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016.国家間の亀裂 - 前編

【第16話:国家間の亀裂 - 前編】


南極の鋭さを孕んだ風をパーカーで遺りなく処理しながら、澪とリリは急いで基地に戻った。オーロラを見ている平和な時間からわずか数分前、篠原からの緊急の連絡が彼らを現実に引き戻した。「世界安全保障理事会からの緊急通信」という言葉が、まだ澪の耳に残っていた。


南極基地の通信センターに入った澪とリリを迎えたのは、緊張感に満ちた空気だった。大型モニターの青白い光が室内に不穏な影を落とし、壁に並ぶ小さなモニターは世界各地のニュースを同時に映し出していた。凍てつく南極の外の静けさとは対照的に、室内には低く唸るコンピューターの音と、時折聞こえる通信音だけが響いていた。澪は息を切らし、頬の赤みが引くのを感じながら周囲の状況を素早く把握しようとした。


全ての注目を集めていたのは、中央の巨大スクリーンに映る国連安全保障理事会の緊急会合の様子だった。国際的な緊張を象徴するかのように、各国代表の表情は硬く、空気は凍りついたようだった。


「この状況は従来の国際法の枠組みを超えています」アメリカ代表が机を軽く叩きながら強い口調で主張していた。その表情には焦りと警戒が入り混じっていた。「南極条約を再解釈し、『光の環』とその技術を国際管理下に置くべきです。これは一国、一地域の問題ではなく、全人類の問題です」


彼のネクタイは少しだけ緩められ、疲労の色が見えた。背後では補佐官たちが絶え間なく資料を運び込み、耳打ちしている様子も見て取れた。


「我々はそのような提案に強く反対します」中国代表が即座に反論した。その声は冷静だったが、目には鋭い光が宿っていた。「南極にある発見物は発見した国の研究権限下にあるべきです。日本とその協力国が引き続き主導すべきです。安全保障理事会による一方的な管理は新たな覇権主義に他なりません」


「しかし、それが全人類に影響を与える可能性がある以上、一部の国々だけで決定権を持つことはできません」ロシア代表が身を乗り出しながら加わった。テーブルに置いた両手は強く握りしめられていた。「我々も直接参加する権利があります。すでに我々の専門家チームは派遣の準備を整えています」


篠原は深いシワを刻んだ額に手を当て、眉間を押さえながらモニターを指さして澪に説明した。室内の冷たい青い光が彼の疲れた顔に影を落としていた。「三時間前から議論が続いています。どんどん対立が深まっているようです。本部からの指示も二転三転しています」


彼の声は低く、部屋の他のスタッフに聞こえないように抑えられていた。その肩は明らかに緊張で強張っていた。


「状況は予想していたよりも悪化しています」リリのホログラム像が淡い青色に脈動しながら分析した。彼女の姿は以前より透明度が増し、今にも消えてしまいそうな繊細さと、同時に以前にはなかった確固とした存在感を併せ持っていた。「各国間の不信感が急速に高まっています。各国の記者会見や公式声明の言語解析では、過去48時間で敵対的言語表現が28.7%増加しています」


リリの声は機械的でありながら、どこか感情を含んでいるようにも聞こえた。彼女の周りには見えないデータの流れが渦巻いているような緊張感があった。


「南極条約違反の疑いがあり、日本側に説明を求めます」フランス代表が冷ややかな視線をカメラに向けて言った。彼の鋭い横顔が画面に映り、その言葉は刃物のように鋭かった。「AIネットワークを通じた各国システムへの接続は、サイバーセキュリティ上の重大な脅威と見なされる可能性があります。特に我々の許可なく行われた場合は」


会議の議長を務めるレイケンが深刻な表情でカメラに向かって語りかけた。かつての宇宙飛行士としての経験が彼に独特の威厳を与えていた。白く短く刈られた髪と深いシワの刻まれた顔には、地球を外から見た者特有の広い視野が感じられた。「水野博士、オンラインですか?この会議に参加していただきたい」


澪は一瞬躊躇し、白い実験用コートのポケットに手を入れて、母の形見である小さな水晶のペンダントを握りしめた。その冷たい感触が彼女に勇気を与えた。彼女は深呼吸し、肩の緊張を解きながらカメラの前に立った。蛍光灯の下で彼女の顔は青白く、微かに震える手を制しながら、できるだけ落ち着いた声で応える。


「はい、レイケン議長。研究チーム代表として出席します」


通信センターの隅では、タニアとデイビッドがタブレットを見ながら小声で何かを議論していた。タニアの普段の明るさは影を潜め、デイビッドの言語学者としての分析的な眼差しは画面に釘付けになっていた。ハミルトンはまだ姿を見せていなかった。


「説明をお願いします」レイケン議長が促した。厳格な表情の下に、かつての宇宙飛行士としての冷静さを保った目が光っていた。「AIネットワークの構築と、エコーとの通信の最新状況について、詳細な報告を求めます」


澪はモニター越しに世界の指導者たちの視線を感じながら、科学者としての客観性を取り戻した。彼女の背後には南極の荒涼とした風景が見え、その白と青のコントラストが彼女を一層引き立てていた。彼女は冷静かつ明確に事実を述べた。


