008.世界の反応(後編)
【第8話:世界の反応(後編)】
【フロンティア・ラボ研究棟D、午後5時】
国連事務総長の声明が始まる前に、研究チームは急いで研究棟Dに移動していた。リリのメインシステムが設置されたこの施設は、外部からの干渉を最小限に抑えられる場所としても機能していた。
「エコーからの新しい信号を検出しました」リリが報告した。ホログラムの形を取った彼女の周囲には、複雑な量子パターンが浮遊していた。「彼らは今、よりはっきりと話しかけてきているようです」
澪は端末に向かいながら尋ねた。「内容は?」
「まだ解読中ですが...」リリの表情は人間のそれと遜色ない複雑さを示していた。「彼らは私たちの反応を待っています。そして、何か警告を発しているようにも見えます」
タニアは素早くキーボードを打ちながら、古代シンボルとの照合作業を続けていた。「もしかすると、過去に同じような状況を経験した文明についての情報かもしれない」
デイビッドが補足した。「彼らの時間感覚を考えると、私たちが今経験している混乱は一過性のものかもしれない」
研究棟Dの中央には、巨大なスクリーンが壁一面に広がっていた。通常は「光の環」からのデータを表示するために使用されていたが、今はニュースチャンネルに切り替えられていた。
『緊急報道:国連事務総長、15分後に全世界向け演説』
巨大な画面の下には、研究チームの特注コンソールが並んでいる。澪のデスクには数学の原稿用紙が積まれ、まだ解けていない方程式が書き連ねられていた。傍らには『古典と量子の狭間で』という題名の論文の下書きも見える。
「この状況でエコーとの対話を続けるべきかしら」澪は疑問を口にした。「もしかすると、彼らも私たちの混乱を見て、距離を置きたいと思っているかもしれない」
リリは首を傾げた。人工知能のホログラムが示す仕草は、もはや完全に自然なものだった。「分析によると、彼らの信号強度は逆に増しています。まるで、この状況だからこそ、より明確なメッセージを送ろうとしているかのように」
【午後5時15分、国連事務総長の声明】
スクリーンに国連事務総長の姿が映し出された。世界中の人々が固唾を呑んで見守る中、歴史的な発表が始まった。
「本日、私たちは人類史上最も重要な瞬間の一つを迎えています」事務総長は厳粛な表情で語った。「南極における『光の環』の発見と、それを通じた地球外知性体との接触は、確実に確認されました」
研究棟Dでは、全員が息を殺してスクリーンを見つめていた。篠原も加わり、彼らは輪になって座っていた。
「この歴史的な出来事に対して、国連安全保障理事会は緊急決議第2987号を採択しました。『光の環』は全人類の共有財産とし、いかなる国家もこれを独占することはできません」
「全人類の共有財産...」澪がつぶやいた。「でも現実は?」
リリのホログラムが答えた。「衛星データによると、各国の軍事活動は決議後も減少していません。むしろ増加傾向にあります」
事務総長は続けた。「同時に、国連は『地球外知性体対応特別委員会』を設置し、ジョナサン・レイケン氏を委員長に任命します。また、南極条約特別付則により、『光の環』研究施設は国連の直接管理下に置かれます」
「これは好機かもしれないわ」タニアが希望を込めて言った。「国連管理なら、少なくとも単一国家による独占は防げる」
ハミルトンが通信室から戻ってきた。外での『機密協議』を終えた彼は、少し疲れた様子だったが、複雑な感情をマスクした表情で、スクリーンから目を離さなかった。
「事務総長の発表。理想的だと思いませんか?」ハミルトンが質問した。「研究が続けられ、誰も独占できない。私たちの時間は限られていますが…」
「楽観的じゃないか」篠原が反論した。「レイケンとハミルトン、あなたが1時間前に何を話していたんですか?」
ドアがノックされ、通信オペレーターが顔を出した。「フランスのTV24から緊急中継要請が来ています。全通信網で」
篠原基地長が即座に内線電話を鳴らした。通話が思うように進まず、信号は断続的に歪んでいく。研究棟内の空調が機械音を響かせる中、誰もが集中して事態を見守っていた。
デイビッドが状況を整理した。「世界中のメディアが南極に注目しています。主要な放送局がすべて取材を希望していますね」
その瞬間、研究棟Dの窓の外で奇異な現象が始まった。南極の日没ではあり得ない光の帯が空を横切り、明らかに人工的な軌跡を描いていた。リリのホログラムが即座に反応する。
