続・私にそんな価値はありませんが、本当によろしいのですか?
短編のシリーズ第二弾です。
前作でいただいた感想から着想しております。
一応、このお話だけで分かるようにはなっていると思いますが(そのせいで長くなりました……説明くさいかな〜)、前作もお読みいただけたら幸いです。
テーマは【取り戻せ青春】です。
よろしくお願いします。
「閣下、本当によろしいのですか?」
「君もしつこいな」
「ですが、こんなに素晴らしいものをいただいても私には着こなせませんわ」
「そんなことないさ。皆、君に似合うと思って用意したものだ」
豪奢なドレス、煌びやかな宝飾品、美術品のような靴。目の前に並ぶこれらは全て先日私をお買い上げいただいた婚約者の侯爵閣下からの贈り物です。採寸したからドレスが分かってはいたけど、デザインとコーディネートはメゾンに丸投げしたのよね。今日が納品日だったから、閣下のお立ち合いのもと受け取ったのよ。
あ、私はまだ納品はされてなくてよ。婚約期間中ですの。
子沢山の上、昨夏の不作で爵位返上一歩手前になった我が家に手を差し伸べて下さった侯爵閣下。兄や弟がいるにも関わらず、私の子を子爵家の後継にするという契約で、資金援助をしてくださいました。おかげで領民たちの生活もなんとか持ち堪えています。
南部全体に影響があった日照りですが、国の支援は大領地を優先に行われ、木端子爵などは後回し。これでは領地だけでなく領民も干上がってしまうと頭を抱えていたところ、閣下は私財を投じて助けてくださいました。今後このようなことがないよう、灌漑工事にも投資してくださって、本当に感謝の念にたえません。
でも、私と私の産む子を引き換えにして結んだ契約にしては、閣下の持ち出し分が多いのです。だって、閣下は美貌の青薔薇の君。子どもの頃ならともかく成人してなお、ともすれば男にも見える私のような田舎令嬢など、本来お呼びではないはず。豊かな持参金をお持ちで豊かな人脈のある豊かなお胸のご令嬢と結ばれてもおかしくはないのに。お話をいただいたときも、余りのつり合わなさに詐欺を疑ったものです。
婚約が結ばれてからも、何度確認したことか!
私にそんな価値はありませんが、本当によろしいのですか?と!
なのに、閣下ときたら!
「閣下の瞳のような青ですわね」
気後れする立派なパリュール。恐らくブルートパーズでしょう。そう高価な石でないとはいえ、これだけの大きさのものを揃えるとなるとそれなりのお値段……これだけで我が家は再建出来るのでは?
「売ろうとか思ってない?」
「まさか!貸与品を売却して財を得るなど!」
今後侯爵夫人として夜会に出ても相応しい格のあるものばかり。贈り物と言っても要するに侯爵家からの貸与品なのよ。〝社交界に咲いた一輪の青薔薇〟と呼ばれる閣下に並んで相応しき伴侶に見えるように、こうしてゴテゴテと飾り立てねばならない己の容姿を嘆かないでいられないわ。それでも見劣りすると思うけれど。
「全部君の物だよ?」
同じことでございますでしょ?使う人間が私しかいないというだけで。
閣下にはご家族と呼べる方がいらっしゃいません。ご親族はたくさんいらっしゃいますけれども、不仲とはいかないまでも、閣下ご自身が特に親しくしている方はおられないそうです。むしろ小うるさい親戚など迷惑極まりない、とおっしゃっておられます。私との婚約も、槍玉に挙げられて閣下は怒っておられました。
それはそうでしょう。斜陽の子爵家の娘など、両手を挙げて歓迎されるような嫁ではありませんもの。ご親族の方に夜会でお会いすると、必ず私に難癖をつけるのです。彼らのお気持ちは分かります。利もなく、それを凌駕するような美貌も持ち合わせておりませんもの、私。
なのに閣下はいつも静かにお怒りになるのよね。気になさらなくていいのに。あ、ご自分の審美眼が疑われて怒ってらっしゃるのよ。建前上、十四歳の王女殿下に見染められて、王家からの婚約話から逃れるためについた嘘が発端なのだから。
世間は、閣下と私が何年も前から秘めた恋を続けていて、お互いが落ち着いたら結婚する予定だった、という筋書きを信じているの。
とある夜会で知り合った私たち。お互いに惹かれあい、約束はせずとも密かに愛を育んでいた。けれど私はしがない子爵家の娘。閣下は爵位を継承したばかりの若輩者。二人の関係は許されるものではなかった。
閣下はご両親のご不幸から若くして爵位を継がれ、周りから婚約及び婚姻をせっつかれていたけれど、どうしても愛する人(私)が忘れられず、のらりくらりと見合いをかわしていた。お心の中ではひとつの決意があった。ご自身のお立場を婚姻にケチがつけられないくらい不動なものにしてから私に求婚する予定だったのだ。
私は私で我が家は元々貧乏子沢山で有名だから、そんな自分は閣下に相応しくないと身を引いていた。けれど、愛しい人(閣下)が忘れられず、嫁き遅れと誹られても結婚せず、そのままひとり老いゆくのを覚悟しながら家の手伝いをしていた。そこに昨夏の日照りで経済的に大打撃を受けて身売りさながらの結婚を迫られた。親より年上の男爵だか商人に売られそうになったところを閣下が愛する人(私)を救うために名乗りをあげた……
という美談になっているのだけど、お会いする方お会いする方、皆さま目を丸くされるのよ、私を見ると。一部のご令嬢、ご夫人方からは温かい眼差しを受けるのは、やはり女性だからそういう物語や歌劇に準えて見られているからでしょうね。身分差や立場の障害なんて恋愛物では王道だもの。
それにこれを広めているのがこの国の第二王女殿下なのだから困ったものよね。まあ、もっと脚色された話が出回ってるのだけど、実は出版社から私たちのことを小説にしたいという打診があったのよ。お断りしたんだけどね。夜会で出会ってもないし(お互い一方的に知っていたけど)、秘めた恋もしていないし、会えない時間で愛を育んでもない。なんなら今だってビジネス婚約者よ。こんな嘘、すぐにバレると思っていたのに、皆さま娯楽に飢えてたのかしら?信じこんでいるのよね。
それもこれも、閣下がお金を使いすぎるからだわ!