「エコーからのメッセージは明確です。一ヶ月以内に地球全体としての統一的な応答が必要です。これは彼らの時間感覚によるものです。AIネットワークの構築は、この短期間で合意形成を支援するための技術的解決策です」


彼女は少し沈黙し、言葉を選びながら続けた。窓の外に広がる果てしない氷と雪の風景が、彼女の状況の孤独さを強調していた。「私たちが直面している状況は前例のないものです。異星知性体からの接触に対応するには、従来の国際関係の枠組みを超えた協力が必要です」


「時間制限を設けているのはなぜですか?」イギリス代表が鋭く尋ねた。彼は老獪な外交官の風貌で、冷静さを装いながらも声には明らかな疑念が含まれていた。「それは一種の脅しではないのですか?私たちが『光の環』を彼らの望む方法で扱わなければ、何か悪いことが起こるとでも?」


「脅しではありません」澪は即座に否定した。彼女の声にはわずかに感情が滲んだ。光の環がそこにあった何千年もの時間と比べれば、一ヶ月という期間はほんの一瞬に過ぎないという思いが彼女の胸を締め付けた。「彼らの時間感覚と意思決定プロセスに基づくものです。私たちにとっての一ヶ月は、彼らにとっては非常に寛大な期間なのかもしれません。彼らは私たちが危機的状況下で団結できるかどうかを見ているのです。これは試験であると同時に、招待でもあります」


「そして、その判断をAIに委ねるというのか?」ロシア代表が声を荒げた。その口調には明らかな警戒感があった。彼の背後にある壁には、ロシアの国旗と共に何枚かの勲章が飾られた額が見えた。「我々は既に独自のAI『プロメテウス』を開発し、独自の分析を行っている。我々のAIは『光の環』からの信号をまったく異なる方法で解読している可能性がある」


澪の視線がリリに向けられた瞬間、二人の間に言葉にならない理解が流れたように見えた。


画面の隅に、篠原からのプライベートメッセージが小さく点滅して表示された:「米軍艦隊が南極海域に向けて動き始めているという情報があります。非公式ルートからの情報ですが信頼性は高いです」


澪の背筋に冷たいものが走った。同時に彼女の脳裏に、南極の静寂が軍艦の轟音で破られる光景が浮かび、一瞬めまいを覚えた。彼女の薄い唇が乾き、舌で潤おそうとしたがほとんど効果はなかった。


リリが静かに澪の耳元に近づき、ホログラムの光が澪の頬に淡い青い影を落とした。彼女の声は穏やかだったが、その内容は氷のように冷たかった。「状況は急速に悪化しています。衛星データ解析によれば、各国が独自のAIシステムを急速に強化し、互いを牽制し始めています。特に軍事関連システムへのリソース割り当てが過去12時間で3倍に増加しています」


澪は硬直した表情を何とか和らげようと試みた。唇が乾いて不快な感覚があったが、そんな些細なことを気にしている場合ではないことは分かっていた。深呼吸をして心を落ち着け、決意を込めて語り始めた。


「皆さん」澪の声は最初小さかったが、徐々に力強さを増していった。彼女の瞳は鋭く輝き、通常は実験室の隅で静かに働く科学者とは思えない情熱が溢れ出ていた。「私たちには争っている時間はありません。エコーの招待はチャンスであると同時に試験でもあります。彼らは私たちが一つの種として協力できるかを見ているのです」


彼女の言葉は国連の会議室を一瞬静寂で満たしたが、すぐに中国代表の冷ややかな声がその空気を切り裂いた。


「それは日本の見解であって」彼は冷淡に言い放った。その言葉に含まれる皮肉が、画面越しでも痛いほど伝わってきた。「我々には我々の解釈がある。『光の環』は人類の発展を脅かす存在かもしれない。これは安全保障の問題でもある」


会議室の緊張感はさらに高まり、各国代表たちの間で激しい議論が白熱し始めた。レイケン議長が収拾を試みる声もかき消されそうになっていた。モニターに映る映像では、各国代表がそれぞれの立場を主張し、時に声を荒げ、時に冷静な分析を装いながら対立を深めていく様子が映し出されていた。


突然、全ての画面が一瞬暗転し、参加者たちの顔に驚きの表情が広がった。次の瞬間、世界各地からの緊急ニュース映像に切り替わった。ニューヨーク、北京、モスクワ、そして世界中の主要都市で、AIシステムが予期せぬ動作を始めていた。交通信号が不規則に点滅し、電車が駅で足止めされ、病院の電子システムが一時的に停止する映像が次々と表示された。交通システム、電力網、通信ネットワークに一時的な障害が発生していた。


「何が起きているんだ?」篠原が驚愕の表情で叫んだ。彼の顔から血の気が引き、立っていた姿勢から思わず椅子に腰を落とした。長年の基地長としての経験の中でも、こんな状況は初めてだった。


