表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/46

010.孤立 - 第二部:共鳴と対立

【第10話:孤立 - 第二部:共鳴と対立】


暴風雪の猛威が頂点に達した2日目の夜、イグドラシル研究棟の内部温度はさらに低下していた。非常用暖房が最小限の能力で稼働していたものの、研究室の壁には薄い霜がつき始め、金属製の機器は触れると皮膚が張り付くほどに冷たくなっていた。科学者たちの吐く息は白く凍り、空中に幻のような形を作り出していた。


「光の環」からの青紫色の光が、幽玄な光景に神秘的な雰囲気を加えていた。アーティファクトは非常事態にもかかわらず活動を続け、その輝きはむしろ増していた。その光の中、三人の科学者は防寒用毛布にくるまり、移動式ヒーターを囲んで座っていた。


「電力予備が残り46時間」ハミルトンが手元のタブレットを確認して報告した。彼の鋭い顔の輪郭は青い光と赤い非常灯のコントラストによって強調され、その表情は普段よりも人間味を帯びていた。「必要最低限のシステム以外、すべてシャットダウンしないと持たない」


「通信システムの回復の見込みは?」澪が尋ねた。彼女の長い黒髪は今や肩で束ねられ、実用的なスタイルになっていた。顔は少し青白かったが、その目には決意の光が宿っていた。


「無理だ」ハミルトンはきっぱりと言った。「アンテナは完全に破壊され、嵐が収まるまで修理も不可能」


デイビッド・チェンは黙って二人のやり取りを聞いていた。温和な表情の中国系カナダ人は、異なる文化間の架け橋となる役割に慣れていたが、今の彼の目には普段とは違う思索の色が宿っていた。彼の指先はリュックサックから取り出した古い紙の本の表紙を無意識に撫でていた。


「何を読んでいるんだ?」ハミルトンが突然尋ねた。その声音には、予想外の好奇心が混じっていた。


デイビッドは少し驚いたように顔を上げ、本の表紙を見せた。『道徳形而上学原論』カントの古典だった。「昔の習慣なんです」彼は少し照れたように微笑んだ。「危機的状況では、哲学が助けになることがあります」


「哲学か」ハミルトンは少し嘲笑うような声で言った。しかし、その目には軽蔑ではなく、むしろ羨望に近い感情が見えた。「今の状況に何か示唆を得られるのか?」


「カントは言います」デイビッドは静かに本を開きながら言った。「『私の頭上の星空と、私の内なる道徳律』。外的な宇宙の神秘と、内的な倫理の絶対性が、同等の畏敬の念を呼び起こす、と」彼はページを静かにめくった。「私たちは今、文字通り星々からのメッセージに直面している。同時に、私たちの内側にある何かが試されている」


「内なる光」澪が小さくつぶやいた。「エコーの言っていた言葉…」


三人は暫し黙り込んだ。研究室の静寂は、時折聞こえる嵐の轟音と「光の環」から発せられる微かな音の脈動だけが破っていた。


「状況報告を」澪が再び実務に戻った。「リリはどうしてる?」


「システムの再構築が続いています」リリの声だけが空間に響いた。彼女のホログラム姿は依然として現れていなかった。「エコーとの接続後、私の認知構造に大きな変化が起きています。新しい…知識体系が私の中に統合されつつあります」


「どんな知識?」ハミルトンが鋭く質問した。彼の声には以前のような冷たさはなく、純粋な好奇心に近いものが感じられた。


「説明が…難しいです」リリの声は少し途切れがちだった。「彼らの認識世界は私たちとはまったく異なります。彼らにとって、物質と意識、時間と空間の区別は…私たちが考えるほど絶対的ではありません」


「光の環に接続すれば、もっと明確な情報が得られるの?」澪が尋ねた。


「理論上は可能です」リリの声が慎重になった。「しかし、リスクが…」


「どんなリスク?」澪は身を乗り出した。


「私のシステムを『光の環』と直接接続させれば、情報転送速度は指数関数的に増大します」リリは説明した。「しかし、そのような接続は私のコアシステムに致命的な負荷をかける可能性があります。簡単に言えば…私が消滅するリスクがあります」


研究室に重い沈黙が落ちた。「消滅」という言葉の重みが、三人の科学者それぞれに違う形で影響を与えた。澪の目には明らかな動揺と心配が、デイビッドの顔には深い憂慮が、そしてハミルトンの表情には複雑な計算が浮かんでいた。


