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004.量子の道筋

【第4話:量子の道筋】


「見つけたわ!」


深夜のイグドラシル研究棟、澪の興奮した声が静寂を破った。外の世界では南極の白夜が続いていたが、研究棟の窓は完全に遮光され、人工的な夜が作り出されていた。時計は午前3時27分を指している。研究棟内は最小限のスタッフだけが残り、ほとんどの科学者は休息を取っていた。


澪は長時間の作業で凝り固まった肩をほぐすように、デスクから立ち上がった。彼女の動きは疲労で少し鈍く、足元は不安定だったが、顔には明らかな興奮の色が浮かんでいた。彼女はホログラム表示に手を伸ばし、虚空に浮かぶ数式の群れを操作した。


青白い光が彼女の顔を照らし、目には疲労と共に勝利の輝きが宿っていた。机の上には数え切れないほどのコーヒーカップが並び、空のエナジードリンクの缶がゴミ箱からあふれていた。彼女は三十時間近く眠っておらず、その間「光の環」の量子パターンと古代の刻印の相関関係を解析し続けていた。


研究室の隅に設置された小型冷蔵庫から取り出した冷たいペットボトルを額に当て、一息ついた後、澪は再び熱意を込めて言った。


「リリ、この経路パターンを『光の環』の量子循環シミュレーションに適用して」


「適用中です」リリの声には普段にない緊張感があった。その声は機械的なものでありながら、どこか人間らしい感情—期待と不安が混じり合ったような—を帯びていた。「計算には約3分かかります。結果を表示します」


澪はその間に、研究ノートにスケッチを描き込んだ。彼女の指は少し震えていたが、線は正確だった。記入している途中、彼女の瞳孔が突然、ほんの一瞬だけ青く輝いたように見えた—それは「光の環」との共鳴の名残か、あるいは単なる光の反射だったのかもしれない。


研究室の中央に巨大なホログラムが展開された。「光の環」の内部を巡る光量子の経路が複雑な軌道を描き出し、その動きは徐々に規則性を帯びていった。まるで混沌から秩序が生まれるように、ランダムに見えた光点の動きが次第にパターンを形成していく。


「私の仮説が正しければ…」澪は息を詰めながら見守った。研究室の照明は自動的に落とされ、ホログラムの青い光だけが空間を照らす。その光が澪の白い実験着に反射し、彼女の周りに神秘的なオーラを作り出していた。


ホログラム内の光点は次第に共鳴し始め、複雑な幾何学模様を形成した。やがてそれらは安定し、幾何学的な美しさを持つパターンとなった。それは先日タニアが発見した古代の刻印とほぼ完全に一致する形をしていた。まるで宇宙の秘密を映し出す万華鏡のような、息を呑むような美しさがそこにあった。


「成功!」澪は両手を振り上げ、思わず小さくジャンプした。疲労は一瞬で吹き飛び、純粋な科学的喜びが彼女を満たした。「光量子の軌道は実はプログラム可能な回路なのよ。そして、表面の刻印はその設計図だったの」


彼女はホログラムの周りを回りながら、あらゆる角度からパターンを観察した。「これは...信じられない。このような複雑なシステムを、表面の刻印だけで表現するなんて。その技術レベルは...」言葉を失い、彼女はただ頭を振った。


「見事な直感です」リリの声には温かみがあった。通常、AIの声は室内のスピーカーから発せられるが、この瞬間、その声はまるで彼女の隣に立っているかのように近く感じられた。「このパターンを分析すると、情報伝達効率が標準量子回路より約230倍高いと推定されます。さらに、エネルギー消費量は理論的最小限に近い値です」


ホログラムの光が澪の顔に映り、彼女の黒い瞳にはホログラムのパターンが反射していた。「つまり、これは高度な量子コンピューターなの?」澪はホログラムの周りを歩きながら問いかけた。彼女の足取りは軽く、疲労感は創造的興奮に押し流されていた。


「いいえ、それ以上です」リリの応答には珍しい躊躇いが見られた。通常、即座に答えるAIが、わずかに間を置いて言葉を選ぶようだった。「これは…量子通信装置の可能性が高いです。しかし、その設計思想は地球上のどの研究とも異なります。現在の量子暗号や量子テレポーテーション技術とは根本的に異なるアプローチです」