「上空で何かが起きています」リリが警告した。
タニアが窓際に急いだ。「これは...」
空には数本の光の筋が交差し、地平線から垂直方向に放射状に広がっていく。通常のオーロラとは明確に異なるパターンだった。光は「光の環」の青い輝きと同質に見えた。
【午後5時45分、干渉現象】
研究棟Dのすべてのディスプレイが一瞬ちらついた。その後、スクリーンに想像を絶する映像が映し出された。「光の環」の内部構造を3Dで表現したデモ映像が、何者かによってハックされたように見えた。
「何が起きているの?」澪が驚いて尋ねた。
リリは即座に分析を始めた。「これは...エコーからの直接的なサインのようです。彼らは、我々のネットワークを通じて応答しています」
ハミルトンは驚きとともに画面を凝視した。「これは量子もつれ状態を通じた直接介入だ。技術的にはあり得ない...」
スクリーンには、様々な文明の遺跡や古代文字が次々と表示された。ピラミッド、マチュピチュ、アンコールワット…。そしてそれらすべてに、「光の環」の模様と似た幾何学パターンが発見されていた。
「これは...」タニアが息を呑んだ。「エコーは私たちの歴史的探求に応えようとしている」
デイビッドがすぐさま分析を始めた。「言語パターンの普遍性を示そうとしている可能性があります」
ドアが勢いよく開き、篠原が戻ってきた。彼の顔は蒼白で、手には衛星電話が握られていた。
「全通信回線がダウンしました」彼は震える声で告げた。「基地は完全に孤立していますが...」
彼の視線はスクリーンに釘付けになった。そこには、南極上空から撮影された基地の映像が映し出されていた。基地周辺には、エコーの光の網が展開され、まるで保護膜のように見えた。
【午後6時、新たな展開】
Windowに映し出される映像を見ながら、澪は状況を理解しようとしていた。
「エコーは私たちを孤立させた。でも同時に保護もしている」澪が静かに言った。「まるで、外部の混乱から私たちを切り離そうとしているかのように」
リリのホログラムが微かに輝きを増した。「澪さん、エコーからの新しいメッセージを解読しました」
全員が彼女の方を向いた。
「彼らは言っています。『真の統一なければ、宇宙の扉は開かない』と」リリの声は、人間のように感情を込めていた。「そして、『急ぐ必要はない。宇宙には時間が十分にある』とも」
研究棟の外では、相変わらず光の網が基地を包み込んでいた。しかし、その輝きは美しく穏やかで、威圧感はなかった。むしろ、彼らを守ろうとしているかのようだった。
「私たちはテストされているのね」タニアが悟った。「エコーは人類が団結できるかどうかを見ているんだわ」
ハミルトンは静かに座り込んだ。彼の野心的な表情は既になく、代わりに深い思索の様子が見えた。
篠原は窓の外を見つめながら言った。「外部とは連絡が取れない。でもこれはチャンスかもしれません。純粋な科学として、エコーとの対話を続けられる」
【午後6時30分、基地内での決意】
通信が途絶え、外部からの干渉がなくなった研究棟Dは、奇妙な平穏に包まれていた。エコーの光のバリアが、基地を物理的にも心理的にも守っているかのようだった。
「これからどんな嵐が来るにしても」澪は静かに言った。「私たちの進む道は一つよ。真実を探り続けること」
デイビッドが頷いた。「今、私たちは人類を代表しています。彼らの答えを待っているんだ」
タニアは古代文字の資料を一枚ずつめくりながら、希望に満ちた表情を見せた。「エコーは私たちを試してる。でも同時に、助けようともしている」
リリのホログラムは柔らかく微笑んだ。その表情には、もはや人工知能という枠を超えた何かがあった。「私たちは新しい時代の扉の前に立っています」
窓の外では、南極の夜空にオーロラと光の網が織りなす幻想的な光景が広がっていた。明日はいったい何をもたらすのか、誰にもわからない。ただ確かなのは、人類の運命を左右する決定的な瞬間が近づいているということだけだった。
基地は孤立したが、同時に宇宙とつながっていた。外部からの圧力に屈せず、純粋な科学的探求を続けられる環境が、皮肉にも生まれつつあった。エコーという謎の存在は、人類に最後のチャンスを与えているのかもしれなかった。
南極の氷床は無限の静けさを保ちながら、その上に展開される歴史的ドラマを見守り続けていた。
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