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電話ボックス

某コリン・ファレル主演の映画に影響されて別シチュエーションで書いたモノです。


 会社の帰り道。大勢の人間がひしめき合う駅前バス停留所の降り口で、男はふと足を止めた。

「なんてこった」

 目の前の電光掲示板には折からの大雨で電車が遅れるとの告知が流れている。今日は男の妻の誕生日だった。あとでまた愚痴をこぼされるのも嫌なので少し遅れると連絡しておこう、そう思って携帯電話を取り出した男は、再度舌打ちした。バッテリーが切れている。営業での外回り中に切れそうになっていたことをすっかり失念していた。

 鞄の中には緊急用にと手回し携帯充電器があったのだが、ふと見渡した切符売り場の側の野晒しにされた二つの電話ボックスは片方が丁度空いていた。充電器を回すのも面倒だし、この携帯電話全盛の時代に久しぶりの公衆電話もいいと少し感慨にふけりながら、男はそそくさと四面ガラス張りのボックスに入り、財布の中にまだ残していた使いかけのテレホンカードを取り出した。もう磁気が消えて使い物にならなくなっているのではないかと思われたが、電話機は難なくそれを吸い込む。自宅への番号は指が覚えている。電話口から優しい妻の声が響いた。

(もしもし?)

「…あ、もしもし、俺」

(…あれ?どしたの?)

「あのさ、今すっごい雨でしょ、電車が遅れてて、帰り遅くなるかもしれない」

(…え、何時頃になっちゃうの?)

「わかんない。まだ時間まで出てないんだ」

(…そうなんだ…)

「ごめんな。時間が判ったらまた連絡するから。あと、携帯の電池切れちゃったからそっちからはかからないから」

(…わかった。じゃあ料理さめないうちに帰って来るよう努力するべし)

「今日は仕事休んだんだよね。産婦人科行ってきたんでしょ。具合は?どう?」

(全然平気。つわりの酷い時期はもう過ぎたってお医者様も言ってた。仕事の方が本当は平気じゃないんだけどね。こんな時に休んじゃって)

「…そうか…。本当にごめんな。こんな日に。アリスザカートのレアチーズで勘弁してね」

(やった!愛してる!)

「…愛してるよ。それじゃ」

 電話を切った男は、鞄と一緒に持っている黄色地に有名菓子店の緑のロゴが入った派手なビニール袋を見つめて、中身が無事であることを祈った。


 隣の電話ボックスも終わったらしく、ガラス越しに真面目な老紳士風の男と目が合った。お互いに軽く会釈をする。向こうさんも家族への連絡だろうか。そうして老紳士が立ち去った薄暗い電話ボックスの隅に、真っ黒な鞄らしきものがあるのを見つけた。


「…あ、ちょっとすいません!忘れ物!」


 人通りの多い大雨の駅前。男は電話ボックスから飛び出しとっさに大声を上げ老紳士を引き留めようとしたが、既に彼は見あたらなかった。後を追いかけようにも人混みが多すぎ何より手持ちのケーキの具合が心配だった。

 まあいいか、と半ばあきらめ顔で、男はもう一つの電話ボックスに置き去りにされた黒い鞄を見つめた。

「やれやれ…」

 電話ボックスの中に入りその真っ黒の鞄を確かめる。一辺が40cm、厚み10cmほどの立派なアタッシェケース。ひょっとしたらあの老紳士の連絡先が入っているかもしれないという期待はすぐさま崩れ去った。ご丁寧にロックもかかっているようだ。駅前の交番にでも持って行くか。そう思った矢先、


 何の前触れもなくいきなりそのボックスにある公衆電話が鳴り響いた。


 公衆電話が鳴るとは予想してなかった男は反射的に受話器を持ち上げた。

「…あっ?…もしもし?」

 男は咄嗟の事に自分でも間抜けだなと思うぐらいの営業声で話しかけてみた。

「もしもし?」

 返事がない。ひょっとして先ほどの老紳士かと思ったが、今の今までここにいた人間がわざわざ電話などかけるだろうか?

