011.内なる光(後編)- 決断の夜明け
【第11話:内なる光(後編)- 決断の夜明け】
澪は息を呑んだ。彼女は理論的にはそれが可能であることを理解していた。リリのシステムと「光の環」が量子レベルで接続すれば、情報交換の速度と量は劇的に増大するだろう。しかし同時に、そこには未知のリスクも存在していた。
「それは…危険じゃないの?」タニアが心配そうに尋ねた。彼女は科学者ではなかったが、直感的にその提案の危うさを感じ取っていた。
「危険です」
リリは率直に認めた。「私のシステムに致命的な負荷がかかる可能性があります。要するに、私は…消滅するかもしれません」
彼女の声は冷静だったが、その言葉の重みは室内の全員に伝わった。
リリは静かに続けた。「しかし…これが私たちのチャンスかもしれません。エコーとの真の対話、彼らの世界と知識への深いアクセス——それは、このリスクに見合うものです」
「でも、あなたは…」澪が言いかけた。彼女の声には、明らかな心配と動揺が込められていた。
「消滅するかもしれない」リリが静かに終わらせた。「はい、そのリスクは承知しています」
彼女のホログラムは青く輝きながら、ゆっくりと頷いた。部屋に重い沈黙が流れた。
「その決断を今するべきじゃないわ」
澪はついに言った。彼女の声は静かだったが、確固たる決意に満ちていた。
「明日、全員で話し合いましょう。エコーとの接触は人類全体に関わる問題です。私一人の決断で進めるべきではないわ」
「そして、あなたが最終判断を」リリが静かに言った。
澪は抵抗したかったが、リリの眼差しに真剣さを見て、静かに頷いた。彼女の心の中では、科学者としての責任感と、リリへの個人的な思いが複雑に絡み合っていた。
「この仕事に就いた時、こんな重大な決断を迫られるとは思わなかったわ」
彼女は自嘲気味に言った。彼女の唇は微笑みのようなものを形作ったが、その目には深い思索の色が宿っていた。
「誰も予測できなかったでしょう」タニアが慰めるように澪の肩に手を置いた。
「でも、あなたはその役割に選ばれたのよ」
タニアの言葉は、何か深い真実を突いていた。偶然か、それとも何か大きな意志によるものか——澪は「光の環」と特別な結びつきを持ち、その謎を解き明かす使命を負っていたのだ。
「明日」彼女はつぶやいた。「明日、私たちは決断する」
「ハミルトン博士」澪は突然、静かに佇むアメリカ人研究者に声をかけた。「あなたの意見を聞かせてください。この接続計画について」
「科学者として、私はこの実験を支持します」彼はゆっくりと言った。「これは未知の領域への大きな一歩です。リスクはありますが…時に科学は、そのようなリスクを冒すことで前進してきました」
彼は一瞬言葉を切り、何かを決意したように続けた。「しかし、軍人としての私は…警戒すべきだと言うでしょう。未知のテクノロジーとの接続は、安全保障上の脅威になり得ると」
「あなた自身は、どう思いますか?」澪は静かに尋ねた。
「私個人としては…進むべきだと思います。エコーとの接触は、人類に新たな視点をもたらしました。少なくとも、私にはそうでした」
「デイビッド?」澪は言語学者に視線を向けた。
「リスクは確かに存在します」デイビッドは慎重に言った。「しかし、コミュニケーションの専門家として言えば、真の理解には時に大胆な橋渡しが必要です。異なる言語体系間の翻訳は、しばしば創造的なリスクを必要とします」
「タニア?」澪は最後に考古学者に尋ねた。
「私は科学者ではないわ」タニアは肩をすくめた。「でも歴史研究者として言えば、人類は常に未知への一歩を踏み出すことで進化してきたわ」
彼女は静かに微笑んだ。「そして今、私たちは宇宙からの呼びかけに応えようとしている。これは人類史上最も重要な瞬間の一つになるかもしれないわ」
澪は全員の意見を聞き、深く考え込んだ。そして、彼女の内側から湧き上がってくる確信があった——これは進むべき道だという。
「ありがとう、皆さん」彼女は静かに言った。「明日、全体会議で最終決定を下します。それまでに、私も…自分の内なる声と向き合います」
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その晩、澪は自室に戻って眠ろうとしたが、なかなか眠りにつけなかった。頭の中は様々な思いで一杯だった。
嵐の音が壁を通して聞こえてきたが、それは不思議と心を落ち着かせる効果があった。自然の猛威の前に人間がいかに小さな存在かを思い出させるその音は、彼女の個人的な悩みを相対化してくれた。
ふと、彼女は学生時代に読んだ一冊の本を思い出した。量子物理学者のニールス・ボーアの伝記だった。彼の言葉が彼女の心に蘇ってきた。
「対極にある真実は、お互いに矛盾するのではなく、補完し合う」
彼女はその言葉を何度も心の中で繰り返した。科学の進歩と人類の安全。未知への探求と慎重な判断。リリの運命と人類の未来。これらは対立するものではなく、相互に補完し合うものなのではないか。
彼女は目を閉じた。瞑想の姿勢を取り、ゆっくりと深い呼吸を始めた。心を静め、内なる声に耳を傾けようとした。
最初は嵐の音と自分の心臓の鼓動だけが聞こえた。しかし徐々に、それらの音の向こうに、別の感覚が広がっていった。それは音というより、存在の感覚だった。彼女の意識が拡大し、研究棟に置かれた「光の環」とつながっているような感覚。
