001.選ばれし者
【第1話:選ばれし者】
澪は「光の環」を見つめ、深く息を吸い込んだ。研究棟イグドラシルの特殊チャンバーに設置されたアーティファクトは、青い光を放ちながら静かに浮遊していた。発見から一週間、彼女は毎日十二時間以上をこの部屋で過ごしていた。
チャンバー内の空気は妙に澄んでいて、肌に触れると微かに震えるような感覚があった。窓のない部屋を満たす唯一の光源は、中央に浮かぶリング状のアーティファクトから放たれる淡い青の輝き。その光に照らされた金属壁面には、無数の測定装置が影を落としていた。部屋の温度は厳密に20度に保たれているはずなのに、「光の環」の近くでは不思議と温かさを感じる。
澪は実験用の白衣のポケットから小さな折り紙の鶴を取り出し、机の上に置いた。母から教わった儀式—何か重要なことを始める前に折る幸運の鶴。彼女はそれに一瞥をくれ、気持ちを落ち着かせた。
「何か変化はある?」澪はタブレットに向かって尋ねた。声は静かだったが、無機質な部屋の中で鮮明に響いた。
「基本的なパラメータに変動はありません」リリの声がスピーカーから流れる。女性的だが微妙に人工的な音色は、この孤独な研究の日々で澪にとって心地よい存在になっていた。「しかし、興味深い相関関係を発見しました。あなたが部屋に入るたびに、光の強度が3.7%上昇するのです」
澪は眉をひそめた。彼女の細い指がタブレットの画面上を素早く動き、データグラフを拡大表示させる。「それは測定誤差じゃないの?」
「95.3%の確率で有意な相関です」リリは即座に答えた。「さらに言えば、あなたが直接観察している時と、モニターを通して観察している時では、光のパターンに微細な違いがあります」
「本当に?」澪は興味を持ち、無意識のうちにアーティファクトに近づいた。床の上に引かれた黄色の安全ラインを越え、禁止区域に一歩踏み込む。彼女の心臓が早く鼓動し始め、耳の奥で血液の流れる音が聞こえるようだった。
その瞬間、「光の環」の輝きが増し、内部を循環する光量子の速度が上がった。まるで生命体のように脈打つように見える。測定機器のアラームが鳴り、データが急激に変化した。ディスプレイ上のグラフが跳ね上がり、赤色の警告表示が点滅する。
「澪さん!」リリの声が高くなる。その声には、プログラムされたものを超えた驚きが含まれていた。「あなたの脳波パターンとアーティファクトの発光周期が同期しています!」
チャンバーの隔壁ドアが勢いよく開き、タニア・コワルスキーが駆け込んできた。ポーランド出身の考古学者は、長い金髪をポニーテールにまとめ、興奮した表情で澪を見た。彼女の緑色の目は、青い光に照らされて不思議な色合いを帯びていた。
「何が起きているの?アラームが...」彼女の言葉は途中で途切れた。目の前の光景に言葉を失ったのだ。
アーティファクトから放たれる光が部屋全体を青く照らし、まるで水中にいるかのような幻想的な空間を作り出していた。その中心で澪が立っていた。彼女の黒い髪は風もないのに静かにたなびき、瞳も同じ青い光を反射して輝いていた。澪の周りには、目には見えない何かのフィールドがあるように空気が歪んでいる。
「計測不能なエネルギー値」リリが報告する。彼女の声は機械的なトーンに戻っていた。「しかし、澪さんの生体反応は正常範囲内です。心拍数やわずかに上昇、血圧も正常、脳波はシータ波が優勢です」
「私、大丈夫」澪はゆっくりと言った。言葉は彼女の喉から発せられているが、どこか遠くから聞こえてくるように感じた。彼女の頭の中では、数式と幾何学的図形が三次元的に次々と浮かび上がっていた。フラクタル構造の連なり、量子力学の方程式群、そして彼女が見たこともない文字のような記号。初めて見るはずなのに、どこか懐かしい感覚。まるで忘れていたものを思い出すような。「これは...通信プロトコルの一部。私にはわかる」
タニアは慎重に近づき、澪の肩に手を置いた。彼女の手の温もりが、不思議な体験の中にある澪を現実に引き戻すような感覚があった。「あなたが何を見ているのか、教えて」
「光の道...量子のネットワーク...」澪の言葉は断片的だった。彼女の声は囁くように小さく、ほとんど自分自身に話しかけているようだった。「宇宙を結ぶ糸、光で織られた網...これは鍵。そして私は...」
突然、光が弱まり、アーティファクトは通常の穏やかな輝きに戻った。空気の歪みも消え、部屋の中の緊張感が溶けていった。澪はよろめき、タニアに支えられた。彼女の顔は蒼白で、わずかに汗が光っていた。
「大丈夫?」タニアが心配そうに尋ねる。彼女の手は澪の腕をしっかりと掴み、崩れ落ちないように支えている。
「ええ」澪は頭を振った。まるで夢から覚めたような、霧の中から出てきたような感覚。「何が起きたの?」
「あなたが選ばれたのよ」タニアは静かに言った。彼女の声には畏敬の念が混じっていた。「古代の文明では、神聖な器を扱えるのは選ばれた者だけだったわ。この模様」彼女はアーティファクトの表面を指さした。リングの外周に刻まれた繊細な幾何学模様は、光の加減で浮き出たり沈んだりしているように見えた。「これは様々な古代文明に共通するシンボルに似ている。守護者を表す印。古代エジプト、マヤ、そして極東の文化にも...」
「科学的な説明が必要ね」澪は冷静を装おうとしたが、心臓は早鐘を打っていた。彼女の科学者としての理性が、今起きた出来事の合理的説明を求めていた。しかし同時に、彼女の内なる直感は、これが単なる物理現象を超えた何かであること、そして自分自身とアーティファクトの間に特別な繋がりが生まれていることを告げていた。
「説明します」リリの声が響く。部屋全体に設置されたスピーカーから発せられる声は、澪の心を落ち着かせるように穏やかなトーンに調整されていた。「あなたの脳波パターンがアーティファクトと共鳴したのです。特定の周波数で。これは偶然である確率は...」
「ゼロに近い」澪が言葉を継いだ。彼女はタブレットを手に取り、記録されたデータを見た。鮮やかな色のグラフと数値が画面を埋め尽くしている。「リリ、この現象を再現できる?」
「試みることはできますが、安全性は保証できません」リリの声には慎重さが滲んでいた。「あなたの脳への長期的影響は未知数です」
「安全より真実が大事よ」澪は決意を込めて言った。彼女の黒い瞳には、わずかに青い光が残っていた。「準備して」
タニアは心配そうな表情を浮かべた。彼女の額には細かいしわが寄っていた。「慎重にね。これが本当に異星のテクノロジーなら、私たちの理解を超えているかもしれない。古代の力を扱った神話には、常に警告が込められているわ」
澪は微笑んだ。それは優しいながらも、内なる強さを感じさせる表情だった。「だからこそ、解明する必要があるの」彼女は一瞬、ポケットから取り出した折り紙の鶴に視線を落とした。「恐れずに知識を求めることが、私たちの責任だから」
彼女は再びアーティファクトに向き合った。今度は意識的に、自分の思考を集中させる。呼吸を整え、心を鎮め、意識を「光の環」へと向ける。光の環が再び輝きを増し始め、部屋の空気が微かに震え始めた時、澪は確信した—これは始まりに過ぎないと。
そして彼女は、光の中へと再び歩み入った。
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