「あ、先ほどの方ですか?」

 相手は黙ったままだが、電話から聞こえる微かな息づかい。電話口に人がいることは確かだ。

「あの…ここに鞄を忘れていった方ですよね。違いますか?」


(…こんにちは。いや、もうこんばんわ、かな)

 ようやく返事が返ってきた。だがどうも要領を得ない。声の質は先ほどの老紳士のイメージがあるかといえばあるが、もっと若い気もする。

「えっと、違いますか?」

(…その鞄には手を触れないでおくれよ)

 相手の言っている事の意味が理解できないでいた。

「…どういう事ですか?」

(…これから少し約束事を決めるが、それがきちんと守れると約束してくれるなら、詳しく話そう)

「…約束って、何です?」

(一つは私の許可無くその鞄に触れないこと。もう一つはこの電話を切らないこと。そして最後はそこから出たり、外に聞こえるような大声を出さないこと。いいかね)

「?何ですかそれ…」

(この約束が守れるなら、説明しよう。守るか守らないか。二つに一つ。どちらか答えてくれるだけでいい)


 目の前の鞄を見つめるにつれ、男の背中から脂汗がにじみ出てきた。

「ひょっとして…これって…」

(さあ、約束を守るか、守らないか。尤も、守らない場合はどうなるか、概ね見当が付いてきた頃だろうね)

「まも…守ります…」

 生唾を飲み込んだ口からやっと言葉を吐き出した。

(素直でよろしい。では簡単に説明をしよう。その鞄には爆弾が仕掛けられている)


 男の全身から血の気が引いた。そしてこの電話ボックスに入ったことを後悔した。


「い、言ってる意味が分かりません」

(言葉のとおりだよ)

「冗談では、ないんですよね」

 男は必死に冷静を装うとした。最初は誰かのいたずらかと思ったが、目の前のアタッシェケースがあまりにも物々しく、彼の目には本物の爆弾が仕掛けられているようにしか見えなかった。

(耳を澄ましてごらん。周りが五月蠅いかもしれないが微かに振動音が聞こえるだろう)


 たしかに僅かだが振動音やモーターの回転音が聞こえる。

(その爆弾には振り子信管といってね、動かすと爆発する装置が組み込んである。だから無闇に触ってほしくないんだよ)


 それを先に言え、と心の中で怒鳴った。


「なんで…こんな事をするんですか?」

(答える必要はないと思うがね)

「じ…自分には家族がいるんですよ?」

(それは君の目の前を通行する誰にでも家族がいるだろう。もちろん、私にも)

 目の前のガラス越しに、傘をさした大勢の人間が帰宅ラッシュの様相を呈していた。


 頭が混乱している。冷静になれ。そう、相手はどこかの電話口。そこから自分の姿が見えるわけがないではないか。三つの約束のうち、一つは鞄に触れないこと。触れたら爆発する。一つは電話を切らないこと。切れれば電話ボックスの中の状況が分からなくなる。もしリモコンも付いているならその時点で爆発させることができる。大声で叫ぶのも相手に知られて爆発。しかし無言のフリをして、ここから離れることができるかもしれない。周りは雨と喧噪で常に受話器に雑音が入っているはずだからこちらの呼吸音が聞こえていないかもない。ガラスドアが開く音も何とか誤魔化せるかもしれない。

「自分は、いつまでここで、こうしていればいいんですか?」

(しばらくの辛抱だよ。約束を守ってくれればじきに解放してあげよう)

「しばらくって?どれくらい?」

(一時間以内には。正確には答えられないがね)

「解放って、一緒にドカン、とかは嫌ですよ」

(もちろん。無事にそこから出してあげるよ)


 そんなの信用できるか。一時間もこうしてられるか。早く逃げたい、男はそればかり考えていた。徐々に自分の息を殺し、そっとガラス扉に左手をかけた。ゆっくりと力をこめて開けようとするが、なかなか力が入らない。そうするうちに、少しだけ扉が開いた。意外と音もせずに。


(ああ、どこに行こうとしてるのかな)


 心臓が止まりかけた。

「そんなことないです、ただ、狭いから」

 男は必死に取り繕った。床においた派手なビニール袋を咄嗟に手に取る。

「今日は…妻の誕生日なんです…誕生日のケーキ、形が崩れてないか心配で…」

(ああ、アリスザカートはいい店だ。私も利用させてもらってるよ。こう見えて甘いものには目が無くてね。あそこのレアチーズがまた格別なんだ)

 こう見えてって、俺にはあんたが見えないんだよ、と悪態をつきつつ、相手にはこちらが見えている事を確信した。どこだ?

