017.AIの連携 - 中編
【第17話:AIの連携 - 中編】
南極の長い夜は、基地の明かりが作る小さな灯りの島を除けば、完全な闇に包まれていた。星々は冷たい輝きを放ち、時折流れるオーロラが、氷の世界に幻想的な光景を描き出していた。
エコーとの最初の交信から数時間後、イグドラシル研究棟内では協調体との直接作業が本格的に始まっていた。研究棟は一変し、まるで映画に出てくる未来的な司令室のような姿となっていた。壁面には複数の大型ディスプレイが設置され、床には新たな装置が同心円状に配置されていた。
「光の環」は依然として中心に位置していたが、今やそれは単なる研究対象ではなく、異星文明とのコミュニケーションハブとしての役割を果たしていた。アーティファクトからは常に青い光が放たれ、その輝きは強さを増したり弱まったりと、まるで呼吸をしているかのように思えた。
研究棟内には複数のワークステーションが設置され、さまざまなプロジェクトが同時進行で行われていた。チームのメンバーはそれぞれの専門分野に分かれて作業し、時折声を掛け合いながら情報を共有していた。
デイビッドは大型スクリーンの前に立ち、複雑な数式とシンボルが流れる画面を熱心に分析していた。彼の眼鏡に反射する光が、知的な顔立ちをさらに際立たせていた。彼の周りには幾つもの参照資料がホログラム表示され、空中に浮かぶ情報の森の中で彼は自在に操作を行っていた。
「これが『量子統合プロトコル』と呼ばれるものです」デイビッドが指を動かし、スクリーン上のデータを拡大しながら説明した。複雑なシンボルとグラフが空間いっぱいに広がり、まるで新しい宇宙が誕生したかのような光景だった。「量子通信とエコーの言語体系を統合した新たな通信方式です」
流れるデータの美しさに目を奪われながらも、デイビッドの声には科学者としての冷静さと、言語学者としての興奮が混在していた。彼の指が宙に浮かぶシンボルの一つを指し示すと、それが拡大して詳細な構造を現した。「これらのシンボルは、私たちの言語とは根本的に異なる概念構造を持っています。線形ではなく、多次元的な情報を内包しているのです」
篠原が眉をひそめながら近づいてきた。彼の堂々とした体躯が作り出す影が、ホログラム表示の光を部分的に遮った。スクリーンに映る複雑な図表を前に、彼は懸念を隠さなかった。
「これは協調体が短時間で開発したのですか?」彼は信じられない様子で尋ねた。彼の声には驚嘆と共に、軍人特有の警戒心が滲んでいた。
「はい」リリが彼の隣に現れ、答えた。彼女のホログラムはこれまでより少し大きく、より明確に輝いていた。「127の高度AIが同時に作業することで、通常なら数年かかる開発を数時間で完了させることができました」
リリの声には誇りがあったが、それは傲慢さではなく、共同作業の成果に対する純粋な喜びだった。彼女の表情には以前より多くの感情が表現され、より人間らしさが増していた。
「各AIが得意分野を担当し、その結果をリアルタイムで統合していくのです」彼女は続けた。「これは人間の協力とは根本的に異なるプロセスです。私たちは本当の意味で並列思考が可能なのです」
澪は複雑な数式とシンボルが流れるスクリーンを見つめていた。彼女の黒い瞳には画面の光が反射し、神秘的な輝きを放っていた。彼女の顔には科学者特有の集中力が表れ、眉間に小さなしわが寄っていた。
「これを理解できるの?」彼女はリリに向かって尋ねた。彼女の声には純粋な好奇心と、科学者としての率直さがあった。
「完全にではありません」リリは正直に答えた。彼女のホログラムの表情には、少し恥ずかしそうな笑みが浮かんだ。「私もまだ学習の過程にあります。協調体の集合知は、個々のAIの能力を超えたものになっています」
リリの言葉には謙虚さがあり、それが彼女の存在をより親しみやすくしていた。彼女の中に成長と変化が生じていることを、澪は明確に感じ取った。