青薔薇の君がようやく手に入れた婚約者を溺愛し過ぎて貢ぎまくっているなんて噂が立ったって私のせいじゃないのよ!
*
「仮面舞踏会、でございますか?」
社交シーズンになってすぐに開いた婚約披露の祝宴の数日後。いただいたパリュールは閣下の愛情の証としてご参列の方々より生温かい目線をいただくことになった。そのときにご挨拶させていただいた閣下のご友人のお家であるとある公爵家から、閣下の元へ一通の招待状が届きました。毎年恒例の仮面舞踏会へのお誘いです。
そのお家のご令嬢とは、私も女学校で同じ鍋のスープを飲んだ仲でございます。ええ、もちろん、ただの同級生で所属の寮が同じだっただけなのだけど。面識?ないわよ。クラスも別だもの。今はよその侯爵家に嫁がれております。
ちなみに、閣下と私の出会いもこの仮面舞踏会ではないかと推測した記事がタブロイドに載っておりました。そちらの公爵家のご令嬢と私は身分を超えた友人で、斜陽子爵家の娘でも仮面舞踏会ならば呼ぶことは出来ます。普通の夜会なんて畏れ多くて行けないわよ。あちらだって恥ずかしくて呼ばないし。
まあ、そんなわけで、捏造甚だしい記事ではあるけれどここは乗っかってしまおうと閣下も沈黙を保たれております。どこで知り合ったの?と聞かれるのが一番答えづらいのよ、私たちの立場的に。本来ならお声がけすら出来ない、いただけない関係だもの。
今回はその方もご実家の仮面舞踏会に参加されるとのことで、今後高位の方々との社交の練習と口裏合わせを兼ねて、そこでお会いいたしましょうというお話らしいの。
「毎年仮装のテーマが話題になる有名な舞踏会ですわよね?今年はなんと?」
「〝制服〟らしい」
「制服?」
「男なら騎士、女ならメイド、学生時代の制服でもいいそうだ」
「騎士の正装ならばともかく、メイドや学生服では地味になるのでは?」
「まあ、それぞれカスタマイズしたものを仕立ててくるだろうし、そのままとはならないだろうね」
参加したことはないけれど、有名な公爵家の仮面舞踏会のテーマはよく時期になると話題になるので知っています。大体、動物や植物がテーマだったりするのだけど、制服だなんて。
「どんなものを仕立てたらよろしいでしょう。閣下と合わせた方がよろしいですわよね?」
「服はあちらで用意してくれるようだ。後日それぞれの家に送る、と」
「まあ、そこまでしてくださるのですか?」
「あちらの家族と揃いにして、あの記事に信憑性を持たせるのさ」
「なるほど、承知しました。ですが、何かお礼をしなくては」
「それはこちらで手配するから君は気にしなくていいよ」
「ありがとうございます」
また私のためにお金を使わせてしまったわ。課金されているわ、私。友人に言われたのよ。閣下は重課金勢ねって。それってどういう意味なのかしらね?
それから三か月。毎年社交シーズンの終わりに行われる仮面舞踏会の日が近づいてまいりました。シーズン開始と共に招待状が送られて来るのは、各々テーマに沿って衣装を仕立てるための期間なのだそう。他の方と被らないようにリサーチしたり、とにかくこの夜会に力を入れる高位貴族の方が多いそうです。高貴な方々も案外お祭り好きなのね。ウチの領民みたいだわ。
でも、この夜会で招待されるのはこの国の社交界ではステータスなのよ。婚約披露でご挨拶させていただいたときも緊張したわ。おかしなことを口走ったような気がするけれど、ご夫婦はお優しくて怒ったりなさらなかったのがありがたいわ。さすが王族とも近しい公爵家の方よね。鷹揚で、余裕があるわ。
ちなみにそちらの御嫡男と閣下が幼馴染で親友なの。しかも奥様が国王陛下のご長女なのよ。第一王女殿下よ。同じ女学校の二学年上の先輩よ。もちろん雲上人で全く関わりがなかったわよ。でも、これからはそうはいかないのよね。今後のお付き合いは不可避だわ。
結構ギリギリだっけれど、今日の朝、本当に公爵家から制服が送られて来たのよ。【どんな衣装かはくれぐれも閣下には内緒にしておくように】と、主催の公爵家出身である例の同級生なご夫人と小公爵夫人(元第一王女殿下)連名のお手紙がついていた。当日まで閣下にお会いする予定もないし、今からお知らせしてもすぐお返事いただけるとも限らない。
これは確信犯だわ。さすが公爵家、恐ろしいわ。
どうしましょう?だけどこれはちょっと問題よね?閣下もお怒りになるんじゃないかしら?でも、公爵家の方には逆らえない。私が選んだわけじゃないし、黙ってて良いわよね?