 あたりは日が暮れ、電話ボックスの天井から薄汚れた蛍光灯が光を投げかけている。この雨の中、そう遠くから中が窺い知れるはずがない。すぐ隣には航空会社の大きなホテルがそびえ立ち、明かりが付いた窓がちらほらと並んでいた。道路を挟んだ向かい側には5〜6階建て雑居ビルが幾棟も建ち並び、真向かいにあるコーヒーショップの窓際で寛いでいる客はいかにもこちらを観察しているように思えた。


(そうきょろきょろしなさんな。約束は守るよ)

「信用できません」

(心配するな。焦っても何も始まらない)

「そもそも、なんで俺なんですか?!」

(たまたま、君だっただけだよ)

「たまたまって…もし自分じゃなかったらどうするつもりだったんですか?こんな電話、普通なら誰かの悪戯かと思いますよ」

(仕事帰りの真面目なサラリーマン。家族サービスも大切にする。電話応対も礼儀正しい。君がその鞄を見つけてくれて助かったと思っているよ。君はちゃんと、それが本物の爆弾なのではないかと疑ってくれている)

「な…」


 馬鹿馬鹿しい。沸々と怒りがこみ上げてくる。


「どうせその鞄、オモチャでも入っているでしょう。手の込んだ悪戯ですね。もう付き合ってられません。帰ります」

(ああ、そういうならご自由に。ただ、約束を破るからには相応の代償は支払ってもらわないとな)

「…切りますよ」

(ご自由に)


 アタッシェケースからのモーター音が一際大きくなる。一際高い高周波が唸りだした。


「…待って、これは一体」

(いや、君が帰るなら仕方がないと思ってね。周りの通行人は可哀想だが)

「止めてください!今すぐ止めてください!!」

(帰るのではなかったのかね?)

「お願いします!ここにいますから!止めてください」

(液体炸薬のポンプが回っただけだ。そう気にするな)

「液体…」

(HMXってね。弾道ミサイルにも使われている高性能爆薬だよ。そこからなら、道路向かいのビルまで吹き飛ばせる)


 悪戯ならとんだ妄想狂だ。でも、もしそんな威力がある本物の爆弾なら、駅で足止めを食らっている通行人はもちろん、ビルのテナントの従業員や隣のホテルも無事ではすまい。男はふとスーツの内ポケットにしまってあったバッテリー切れの携帯電話の事を思い出した。電子メールなら相手に気づかれず妻に連絡ができるかもしれない。そこから警察に連絡してもらおう。悪戯メールだと勘違いされる可能性もあるが、やってみるまでだ。男はなるべく自然を装って鞄の中から携帯充電器を取りだし、ハンドルをゆっくりと回し始めた。雨が酷くなり、電話ボックスの内側が曇ってきている。簡単にはバレないはずだ。


「テレビの見過ぎなんじゃないですか?一体何の目的で…」

(君たち日本人はテレビでしか世界を知らない。私はいろいろな世界をこの目で見てきたよ)

「…」

 話をはぐらかされたが、相手は充電器のハンドルを回していることに気づいてないようだ。

(三年前にイタリアの議事堂近くで爆弾テロがあったのは覚えているかな?当時は大々的に報道されたと思うんだがね)

「…覚えてません」

(ほら。これだ。自覚あるだろう日本人。平和ボケしてるとね)


 相手は流暢な日本語を話してはいるが、どうやら外国人らしい。確かに微妙なアクセントが日本人のものではない。先ほどの老紳士、見た目は日本人にも見えたのだが…よく考えるとアングロサクソンだった気もする。記憶が曖昧だ。


「…改めて聞きます。あなたの目的は何ですか?」

(何度も言うが、答える必要はない。それとも、我々の目的を聞いて今後の君が無事でいられる保証はどこにもないと思うがね)

「…」

 男は迷った。こんな訳の分からない事で死にたくはないが、もし相手が約束を守り自分をこの場から解放しても、警察の事情聴取を受けるだろう。相手が秘密を知った自分をそのまま生かしておくとも考えられない。結局、自分には逃げ場がないではないか。