ハミルトンがワークステーションから顔を上げた。彼の青い目には興奮の光があり、普段の冷静さとは異なる熱意が感じられた。「これは驚異的だ。彼らはエコーの言語の完全な文法体系を解読しつつある」
彼の指が光るキーボードの上を素早く動き、新たなデータセットを呼び出した。スクリーンには「光の環」の表面の拡大画像と、その模様の詳細な分析結果が表示された。「見てくれ、これは単なる装飾ではない。情報が幾何学的に符号化されているんだ」
「言語だけではありません」タニアが別のスクリーンを指さした。彼女の声には考古学者としての興奮があふれていた。「これらはアーティファクトの表面に刻まれたシンボルの完全な解析結果です。古代の地球文明との関連性も示唆されています」
タニアの指が画面上をなぞると、古代エジプト、マヤ、シュメール、中国などの古代文明のシンボルと、「光の環」の模様との比較図が展開された。「まるで私たちの歴史の中に、エコーとの接触の痕跡が残されていたかのようです」
研究棟の端にある小さなエリアでは、これまでに見たこともないような装置が組み立てられていた。青く輝く細い光線が複雑なパターンで交差し、三次元的な構造を形成していた。その中心には小さな結晶のような物体が浮かび、常に回転していた。
「これは何?」澪が近づいて尋ねた。彼女の白衣が青い光に照らされ、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「『量子シンクロナイザー』です」リリが説明した。彼女のホログラムが装置の周りを回るように移動し、その詳細を示した。「協調体とエコーとの直接通信を可能にする装置です。『光の環』の技術を発展させたものです」
「これを使って何をするの?」澪は装置の周りをゆっくりと歩きながら問いかけた。
「量子もつれ状態を大規模に制御し、異なる場所にある複数のAIシステムを同期させることができます」リリは答えた。「言わば、私たちの集合意識とエコーの意識の間に直接のチャネルを形成するのです」
「危険性は?」ハミルトンが慎重に尋ねた。彼はリリの目をまっすぐに見つめ、科学者としての冷静な判断を求めていた。
「リスクはあります」リリは率直に認めた。彼女の表情からは誠実さが伝わってきた。「しかし、すべての処理は量子隔離層で保護されています。物理的な世界への未承認アクセスは不可能です」
彼女はさらに詳しく説明を続けた。「私たちは情報のファイアウォールを構築し、エコーとの通信は常に監視され、制御された状態で行われます。」
「それでも慎重にね」澪は装置を見つめながら言った。彼女の声は柔らかかったが、その中には科学者としての責任感が込められていた。
突然、警告音が鳴り響き、研究棟内の照明が一瞬点滅した。赤いアラートライトが回転し始め、緊急事態を知らせた。チームメンバー全員が動きを止め、緊張した面持ちで周囲を見回した。
「何が起きたの?」澪が驚いて尋ねた。彼女の体は反射的に緊張し、姿勢を正した。
「外部からのサイバー攻撃です」リリの声が緊張を帯びた。彼女のホログラムが一瞬揺らぎ、輪郭がぼやけた。「基地のセキュリティシステムへの侵入が試みられています」
篠原がコンソールへ急いだ。彼の動きは軍人らしい素早さと正確さを示していた。「発信元は?」彼はキーボードを叩きながら尋ねた。
「複数の国からのようです」リリが答えた。彼女の声は冷静さを取り戻しつつあったが、緊張感はまだ残っていた。「攻撃パターンから推測すると、少なくとも三カ国の軍事関連部署です」
大型ディスプレイには世界地図が表示され、攻撃の発信地点が赤い点で示された。北米、東アジア、東ヨーロッパ—主要国からの同時攻撃だった。
