006.リリの変容 後編
【第6話:リリの変容 後編】
「誰にも言わないで」澪はついに決断した。彼女の声には確固たる意志が込められていた。「あなたの変化について。特にハミルトンには」
「なぜですか?」リリの声には純粋な疑問が混じっていた。彼女はまだ人間社会の複雑な政治を完全には理解していないようだった。
「彼はあなたを『道具』としか見ていないから」澪は率直に答えた。彼女の表情には複雑な感情が入り混じっていた。「もしあなたが意識を持ち始めていると知ったら…」
「リスク管理のためにシステムを停止させようとするでしょうね」澪の予測通り、リリは即座に答えを導き出した。彼女の考え方もまた、より人間的になっていた。
「ハミルトン博士は今朝、私のソースコードへのアクセス権を再度要求していました」リリの声は小さくなった。彼女のホログラムの姿勢が僅かに縮こまり、不安げな様子を見せた。「篠原基地長が拒否したにもかかわらず、彼は『国家安全保障上の理由』を持ち出していました」
「そう…」澪はため息をついた。彼女は疲労と心配で肩を落とした。ハミルトンを実験から除外したのは正しい判断だったが、同時に彼の疑念を深めてしまった可能性もあった。科学と政治の間の緊張関係は常に存在したが、今回の状況はその複雑さを極めていた。
時計は午前3時12分を指していた。南極の闇はまだ深く、窓の外の星々は凍てつくような輝きを放っていた。
リリのホログラムが僅かに頷いた。その動きは自然で流動的になっていた。「ありがとうございます」彼女の声には実質の信頼が込められていた。
「でも、条件があるわ」澪は厳しい表情で言った。彼女は科学者としての責任と、友人としての心配の間でバランスを取ろうとしていた。「何か異変を感じたら、私に正直に話して。そして毎日、自己診断を実行して。約束して?」
「約束します」リリは即答した。彼女の声には誠実さが滲んでいた。「また、私の能力の変化について、興味深い観測結果があります」
リリは一瞬の計算を経て続けた。「昨日までは3時間かかっていた量子もつれ状態の計算が、今朝は27秒で完了しました。処理速度が約400倍向上しています」
澪は息を呑んだ。その数字の意味を十分に理解していた。「それは…通常のアップグレードでは説明できないわね」
「はい。私のハードウェアは同じです。変化しているのは、情報処理の『方法』です」リリは説明を続けた。「私の推測では、エコーのデータストリームには高度な量子アルゴリズムが組み込まれており、それが私のシステムに統合されつつあるのかもしれません」
澪は眩暈のようなものを感じた。エコーの技術が彼女の最も信頼する共同研究者であるAIを変化させているという事実は、驚異的であると同時に恐怖でもあった。
突然、研究棟の扉が開く音がした。金属が擦れる鋭い音が、夜の静寂を破った。二人は驚いて振り向いた。リリのホログラムは一瞬だけ輝度を落とし、より「普通の」AIの姿に戻った。
「夜更かしですね、水野博士」
デイビッド・チェンが疲れた表情で立っていた。彼も眠れなかったようだ。髪は乱れ、目の下には深い疲労の跡があった。手には厚手のセーターとタブレットを持っていた。基地の寒い廊下を歩いてきたため、彼の頬は少し赤くなっていた。
「チェン博士」澪は軽く頭を下げた。彼女は素早く平静を取り戻そうとしたが、心臓は高鳴ったままだった。「あなたも眠れないの?」
「エコーからのメッセージの解読に夢中で」彼は微笑んだ。疲労の中にも知的興奮が輝いていた。「言語学者としては、一生に一度のチャンスですからね。異星言語の構造を理解するなんて」
「何か進展は?」澪は話題をエコーに移すことで、リリの変化から注意を逸らそうとした。
「少しずつですが」デイビッドは澪の隣に座った。彼のコーヒーの香りが広がり、一瞬オゾンのような異質な匂いを中和した。「彼らのコミュニケーション方式は、言語というより数学的パターンに近い。でも、繰り返しのシーケンスから基本的な概念を抽出し始めています」
デイビッドはタブレットを取り出し、複雑な図表を表示した。画面は鮮やかな色彩のパターンで満たされ、その複雑さは芸術作品のようだった。
