グレクスの思惑
グレクス・ウルプは、アンナリセの突然の変貌を心から歓迎していた。
別人と魂が入れ替わったのだとしても、何の問題もない。むしろそのほうが好ましい。そんな風にすら感じていた。
だが、当人が心を入れ替えたというからには、そういうことなのだろう。
悪行三昧であっても、密かに尻拭いの日々でも、グレクスはアンナリセのことを気に入っていた。何より顔が可愛い。今日のように、しとやかな振る舞いであれば、その可愛らしさは倍増する。
特に、婚約破棄を言い渡した直後からのアンナリセの魅力的な振る舞いは衝撃的だった。婚約破棄したことを深く後悔した。罪悪感ではない。速効で取り消した。受け入れて貰えて本当に良かった。
あのとき、婚約破棄の言葉に、アンナリセは瞬間、吃驚しすぎた表情で意識を失ったように見えた。だが、シャキっと、背筋を伸ばした綺麗な立ち姿になり、自然に浮かぶ微笑みが途轍もなく可愛かったのだ。アンナリセは不意に、婚約破棄との言葉が浸透したのか、丁寧な礼をした。戸惑いがちな表情だが、毅然として、とても魅力的だった――。
グレクスは、あの瞬間を反芻するように何度も思い返す。
すっかり惚れ直していた。出逢った当初のトキメキが、戻ってきたように感じられたのだ。
「ああ、トレージュ。お前との婚約はなしだ」
ひっそりと近くへと歩み寄ってきたアンナリセの義妹、トレージュへとグレクスは告げた。
アンナリセとの婚約を破棄した後で、トレージュとの婚約を発表する手筈だったが取りやめだ。
義妹といってもトレージュはアンナリセと歳は同じ。
「どうしてですの? あれほど、お義姉さまを疎んでいらしたのに?」
トレージュの取り澄ましながらも、ぎりりと歯がみする気配を感じとり、グレクスは一瞥して視線を外す。
「気が変わった」
そっけなく告げた。
悪行を極め続けるアンナリセに比べれば、どこのどんな令嬢でもマシだ。まして、同じヘイル侯爵家の者であれば、家同士の確執を心配する必要もない。と思っていたのだが、さっきのアンナリセの可憐な姿を見てしまった後では、礼儀正しく聖女のように美しいトレージュであっても色褪せていた。
それに、トレージュは相当な策士。
権力欲しさに義姉の婚約者を奪おうとする相当にしたたかな女だ。
「お義姉さま、絶対ヘンでしたわ。とても、お義姉さま本人だとは思えません」
薄茶の髪に、茶の瞳。髪を質素に結い上げ、衣装も控えめ。それは、アンナリセとの対比を際立たせようとしてのことだろう。アンナリセがつくづく面倒になっていたグレクスは、分かっていてトレージュの企みに便乗するところだった。だが、危機一髪だった、と、安堵している。
トレージュは暗に、アンナリセの偽物だとでも言いたいようだ。だが、変貌はグレクスの目の前で起こり、誰かと入れ替わる隙などなかった。
それに、別人だとして何の問題があろう?
お義姉さまの悪行をのさばらせてはダメ。ウルプ小国のためになりません、などと言いながら、トレージュのほうこそ何か腹黒い計画がありそうだった。
アンナリセは確かに大人気ないことばかりしていたが、元より腹黒くはない。
そして、今や、すっかり理想的な令嬢と化した。
トレージュを馬車に乗せてヘイル侯爵家へと送りかえすと、グレクスは家令を呼んで進みつつあった計画の変更を告げた。
「本当に、アンナリセ様と、婚姻なさるので宜しいのですか?」
「ああ。トレージュとのことは白紙に戻してくれ。アンナリセと婚約続行だ」
「はあ。畏まりました。婚約の変更は、身内にすら内密でのことでしたから特に支障はございません。ですが……」
家令は、アンナリセの悪行の数々に苦悩しているひとりだったから、婚約破棄してトレージュとの婚約を発表することを密かに愉しみにしていたのだろう。家令ひとりでは手に負えず、専用執事を使ってアンナリセの悪行の尻拭いをさせているようだった。
「アンナリセは、心を入れ替えたそうだ。ウルプ小国に嫁ぐに相応しい令嬢だ」
グレクスは、そう家令に告げながら、満面の笑みだ。
後々に王宮の行事へと同行させる際にも、自慢できる存在になっている。
家令は、疑わしそうな視線をグレクスへと向けたが、黙していた。
グレクスは、俄然、アンナリセを見せびらかしたい衝動に駆られている。大規模な夜会を開き、改めて披露するのが良さそうだ。
「近々、夜会をひらく用意をしてくれ。盛大なほうがいい」
アンナリセは、悪行を償う、といっていたから、機会を用意するつもりだ。
各地の貴族の令嬢に失礼な悪戯をし続けていたが、あちこちの土地へと謝罪して回るのには無理がある。一堂に会してしまえば、手っ取り早い。
たとえ、償うとの言葉どおりの行動ができなかったとしても、変貌して魅力的なアンナリセの姿を、自らの婚約者として披露したい気持ちがあふれている。
「承知いたしました。早速、手筈を整えましょう」
家令はアンナリセとの婚約破棄が破棄されたことに納得はしていない様子だったが、丁寧な礼をすると下がっていった。