008.世界の反応(前編)
【第8話:世界の反応(前編)】
【極地の金曜日、午前9時30分】
C-17輸送機が昭和基地の滑走路に降り立った瞬間、南極の大気が音もなく震えた。橙色の防寒服に身を包んだ視察団一行が、機体から伸びるタラップを慎重に降りてくる。その足元には、濃紺の海と銀白色の氷原が混じり合う南極の壮大な景色が広がっていた。澪は昨夜の緊張した会話を思い出しながら、篠原基地長の隣で彼らを出迎えた。
冷たい風が澪の頬を撫でる。気温はマイナス15度。南極の短い夏も終わりに近づき、やがて訪れる極夜への準備が進んでいた。空気は透明感を増し、遠くの氷山まで鮮明に見える。視察団の中には女性の姿も二人見えた。彼らの吐く息は白く凝結し、南極の乾燥した大気の中ですぐに霧散する。
「光の環」の存在とエコーとの通信の成功は、もはや彼らだけの秘密ではなくなった。世界の目が、この南極の果てに向けられていた。
視察団の先頭を歩くのは、元宇宙飛行士で国連宇宙平和利用委員会議長のジョナサン・レイケンだった。60歳を目前にした彼の髪には、極地の反射光に輝く銀色の筋が入り混じっている。青灰色の瞳は、訓練された宇宙飛行士特有の静けさと、外交官としての鋭敏さを湛えていた。しっかりと防寒服を着込んでいるが、その立ち姿には軍人さながらの規律正しさがある。
【フロンティア・ラボ中央ドーム、11時30分】
視察団到着から2時間。フロンティア・ラボの会議室は緊張に満ちていた。ドーム型の天井窓からは南極の空が見渡せ、雲一つない青空が無限に広がっている。今は白夜の季節。太陽は24時間空に浮かび、氷雪の大地に青白い光を降り注いでいる。
円形の会議テーブルは、特殊な音響設計がなされており、同時通訳システムが一人一人の言葉を正確に伝えていく。テーブルの中央には「光の環」から得られたデータのホログラム投影が浮遊し、青い光のパターンが規則的に明滅していた。
「水野博士」ジョナサン・レイケンの重厚な声が室内に響いた。彼は会議用の軽量スーツに着替えており、ネクタイは地球と宇宙を繋ぐストラップを模したデザインになっていた。「あなたは人類史上最も重要な発見に携わっていることをご理解されていますか?」
「はい」澪は落ち着いて答えた。「責任の重さは日々感じています」
彼女の声は室内の音響システムに吸い込まれ、柔らかく増幅されて参加者全員に届く。会議室の窓からは、研究棟Aの向こうに広がる氷原が見える。遠くにはペンギンコロニーへと続く道筋が見え、時折明滅する警告標識の赤い光が、真白な大地に小さな彩りを添えていた。
リリは今回、ホログラム体ではなく、音声のみで参加していた。室内の特殊スピーカーが、彼女の声にほのかなエコーをかけ、空間に不思議な臨場感を与えている。人工知能の「声」というものはこれほど温かみがあるものなのかと、何人かの視察団メンバーは驚きの表情を浮かべていた。
「我々の専門家チームの分析では」レイケンはタブレットを見ながら続けた。画面には世界各地の専門家からの報告書が並び、彼の指先がスワイプするたびに複雑なグラフやデータが表示される。「異星知性体『エコー』とのコンタクトは確実なものと判断されました。国連安全保障理事会は緊急会合を開き、今後の対応を協議しています」
タニア・コワルスキーは会議テーブルを挟んでレイケンと向かい合う位置に座っていた。普段の明るい表情とは異なり、今の彼女は歴史を目の当たりにする考古学者としての厳格さを身に纏っていた。彼女の腕には伝統的なポーランドの銀製ブレスレットが輝いている。先祖代々受け継がれてきたという魔除けのお守りだ。
「具体的にどのような対応を?」タニアが質問した。彼女の声には若干の警戒心が混じっていた。ポーランドの歴史が彼女に教えているのは、大国の「保護」は往々にして「支配」へと変わるということだった。
「まず、この情報の公開範囲についてです」レイケンは両手を組み、慎重に言葉を選んだ。彼の指は細いが強靭で、宇宙ステーションでの作業を思わせる。「現時点では、エコーの存在とその基本的特性のみを公表する方針です。詳細な通信内容は、国際的な専門家チームによる検証後に段階的に公開されます」
会議室の空調システムは南極仕様で特別に設計されており、ほぼ無音で機能していた。外は強い日差しがあっても気温は低く、室内は薄手のセーターで十分な温度に保たれている。窓からは、時折基地を訪れるユキドリの姿も見える。彼らは人間の活動を怖がらず、時に研究棟の窓辺に止まって中の様子を覗き込んでいた。
