プロローグ
今はもう四百年も前の話になるだろうか。それでもオレにとっては昨日の出来事、いやそれ以上に―――絶対に風化することはあり得ないオレがオレであるための記憶の話。
水面に揺れる一隻の貨物船。オレはその船に搭乗していた一人の仮の船員だった。ある事情で途方に暮れていた小僧であったオレを、この船の人たちは温かく迎えてくれた。そして、それからは雑用として働く毎日。でもそれがオレにとってかけがえのない毎日だったことは間違いなかった。
この世界に魔術というものが、魔物というものが、精霊というものが、幽霊というものが存在していても、それが一般人である俺の生活で、人生だった。そんな超常的なものとは一生無縁だと思っていた。
―――だというのに。
「……ぁっ…………ぁぁ……!」
船底に位置する、明かりもついていない暗い暗い倉庫の中で呻き声だけが木霊する。誰のものか? そう考えるまでもない。
オレの声だ。
「なんで……こんな…………ゲホッ、ウェェッ!」
呼吸するごとに身体の全てに浸透して、侵されていく。それが痛みとなって知覚される。
瘴気。強い魔力があらゆる生物の負の感情を吸い上げ、長い年月をかけ変化し、生物に有毒なものに変化したもの。気体のような性質をもち、呼吸によって吸ってしまえば、肺から血管を通じて全身へと巡り、挙句、痛覚を過敏にしながら細胞を腐らせ死に至る。
そんなものが今や船の至る所に侵入、充満し、船の中にいた生命全てを巻き上げ、散らせていく。
急に風向きを変えた潮風が海上に漂っていた瘴気群を船へと吹き上げ、結果避け切れずに船の中まで瘴気が満ちてしまっていた。
船から飛び降りて海に飛び込めば何とかなるのだろうか。でも今、倉庫の中にいるオレにはここからデッキまで這い上がるような気力なんてこれっぽっちも起こらない。
ただ唯一、全身を苛む圧倒的な痛み。どんどんと強く、大きく、近く感じてくる痛みが、まるで鎌を持った死神のように感じられる。
もはや、動かすことも叶わなくなった腕を必死に動かそうとし、扉に向かおうとはするけれど。
霞んできた視界には、もう扉がどの方向にあるのかすら分からなくて。
今もなお揺れる船底となる床だけが、今自分が船の中にいると知らせてくれる道標になっていた。
「…………ありが……と……最後まで、一緒に……いてくれ……て」
微睡んでいたような思考でそう呟いた。自分が今、乗っている船に向かって。
短い間だったが、路頭に迷っていたオレの居場所。オレの家。そして、今もなお、次の一瞬にはどこにいるのか分からなくなってしまいそうなオレに、今いる場所を教えてくれているこの船に。
たった一つの感謝を。思考できないが故の混じりけのない感謝を。
「は……は……お前も、寂し……の……か…………ご、め……ん……な」
最後にお前を残すことになって――――――聞こえたような気がした何かに向かって、そう考えて――――――それを最後に遂にオレは、あの時、意識を手放した。
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