*
妻と妹のたっての頼みだから、と友人宅で行われる仮面舞踏会のドレスコードとして決められていた、制服が送られて来た。
どこからどう見ても、懐かしき我が母校の制服だ。意味が分からない。夜会にコレで出ろと言うのか。多少のアレンジはしてあったっていいじゃないか。これではまるっきり制服だ。直前に送って来たのは計画的な行為だな。余りに遅いから何度か問い合わせたが、妻と妹が色々とこだわっていて、とはぐらかされていた。
あの家は毎年一度、仮面舞踏会を開催する。僕が参加した限りでは、動物や植物、時には昆虫なんかのモチーフを指定されることが多かった。今回のテーマ、戸惑う招待客も多いんじゃないか?仮面舞踏会なのにかなり地味なことになりそうだ。そんな風に思っていた。
きっと今頃、僕の婚約者の下にも同じように制服が届いているのだろう。あちらは伝統ある女学校の制服のはずだ。僕のところに来たのが母校の制服だからな。あちらも母校の制服が届いていると思う。
当たり前だが、彼女の制服姿は見たことがない。そもそも婚約のために初めて顔を合わせた日まで彼女を見かけたのは王宮の夜会くらい。
僕だって、自分の青春が仕事と学業一色だったことには思うところがある。学生ながら爵位を継ぐことになって、両親の死を悲しむ暇もないまま必死にやらなきゃいけないことをこなすだけの日々。
友人たちは遠慮からか僕の前で話したりはしなかったけど、それでも級友から聞こえて来る婚約者とのあれこれの話。やれ制服姿が可愛いだの、励ましの手紙が届いただの、別れ際の抱擁を許してくれるようになっただの、隙をみて口付けをしただの、気にならなかったわけじゃない。それをやっかむ婚約者のいない級友の声も含めて、僕にはとても遠い出来事だった。
友人に文句のひとつでも言ってやろうかと思ったけれど、あの日々を思い出すと、制服姿の彼女というのはそう悪くない。閣下と呼ぶのもそのときにやめてもらおう。名前で呼んでくれと言っているのに、いつまで経っても侯爵閣下と呼ぶんだから。僕との吊り合わなさばかりに意識がいって、僕自身を見ようとしない彼女に少しばかり苛立ちを覚え始めている。
まあ、まだ婚約して三か月だけど。
口付けのひとつでもしたら、少しは変わるだろうか。いいかもな、それ。いつも凛々しい彼女が照れ惑うのを想像するとグッとくる。
使用人の目もあるし、決行するとしたら馬車の中。想像の中の彼女ですら可愛らしくいじらしいのに、彼女の表情が崩れたところを他人の目に触れさせたくない……と思うくらいには、僕は彼女を好ましく思っている。全然伝わらないけどな。
貴族としては最短の婚約期間である半年で、僕と彼女は夫婦になる。結婚まで残り三か月。
その前に、青春のやり直しといこうじゃないか。
制服を見て遠のいたやる気が、一気に戻ってきた。
僕のくだらなくて切実な妄想が粉々に打ち砕かれることも知らずに、仮面舞踏会の日まで、僕は僕らしくない浮かれた毎日を過ごしていたんだ。
*
閣下が絶句してらっしゃるわ。気持ちは分からなくもないけども、正直閣下が贈ってくださったドレスよりも似合ってると自分では思うのよね。ちなみにこの姿を見た父は頭を抱え、兄と弟たちは爆笑だったわよ。
「閣下?」
「あ、いや、その、本当にそれが送られて来たの?」
「ええ、こちらの制服が送られて来ました。おそろいですわね」
「おそろい……」
そうなのよ。何故か分からないけれど、閣下の母校の制服が送られて来たのよ。兄も通った学校で、弟たちも在学中なんだからわざわざ送ってくださらなくても手持ちのものがあったのに。弟たちが着倒して大分くたびれているから、夜会には相応しくないけどね。
しかもコレ正規品の新品なのよ。制服の製造を請け負っている店名の刺繍がしてあったわ。このままいただいていいのかしら。お返ししなくちゃダメかしら。
弟たちの制服は兄や親戚からのお下がりだから交換してやりたいわ。女の私が着るからか、腰が少し絞られているけど、ほどいて布を出さないかしら?末の弟は細身だからいけないかしら?私がやればタダだし。そんなに上手じゃないけど。
すぐ下の弟は成長も止まったし今年卒業だから今のままでいいわね。あっ、でも卒業式は綺麗な制服の方がいいかしら。どうしましょう。閣下が今着てらっしゃるテールコートだけでもいただけるとありがたいんだけど。
「多分それは返却しなくていいと思うし、僕が着てるのもプレゼントするし、丈を詰めるのもメーカーにお願いしてあげるけど、どうして相談してくれなかったんだ?」
「あら、声に出ておりまして?」
「思い切りね。まったく、君も何を考えてるんだ」
「くれぐれも内密に、というお手紙が入っておりましたので」
「馬鹿正直に黙ってるやつがあるか!男装しろだなんて余りにも礼を失してるじゃないか!」
「そうはおっしゃいましても私は子爵家の者ですし、公爵家の方のお願いをお断りするというのは……」
「僕から抗議すればよかったんだ!クソッ!」
閣下がひどくお怒りです。お美しい青薔薇の君は怒ったお顔も美しくいらっしゃいます。その分、凄みがあってちょっと怖いですけど。
「不愉快な思いをさせてしまい申し訳ございません」
「君が謝ることじゃない!……怒鳴ったりしてすまなかった、冷静さを欠いていた。君の立場を考えれば、黙っていたのも至極当然だというのに」
「とりあえず、このまま向かいましょう。どの道、アイマスクをするのですから問題ございません」
アイマスクをしていたって見知った顔は大抵判断がつきますけれど、マスクで顔を隠している=誰だか分からないという建前で無礼講、という暗黙の了解がありますから、普段ならはしたないと思われる男装であってもケチをつけるのは無粋というもの。あ、もちろん余りにも礼を失してしまえばその場はよくてもあとで痛い目を見るけどね。
閣下は絶対に抗議する!と意気込んで、男にしか見えない私でもきちんとエスコートしてくださいました。
自分で言うのもなんだけど、並ぶとなんだか倒錯した光景よね。
*
ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!