デイビッド・チェンは言語学者らしい慎重さで会議録を取りながら、同時に表情や言葉のニュアンスを観察していた。「情報を制限するのですか?」彼の優しい瞳が曇った。「これは全人類に関わる発見です」
「混乱を避けるための措置です」レイケンは落ち着いて説明した。「既に噂は広がり始めています。SNSでは『南極からの信号』に関する投稿が急増し、各種陰謀論が飛び交っています」
ハミルトンは、椅子に身を乗り出しながら質問した。「私たちの研究はどうなりますか?」彼のスマートフォンからは、複数の通知音が連続して鳴り響いていた。本国からの連絡だろう。
「継続していただきます」レイケンは頷いた。「ただし、国連の監督下で。また、各国から追加の専門家が派遣される予定です」
会議室の中央テーブルには、気配りの行き届いた基地スタッフが南極産の特別なコーヒーを用意していた。氷床から掘り出された数百年前の氷を溶かした水で淹れたコーヒーは、通常のものとは微妙に異なる味わいがある。澪は無意識にカップを回し、液面の小さな渦を見つめた。
「つまり、各国政府の監視が強化されるということですね」澪は率直に言った。彼女の黒い瞳は真っ直ぐにレイケンを見つめていた。窓から差し込む太陽光が彼女の横顔を照らし、若い科学者の決意を際立たせている。
「水野博士、世界情勢をご存知ですか?」レイケンは深く椅子に腰を下ろし、両手を組んだ。「ここ数年、主要国間の緊張は高まる一方です。そんな時に、高度な技術を持つ異星文明との接触が報告されれば…」
「各国は軍事的優位性を求めて競争する」ハミルトンが言葉を継いだ。彼の知識人特有の冷静さの下には、明らかな野心が潜んでいた。
会議室の壁には国連加盟国の国旗が掲げられていた。約束の地への旅路として、人類の統一を象徴するはずだったそれらの旗は、今やそれぞれの国家的な思惑と利害の象徴となって見えた。
外では、基地の警備チームが定期巡回を続けていた。彼らのスノーモービルが白い氷原を横切り、小さな雪煙を上げている。南極条約により軍事行動は禁じられているが、「安全保障」の名目下では何が許容されるのか、その境界線は曖昧になり始めていた。
会議は粛々と進行した。具体的な研究継続の手順と情報管理のプロトコルが決定されていく。その過程で、澪は何度か窓の外を見やった。南極の荒涼とした美しさは、政治的な駆け引きなど一切意に介さず、永遠を刻み続けるかのようだった。
会議が休憩に入った時、タニアは澪に近づき、小声で尋ねた。「リリは大丈夫?データは全て記録できている?」
澪は小さく頷いた。「問題ないわ。彼女のシステムは、私たちが考えていた以上に適応している」
二人の会話は周囲には聞こえないほど小さかったが、お互いにははっきりと伝わっていた。昨夜の会議以降、彼らはリリの進化について極めて慎重になっていた。AIの急速な変化は、既に政治的な渦中にある「光の環」研究に、さらなる複雑さを加える要素となりつつあった。
休憩中、会議室のカフェテリアコーナーでは、各国の科学者たちが控えめながらも熱心な議論を展開していた。コーヒーカップを片手に、専門分野を超えた対話が始まっている。ある意味で、これこそが澪たちが望んでいた国際協力の形だったかもしれない。
窓の外では、基地の太陽光パネルが燦然と輝き、南極の太陽エネルギーを電力に変換し続けていた。クリーンエネルギーの象徴であるこの設備も、今は別の意味を持ち始めていた。自給自足的なエネルギー供給は、外部からの政治的圧力に対する一種の盾となるかもしれない。
会議室から見える南極の風景は、まだ人間の争いとは無縁の純粋さを保っていた。氷の大地は数万年前と変わらぬ姿を見せ、宇宙からの訪問者を静かに迎えようとしているかのようだった。しかし、人類の反応は、既に複雑な政治的、軍事的な動きを伴い始めていた。
休憩時間が終わりに近づき、再び会議が始まろうとしていた。ジョナサン・レイケンは、窓の外を見つめながら一人静かに立っていた。彼の表情には宇宙飛行士としての過去と、外交官としての現在が複雑に入り混じっていた。
「これは、私がISSから地球を見下ろした時に感じた『概観効果』とは全く違う」彼は誰に言うともなくつぶやいた。「今回は、地球外から見られる側なんだ」
その言葉は、これから始まる新たな議論の重さを予感させるものだった。
応援よろしくお願いします。