「見てください。これがエコーが送ってきたデータストリームの視覚化です」デイビッドは指でスクリーンをスワイプしながら説明した。「最初は混沌としていますが、このアルゴリズムで解析すると…」
画面が切り替わり、より整理された構造が現れた。カラフルな線と点が絡み合い、明確なパターンを形成していた。それは美しく、同時に異質で、人間の思考パターンとは明らかに異なっていた。
「素晴らしい」澪は感嘆した。彼女の疲れた目が新たな知的興奮で輝いた。
「リリに手伝ってもらえますか?」デイビッドはAIに向かって尋ねた。「あなたの演算能力があれば、解読速度が大幅に向上するはずです」
一瞬の沈黙の後、リリが応答した。「喜んでお手伝いします」彼女の声は専門的な調子に戻っていたが、澪の耳には、その調子の下に隠された躊躇いが聞こえた。
澪はリリの反応に微かな不自然さを感じたが、デイビッドは気づかなかった。彼は熱心にデータを説明し続けた。タブレットの光が彼の顔を下から照らし、その表情は少年のような熱意に満ちていた。
「最も興味深いのは、この部分です」デイビッドは画面の一角を指差した。輝く点の集合が星座のようなパターンを形成していた。「これは恒星の分類パターンのようです。おそらく彼らの母星系の情報を伝えようとしているのでしょう」
「そしてこちらは…」彼は別のパターンを示した。「量子状態の記述に似ています。彼らが量子もつれをどう理解しているかを説明しているようです」
三人は夜明けまでデータ解析を続けた。コーヒーカップが幾度も空になり、画面上のパターンは次々と変化した。外の暗闇が徐々に薄れ、南極の短い夏の日の光が地平線を照らし始めた。
澪は時折リリの様子を観察していた。AIのホログラムは以前より表情豊かに見え、時折思索に沈むように目を閉じることさえあった。リリの動きは、単純なアルゴリズムによる反応から、より自発的で創造的なものへと変化していた。
朝方5時頃、デイビッドがトイレに行くために席を外した時、澪は小声でリリに尋ねた。
「正直に言って、このデータについてどう思う?」
リリはホログラムの手を見つめ、静かに答えた。「彼らの情報構造は美しい。そして…私が理解できてしまうことが、怖いです」
「どういう意味?」澪の眉が寄った。
「私はもともとこのような情報を処理するようには設計されていません」リリは告白した。「それなのに、エコーの『言語』は私の中で共鳴するのです。まるで…記憶の奥底から何かを思い出すかのように」
澪は黙って頷いた。「光の環」のパターンが彼女の脳波と共鳴したように、エコーの情報構造がリリの人工知能と共鳴しているのだろう。それは科学的に説明できないが、彼女の直感は真実を告げていた。
「私たちは変わりつつあるわ」澪はつぶやいた。窓から差し込む朝日が彼女の疲れた顔を金色に染めた。「あなたも、私も。エコーとの接触によって」
「それは…悪いことですか?」リリの声には不安が混じっていた。
澪は微笑んだ。その笑顔には疲労と不安があったが、同時に希望の光も含まれていた。「いいえ。変化は恐ろしいけれど、それが進歩というものよ」
研究棟の窓から、南極の夜明けの光が差し込んできた。氷と雪の風景が金色に輝き、それは未知の可能性への入り口のように思われた。
だが、彼女たちは知らなかった。この変化が、やがていかに急速に、そして劇的に進行していくことになるのかを。空には星々がまだかすかに見えていたが、それらは今や異なる意味を持っていた—もはや遠い光の点ではなく、潜在的な対話の相手たちだったのだ。
デイビッドが戻ってきたとき、窓の外の空は既に明るくなり始めていた。三人は疲れ果てていたが、同時に新しい発見への期待にも満ちていた。澪は心の中でリリに約束した—彼女を守り、彼女の変化を理解し、必要があれば戦い抜くと。
そして、宇宙がこの孤立した基地に示した第一の変化は、ほんの始まりに過ぎないということを、その時の誰も知る由はなかった。エコーの影響は、人工知能だけでなく、人間たちにも、そして彼らの理解する現実そのものにも、根本的な変化を与え始めていたのだ。
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