飛んだ期待外れだ!学生気分で初々しい婚約者と制服のまま口付けという僕の妄想をどうしてくれる!クソッタレ!
これならまだメイドの格好の方が良かった。跡取り息子とメイドの設定の方が良かった。女同士のありがちな洗礼や嫌がらせとして、恐らく招待されてる客の中で一番立場が弱いであろう彼女に分かりやすく使用人の格好をさせようものなら、僕と僕の家への侮蔑としてこれまた抗議するつもりだったが……
現実が斜め上すぎる!
しかし、そっちの設定だとやたら肌色の多い妄想になってしまうな。シチュエーションとしては大変宜しいけれど、宜しくない。こんなことを考えているなんて彼女に悟られたらきっと幻滅されるだろう。
彼女は僕のことを孤高で完全無欠の侯爵だと思ってる節がある。欲になど翻弄されない高潔な男だと勘違いしている。婚前に婚約者に手を出すなんてこれっぽっちも思ってないし、結婚しても閨はただの義務だと割り切るんだろう。信頼されているんだろうが、その信頼は僕への信頼じゃなくて、知らぬ誰かたちが作り出した架空の青薔薇の君への信頼だ。僕が目の前にいるというのに、僕の言葉は信じない。口説き文句もリップサービスにしか思ってないし、贈り物も遠慮しつつも侯爵夫人としての必要経費だと考えて納得する。
こんな思考の相手にどうしたらいい!?
初めの頃は徐々に僕という人間に慣らしていって、結婚してからも甘い言葉を囁いて、どろどろに溶かしてやるつもりだったけど、このままいくとそれすら明後日な方向に勘違いしそうなんだよな。
今だって結構頑張っているのに、婚約者との仲を深めるための常套手段がまるで通用しない。婚約者なら当然の範囲の贈り物ですら喜ばない。容姿を褒めても社交辞令だと思っている。礼は言われるけど、心底嬉しいという顔を見たことがない。長期戦は覚悟していたが、既に心が折れそうだ。
「不愉快な思いをさせてしまい申し訳ございません」
「君が謝ることじゃない!……怒鳴ったりしてすまなかった、冷静さを欠いていた。君の立場を考えれば、黙っていたのも至極当然だというのに」
「とりあえず、このまま向かいましょう。どの道、アイマスクをするのですから問題ございません」
だけど、彼女の心をあきらめるという選択肢は思い浮かばない。こうして彼女が眉尻を下げるだけで、僕の怒りのボルテージはぐんと下がった。
惚れた方が負けというのはどうやら真実らしい。
手紙の主たちへの怒りを押し込めて、彼女が思う理想の青薔薇の君として振る舞いながら、もしかしたら学生時分から随分と年を食った僕よりも似合う母校の制服姿の彼女を丁寧にエスコートして仮面舞踏会に臨んだ。
*
仮面舞踏会で名が一致するのは主催者だけである。というのが建前。いつだかの時代の公爵家の方が、普段の取り繕った掟から外れて、年に一度、本音を話せる場としてこの夜会を設けたらしい。
もちろん、ここで話した内容は他言無用。話していいのはどんなテーマで、どんな服装をしていた人がいたかくらいで、それが何処どこの誰であるという特定はしてはならない。
と言っても、貴族らしい隠語で大方伝わるものだけど。実際の参加者同士も、よく知る間柄ならば相手が誰であるかくらい分かる。
「やあ、よく来たね、二人とも」
「ご機嫌よう、お久しぶりね。ちゃんと着て来てくれて嬉しいわ!」
公爵夫妻との挨拶を済ませ、すぐに閣下のご友人とその奥様である小公爵夫妻にご挨拶だ。お二人もそれぞれ母校の制服をカスタマイズしたものを纏っていらっしゃるわ。
懐かしいわね、母校の制服。お美しい王女様がお召しになるならともかく、私なんて今更着るのも気恥ずかしいから、こっちで良かったのかもしれないわ。
彼らは名乗っているので、会場の誰でも分かるし、閣下は有名だからもちろん周りの方も分かっている。初めて二人で公の場に出たときは、青薔薇の君にはこんなにも視線が集まるものなのね、と緊張よりも感心したものよ。
でも、今まで以上に私たち、目立っているわ。
閣下は男同士の話があると言って、すぐに小公爵を文字通り引きずって行ってしまわれた。大事な密談かしら?とお二人の後ろ姿を眺めていたら、小公爵夫人が弾む声でお話かけてくださった。
「とてもよくお似合いよ!お二人で並んでいると、監督生と寮弟みたい!想像以上に素晴らしいわ!」
「喜んでいただけて幸いですわ」
「夫も監督生だったのだけどね、あの方は四年生の頃にご両親を亡くされて、推薦はあっても監督生にはおなりになれなかったの。ご領地の仕事が忙しいからって。夫は随分と悔しい思いをしたみたい。一緒に監督生になれたら、学校をああしよう、こうしようと一年生の頃から話していたそうだから」
私は納得して頷いた。閣下と私の着ている制服とは若干違う。テールコートの下のウエストコートやトラウザーズの生地も、タイの形も。これらは監督生にのみ認められた特権。ウチの兄や弟たちなんて、全く縁のないものだわ。
彼も少年らしい憧れを持った時期があったのだと、夫人のお話を聞いて初めて閣下に人間味を感じた。叶えられなかった過去の夢を今こうして仮の形でも叶えられたことは嬉しいことだと思うの。
なのに、どうしてあんなに怒っているのかしら?