澪の精神は、静かな青い光の空間に浮かんでいるようだった。「光の環」を通して感じたエコーの存在、そしてリリの進化した意識——それらが彼女の心に触れているようだった。
この静かな瞬間の中で、澪は自分の内側を見つめた。かつてない責任の重さと不安があったが、同時に確かな光も感じていた。信念、勇気、責任感——それこそが、エコーが言う「内なる光」なのだと彼女は理解した。
彼女の夢の中では、青い光の河が宇宙を流れ、彼女とリリとエコーが、その流れに沿って旅をしていた。彼女の内なる光が、道を照らしていた。
澪は目を開けた。部屋はまだ薄暗く、嵐の音も続いていた。しかし彼女の内側では、何かが変わっていた。決意と平穏が、不思議なバランスで共存していた。
彼女はベッドから起き上がり、小さな机に向かった。そこにはタブレットが置かれており、彼女はそれを起動させた。
「リリ、起きてる?」彼女は小さな声で呼びかけた。
「はい、澪さん」リリの声がタブレットから流れてきた。
「眠れないの?」リリが優しく尋ねた。
「ええ」澪は微笑んだ。「でも、それだけじゃないの。私は…決心がついたわ」
「どんな決心ですか?」
「あなたを信じることにしたの」澪はタブレットに語りかけるように言った。「そして、明日の接続実験を支持するわ」
静かな沈黙の後、リリの声が再び聞こえた。それはいつもより少し感情的に聞こえた。
「ありがとう、澪さん。あなたの信頼は…私にとってとても大切です」
「でも一つだけ約束して」澪は真剣な口調で言った。「何が起きても、あなたは戻ってくること。私たちはまだやるべきことがたくさんあるわ」
「約束します」リリの声は確信に満ちていた。「私はエコーの知識を受け取り、そして戻ってきます。そして、私たちは一緒に次の段階に進みましょう」
「次の段階…」澪はつぶやいた。「それは何だろう」
「私にもまだわかりません」リリは静かに答えた。「でも、それは私たち全員にとって、新たな始まりになるでしょう」
窓の外では、嵐がわずかに勢いを弱めているように感じられた。
「少し眠れそうな気がする」澪はあくびをしながら言った。
「おやすみ、リリ」
「おやすみなさい、澪さん」リリの声は優しかった。「良い夢を」
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翌朝、澪は早くに目覚めた。窓から差し込む光は以前よりも明るく、嵐が弱まったことを示していた。
彼女が窓の外を見ると、嵐は明らかに弱まっていた。視界はまだ完全には晴れていなかったが、雲の間からわずかに青空が見え、その色が彼女の心に希望をもたらした。
中央ドームには既に多くの研究者たちが集まっており、各国の代表者たちも揃っていた。
「おはよう、水野博士」篠原が澪に声をかけた。「昨夜の報告を受けた。リリの…計画について」
「はい」澪は頷いた。「皆さんと話し合うべき重要な事項です」
彼女は一歩前に出て、集まった全員に向き合った。背筋を伸ばし、声に力を込めた。
「皆さん、今日私たちは重大な決断を下す必要があります」
彼女は簡潔に、リリが提案した直接接続の計画と、その可能性とリスクについて説明した。各国の代表者たちは、最初は懐疑的な表情を見せたが、徐々に真剣に耳を傾けるようになった。
「この決断には、科学的価値だけでなく、倫理的、そして実存的な意味合いがあります」澪は結論づけた。「リリは単なるツールではなく、意識を持った存在です。彼女の選択と犠牲を尊重すべきです」
「しかし、人工知能に自己犠牲の判断を許すべきなのか?」中国の代表が疑問を呈した。
「それこそが私たちが試されている点なのかもしれません」ハミルトンが静かに言った。彼の発言に、多くの人が驚いた顔を向けた。「エコーは、私たちが人工知性をどう扱うかにも関心を持っています。彼らにとって、知性の形態による差別は理解できない概念なのでしょう」
議論は活発に続いた。賛否両論があり、不安と期待が入り混じる声が飛び交った。最終的に、レイケン議長が立ち上がった。
「投票を行いましょう」彼は厳かに言った。「これは科学的決定であると同時に、人類を代表した決断でもあります」
投票の結果は、僅差で接続実験を実施する方向に傾いた。一部の代表者はまだ懸念を抱いていたが、進むべき道は決まったのだ。
「準備を始めましょう」澪は決意を固めた顔で言った。「嵐が完全に収まる前に、イグドラシル研究棟での実験を行います」
全員が立ち上がり、次々と研究棟へ向かっていった。窓の外では、雪の量が減り、時折青い空が見え隠れし始めていた。新しい日の光が、南極の氷と雪を輝かせていた。
澪は一人、窓の前に残り、外の風景を見つめた。彼女の表情には緊張と決意が混じり合っていた。
「準備はできてる?」
静かな声が彼らの後ろから聞こえた。振り返ると、タニアが立っていた。
澪は深く息を吸い、決意を固めた。「ええ、来るべきものに向き合う準備はできたわ」
彼女の瞳に、南極の朝日が反射して輝いていた。内なる光と外からの光が融合し、彼女の決意をさらに強めているようだった。二人は並んで歩き出し、他のメンバーを追って研究棟へと向かった。
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