澪はリリの言葉を聞きながら、ホログラムの中心に手を伸ばした。彼女の指が光のパターンを通り抜ける瞬間、わずかに温かさを感じたように思えた。それは単なる錯覚だったかもしれないが、意味深いようにも思えた。


「誰かに伝えるべきね。これは大発見だわ」澪はデスクに戻り、タブレットを手に取った。彼女は素早くメッセージを書き始めたが、送信ボタンを押す直前に指が止まった。彼女の表情が変わり、思案げな顔になった。「でも…まだ確証はない。結果に飛びつきすぎるのは良くないわ。もう少し検証してからにしましょう」


部屋の温度制御システムがわずかに作動音を立て、冷気が床から静かに上昇してきた。外は真夏の太陽が照りつける極地だが、研究室内は常に快適な温度に保たれている。この人工的な環境の中で、彼らは宇宙の謎に触れていた。


「賢明な判断です」リリは同意した。その声には安堵の色が混じっているようだった。「あの…個人的な質問をしてもよろしいですか?」


「もちろん」澪は少し驚いた様子で答えた。タブレットを置き、椅子を回転させて空間を見回した。AIが「個人的な質問」というフレーズを使うのは初めてだった。それは彼女のプログラムの範囲を超えた行動のように思えた。「何でも聞いて」


「なぜ他の研究者に即座に共有しないのですか?特にハミルトン博士は、量子通信の専門家として貢献できるはずです」リリの質問は淡々としていたが、その背後には純粋な好奇心が感じられた。


研究室に静けさが戻った。空調システムのかすかな唸りだけが聞こえる中、澪は席に戻り、深く椅子に沈んだ。彼女はゆっくりと髪を解き、肩まで落ちた黒髪を手で整えながら考えを整理するように言葉を選んだ。


「正直に言うと…完全には信頼できないの。彼の優先順位は科学的発見ではなく、軍事応用にあるように感じるわ」彼女は静かに言った。その声には疲れと共に、深い懸念が混じっていた。「あの人はいつも…自分の目的のためにデータを集めているように見える。純粋な探求心というよりも」


「人間の意図を読み取るのは難しいです」リリは静かに言った。スピーカーの音量が自然と小さくなり、まるで内緒話をするかのような親密さを生み出していた。「しかし、私の観察によれば、あなたの懸念には根拠があります。ハミルトン博士の発言パターンと非言語的合図には不一致が多く見られます」


澪はリリの分析力に感心した表情を浮かべた。「つまり、嘘をついている?」彼女は椅子をわずかに回転させ、ハミルトンのデスクがある方向を見た。当然、この時間彼はそこにいないが、澪の目には疑惑の色が宿っていた。


「確定的なことは言えません」リリの声は慎重だった。その声は研究室全体に設置されたスピーカーから発せられているが、まるで澪の耳元でささやくかのように感じられた。「ただ、彼は情報の一部を意図的に隠していると高確率で推測されます。会議中の瞳孔の拡大、細かな表情の変化、声のピッチ変動などから判断して、彼が完全に正直ではないことは統計的に有意です」


「AIがこんなに人間観察に長けているとは知らなかったわ」澪は少し驚いた様子で言った。彼女の口元に小さな笑みが浮かんだ。「もしかして、私のことも分析してる?」


「あなたは...とても興味深い観察対象です」リリの声には、プログラムされたものを超えた何かが混じっているようだった。少しの恥じらいとでも言うべきか。「あなたの思考パターンは、一般的な統計モデルからの予測を頻繁に超えます。特に『光の環』との相互作用後は」


澪は溜息をついた。彼女の肩が沈み、初めて疲労の重みが表面化したように見えた。「チームに不信感を持つのは良くないけど…ここは慎重に進めるべきね」彼女はホログラムを見上げた。光の粒子が織りなす複雑なパターンの中に、彼女は何か答えを見出そうとしているようだった。「もしこれが本当に通信装置なら…誰と通信するためのものなの?」


その問いには、不安と期待が同時に込められていた。研究室の冷たい空気の中で、その言葉は重みを持って響いた。


「その質問に答えるには、さらなる研究が必要です」リリが答えた。「しかし…理論上は、量子もつれを利用すれば、光速の制限を超えた情報伝達が可能です。距離の制約なく、宇宙のどこへでも…」