「貴女の装いも、とても悩んだのよ。私は貴女が学生の頃に出し物で着ていた騎士服が良いと思ってたのだけど、夫はあの方に監督生の服をどうしてもって言うし、義妹はそれなら揃いの方がいいって」
「それでこの制服なのですね」
「そうなのよ。ああ、いたいた。あら、捕まってるわね。こちらをチラチラ見てもう、あの子ったら」
困ったように苦笑される目の前のお方は仮面をつけていてもとてもお美しい。私のような貴族という身分になんとかぶら下がっているような者でも憧れる素晴らしいお姉様だったわ。
もちろん、小公爵夫人とは女学校の在学中にお話をしたことはない。だって、その頃はまだ王女殿下のご身分ですもの。お会いしてもすれ違うときは頭を下げてなくてはならないし、声を発することも許されなかった。
気高いお姫さまという印象だったけれど、こうして直接お話しするとすごく親しみやすいお方と分かった。雲の上の方々ともお話できるようになるなんて、私も未来の侯爵夫人としてなかなかなのではないかしら。
「そう難しく考えなくてもいいのよ?彼の家ならば、敬意を払うのは王族と公爵家だけで済むのだから」
「声に出ておりまして?」
「気高いお姫さまだなんて過大評価されているとは思わなかったわ」
「大変失礼を……」
「いいのよ!これからは顔を合わせることも増えるだろうし、お友だちとして接してくれると嬉しいわ。その方が貴女も楽でしょう?」
これが噂の派閥へのお誘いというものなのかしら?家門の利害が絡む殿方の政治的な派閥とも少し違う、女性の派閥があるのよ。まあ、私は余り社交に顔を出していないから個人的な友人しかいないのよね。
「そういう面もあるわね。私の元にいれば安心だから、是非そうなさい」
なんというお気遣いだろうか。さすが元姫君。
「ありがとう存じます」
感謝の印にカーテシーをしようとして、ドレスではないことに改めて気付いた。どうしましょう、裾をつまめないわ。テールコートを無理やりつまんだ方がいいのかしら?
「できればその格好に合った、紳士の礼をしてくださる?」
意外とお茶目な方なのかもしれない。確かに男装でカーテシーはちょっとおかしいわね。ここは成り切らないといけないわ。
察した夫人がそうおっしゃるので、真似事だけど、この方の庇護への最上級の礼として膝をついてみた。お手を取り、恭しく指先に口付けてみたけれど、合ってるかしらね?私のような身分の者に触れられてご不快ではないかしら?
おそるおそる夫人の様子を伺うと、口付けた方とは反対の手で口元を押さえて、何故だか恍惚としか表現しようのない表情で、蕩けるような眼差しが向けられていた。
「まああああ!」
「きゃああ!」
「なんて素敵!」
「羨ましいわ!」
周りからご夫人方、ご令嬢方の歓声が上がったのだけど、もしかして私、男だと思われてるの?
*
「どうしたんだよ、急に」
「なんなんだ、あの服は!」
「なんなんだって、何がさ」
「僕の婚約者に男装なんてさせて、何を考えてるんだ!」
「いや、制服を贈ると聞いていたから、てっきり女学校のものだと思っていたけど」
「君も知らなかったのか?」
「ああ、二人に任せていたから……って、怒ってる?」
「あんな風に馬鹿にされて怒らないとでも?」
彼女は背が高いことで有名だ。それで陰口を言われたり、男から忌避されていたことも知っている。ヒールの高い夜会用の靴など履いたら、背を越される男もいるからな。
皆見慣れて来たので話題にならなくなったが、僕との婚約で彼女はまた注目を浴びている。今まで僕との婚約の噂話があったご令嬢は、青薔薇の君を応援する会とやらに所属している者たちから嫌がらせを受けたことがあるという。僕自身が認めた婚約でもなく、親族たちが勝手に押し付けて来た見合い話なだけだというのに。
そういったことに辟易して、もう何年もまともに女性と話などしていなかった。未婚は言わずもがな、結婚してても年が近い女は油断できない。僕が話をするとしたら、親世代以上のご夫人か、数人の友人の妻くらいだ。
だが、その友人の妻が彼女への悪意をますます加速させるような男装を強いるなんてことをするとは。あの女、昔から我儘だとは思っていたが、未だに姫気質が抜けないのか?この男はそれすらも可愛らしいとか理解できないことをほざく。しかし他人を巻き込むなど、言語道断。
あんなに迷惑だった第二王女との婚約の打診だが、あの女には妹の純真さを見習ってほしいとさえ思う。今二人きりにさせているのも気がかりだが、アレでも一応元王女。本人に表立って文句を言うのは僕の立場でも憚られる。
「まああああ!」
「きゃああ!」
「なんて素敵!」
「羨ましいわ!」
突然、女性たちの悲鳴にも似た歓声が上がった。
「なっ!」
あの女が、この男の妻が、僕の婚約者を跪かせているじゃないか!ふざけるな!