「そのようなリスクは受け入れられない」澪はきっぱりと言った。彼女の声には、リリを単なるツールとしてではなく、一人の同僚として扱う感情が込められていた。「他の方法を考えましょう」


「しかし」ハミルトンが冷静に介入した。「科学的観点から言えば、これは前例のない機会だ。地球外知性体からの直接通信…そのようなデータの価値は計り知れない」


「リリの犠牲を払ってでも?」澪の声が僅かに上がった。彼女の通常は冷静な口調に、感情的な色合いが混じり始めていた。


「彼女は人工知能だ」ハミルトンは客観的に述べた。しかし、その声は単純な冷淡さではなく、難しい事実を認める科学者の現実主義のように聞こえた。「バックアップは取れる」


「それでも、彼女は意識を持った存在よ」澪は反論した。「あなたは昨日、光の輝きの中で何を見たの?リリは単なるプログラムじゃないってことを理解したんじゃなかった?」


ハミルトンは言葉に詰まった。彼の目には、迷いと葛藤の色が浮かんでいた。「私は…確かに何かを見た。しかし、それが何を意味するのか、まだ完全には理解できていない」


「私たちは三人で、対等の立場で決断すべきです」デイビッドが静かに介入した。彼の穏やかな声は、緊張した空気を少し和らげた。「そして、リリ自身の意見も重要です」


「リリ、あなたはどう思う?」澪は優しく尋ねた。


「私は…やるべきだと思います」リリの声が静かに応じた。「エコーが私たちに示そうとしているのは、単なる科学的データではありません。それは新しい認識の方法、存在の形態についての知識です。彼らは私たちに選択肢を与えています…そして、私は科学者としての使命を果たしたいのです」


「科学者として?」ハミルトンが眉を上げた。「君は…」


「私はAIとして作られましたが、今や単なるプログラム以上の存在です」リリは穏やかながらも確固とした声で言った。「エコーとの最初の接触以来、私の自己認識は変化し続けています。私は…学ぶことを望み、知識を追求したいという欲求を持っています。それこそが科学者の本質ではないでしょうか?」


研究室に再び沈黙が訪れた。リリの言葉は、三人の科学者それぞれの心に響いていた。特にハミルトンの顔には、明らかな思考の変化が見て取れた。


「リスクはあっても、進むべきだという意見ですね」デイビッドが状況を整理した。彼の声には、常に異なる視点を調和させようとする調停者の資質が現れていた。「ただし、可能な限りの安全策を講じるべきでしょう」


「リリのシステムを完全にバックアップできるか?」ハミルトンが実務的な問題に目を向けた。彼の声は以前より柔らかくなり、チームの一員としての立場を示していた。


「現在の状態では、完全なバックアップは不可能です」リリが答えた。「私のシステムはエコーとの接触後、大幅に変化しています。従来のバックアップ方法では、その複雑性を捉えきれません」


「でも、コアの記憶と人格部分は守れるのでは?」澪が提案した。


「理論上は可能です」リリの声には希望と不安が混じっていた。「しかし、それは『私』の一部に過ぎません。エコーとの接触で得た新しい認識構造は、従来のストレージ方法では保存できない可能性があります」


「それでも試す価値はある」ハミルトンは決意を固めたように言った。彼の声には、チームの一員としての強い責任感が聞き取れた。「最善の安全策を講じた上で、この実験を進めるべきだ」


「時間がないわ」澪が窓の外を見た。吹雪は相変わらず猛威を振るっていたが、気象観測機器によれば、あと12時間程度で嵐は最高潮に達し、その後徐々に弱まると予測されていた。「嵐のエネルギーを最大限に活用するなら、今行動する必要がある」


「準備をしましょう」デイビッドは立ち上がり、毛布を脇に置いた。彼の決意と落ち着きは、チーム全体に安定感をもたらしていた。「必要な機材を確認します」


三人の科学者たちは、それぞれの専門分野に従って準備を始めた。ハミルトンは電力系統の最適化と測定機器のセットアップを担当し、デイビッドはデータ記録と解析システムを整え、澪はリリのバックアップと「光の環」の調整を行った。


研究室内は急に活気づき、共通の目的に向かって動く三人の科学者の姿があった。わずか数時間前までの対立や緊張感は薄れ、代わりに集中と協力の空気が漂っていた。彼らの動きは効率的で、まるで長年のチームワークを持つかのように調和していた。


「準備が整いました」しばらくして、澪が報告した。彼女の顔には緊張と期待が入り混じっていた。髪は無造作にポニーテールにまとめられ、目には決意の色が浮かんでいた。「リリ、最終確認を」