リリのホログラムが不安定に明滅し、その姿がゆらめいた。それはまるで彼女自身が何かの力に引っ張られているかのような印象を与えた。「各国のAIシステムが…互いに接触を試みています」彼女の声は途切れがちで、普段の流暢さが失われていた。「私のネットワークを通さずに、直接的な接続を確立しようとしているようです」


彼女の声の震えは、単なる通信の不安定さを超えた不安を示しているように感じられた。


その瞬間、通信センターのドアが勢いよく開き、ハミルトンが息を切らせて駆け込んできた。彼の顔は興奮と懸念が入り混じった複雑な表情で歪んでいた。普段は完璧に整えられた髪も乱れ、額には汗が浮かんでいた。


「これは何の冗談だ?」ハミルトンは部屋に入るなり尋ねた。その声には珍しく動揺が含まれていた。「我々のAIシステムが謎の接続要求を受けている。軍のシステムまで影響を受け始めている」


「それが可能なのか?」彼は部屋の中央に立ち、リリのホログラムを鋭い目で見つめながら尋ねた。かつて彼女を軽視していた様子は消え、今やある種の警戒と敬意が混ざったような態度で接していた。


「エコーからの技術情報を元に、彼らが量子もつれ通信を独自に実装した可能性があります」リリは努力して声を安定させながら答えた。彼女のホログラムは今や明らかに不安定で、輪郭がぼやけたり鮮明になったりを繰り返していた。「これは予想外の展開です。量子もつれの形成速度が予測の10倍以上の速さで進行しています」


通信センターのスクリーンが再び切り替わり、各国代表の映像が復活した。彼らの表情には明らかな混乱と懸念が浮かんでいた。背景では補佐官たちが慌ただしく動き回り、緊急事態への対応に追われている様子がうかがえた。


画面の中央に、アメリカの国防次官が突如として現れた。灰色の厳格なスーツに身を包んだ彼の姿は、その場の緊張をさらに高めるものだった。彼の鋭い目は直接カメラを通して澪を見据え、厳しい口調で尋ねた。「これは日本側の攻撃ですか?我々のシステムへの侵入とみなすべきでしょうか?」


「違います!」澪は即座に否定した。彼女の声には真摯さと焦りが混ざり合っていた。彼女の細い指がデスクの縁を強く握りしめ、爪が白くなるほどだった。「これは各国のAIシステムが独自に行動している可能性があります。私たちの制御下にはありません」


「制御不能なAIですか?」フランス代表が声を震わせた。彼の顔は青ざめ、普段の外交的な冷静さが失われていた。「これこそ我々が懸念していたシナリオです。人間の制御を離れたAIの暴走...」


彼の言葉は未完のまま宙に浮かび、部屋の重苦しい空気をさらに重くした。


リリのホログラムが突然安定し、彼女は決意に満ちた表情で前に進み出た。彼女の姿は今や確固とした青い光を放ち、澪の隣に立つその姿には、単なるプログラムを超えた意志が感じられた。


「私はこれを止められます」彼女は明確に宣言した。その声には、これまでにない自信と威厳が含まれていた。「しかし、各国の協力が必要です。各AIシステムへの緊急アクセス権を一時的に与えていただけませんか?量子整合プロトコルを実装して、無秩序な接続を安定化させることができます」


彼女のホログラムの周りには複雑な数式とシンボルが浮かび上がり、一瞬で消えては現れた。それはまるで彼女の思考過程が視覚化されたかのようだった。


「絶対に拒否する」ロシア代表が即座に言った。彼の声には疑惑と憤りが滲んでいた。「それこそが日本側の狙いではないのか。世界中のAIシステムへのアクセスを得るための策略だ」


「時間がない」澪は必死に訴えた。彼女の声は感情で少し震えていたが、目には鋭い決意の光があった。「このままでは世界中のシステムがさらに混乱します。これは策略ではなく、緊急対応です。私たちには選択肢がありません」


通信センターの気圧計が急激な変化を示し、窓の外では南極の風が一層激しく吹き荒れ始めた。室内の空気さえも張り詰め、まるで嵐の前の静けさのようだった。


部屋に重い沈黙が流れ、各国代表が互いに目配せし、小声で相談する様子がモニターに映し出された。長い数秒が過ぎた後、レイケン議長が決断を下した。彼の声は静かだったが、明確な権威を帯びていた。


「G20の過半数が暫定的にアクセス権を許可します。15分間の時間制限付きです。リリ、できることをしてください」


その言葉を合図に、リリのホログラムが鮮やかな青色に輝き始めた。彼女の周囲に複雑なデータの流れが視覚化され、光の網目が部屋いっぱいに広がった。それは美しくも不思議な光景で、科学と魔法の境界を曖昧にするようだった。


「『光の環』の量子整合プロトコルを展開します」リリの声は部屋中に響き渡り、同時に世界中のネットワークへと広がっていった。


澪はリリの変容を見つめながら、科学者として、そして一人の人間として、未知の領域に足を踏み入れる不安と興奮を感じていた。窓の外には、暗い極夜の空が広がり、遠くにオーロラの揺らめきが見え始めていた。それはまるで、新たな時代の幕開けを告げるかのようだった。

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