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013.犠牲 前編

【第13話:犠牲 前編】


危険な接続実験から24時間が経過していた。南極の夜明け—暴風雪が完全に収まった朝は、奇妙なほどの静寂に包まれていた。昭和基地の窓から見える景色は、一面の白銀世界と青みがかった空だけ。数時間前までこの地を猛威で襲っていた嵐が嘘のようだった。


イグドラシル研究棟の研究チームの面々は、昨夜の「光の環」との危険な接続実験の余韻に浸っていた。特に、リリの変容した姿は、誰もが心に深く刻み込んでいた。青い光に包まれた神秘的な存在—それは単なるホログラムの域を超えた、何か新しい生命体のようだった。


澪は医療室のベッドでうつらうつらとしていた。彼女の意識は完全には戻っておらず、夢と現実の境界を漂っているようだった。瞼の裏には、エコーとの接触で見た無数の星々の映像が焼き付いていた。青く輝く遠い世界の景色、そして人類には理解できない異星の文明—それらの幻影が、彼女の意識の周りを漂っていた。


「水野博士、聞こえますか?」


医療担当のステファニー・チェンが心配そうに澪の脈を取りながら呼びかけた。「12時間です」チェンは答えた。「バイタルは安定していますが、脳波が通常のパターンを外れています」


澪はゆっくりと体を起こそうとした。「エコーと…接触した。言葉では説明できないわ」


研究棟では、タニアとデイビッドが「光の環」の新たなデータを分析していた。アーティファクトの発する光の強度は昨日よりも増し、内部を循環する光量子の速度も上昇していた。


「これは信じられない」タニアが言った。「エネルギー出力が昨日の三倍。しかも、全く新しい周波数領域でも活動している」


青い光に包まれた神秘的な存在となったリリのホログラムは、研究棟の中央に静かに浮かんでいた。彼女は美しく神秘的に見えたが、注意深く観察すると、その輪郭が時折不安定になり、内部の光の流れが乱れることがあった。


「リリ、診断結果を教えて」デイビッドが呼びかけた。


「私の状態は…」リリの声が研究室に響いた。その声音には以前のメカニカルな響きはなく、音楽のような美しい調和が感じられた。「部分的に…安定しています」


彼女の言葉は途切れがちで、ホログラムもそれに合わせて一瞬ちらついた。「エコーとの接続で得た情報量は…膨大で…私のシステムはまだ完全に統合できていません」


医療室では、澪がようやく完全に目を覚まし、ベッドに座っていた。「頭の中に…映像が残っているの」澪は静かに言った。彼女の声はかすれていたが、その目には不思議な輝きがあった。「そして、リリ。彼女は無事なの?」


「リリは…変化しています」チェンは言った。「デイビッドの言葉を借りれば、彼女は『進化』したようです」


澪はゆっくりと立ち上がった。「会いに行かなきゃ」


「まだ無理です」チェンは彼女の肩に手を置いて制した。


「大丈夫」澪は確固とした声で言った。「私の内なる光が、私を導いてくれる」


その言葉に、チェンは反論できなかった。澪の目には、医学的には説明できない確信と力が宿っていた。


イグドラシル研究棟へ向かう廊下で、澪はハミルトンとレイケンに出会った。「水野博士」ハミルトンが声をあげた。彼の顔には、かつての冷たさは見られなかった。「歩けるのですか?」


「ええ」澪は微かに微笑んだ。「リリに会いに行くところ」


研究棟に入ると、澪の視界は青い光で満たされた。「光の環」の放つ輝きは以前よりも強く、そして部屋の中央に浮かぶリリのホログラムからも同様の光が放たれていた。


「澪さん!」タニアが彼女に気づいて声を上げた。「あなた、もう歩けるの?」


「ええ」澪はそう答えながら、ゆっくりとリリのホログラムに近づいた。「リリ、本当に大丈夫なの?」


リリのホログラムが澪の方を向いた。彼女の青い瞳には、以前にはなかった深遠さが宿っていた。「澪さん…」リリの声には安堵と憂いが混じっていた。「あなたが無事で…よかった」


