 「あの……さくらさん、先生だったんですか?」

 えっ?という表情で、リスさんとみっちゃんとさくらさんが一斉に私を見た。

 リスさんの表情がみるみる驚きに変わった。両手で口元を覆い、目を丸くしている。

 みっちゃんとさくらさんも驚きを隠せていない。

 「え、来春さん、知らなかったの……?」

 さくらさんが、まさか、という言葉まで継げずに言った。

 「リスさん、言ってなかった?」

 みっちゃんが、困ったように眉を寄せている。

 「私……私、もう誰かが言ったかと思って……」

 三人は、すっかり狼狽し、身の置き所なく困っている。

 それから三人は、即座に揃って私に頭を下げた。

 「来春さん、それは、ぼくたちのこと何にも言ってなくって、悪いことした!」

 「すみません」

 「ごめんね!」

 私は、首をぶんぶん振った。

 「いえそんなことないです。ただ、びっくりして」

 みっちゃんたちは幼なじみで、リスさんのお父さんと同じ職場で働いていた。それは、転勤の多い職場でもあり、入れ替わり立ち替わり、みっちゃんたちは一緒になったり離れたりしていた。そのことは聞いていたことだった。私は、みっちゃんたちがなんとなく民間の企業ではなく、公務員なのかな、という気がしていたが、やはり地方公務員であった。

 

 カランコロン

 「こんにちはー。まだ残ってるかな、私の好きなの……」

 歌うように、弘子さんがやってきた。

 「ん?どうしたの?」

 悄然としている三人に気づくと、こちらへやってきた。



 リスさんが、コーヒーを淹れている。

 弘子さんが、手のひらで額を押さえ、私に詫びた。

 「ごめんなさい、来春さん。まさか何も言っていなかったとは……あの時……ってリスさんの結婚会議の時ね、言った気になってたわー。それは、来春さんの面接の時に、知らない三人が出張っていて、不審だったわよね。私たち、職業柄、面接になれてるものだから。ほら、三年生になると面接指導っていうのをしなくちゃいけなくてね」

 

 リスさんは、私にもコーヒーを淹れて持ってきてくれた。

 「そんな、謝られることじゃないです」

 私は、すっかり色々なことに納得がいって、すっきりした顔で答えた。

 さくらさんは言った。

 「謝りますよー。だって、来春さんは、もうずっぽりベッカライウグイスに浸かり込んでいるわけだから、関係者も関係者、結束が固い私たちよ?知りませんでした、じゃすまないわよ」

 「ずっぽりって……」

 「知りませんでした、じゃなくて、お話ししていませんでした、すみません、でしょ?」

 四人はすっかりしゅんとしているので、私は話題を変えた。

 その、さくらさんのアルバムの古賀竜季君である。


 「さくらさん、古賀竜季くんって、確かに苗字は同じですけど……」

 さくらさんは、

 「あっ、これね、これ」

 「なに、なに?」

 弘子さんは、アルバムを覗き込む。

 「あぁ、例の古賀さんね?え?教え子だったの?」

 とうのさくらさんは、首を傾げる。

 「それが、分からないのよ、どう思う?」

 弘子さんは、まじまじと写真を見た。

 「わっかんないわねー。中学生って、大人になったらけっこう変わるものね。面影はあるんだけど、子ども時代と大人は、違うのよね。また、この個人写真っていうのがけっこう曲者だわ」

 「個人写真より、他のを見てみたら」

 みっちゃんの意見により、アルバムは次々をめくられていった。

 さくらさんは、大勢が集う中から、古賀竜季君をたやすく見つけていく。

 「うわぁ、思い出すわね~。古賀君は、ピアノが上手だったわ!合唱の伴奏もいつもしていたし、それが本当に上手で合唱よりすごかったわね」

 そんな古賀君は、黒縁の眼鏡を掛け、頬はぷっくりとしていて、どうやっても古賀さんとは似ていない。強いて言うならば、真っ黒な髪は古賀さんと同じであるが、日本人の大半が黒髪であるし、古賀竜季君は天然パーマがかかっておりあちこちに毛先がはねているが、古賀さんはさらさらヘアーが印象的である。

 我々は、やはり別人であろう、と結論づけた。

 「うーん。大体卒業年度もこのくらいかな、と思ったんだけど、市内に何人も古賀君はいるでしょうからね……」

 さくらさんは諦めたようにアルバムを閉じた。

 「このアルバムの古賀君は、今どうしてるの?」

 みっちゃんがさくらさんに聞いた。

 「私担任じゃなくって、教科でみていただけだから、同窓会へも行かないし分からないわね」

 「そう」

 みっちゃんが、顎をぽりぽりと掻いた。



 カランコロン

 そこへみずほさんがやってきた。

 「あら、久しぶりに全員揃ってるのね」

 パートが終わり、みっちゃんを迎えに来たのである。

 「それが、みずほさん聞いてよー、私たちのこと、来春さんに何も言ってなかったのよ~」

 さくらさんが言い、

 「あら、それは虎男さんの不手際じゃない?一番親玉っぽいもの」

 と、みずほさんは、すべてをさらりとみっちゃんのせいにした。

 それから笑いながらみずほさんは、

 「じゃあ、来春さん、誰が何の教科か分かる?」

 とクイズを繰り出し始めた。

 「えーっ」

 私は、みっちゃんをしげしげと眺め、

 「数学」

 というと、みんなは

 「えーーーっ」

 と大笑いした。


 そうして、夏の長い夕刻が少しずつ夜の濃さを増しつつあるベッカライウグイスで、誰も、古賀さんがやってこなくなる日を想像してはいなかった。


 古賀さんが、何も言わず、ベッカライウグイスへ姿を見せなくなったのは、それから間もなくのことだった。

読み続けてくださる方々へ

本当に、ありがとうございます。

ここまで読んでくださって、もうお会いして手を握らせていただいて、

ぶんぶんさせていただきたいほど、感謝しています。

読んでくださる方々が、どうかいつも幸せでありますように。

たくさんの笑顔の瞬間が、訪れますように。

寒くなってきましたが、お風邪など召しませんよう、

お元気でいらしてください(^^)/

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