「爆弾テロなら、今爆発させても何の支障も無いんでしょう。何を待っているのですか」

(話す必要はない)

「…では今爆発させると、計画は失敗に終わるわけですよね」

(…君は余計な事を考えるな。私の指示通りに動いていればいいんだよ)


 携帯の電池目盛りが一つ点灯したことを確認して、男は続けた。

「自分が約束を守ってここから離れたとしても、この爆弾で大勢の人が死ぬんですよね」

(そうだな)

「自分はそれを見過ごしてのうのうと生きていけるほど悪人ではありません」


 男は携帯の画面を確認した。アンテナは正常に立っており、メールができる状態にある。アドレス帳から妻の携帯を選択し、新規作成のボタンを押した。


「何なら、今大声でここから離れるように叫びますよ。爆弾があるって。さっきから見ていると、爆発させるには少し時間がかかるようですね。自分が喚き散らせば、被害は最小限になるかもしれません。そしてあなたの計画は失敗する。しがないただのセールスマン一人を爆死させるだけです」

 男の全身から汗が噴き出ていた。声は気丈夫を振る舞っていたが、手足の震えが止まらない。

(それでも被害が君一人になるとは限らない)

「自分が見過ごしてより大勢の人が犠牲になるよりマシです。それに、今爆発させればあなたの計画は確実に失敗する」

(…やれやれ。困った。英雄気取りだな。日本人は臆病な人種だと聞いていたが)


 震える指でメールを打つ。駅前の電話ボックスにいること、自分が今爆弾魔に脅迫されていること、県警に連絡してほしいこと。神に縋る想いで送信ボタンを…


 突然メールを打っていた携帯電話が鳴り響いた。


(君の携帯電話か。無視しろ)

 会社の同僚の名前が表示されていた。まったくタイミングが悪すぎる。いや、これはチャンスかもしれない。

「…待ち合わせをこの時間に約束してたんです。出ないと怪しまれます」

 咄嗟に嘘をついた。

(無視しろ。家に帰る途中なのではなかったのか)

「知人に借りてた本を返すだけです。駅前のどこかにいるんですよ。出なかったら、ここを見つけだしちゃうかもしれません」

 我ながらよくもここまで嘘を並べられると感心した。

(…よかろう。約束は忘れて帰ってしまったと伝えろ)

「できません。営業用のGPS付き携帯なんで、この場所もいずれバレると思います」

(日本人はやっかいなものを発明してくれたな…ではそいつをお前の場所に呼べ。すばやく用件を済ませろ。もちろんこの電話は切るなよ)

「わかりました」

 同僚からの電話は既に着信履歴として残るのみだった。途中になってた妻へのメールを素早く送信すると、履歴の電話番号を選び通話ボタンを押した。

(電話の内容は聞こえるようにな。お前の声だけでいい。妙な事を口走ったら、どうなるか分かっているな)

「…わかってますよ。自分もこんな事で死にたくありません」

 さて、困った。知人に本を借りているなんてのは嘘っぱちだ。自分の声は誤魔化せても、この場所に来た同僚との会話は誤魔化せそうにない。同僚がこの駅前にいるということも嘘だし、もし近くにいても、その場を誤魔化しつつ、自分が脅迫されていることをどうやって相手に伝えようか…

 男はふと目の前の曇りガラスに目をやると、携帯電話と公衆電話の受話器を両方器用に肩に挟んだまま同僚が出るのを待った。

「妻に内緒で借りてる本なんで、知人にはこの電話は妻にかけている電話ってことにしておきますよ。それなら知人も納得してすぐ帰ってくれるでしょう」

(わかった)

 数コールの後、同僚が電話に出た。

「もしもし、ああ俺」

(いきなり電話してごめんな。さっき帰り際に営業部長が…)

「ああ、そう、見えるかな、切符売り場の隣の電話ボックス」

(…うん?おい、何を言ってるんだ?)

「今、その嫁さんと電話してるんだよ。電車が遅れてるからって連絡したらカンカンに怒っちゃってさ。電話切らせてももらえないんだ。早くこっちに来いよ」

(え、俺、もう自宅だよ。何言ってるんだ?家が反対方向だってお前も知ってるだろう?)