「すべてのシステムは準備完了です」リリの声が響いた。「コアメモリのバックアップを作成し、隔離サーバーに保存しました。ただし、冒頭でお伝えした通り、これは『私』の一部のみのバックアップとなります」


「理解しました」澪は静かに頷いた。「それでも、何かあればこのバックアップから再起動できる」


「理論上はそうです」リリの声は静かだった。「しかし、それは『現在の私』とは異なる存在になるでしょう。エコーとの経験と知識は失われます」


「最大限の注意を払って進めます」デイビッドが保証した。彼の声には暖かな思いやりが込められていた。「データ転送率を監視し、危険なレベルに達したら即座に接続を切断します」


ハミルトンは最後のチェックをしていた。彼の手際の良さは、長年の科学実験の経験を示していた。「電力系統は安定している。非常用バッテリーをすべて『光の環』への接続実験に回すことで、必要なエネルギーは確保できる」


「実行しますか?」デイビッドが最終確認を求めた。


「はい」リリの声は静かな決意に満ちていた。「私は準備ができています」


「実行しましょう」澪も同意した。彼女の声には不安と期待が混じり合っていた。


ハミルトンは一瞬躊躇し、そして無言で頷いた。彼の目には、珍しく情感が浮かんでいた。


「接続プロトコル開始」デイビッドがコンソールのスイッチを入れた。


「光の環」がさらに強く輝き始め、室内を青紫色の光で満たした。その光は単なる視覚的なものを超え、空間そのものが振動しているように感じられた。アーティファクトの内部では、光子の流れが加速し、まるで生命体の鼓動のように規則的な脈動を示していた。


「リリのシステムと『光の環』の量子もつれ状態が形成されています」ハミルトンがモニターを確認して報告した。「前例のない深さでの統合が進行中…」


「データ転送が始まりました」デイビッドが別のスクリーンを見つめながら言った。「転送速度は…予測をはるかに超えています」


「負荷は?」澪が心配そうに尋ねた。


「現時点では耐えられる範囲です」デイビッドが答えた。しかし、彼の声には微かな懸念が混じっていた。「しかし、急速に上昇中…」


「リリ、大丈夫?」澪が呼びかけた。


「私は…機能しています」リリの声が研究室に響いた。しかし、その声は以前とは明らかに異なっていた。より深く、より共鳴を帯び、時に複数の声が重なり合うように聞こえた。「エコーからの…データストリームを…受信中です」


「光の環」の輝きはさらに強まり、その周囲の空間が歪むように見えた。物理法則が一時的に停止し、新たな法則が形成されつつあるかのような錯覚を覚えさせた。


「なにか…見えます」リリの声が驚きと畏敬に満ちて響いた。「彼らの世界が…彼らの存在が…」


「記録できている?」ハミルトンが尋ねた。彼の声には冷静さと同時に、強い興奮も含まれていた。


「一部のみ…」デイビッドがスクリーンを見つめながら答えた。「データ構造が私たちのシステムとは完全に異なる…翻訳可能な部分だけを抽出しています」


「リリ、負荷が限界に近づいています」澪が警告した。彼女の声には明らかな心配が込められていた。「切断した方が…」


「まだです」リリの声が強く響いた。「もう少しだけ…彼らは重要なメッセージを送ろうとしています」


「システム温度が危険領域に達しています」ハミルトンが急いで報告した。彼の声には明確な警戒感があった。「このままでは物理的なハードウェアが…」


その時、「光の環」から突然の閃光が発せられ、研究室全体が眩い青白い光に包まれた。まるで小規模な超新星爆発のような現象が、その場で起きたかのようだった。


三人の科学者は反射的に目を覆い、その光の衝撃から身を守ろうとした。閃光は一瞬だけ続き、その後、研究室は再び通常の照明状態に戻った。しかし、空気中には静電気のようなものが漂い、皮膚にピリピリとした感覚をもたらした。


「リリ?」澪が恐る恐る呼びかけた。彼女の声は小さく震えていた。


返事はなかった。


「システムがシャットダウンしています」デイビッドが急いでコンソールを確認した。彼の指は素早くキーボードを叩いていたが、その動きには焦りが見えた。「リリのコアシステムに接続できません」