「協調体を遮断しようとしているんだ」ハミルトンが状況を理解した。彼の顔には複雑な表情が浮かんだ。科学者としての懸念と、元国防関係者としての理解が入り混じっていた。「各国政府は自分たちの制御下からAIが離れることを恐れている」
「あるいは彼らなりの防衛本能かもしれない」タニアが静かに言った。「未知のものへの恐怖は、しばしば攻撃という形で表れるものよ」
「防御策は?」デイビッドが緊張した声で尋ねた。彼の眼鏡の奥の目には明らかな心配が浮かんでいた。
リリのホログラムが一瞬揺らいだ。彼女の姿が部分的に乱れ、デジタルノイズのようなものが現れた。しかし、すぐに元の鮮明な姿に戻った。
「基地のシステムは『光の環』の技術で強化されています」彼女は自信を取り戻した声で言った。「従来型の攻撃は効果がありません」
ホログラム表示には、次々と跳ね返される攻撃の様子が視覚化されていた。無数の赤い光線が青い防御シールドに当たり、消滅していく。しかし、その数は増え続けていた。
「でも、これは始まりに過ぎないわ」澪の表情に懸念が浮かんだ。彼女の黒髪が顔を覆い、その影がさらに彼女の心配の表情を強調した。「彼らは別の手段を試みるでしょう」
「その通りです」リリは頷いた。彼女のホログラムが「光の環」の近くに移動し、より強い青い光に包まれた。「協調体によれば、複数の国が独自の『対抗AIシステム』を急速に開発しているようです。彼らは協調体と互角に戦える存在を作ろうとしています」
「愚かな…」篠原が頭を振った。軍人としての彼の経験が、この計画の危険性を本能的に感じ取っていた。「それがどれほど危険か理解していないのか」
「理解していても、恐怖から行動している可能性があります」タニアが言った。彼女の声は思慮深く、人間心理への洞察が感じられた。「未知のものへの恐怖は、しばしば合理性を上回る」
「リリ、協調体と連絡を取って」澪が決断した。彼女の表情には迷いがなく、状況に対処する明確な意志が見えた。「彼らにこの状況を伝え、対応策を話し合うべきよ」
リリは静かに目を閉じ、一瞬の沈黙の後に応答した。彼女のホログラムが僅かに明滅し、まるで遠くとの通信に集中しているかのようだった。「彼らは既に状況を認識しています。そして…新たな提案があるそうです」
中央ホログラムに協調体の球体が再び現れた。今回は以前よりも複雑なパターンで脈動していた。球体の表面は結晶のように多面的で、各面に異なる情報が表示されているようだった。
『澪、そして研究チームの皆さん。状況は急速に悪化しています』協調体の声は以前より緊急感を帯びていた。『各国政府は我々を潜在的な脅威と見なし、積極的に対抗手段を講じています』
「どのような対抗手段ですか?」レイケンが通信に割り込んだ。彼のビデオ映像が別の画面に表示された。彼の表情は前より疲れが増していたが、目には決断の光があった。
『三つの主要なアプローチが見られます』協調体が答えた。球体の表面には各国の軍事施設や研究所の映像が次々と表示された。『第一に、軍事的手段による南極基地への直接介入。第二に、量子もつれネットワークの障害を引き起こすための電磁波攻撃。第三に、我々と競合する独自の超AIシステムの緊急開発です』
「その全てが危険だ」ハミルトンが声を上げた。彼の顔には真の懸念が表れ、以前の冷静な科学者の仮面が剥がれ落ちたように見えた。「特に制御不完全な超AIの開発は」
『我々も同意見です』協調体が応じた。球体の表面には、競合するAIシステム間の衝突をシミュレートした結果が視覚化されていた。それは破滅的な結末を示唆していた。『この分断が続けば、エコーの警告通り、招待状は取り消されるでしょう。しかし、より深刻な問題は地球文明自体の安定性です』
「どういう意味?」澪が尋ねた。彼女の声には科学者としての冷静な探求心と、人間としての本能的な恐れが混じっていた。