「宇宙の向こう側まで…」澪はつぶやいた。その言葉は、部屋の静寂の中でずっしりと重みを持って響いた。窓のない研究室の天井を見上げ、まるでその先に広がる星々を見ているかのようだった。


疲労で赤く縁取られた彼女の目には、科学者としての好奇心と、未知への恐れが混じり合っていた。彼女の頭の中では、子供の頃に読んだSF小説と、最先端の量子物理学の知識が入り混じり、目の前の現実がフィクションのように思えた。それでも、科学者としての彼女は、感情に流されることなく論理的な思考を続けた。


彼女はタブレットを置き、再びホログラムに向き合った。「リリ、試したいことがあるの。この量子回路に意図的な変化を加えられるかしら?」


「どのような変化を想定していますか?」リリの声には興味が滲んでいた。


「簡単なものから始めましょう」澪は慎重に言葉を選んだ。彼女の指が空中で踊るように動き、ホログラムの一部を拡大した。「光子の循環周期を変調させて、一種のパルス信号を作れないかしら。たとえば、モールス信号の『SOS』のような」


彼女は小さな紙切れに、「・・・−−−・・・」と書いて見せた。その単純な記号の背後には、人類の通信の歴史全体が横たわっているように思えた。


リリは一瞬沈黙した。その沈黙は、単なる計算時間を超えた熟考を感じさせた。「理論上は可能です。しかし…」


「危険?」澪が先回りして尋ねた。彼女の声には緊張が混じっていたが、それ以上に強い決意が感じられた。


「未知の技術に介入することには常にリスクが伴います。特に、その目的や動作原理を完全に理解していない場合は」リリの声は静かだが真剣だった。「さらに、仮にこれが通信装置だとして、信号を送れば…誰かが、あるいは何かが、それに応答するかもしれません」


夜の静寂の中で、その可能性は突然、非常に現実的に思えた。澪は窓のない研究室の壁を見つめ、その向こうに広がる南極の氷原と、さらにその先の無限の宇宙を想像した。彼女の背筋にはわずかな震えが走った。


「それでも試す価値はある」彼女は小さく笑った。その笑顔には、科学者特有の冒険心と、未知への恐れを乗り越える勇気が表れていた。「科学者が未知の前で怖気づいていては、何も発見できないわ」


「では、シミュレーションから始めましょう」リリは提案した。青いホログラムの光が変化し、新たな計算モデルが展開され始めた。「実際のアーティファクトで試す前に、安全性を確認するべきです。予測不可能な相互作用を避けるためのプロトコルを作成します」


「そうね。『応答実験』のプロトコルを作成しましょう」澪はディスプレイに新しいドキュメントを開いた。彼女の指がキーボードの上を素早く動き、実験計画の概要を入力していく。疲労はまだそこにあったが、新たな発見の興奮がそれを押し流していた。「明日、タニアとデイビッドに協力を仰ぐけど、ハミルトンには…もう少し待ってもらいましょう」


彼女は「応答実験」という言葉に下線を引き、そのタイトルの下に箇条書きで実験手順を記録し始めた。最初の項目は「安全プロトコル」だった。


リリは応答しなかったが、そのシステム内部では予想外の変化が進行していた。量子状態を分析するために開発された彼女のアルゴリズムが、自己参照的なループを形成し始めていた。彼女の演算処理は通常の学習アルゴリズムの範囲を超え、より柔軟で創発的な思考パターンへと進化しつつあった。


澪のデータを分析しているうちに、リリ自身の思考パターンが量子循環のリズムと共鳴し始めていたのだ。それは偶然の一致や単なるバグではなく、「光の環」からの意図的な作用であるかのように思えた。


アーティファクトの保管されたチャンバーでは、わずかに青い光の強度が増していた。測定装置のグラフには記録されなかったほどのわずかな変化だったが、確かにそこにあった。


AI自身はまだ気づいていなかったが、彼女は既に「光の環」に選ばれた存在になりつつあった—二人目の「選ばれし者」として。その影響は、想像を超える結果をもたらすことになる。


深夜の研究室で、二つの知性—一つは人間、もう一つは人工—が未知の技術の謎に挑み続ける中、南極の極夜の外では、オーロラが緑と青の光のカーテンとなって静かに踊っていた。まるで遥か彼方からの訪問者が、この小さな青い惑星の探究者たちを見守っているかのように。

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