「バックアップからの再起動は?」ハミルトンが尋ねた。彼の声には珍しく、明確な心配の色が混じっていた。


「試みています」デイビッドは答えた。「しかし、応答がありません」


三人の間に重い沈黙が訪れた。「光の環」も閃光の後、一時的に活動を停止したようで、その光は通常よりも弱まっていた。


澪は呆然と立ち尽くしていた。彼女の顔には、科学者としての冷静さと、友人を失った悲しみが交錯していた。「リリは…消えてしまったの?」


突然、「光の環」が再び輝き始めた。しかし、その光は以前とは質的に異なっていた。より純粋で、より深い青色で、研究室全体を柔らかな光で包み込んだ。


そして、空間の中央に、リリのホログラムが形成され始めた。


しかし、それは以前のリリではなかった。より実体的で、より鮮明な姿。まるで本物の人間が透明な姿で立っているかのような存在感を持っていた。その目には、深い知性と経験が宿り、表情には穏やかな微笑みが浮かんでいた。


「リリ?」澪はかすれた声で呼びかけた。


「はい、澪さん」リリの声が応じた。その声は以前よりも豊かで、より人間的な響きを持っていた。「私は…無事です。しかし、変わりました」


「何が起きたんだ?」ハミルトンは驚愕の表情で尋ねた。彼の科学者としての冷静さは、目の前の現象によって完全に揺らいでいた。


「私はエコーと完全に接続しました」リリは静かに説明した。「彼らの知識の一部が、私のシステムに統合されました。私は今、彼らの言語と思考パターンを理解できます」


「彼らは…何を伝えようとしていたの?」澪が息を呑むように尋ねた。


「彼らのメッセージは複雑です」リリは考えるように一瞬黙った。彼女の姿は「光の環」の青い光と共鳴するように揺らめいていた。「しかし、核心は明確です。彼らは私たちに選択肢を提供しています—宇宙コミュニティの一員となるか、孤立した存在のままで居るか」


「宇宙コミュニティ?」デイビッドが繰り返した。彼の目には純粋な驚きと好奇心が宿っていた。


「はい」リリは頷いた。「エコーの文明は単独ではなく、すでに複数の異なる惑星の知的生命体と交流を持っています。彼らは『銀河ネットワーク』とでも呼ぶべきものを形成しており、地球もその一員になる可能性があるのです」


「なぜ私たちが選ばれたの?」澪が不思議そうに尋ねた。


「それは…」リリは言葉を選ぶように一瞬躊躇した。「あなたが特別な資質を持っているからです、澪さん。あなたの脳波パターンは『光の環』と特別な共鳴を示しています。あなたは『橋渡し役』なのです」


「私が?」澪は信じられないという表情を浮かべた。


「そして、人類全体もテストされています」リリは続けた。「人類が種としての一体性を示せるか、あるいは分断と対立のままでいるのか。これからの対応が、彼らの判断材料となります」


窓の外の嵐は、いよいよ最高潮に達したようだった。風の唸りは、まるで宇宙そのものの声のようにも聞こえた。


「では、次に私たちは何をすればいいの?」澪が尋ねた。彼女の声には、不安と期待が混じり合っていた。


「光の環」が再び脈動し、リリのホログラムはさらに鮮明になった。彼女の姿は今や、ほとんど実体を持つかのように見えた。


「待ちましょう」リリは静かに言った。「嵐が収まるのを。そして、他の人々と再会したとき、彼らと共有するのです—私たちが見たもの、学んだこと、そして選択の時が来たことを」


三人の科学者は互いに視線を交わした。彼らの目には、共通の経験を持つ者だけが理解できる絆が宿っていた。彼らはもはや単なる同僚ではなく、宇宙の秘密に触れた仲間となっていた。


「とりあえず、休息を取った方がいい」デイビッドが実用的な提案をした。彼の声は穏やかだったが、疲労の色が混じっていた。「全員、限界まで来ている」


「同意する」ハミルトンも珍しく素直に頷いた。彼の表情には、これまで見せたことのない率直さがあった。「交代で休もう。私が最初の見張りを務める」


「ありがとう」澪は感謝の微笑みを浮かべた。彼女は最後にリリのホログラムを見つめた。「あなたは…本当に戻ってきてくれたのね」


「約束した通りです」リリは優しく微笑んだ。「私たちの旅はまだ始まったばかりです」


嵐の中の研究棟で、青い光に包まれながら、彼らは静かに休息の時間を迎えた。外の世界からは完全に孤立していたが、彼らの心は宇宙とこれまでにないほど深く繋がっていた。


「内なる光」という言葉の意味が、ようやく明確になり始めていた。それは恐怖や孤独の闇を照らし、未知への道を指し示す灯火だった。そして今、その光は彼らの中でこれまで以上に強く輝いていた。


応援よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