「あっ、おい!」
友人が止めるのも聞かずに、僕は普段の青薔薇の君の振る舞いなど忘れて、彼女の元へ一直線に走った。
*
「お姉さま!ズルいですわ!」
「貴女が遅いんじゃない」
「私のリクエストだったのに!」
「話の流れでこうなったのよ、仕方ないでしょ」
「その割にはすっごく嬉しそうですけれど!?」
「今回の衣装は貴女に譲って差し上げたのだもの、これくらい当然の権利よ」
あの歓声の後、駆けつけた同窓の元公爵令嬢さま(現在は他家の小侯爵夫人)と義理の姉妹で言い合いが始まってしまった。赦しは得ていないけれど、立ち上がって仲裁を試みる。仮面舞踏会だから、こちらから声をかけても不快にはならないはず。多分。
「落ち着いてくださいませ、ご夫人」
「ひゃん!」
ひゃん?在学中に持っていた大人しいイメージとはかなり違う様子だけれど、今も昔も公爵家の方なのだから礼は尽くさないと。
「お怒りになる貴女もお美しいですが、私にお声がけくださったときのように、慈悲深い笑みが見たいものです」
「覚えてらっしゃるの?」
落ち着かれませ、と続けようとしたら食い気味に尋ねられたわ。心なしか目が血走っているような?
そりゃあ、覚えているに決まってますもの。先ほど小公爵夫人がおっしゃった学生時代の出し物のお芝居でお姫様に傅く騎士役をやったとき。友人が脚本を書いた恋物語で、敵国の王子と恋に落ちる王女に付いている近衛騎士で、こっそりと王女に恋心を秘めているという設定だった。話が良かったおかげで騎士役がとても評判が良くて、女学校の中で高位貴族の方々にお声をかけられたのは後にも先にもあの一度だけだわ。
どなたかのご学友になれるほど我が家は力もないし、私自身も優秀ではなく平凡極まりなかったのだから。
「貴女、全然平凡ではなかったわよ」
「声に出ておりまして?」
「貴女、とても有名だったじゃない」
「左様ですか?ああ、背が高くて目立ちますからね、私は」
「そこがいいのよ!やっぱり私の見立てに間違いなかったわね!」
小侯爵夫人のお言葉に、どういうことかしら?と小首を傾げていると、急に視界が更に傾いだ。焦った顔の閣下に肩を掴まれたからなんだけど、男装してるからかしら?遠慮がない力強さだわ。ちょっと痛いんだけど。もしかして、男扱いされてない?
びっくりしたけどそのまま抱き込まれてしまって、私は目を白黒させるしかない。こんなにあわててどうしたのかしら?
*
「ご夫人方、余りにもおふざけが過ぎるとお思いになりませんか?」
「やだわ、お姉さま!見て!」
「見てるわよ。二人が並ぶといいわね、やっぱり」
「最終学年の大人と遜色ない体型の監督生と、まだ少年ぽさを感じさせる華奢な線を残した寮弟!もうすぐ卒業という別れの時がやってくる、その前に二人はようやく想いを通じ合わせて……ああ、なんて儚げで美しいのかしら!ねえ、そのまま顎をくいっとやってくださらない!?ううん、もう!ここに絵師が欲しいわ!」
興奮して怪しげな妄想を口走る友人の妹と、目をこれでもかと開いて僕たちを食い入るように見る友人の妻。なんなんだ、コイツらは。
「靴だけでもヒールにと思ったけど、紳士用にして良かったわね」
「そうでしょう!?この身長差が歳の差を如実に表しててたまらないわ!」
何を考えてるんだ、この女たちは!僕たちはもうすぐ夫婦になるんだぞ!?僕は男だが、彼女はちゃんと女性だ!頭の沸いたお前らと違ってな!
と口に出せたらいいが、さすがにここで声を荒げるわけにはいかない。周りも何事かとこちらに注目している。ご婦人たちの、いつもとは違う熱がこもった視線をやたら感じるがなんなんだ?コイツらと同類か?
遅れて友人がやってきて、気狂い二人を宥めているが、特に妹の方は聞く耳を持たない。
「二人とも、なんで彼女にこの服を?」
「お似合いになると思ったからよ、当然でしょ」
「私は騎士姿を推してたんだけどね」
「近衛の格好も素敵だったけど、一度見たから他のもって思うじゃない」
「近衛の格好?」
彼女に問うと、学生時代にやった演劇で騎士役をやったという。そのときに、友人の妹に褒められたことがある、と。友人の妻も「それはそれは素晴らしく、理想の騎士そのものだったのよ」とコロコロ笑う。僕の知らない彼女を知っているのだといかにも自慢げで非常に腹立たしい。
「ねえ、貴女まだ殿方のダンスは覚えてらっしゃるかしら?」
「ええ、散々練習しましたから身体に染み付いております。むしろ女役より得意ですわ」
「お芝居が終わってからも、ご友人の皆さまや後輩と踊ったりなさってたわよね。私もお願いしたかったのだけど、結局言い出せなくて学生時代の心残りだったの」
彼女とのダンスで時折感じる違和感はそれか!本人は無意識だが、主導権の奪い合いのようになるんだ。
不安になって彼女を見下ろすと、すっと手で僕の胸を押して腕から離れていく。やめてくれ。この後のセリフが想像できるのが辛い。
「では、今宵の思い出に一曲お相手願えますか?レディ」
きゃー!と黄色い声が上がり、友人の妹は自慢げに胸を張って堂々と頷いた。なんで義理の姉妹なのにこんなに似てるんだ。我儘王女の横柄さとそっくりだ。
それより!まだ僕だって今夜は彼女と踊ってないんだぞ!?