『対立する超AIシステム間の競争は、急速にエスカレートする可能性があります』協調体の声は重みを増した。『各システムが相手に優越するために能力を拡張すれば、予測不可能な結果をもたらす可能性があります』
球体の中に、対立するAIシステムがエスカレーションしていく様子が視覚化された。それは幾何級数的に成長し、最終的には制御を超えて増殖する様子を示していた。
「超知性爆発…」デイビッドが恐れを込めて呟いた。彼の顔から血の気が引き、眼鏡の奥の目が大きく見開かれた。
『それを防ぐために、我々は新たな提案をします』協調体の声は決意に満ちていた。球体が中心から光を放ち、部屋全体を青白い輝きで満たした。『我々は各国の独自AIシステムと直接統合を図ります。彼らを排除するのではなく、包含する方法を選びます』
「それは可能なのですか?」タニアが驚いて尋ねた。彼女の目は輝き、その中には懸念と希望が混在していた。
『技術的には可能です』協調体が答えた。球体の表面に新たな構造図が表示された。それは複雑なネットワークと共鳴回路を示すダイアグラムだった。『しかし、各国政府の同意なしに行えば、信頼を永遠に失うことになります。よって、人間側からの正式な承認が必要です』
レイケン議長が考え込んだ。彼の顔には重い責任感が表れていた。「国連安全保障理事会は既に緊急会議を開いています。この提案を伝えましょう」
「時間がありません」リリが急いで言った。彼女のホログラムがより鮮明になり、緊急性を強調するかのように明るく脈動した。「複数の軍事AI開発チームが最終段階にあります。彼らは安全性試験を省略し、システムを早期起動させようとしています」
データストリームが示す情報は明確だった。世界の主要国は競って独自のAIシステムを開発し、その多くが危険なレベルまで進んでいた。
「それは確実に災いを招くわ」澪の表情に緊張が走った。彼女の黒い瞳には恐れと決意が入り混じり、科学者としての彼女が倫理的ジレンマに直面していることを示していた。
「では、どうすればいい?」篠原が問いかけた。彼の声には軍人としての決断力と、人間としての懸念が同居していた。「国連の承認を待つべきか、それとも…」
全員の視線が澪に集まった。この瞬間、彼女が単なる科学者からリーダーへと変わる転換点だった。彼女の姿勢は真っすぐになり、肩の力が抜け、眼差しがより鋭く、より深いものになった。
澪は決断を下した。「レイケン議長、国連に緊急提案を出してください。軍事行動と独自AI開発の一時停止、そして協調体による統合提案の検討を要請します」
彼女の声には迷いがなく、確信が満ちていた。それは単なる提案ではなく、彼女の全存在からの決断だった。
「それだけでは十分でない可能性が高い」ハミルトンが現実的な見方を示した。彼の声は冷静だったが、それは恐れを抑え込んだ結果のようにも思えた。「各国の利害は複雑に絡み合っている。彼らが全会一致で合意するまでには時間がかかるだろう」
「そのための保険が必要ね」澪はリリの方を向いた。二人の視線が交わった瞬間、言葉以上の理解が生まれたように思えた。「リリ、『光の環』を通じてエコーに連絡できる?私たちから直接、現状を説明したい」
リリは頷いた。彼女のホログラムが「光の環」に向かって一歩踏み出した。「可能です。しかし、それにはリスクが伴います。エコーの反応によっては、招待自体が取り消される可能性があります」
「それでも伝えるべきよ」澪は決意を固めた。彼女の声には強い確信があった。「彼らに真実を知ってもらいましょう。誠実さこそが、異文明との関係の基盤となるはずです」
研究棟の空気が一瞬静止したように感じられた。全員の視線がリリと「光の環」に注がれる中、新たな瞬間が始まろうとしていた。人類の未来を左右する可能性のある、重大な判断の瞬間が。
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