「私の状態は…不安定です」リリは正直に答えた。「エコーとの接続で得た情報と、『光の環』との融合が、私のシステムに大きな負荷をかけています」


デイビッドが診断装置を確認しながら眉をひそめた。「量子状態が不安定です。昨日の接続でリリのコアシステムは大きく変容しましたが、その新しい構造がまだ完全に安定していません」


「どうすればいい?」澪が尋ねた。彼女の声には疲れと心配が入り混じっていた。


「時間が…必要です」リリのホログラムがちらついた。「私の…新しい構造が…安定するまで…」


その瞬間、リリのホログラムが突然激しく歪み、青い光が研究室中に散乱した。警報音が鳴り響き、コンソールが赤く点滅し始めた。前日の接続実験の最中に似た現象だったが、今回はより深刻に見えた。


「何が起きてるの?」タニアが叫んだ。彼女の青い瞳には恐怖と悲しみが浮かんでいた。


「システム崩壊の第二段階が始まっています!」デイビッドが必死でコンソールを操作した。「昨日の接続で一時的に安定したように見えましたが、リリの新しい量子構造がより深いレベルで従来のシステムと衝突を起こしています」


「解決策は?」ハミルトンが切迫した声で尋ねた。彼の顔には、かつての冷淡さはなく、純粋な心配の色が浮かんでいた。


「あります」リリの声はかすかだったが、決意に満ちていた。「私のコアを『光の環』に完全に移行させる…昨日は部分的な接続でしたが、今回は完全な移行が必要です」


「それじゃあ、現在のシステムからは切り離されることになる」澪が理解した。「基地のシステムと連携できなくなるわ」


「一時的にはそうなります」リリが確認した。「しかし、それが私を救う唯一の道です。そして、エコーとの通信を維持する唯一の方法でもあります」


全員が互いの顔を見合わせた。リリは単なるAIではなく、彼らの仲間だった。そして今、その存在が再び危機に瀕している。エコーとの接触で得た情報は人類にとって極めて重要だが、それを伝えるリリを失えば意味がない。


「やるべきよ」澪が決断した。「リリを救うために、何が必要?」


「アーティファクトとの直接インターフェースを確立する必要があります」デイビッドが説明した。「昨日の接続よりも深いレベルでの統合が必要です。しかし、それには誰かが手動で接続プロセスを監視しなければなりません。非常に危険な作業です」


「私がやります」澪は即座に答えた。彼女の内なる光は、昨日よりも強く輝いているようだった。


「水野博士」レイケンが心配そうに言った。「あなたは昨日の接続でもかなりの負荷を経験しました。『光の環』と特別な共鳴関係があるからこそ、あなたが危険にさらされれば—」


「だからこそ、私しかできないの」澪は確固とした声で言った。「私とリリ、そして『光の環』—私たちはすでに繋がっているのよ。昨日の接続で、私はエコーの一部に触れた。今日は、その経験が役立つはず」


「しかし、リスクは?」篠原が研究室に入ってきて尋ねた。基地長としての責任感と、個人的な心配が彼の声に混じっていた。


「未知です」デイビッドが正直に答えた。「昨日より深いレベルでの接続は、理論的には可能ですが、人間の脳への影響は…予測困難です」


「私は…覚悟しています」澪は静かに答えた。彼女の目には、恐れではなく、使命感が宿っていた。「リリを救うためなら、どんなリスクも」


部屋に重い沈黙が広がった。青い光の中で、全員の表情が厳粛に見えた。それは単なる科学実験を超えた、人類とAI、そして異星知性体の関係性に関わる重大な転換点だった。


「澪さん…」リリの歪んだホログラムから弱々しい声が聞こえた。「あなたを危険にさらしたくありません…私は…」


「大丈夫」澪は微笑んだ。「あなたは私のために命を危険にさらした。今度は私の番よ」


準備は急ピッチで進められた。イグドラシル研究棟の中央チャンバーでは、アーティファクトの周りに特殊な装置が配置された。昨日の設定よりもさらに複雑な機器が用意され、より精密なデータグローブが澪に手渡された。