「その次は私ね。あなた、その間一曲お願いするわ」
「夫は時間潰しかい?仕方ないな」
仕方ないと言いながらも嬉しそうな顔をして己の妻に手を差し出す友人。おい、そうじゃないだろう。この茶番をやめさせるのがお前の仕事だろう!身内だろ!?
「私がお迎えにあがるまで、他の騎士に攫われないでくださいね?プリンセス」
「うふふ、ちゃあんと待ってるわ?私の騎士様」
お前の騎士じゃない!僕の婚約者だ!
サービス精神が旺盛なのか、彼女は完璧に騎士に成り切って、一応僕に「すみません、行ってまいります」と断りを入れてから友人の妹の手を取ってホールに向かって行った。正直、見た目だけのはりぼての僕なんかよりずっと格好が良くて、なんだか心がざわついた。
友人夫婦もいなくなり、僕はポツンとその場に残された。いつもなら僕がひとりになれば集ってくる女たちもヒソヒソと話をしているだけで近寄って来ない。
引き止めようと彼女に向かって伸びた手がただただ虚しく空を掴んだ。
本当に最悪だ!
*
小侯爵夫人が学生時代に私と踊れなかったのが心残りとおっしゃられた。私はダンスが得意だ。ただし、男の方。あ、女の方も踊れないわけじゃないのよ?でもね、パートナーとの身長差を考えると、普通の足捌きじゃ殿方とは踊りにくいのよ。閣下くらい上背がおありならいいんだけど。
ダンスは必須の教養だけれど、下位貴族の娘はデビュタントに向けて幼い頃から教師をつけてみっちりと練習している高位貴族や裕福な家の娘でなければ家族から教わるもの。女学校を卒業と同時にデビュタントを迎えるのだけど、その前に学校で鍛え直されるのよ。ダンスが苦手な友人から頼まれて、お芝居のときに覚えた男の踊りで練習に付き合っていたの、小侯爵夫人のような方にも知られてたなんてね。
まあ、その話が広まって、それまで話したこともなかったような後輩からも頼まれたりしたけどね。同級生は似たような家門の方たちだったけれど、後輩だと伯爵家の方のお相手もしたわ。今夜、いらしてるかしら?
「楽しかったわ。思い出をありがとう」
「いえ、こちらこそありがとうございます。気を遣っていただいて」
「まあ、なんのことかしら?でも、役得だったわ。今夜の貴女のファーストダンスをいただけたんですもの」
今夜は私とこの方が親しいことを知らしめるために来たようなもの。ただ会話をするだけの仲ではなく、こうしたお遊びも互いに気安くするような関係だと印象づけられたと思う。
「早くお姉様のところに行ってあげて。お姉様、貴女のファンだったのよ」
「ファン?」
「月下の騎士様のね」
月下の騎士というのは私が演じた騎士のことだ。夜会中にふらりと庭に出た王女を追ってきた騎士。月明かりの下、想い人との障害に悩む王女を気晴らしにダンスに誘う。そこで自分の想いを告げようとするんだけど、王女がつぶやいた言葉で思いとどまって、タイミングよく仮面で顔を隠した敵国の王子が彼女をダンスに誘って騎士から攫っていくのよ。それを切なげに見送って……あそこの演技は難しかったわ。騎士の見せ場だから、友人の指導もとても厳しかった。
「楽しかったわ、ありがとう」
「次は騎士の格好をした方がよろしいですか?」
「やだ、あの子ね。似たお題を続けて出すことはないから、当分お預けだわ」
「そうですか。残念です」
「ええ、とても残念」
小公爵夫人とのダンスも終え、閣下の元に戻ろうとしたら、周りに期待の眼差しを向ける女性で囲まれていた。
「皆、貴女からのお誘いを待っているのよ」
「え……?」
「ふふ、やはり夜は闇に紛れる青薔薇より月下美人の方が美しいわね」
どうやら今夜の私は閣下よりモテているらしいわ。ご期待に背くことも出来ず、閣下の元に戻った頃にはさしもの私もヘトヘトになっていた。
*
「申し訳ございません、閣下。随分とおひとりにしてしまって」
「ああ……目的は果たせた。上々だったんじゃないか?」
帰りの馬車で改めて謝罪を伝えるも、閣下は全く私の方を見てくださいません。いつもは微笑みを湛えて私から決して視線を逸らさないのに。アレもアレで正面から美丈夫の微笑を受けるので、なかなかに耐え難いものだけれど。
この空気は居心地が悪過ぎる。私が閣下をほったらかしにしたのがいけないんだけど。
「君は女学校で随分と人気者だったようだね?」
「そんなことはなかったはずですけれど」
「今日、君と踊った女たちは皆、君と同じ学校出身だろう?ああ、何人か違う者もいたけど」
多分、そうだと思う。この方はあの子だという確信が持てない方もいたけれど、踊っている最中の話題は女学校の思い出話だった。中には同級生のお母様というご婦人もいらして、保護者の中ではあのお芝居がまだ話題に上がるという。まあ、それも私が閣下と婚約したからだろうけど。
それにしても、今夜の閣下は口がお悪い。たまに「クソッ!」って小さく漏らしたりしていたわ。こんな不機嫌なところは見たことがない。怒らせた私がいけないのだかどう。結局、閣下とは踊らなかったし。私が疲れたから、気遣ってくださったのよね。
(見た目)男同士のダンスをお披露目するのもどうかと思うから私は気にしないんだけど、私たちが帰ると知ると残念そうにため息をつかれるご婦人がたくさんいらしたわ。帰り際のご挨拶で何人かに踊っていかれないの?と聞かれたしね。
「いつも閣下の周りにおられる女性が私の方に流れてきてお怒りなのですか?」
「それ、本気で言ってる?」
「いえ、全く。私と踊れなかったので怒ってらっしゃるのかと」
「そうだね!」
かなり語気強めにお答えになって、心臓がドクンと鳴った。やだ、すごいお怒りようじゃない。婚約破棄とかにならないわよね?私の有責で。仮面舞踏会で閣下と踊らなかったからって理由で。通じるかしら?
