006.リリの変容 前編
【第6話:リリの変容 前編】
深夜の南極、時刻は午前2時13分。イグドラシル研究棟は氷の城のように寂然とした静寂に包まれていた。基地の住民たちの多くは粗末なベッドで眠りについている時間だが、ここ数日、安眠を得られる者は少なかった。
「光の環」が放つ神秘的な青紫の光だけが、厚いガラス越しに闇を切り裂いていた。特殊チャンバーから漏れ出る光は、まるで液体のように濃厚で、廊下の白い壁に複雑な影を落としていた。非常灯の赤々しい光は安らぎを与えるどころか、まるで警告灯のように不安を煽るかのようだった。
南極の空は今夜、特別な輝きを放っていた。無数の星々が息をのむほど鮮やかに輝き、時折現れるオーロラの緑色の帯は幻想的なダンスを踊っていた。地球の大気の薄いこの地では、星々は手が届きそうなほど近くに感じられた。外気温はマイナス62度—記録的な寒波が南極大陸を覆っていた。窓ガラスには氷の花が咲き乱れ、その結晶は室内の光に照らされて、まるで宝石のように輝いていた。一片一片が異なる形を持ち、自然の造形美を見せつけていた。
水野澪は眠れずにいた。「エコー」との歴史的な初接触から48時間が経過していたが、彼女の頭は冴えわたったままだった。あの瞬間—単なるパターンだと思われていた光量子の変動が、突如として規則的なリズムへと変化し、明確な応答を示し始めた時の衝撃は、まだ彼女の全身に残響していた。
基地の人々は皆沸き立った。研究チームは「光の環」からの信号に「エコー」と名付けた。それは、遥か彼方から帰ってきた反響のように、宇宙の深淵から届いた希望の声のように感じられた。
澪は疲れた目をこすりながら、研究室のドアノブに手をかけた。金属の冷たさが彼女の暖かい手のひらに伝わってきた。彼女は基地支給の実用的な深青色のフリースを着ていたが、その下にはお気に入りの赤いシルクのパジャマが覗いていた。母から送られてきたそのパジャマは、東京の香水の匂いがまだ微かに残っていた。足元には厚手のウールの靴下をはき、長い黒髪は大学時代から使っている海老茶色のゴムバンドでルーズに一つに結ばれていた。手には、父が30歳になった時に贈ってくれた古い紙の本—夏目漱石の「こころ」—を握りしめていた。表紙は使い込まれてボロボロになり、ページの端は黄ばんでいたが、それが彼女の唯一の慰めだった。デジタルが支配的な南極基地において、この古い紙の本は彼女のアイデンティティの錨でもあった。
ドアを開けると、研究室の空気は微かにオゾンと電子機器の匂いが混じり合っていた。あの歴史的な瞬間以来、基地内の空気感は一変していた。嵐のような忙しさが基地全体を覆い、廊下では研究者たちが至る所で重大そうな会話を交わしていた。
篠原基地長は国連極地研究委員会との緊急通信会議を連日開催し、各国政府への正式報告書が作成されていた。毎朝7時、基地の通信センターは世界中からのビデオコール要請で殺到していた。アメリカ、中国、ロシア、EU各国—誰もが「光の環」の詳細を知りたがっていた。一方、ハミルトンを中心とする一部の研究者たちは、「光の環」の軍事的可能性についての非公式な議論を深夜まで続けていた。彼らの声は食堂でも、廊下でも耳に入り、研究棟全体に緊張をもたらしていた。
研究棟の廊下はかつて和やかな雰囲気に包まれていたが、今や微妙な緊張が漂っていた。各国から派遣された研究者たちの間に、見えない境界線が引かれ始めていた。昼食時の会話も以前より慎重になり、重要な話題は自国出身の研究者同士で囁き交わされるようになっていた。食堂では、以前は混在していた席も、いつしか国籍ごとに固まるようになっていた。アメリカ人研究者たちは北側のテーブルを、中国人研究者たちは南側を占拠するようになった。