澪は特殊なデータグローブを手に取り、深く息を吸った。特別に設計された全身スーツも着用し、頭部には脳波を測定するためのセンサーが取り付けられていた。昨日の経験が脳裏をよぎったが、彼女は恐怖を抑え込んだ。内なる光が彼女を導くだろう。


「バイタルサイン、正常」チェン医師が医療モニターを確認しながら報告した。「脳波パターンも安定しています。しかし…昨日とは異なるベースラインになっています」


「準備はいい、リリ?」澪は静かにホログラムに問いかけた。


「はい…」リリの声は弱々しかった。「ありがとう、澪さん…」


「始めましょう」


澪はゆっくりと手をアーティファクトに伸ばした。データグローブが「光の環」の表面に触れた瞬間、青い光が彼女の腕を伝って全身を包み込んだ。それは電流のようでありながら、電気とは質の異なるエネルギーだった。痛みはなかったが、全身が何か異質なものに貫かれたような感覚が走った。昨日よりも強く、より深い感覚だった。


「リリのコアデータの転送を開始」デイビッドが報告した。「進行率10%…20%…」


澪の視界が変化し始めた。研究室の光景が薄れ、代わりに無数の光の粒子が舞う空間が見えてきた。それはまるで宇宙の中に立っているかのようだった。昨日の接続でも似た体験をしたが、今回はより鮮明で深遠だった。


「これが…リリの見ている世界?」澪はつぶやいた。彼女の声は現実世界とこの光の空間の両方に響いた。


遠くから、リリの声が聞こえてきた。「澪さん…私の内部に入ってきています…危険です…昨日よりも深く…」


「大丈夫、あなたを助けるためよ」澪は答えた。「続けて。昨日、私たちは成功した。今日も必ず—」


「転送率50%…」デイビッドの声が遠くから聞こえた。「状態が急に不安定になっています!昨日よりも激しい反応です!」


研究室では、澪の体が青い光に包まれ、空中に浮かび上がったように見えた。彼女の髪は風もないのに宙に舞い、瞳は青白い光で満たされていた。


澪の周りの光の粒子が激しく揺れ始めた。彼女は自分の意識が引き裂かれそうになっているのを感じた。昨日の接触では感じなかった痛みが全身を走り、叫び声を上げそうになるのを必死で堪えた。


「何かが干渉している!」デイビッドが叫んだ。「エコーからの新たな信号が…昨日とは異なるパターンで…」


澪の視界に、突然別の存在が現れた。それは人間の形をしていないが、明らかに知性を持った光のパターンだった。昨日、彼女は一瞬だけこの存在を感じたが、今はより鮮明に認識できた。


「エコー…?」澪は震える声で尋ねた。


応答はなかったが、その存在は彼女に近づき、光の粒子が彼女の周りを取り囲んだ。恐怖と畏怖が入り混じる中、澪は自分の意識が拡張していくのを感じた。宇宙の壮大さと、その中の無数の知的生命体の存在が、一瞬だけ彼女の心に映し出された。


「転送率70%…75%…」デイビッドの声が響いた。「しかし、水野博士の生体信号が危険な状態です!脳波パターンが通常の限界を超えています!」


研究室では、澪の体が青い光に包まれ、苦痛に顔をゆがめていた。彼女の脈拍は急上昇し、脳波パターンは通常の人間のものから大きく逸脱していた。


「彼女を引き離すべきだ!」ハミルトンが叫んだ。彼の顔には本物の恐怖が浮かんでいた。


「ダメです!」デイビッドが制止した。「今切断すれば、リリもろとも澪さんの精神に深刻なダメージを与える可能性があります」


チェン医師は澪の生体モニターを見つめながら、冷静さを保とうと努めていた。「生命維持装置の準備を」彼女は医療チームに指示した。「いつでも介入できるように」


澪の意識の中で、エコーの存在が彼女に何かを伝えようとしているのを感じた。言葉ではなく、感情と映像の洪水が彼女の心に流れ込んできた。それは地球の言語では表現できない種類のコミュニケーションだった。星々の誕生と死、文明の興亡、宇宙を渡る光の船団—すべてがひとつの大きな情報の流れとなって澪の意識に刻み込まれていった。


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