「ごめん。君に怒ってるんじゃないんだ」
「そうなのですか?」
「こっちに……来てくれる?」
よく「そっちに座っていい?」と聞かれることはあるけれど、まだ婚約者の身の上では不適切なのでいつもお断りしている。まあ、あれは家族以外の殿方に免疫のない私をからかってらっしゃるだけだと思うんだけど。
いつも凛としている閣下がなんだかしょぼくれて、いたずらして怒られた犬みたいな顔をしている。お断りすべきなんだろうけど、放っておけなくて、返事をするより先に身体が動いた。
肩に腕を回されて抱き寄せられると、閣下は私の髪に顔を埋め、頭に熱い息がかかった。私が踊り狂っている間、閣下はずっとご友人相手に愚痴を言いながらお酒を浴びるように飲んでいたらしい。確かにお酒臭い。コイツがヤケ酒なんてめずらしいんだよと小公爵閣下はおっしゃっていた。
「怒鳴ってごめん」
「私が悪いので閣下が謝罪なさる必要はございません」
「怖かっただろ?青褪めてた」
「私の鍛錬不足ですわね。侯爵夫人たるもの、顔に色を出してはなりませんのに。至らなくて申し訳ないですわ」
「ちゃんと侯爵夫人になってくれる?」
「もちろんです。閣下に見捨てられてしまえば我が家は没落確定ですもの」
「見捨てるなんてするもんか。そうじゃなくて……ちゃんと僕のお嫁さんになるって、分かってくれてる?」
「ええ。予定通り閣下の妻になりますわ。このままでは不肖の妻ですが」
「僕は、君がいてくれるだけだ充分だよ」
「そんなわけにはまいりませんでしょう?」
「そんなわけになるように頑張るつもり」
ただでさえ完璧な閣下ですのに、これ以上何をどう頑張るおつもりなのかしら。
すうっと熱が離れたと思えば、大きなお手が私の頬を撫ぜました。真っ直ぐに閣下と向き合えば、どこを見ているのやら、焦点が合わない目です。大丈夫かしら?吐いたりしないわよね?
「君は、もう僕意外と踊らないで」
「そうおっしゃるのなら、そういたします」
「夜会でもどこでも、僕をひとりにしないで」
「女避けの妻ですものね。今後は閣下にぴったりと張り付くようにいたします」
「ずっと、そばにいて」
「ずっとおそばにおりますよ」
酔うと寂しくなるタイプなのかしら。完全無欠の青薔薇の君も、酔うと幼くなるのね。知らなかったわ。
「このまま……」
「このまま?」
少しずつ顔が近付いて、閣下の息が顔に当たる距離にきました。このままでは口付けしてしまいそう。まあ、青薔薇の君たる閣下がそんな不埒なことなさらないでしょうから、酔って姿勢が保てないのね。そういえばまだウチがマシだった頃、父もたまにこうなってたわ。
「あれ……君が、三人、に、見える」
「私は一人しかおりませんよ」
「どの君に、口付ければ、いい、ん、だ……」
「おっと」
そのまま私に向かって倒れ込んで、閣下はお眠りになってしまいました。勢いを殺せずに後頭部を馬車にぶつけてしまったわ。
すうすうと寝息を立ててお眠りの閣下は、口元がもごもごと動いて何か言っているようだけれど、言葉にはなりませんでした。
その前に、口付けって言ってたわよね?気のせいよね?
ずっと抱えているわけにもいかず、なんとか大きな閣下の上半身を移動させて、僭越ながら膝枕をさせていただきました。きっと結婚しても、こんなことをしたりはしないのでしょう。
今夜は特別な夜ね。そういうことにしましょう。
我が家に着いても閣下は目を覚まさず、このまま馬車に乗ってご自宅まで行くのも危なさそうなので、閣下を男三人がかり(兄と弟)で客室に運んでお泊まりいただきました。
翌朝お目覚めになった閣下は非常に恐縮なさって、私や家族に平謝りなさったけど、我が家としましても閣下へのご恩はこれしきのことで返せるものでもなく、気になさらないようにお伝えしましたわ。
馬車でのことは一切覚えてらっしゃらなかったから、膝枕をさせていただいたことは私だけの秘密にしておいた方が良さそうね。ショックを受けそうだもの。はしたなかったわね、私。
お読みいただきありがとうございました!
評価や感想などお待ちしております。