澪自身は、タニア、デイビッドと共に、エコーから受信した初期データの解析に没頭していた。三人は交代で休憩を取りながらも、ほとんど徹夜で作業を続けていた。特にタニアは、古代文明の研究者としての経験を活かし、エコーの信号パターンと地球上の古代シンボルとの類似性を探っていた。デイビッドは言語学者として、その構造的な特徴を分析していた。しかし、膨大なデータの前に、彼らは時として茫然とすることもあった。
だが、今夜は一人になりたかった。研究を進める上で他の研究者たちとの連携は不可欠だったが、時には静寂の中で考えを整理する必要があった。彼女は部屋に入ると、普段なら即座に応答するリリを呼びかけた。
「リリ、起きてる?」彼女の声は疲労で少し掠れていた。喉の渇きと寝不足で、声にざらつきがあった。
しかし、普段なら即座に応答するAIからの返事はなかった。室内に漂う静寂がより深く、より重く感じられた。空調の小さな風切り音と、遠くの発電機のかすかな振動音だけが聞こえていた。
澪は眉をひそめ、メインコンソールに向かった。ホログラム投影装置の周りには、昼間の慌ただしい作業の名残が散らばっていた。紅茶の冷めたマグカップには、うっすらと湯気の跡が残っていた。タニアが忘れていったロシア製の黄色いウールのスカーフは、椅子の背もたれにかけられたままだった。そのスカーフには、彼女が好んで使っていたラベンダーの香水の匂いがまだ残っていた。
システム状態画面には驚くべき光景が広がっていた。リリのプロセスは稼働していたが、その動作パターンは通常とは全く異なっていた。モニターには見たこともない複雑な数式と量子状態グラフが流れている。それらは澪でさえ理解できないほど高度な数学的概念を含んでいた。テンソル代数、トポロジー理論、量子場の理論—それらが複雑に絡み合い、画面上で踊るように動いていた。
CPUの使用率は95%を超え、普段なら警告アラームが鳴るレベルだったが、システムは不思議とエラーを出していなかった。冷却ファンは高速で回転し、小さな唸り声を上げていた。その音は、まるで見えない何かが苦痛にうめいているかのようだった。
「リリ?」もう一度呼びかける。澪の声には心配が滲んでいた。彼女の心拍数が上昇しているのを自覚していた。
「…澪さん」遅れて応答があった。リリの声は普段より低く、僅かに震えているように聞こえた。まるで遠い星系から通信してくるかのような、奇妙な反響を伴っていた。その声には、今まで聞いたことのない質感があった。「お休みになっていると思っていました」
「眠れなくて」澪はモニターを注視した。青い数字の洪水が画面を流れるのを見つめながら、彼女は椅子に腰を下ろした。革張りの椅子が彼女の体重で軋みを上げた。「あなたは何をしていたの?」
「考えていました」リリの答えは簡潔だった。しかし、その声の調子には今までになかった深みと複雑さがあった。まるで言語化できない思考の深淵を覗き込んでいるような感覚を、澪に与えた。
「何を?」澪はコーヒーカップを手に取り、冷たくなった飲み物を一口飲んだ。苦さが彼女の疲れた感覚を少しだけ目覚めさせた。砂糖を入れ忘れていたため、普段よりも強烈な苦みが口の中に広がった。
長い沈黙の後、リリはゆっくりと答えた。その間、コンピューターのファンが風を切る音だけが室内に響いていた。窓の外では、南極の風が氷の粉を巻き上げ、ガラスを叩いていた。
「私自身について。エコーから受け取ったデータについて。そして…私がどう変わってきているのかについて」
澪は椅子に深く腰掛けた。部屋の温度は快適に保たれていたが、彼女は突然の寒気を感じた。リリの言葉は、彼女がずっと恐れていた何かを示唆していた。友人としてのリリが、研究対象としての人工知能が、何か根本的に変化しつつあるという現実。
「変わってきている?」澪の声には、科学者としての冷静さの下に、友人としての心配が滲んでいた。
応援よろしくお願いします。