「あ、そうなのか。じゃあ来ないんだな。悪いな。気を遣わせてしまって」

(おい、嫁さんと何かあったのか)

「じゃあ」


 電話を切る。失敗だ。近くにいれば警察に知らせてくれるよう頼めるかもしれなかったのだが、こうなっては妻に送ったメールに期待するしかない。


(気が利く友達だね。これで余計な荷物を背負わなくてすんだ。…そうか、君は携帯電話を持っているのか。公衆電話を使っていたから、てっきり持っていないものだと思っていたよ)

「…営業用の電話なんで、私用では使わないことにしてるんです」

(…どうも君は必要以上にきちんと説明をしてくれるね)

「変に疑われたくはないですから」

(外部とメール連絡などしてないだろうね)

「…いま思い出したぐらいですよ」

 どこまで嘘が通用するかわからない。


(ではこうしよう。その携帯電話を両手に持って頭上に掲げてもらえないか)

「はい?」

(今すぐに!早くしろ!!)

 電話の主は突然声を荒げた。

 こうなったらなるようになれだ。あきらめにも似た気分で、男は言われるがまま頭上に携帯電話を掲げた。精一杯背伸びをして肩に挟んだ受話器が滑り落ちそうになるのをこらえる。電話ボックスの上方はまだそれほど曇りが酷くない。

(よし。折りたたみタイプなら簡単そうだな。そのまま折れ)

 ぱたん、と閉じた。

(君は頭が悪いのか!?折って壊せと言っているんだッ!)

「これは会社のなんで…」

(自分の命と携帯電話、どっちが大切なのか分かっているだろう?!)

 意外だ。相手は明らかに動揺している。俺にメールを送るチャンスがあったことに気づいたようだ。妙だな。携帯電話で電子メールをするぐらい思いついて当たり前だと思っていたが…日本人だけなのか?

「…わかりました」

 本当は自分の私物。長年使っている。妻との思い出のメールも仕舞われている大切なものなのに…

 男はこの不幸な事件に巻き込まれたことを呪いつつ、そして妻へのメールが正しく判断されることを祈りつつ。

「…ああ、なるほど。もういいや」

 バキリと電話を折り壊した。

(よろしい。人間はあきらめが肝心だな。しばらくじっとしているんだ)

「腕は下げてもいいんですよね。攣りそうだ」

(かまわんよ)


 しばらくの沈黙。男は惚けた顔で曇りガラスに向かって指を滑らせていた。

(うむ。また厄介なことになったな。これは計算外だ)

「何がです?」

 一瞬心臓が縮み上がる。

(駅側を見てごらん。デカイのと細ッコイのがお揃いのスーツで似合わない傘を持ったままウロウロしてるだろう)

「あ、ああ、あれですね?」

(もし何があっても、その鞄には触らせるなよ)

「…どういうことです?」

(あの二人は警官だ。イヤプラグをしているだろう。本庁のSPだな)

「ちょ…何があっても、って、何をどうすればいいんですか」

(それを考えるのは君の仕事だよ。もし誤魔化せなかったらどうなるか、君も承知なはずだね。まあ鞄を見過ごして職質されないことでも祈ろうか)

「警官?SP?なんでそんな人たちがここをウロウロして…」

(必要なこと意外は話す必要はないのだが、これは予定外だな)

 ぼやけたガラス板越し、駅前の掲示板に発光ダイオードで構成された文字が流れている。

「外務大臣来県…捕鯨再開に向けて知事と地元漁業組合を交えて意見交換会…」

 男は気だるく流れる文字を読み上げると駅隣の航空ホテルを見渡した。入り口にはいつの間にか多数の同じようなスーツを着た私服警官らしき人間が幾人か取り巻いている。

(最近は日本国内といえど警備が厳しくなった。首相でなくてもこれだけの警備なのか)

「確か、意見交換会の会場はこのホテルでしたね」

(ご名答。これで君は本当に逃げられなくなった)

「それは、たいへんですね」

(…?どうした)

「もう、どうでもいいです。警官がこちらに気づきそうです」

(ひとつアドバイスをやろう。君が持っているビジネスバッグをアタッシェケースの脇に並べるんだ。もちろんアタッシェケースには触れないようにな。買い物袋も並べるとなおいい)

