06
2人で過ごすようにと言われた手前、無視して部屋へ戻ることもできないので、散歩という名目でセリオンを連れて王宮内の温室を訪れていた。この温室は数代前の王妃が建てたもので、ユーウェール国内外のさまざまな植物が育てられている。
「妙な噂が流れているようですが、知っていますか?セリオン」
「噂、ですか。どれのことでしょう」
「複数あるんですか……」
出入り口に侍女と護衛たちを置き、セリオンと二人で温室内を歩く。大声で話さない限りは会話を聞かれることもないし、視界を遮るものもないから護衛たちに心配をかけずに話をするにはちょうど良い。
甘い香りの漂う花の横を通り過ぎながらセリオンに話しかけると、特に考える様子もなく返答があった。噂というのは本人に知れないところで流布されるものでは?と思いつつ足を止めた。
「あなたの噂がどのくらいあるのかは知りませんが、わたくしとあなたの婚約についての噂です」
「ああ…私が一途に姫を想っているという。事実では?」
「わたくしはそのような事実は知りませんよ。……あなたは良いんですか?妙な誤解を受けてしまって」
今日までに得た情報で、セリオンとの婚約にどういった思惑が働いているのかはなんとなく理解できた。サルドニクスが最初に言っていた通り「断れない縁談が来る可能性を潰すため」というのが一番大きな理由だろう。
ユーウェールの性質上、周辺国と下手に結び付くとパワーバランスが崩れかねない。そのため、国内貴族から降嫁先を選ぶのは妥当と言える。その中でも”ちょうど良かった”のがセリオンで、本来ならばもう少し根回しをしてから婚約をする予定だったのだろう。それが早まったのは恐らくトルエからの縁談が断れなくなってきたからだ。
トルエは現在安定期にあるし、ユーウェールとは距離が離れていて直接的な国交はない。そうなるとパワーバランスを理由に断ることはできなくなる。そして次の夜会にはノル王子本人がやって来るということだから、それに先んじて婚約を発表することにしたのだろう。
しかし、セリオンにとって私との婚姻が不利益でないとはいえ、いくらなんでもやりすぎな気がする。ペルラの話の通りなら甘い態度はセリオンの性質ではなさそうだし。
改めてセリオンの顔を見上げてそう言うと感情の読めない笑顔を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「……我が姫は私との婚約がご不満なのでしょうか。仲が睦まじく思われる方が良いのではないですか?」
「不満だと言っているわけではありません。…はじめに言ったでしょう。わたくしたちは婚姻という契約を結んでいるだけです。確かに関係が良好であるアピールは必要かもしれませんが、あなたが無理をしてまですることではないと思います」
「無理とは、姫への愛を囁くことでしょうか。それともこうしてあなたに触れること?」
言葉と共に手袋をはめた手が伸びて来て私の頬に触れる。触れられるまま、じっと眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を見つめても甘やかな笑顔とは反対に熱も何もなく、こちらを観察するような視線だけが返ってくる。それにひどく安堵した。
「……わたくしは、あなたがわたくしに興味を持っていなくてよかったと思っているんです」
「それは……なぜ?」
私が答えるとセリオンの笑みが消え、無機質な瞳に不思議そうな色が灯る。頬に触れていた手がこめかみの方へ移動して、横に流していた髪を耳にかけるのを好きにさせながら私は話を続ける。
「あなたも身に覚えがあるのではないですか?興味を持たれることで、面倒に巻き込まれたことが」
「…ないとは言えませんね」
「そうでしょう。わたくしはそういったものに煩わされたくありません。それはあなたも同じではないですか?」
薄々そうではないかと思っていたが、ペルラの話を聞いて確信に変わった。セリオンも私も自身の容姿と立場のせいで望む望まざるを関係なく一方的な感情を押し付けられて来たのだと思う。知らない人からの感情は、それが好意であったとしても怖い。
早くに嫁いだ姉や体の弱い母の代わりにユーウェール王家の『顔』として公務に参加していた私は、他人から向けられる感情に辟易していた。それに付随して透けて見える”愛”という不確かなものへの不信感も。
「つまり、姫はあなたを愛していない私が好ましい、ということでしょうか」
「そこまでは言っていませんが…わたくしは愛情で結ばれた関係よりも互いに誠実な関係の方が信頼できます」
「今の私の振る舞いは不誠実である、と?」
「少なくとも誠実ではないでしょう。わたくしだけでなく、あなた自身にとっても」
こうして話している間も私の耳をなぞったりつまんだりしていたセリオンの手を取って下ろさせる。動きだけ見れば恋人同士のようだけど、相変わらずセリオンの瞳にはそういった熱がない。変な人、と内心で呟く。
「こういった触れ合いも結構ですから。あなたは別にわたくしからの愛情を望んでいるわけではないでしょう?」
「……そうですね。正直なところ、愛や恋といったもののことはわかりません」
下ろした手を離そうとするとそのまま握り込まれ、それに驚く間もなくセリオンの言葉が落とされる。まるで今まで見て来た彼らしくない物言いに顔を上げると、笑みを消した端正な顔が憂いに似た影を浮かべながら私の手を見下ろしていた。
「姫のおっしゃる通り、私は『宝石姫』への興味はさほどありません。お美しい方だとは思っていますが」
「……それは、どうも?」
「ただ、”あなた”に興味がないわけではありませんよ。初日にきちんとお伝えしたと思うのですが」
にこりといつもの笑みを浮かべ、セリオンは私の手を掬い上げるように持ち上げた。
「あなたは真面目で警戒心が強いかと思えば初心でお人好しで、こちらが心配になるくらい無防備なところがある。今だってほら──男に好きに触らせるなんて」
「っ、!!」
眼鏡越しにアイスブルーの瞳が私を見つめながら、持ち上げた指先に口付けを落とす。そのまま唇で柔らかく関節を食まれ、びくりと肩が震えて一気に体温が上がる。反射的に手を引くとあっさりと手を離された。
「なっ、なっ何を!!」
「姫は勘違いしていらっしゃいます。私は別に、無理にこういうことをしているわけではありませんよ。したいからしているんです」
「で、でも、あなたはわたくしを好きなわけではないでしょう」
「そうですね。先ほども言いましたが、私にはそういった感情のことはわかりません。でも、あなたが私の言動で”そう”なることに興味があります」
”そう”と言いながら視線が熱くなった頬に向けられ、思わず手のひらで隠すと楽し気な笑い声が聞こえて来る。反応をからかわれたのだと気付いて睨んでみても、セリオンは悪びれる気配もない。
「セリオン!」
「っはは、すみません。我が姫があまりにもかわいらしいので」
「そういうことは結構だと言っているのに……!」
「おや、私は自分自身の心に誠実になっただけですが?」
「……もう知りません!」
明らかにおもしろがっている男を前にこれ以上何も言えなくなってしまって、私は淑女らしからぬ動きでぷいっと顔を背けると温室内を歩き始める。後ろから小さく笑う声が聞こえて来ていっそう恥ずかしくなるけど、立ち止まることはできそうになかった。
後日、当然のことながらこの温室での様子は侍女や護衛たちから密かに漏れ、「セリオン・シャンデルは『宝石姫』を溺愛している」という噂がよりいっそう真実味を伴って囁かれることになるのだけど──このときの私はいっぱいいっぱいで、知る由もなかった。