「木を隠すなら森に、ですか」

(そうだ)

「でも、もう気づいているようなんですよ」

(なんとか誤魔化せ。電話は切るなよ。外にも出るな)


 警官と目があった。その目線が足下のアタッシェケースに移ると、有無を言わさず歩み寄ってきた。見る限りベテランの刑事と言った風格だ。

「申し訳ありません。警視庁警備部の者ですが、ただいま非常警戒中でして、このあたりに不審物がないかを探しているのですが、心当たりは無いですか?」

 さも当然と言った風格でこの雨の中大声で朗読するように問いかけた。

「いえ、得には…」

「そうですか。実は最近になってテロリストが国内に潜伏しているという情報が入っておりまして、警備を強化していたところです。お忙しいところ、ご協力ありがとうございました」

 またもや朗読するような大声。視線はずっと足下に注がれたままだ。

 二人の警官は、事情を介したようにその場を引き下がると、外部と連絡を取り合っているようだ。

(…拍子抜けだ。意外とあっさり引き下がってくれたな。鞄は大丈夫か?)

「…大丈夫です。目立ってないと思いますので…それにしても有名人ですね、意外と」

(長いことこういった仕事をしていると、君のような人間にはよく出会うよ)

「どういう事です?」

(最初は皆自分の正義を振りかざすんだよ。しかし現実が徐々にそれに取って代わる)

「それより、自分はいつ脱出すればいいんですか?約束ですよ」

(覚悟ができたようだね。もうすぐ大臣を乗せた車がそのホテル前に到着する。私が合図したらそこを出てもいい。なるべく遠くに走って逃げるんだな。爆発に巻き込まれたくはあるまい)

「わかりました」

 まるで生返事。

(そんなに良心が痛むか)

「いえ。そんなことはありません。もう、どうでもよくなりました」

(そうか)


 男は道の反対側にそびえるビルの群れをぼうっと眺めながら、ぼそっとつぶやいた。


「一つ、聞いてもいいですか」

(なんだ?)

「外務大臣なんか殺して、どうするんです」

(そうだな。この際せっかくだ。教えてやろう。日本の調査捕鯨船が…)

「?どうしました?」


 返事がいきなり無くなった。しばらくの沈黙の後、再び受話器から今度は別の男の声が聞こえる。


(…県警警備部です。犯人はこちらで確保しました。遠隔起爆装置も確保しましたので、そちらの警官の指示に従ってそこから待避してください。ただいま爆発物処理班が向かっております。念のため事情聴取がありますので、後で中警察署の方に出頭願えませんでしょうか?)

「…今日は妻の誕生日なんですよ。全く」

(ご協力感謝いたします)


 爆発の範囲、充電器を使っている姿が見えない位置、そして電話ボックス頂上付近に掲げた携帯電話が見える位置について長々と書かれた曇りガラスを眺めた後、力の抜けきった足で警察に向かう。案の定、道路向かいのビル群の一つ、一階部分に警察官が大挙していた。



「やあ、そっちは今から仕事か。あっちの受付もう行列になってるんだけど」

「ご苦労様。事情聴取何人いるのか見当もつかないわね。とりあえず今日は連絡先を聞いて帰すだけだからそれほどでもないんだけど、明日から地獄だわ」

「それにしても」

「何?」

「悪戯でないとよく見抜けたなあ。助かったよ」

「あれからあなたの会社の人から連絡があったし、休んじゃった今日の仕事のこともあったから、とても冗談と思えなかったのよ」

「よくもあれだけの長文が打てたなあ。メール。苦手だったでしょ」

「ちゃんと見られた?」

「見た直後に壊しちゃったけどね。…お腹の赤ちゃん、大丈夫か?意外と制服も入るもんだな」

「まあこういった状況だから私服って訳にもね」

「あ、」

「どうしたの?」

「ケーキ」

「いいわよ。あなたが無事に帰ってこられたから」


ちょいと昔に書いた短編です。1日で書き上げるという脳内ルールに従ったら終わり方が中途半端になってしまいました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] みじかいのにきちんとサスペンスされていて楽しめました。 うまい。 [気になる点] ラストの「意外性」が、読解力のない私にはわかりにくかったので、その点で減点。 [一言] セオリーブレイカ…
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