序章
京の長坂口より近く、鷹峯に差し掛かる街道。
月はまだ出ない。
漆黒の闇が包む街道をこの時刻に通行する旅人はまずいない。
峠の上り坂に差し掛かるこの場所に茅葺の茶屋がある。
日中は、上り下りの旅人や、馬に水を与え一息入れる人足たちで賑わうこの茶屋も、灯りを落として闇の中に溶けている。
暗闇の茶店の土間の戸の、わずかな隙間から街道を睨む男がいる。
(…さても)
声には出さず言葉を飲み込む。
闇の中に提灯の灯りが二つ、すいーと坂を登りかかる。
暗闇に儚げに瞬く灯りが茶店の前に来ると、いきなり引き戸が開き、灯りが街道を照らす。
「…かような時刻にどちらにおいでなされまするか」
茶店の主らしい老爺が問い掛ける。
ほんのりと灯りに照らされて二人の女人が佇む。
それぞれの手に提灯が大事そうに握られている。
少し大柄な、今一人は華奢な女人。
まずは共に美形である。
「京のさる摂家に奥女中として仕えます千代と申します。これなるは婢女の"とよ"でございます。障りある故、主家の名は名乗りませぬが、火急の事態に依り主の元に書状をお届けするよう奥方様より言いつかっております。今宵、連歌の会を催してございます鷹峯の別邸の主の元に急ぐところでございます」
華奢な女人が澱みなく応える。
身なりも悪くない。
「お気をつけていかれませ。この時期なれば間もなく月も出ましょうが、難儀があればすぐに引き返されなされますように」
「では」
一礼して急ぎ立ち去る女人たちに深々と辞儀を返し、すかさず戸を閉めると土間に座り込み息を整える。
この老爺には裏の顔がある。
京より諸国に通ずる道、古来より七口と呼ばれる街道には関所が置かれ、通行銭の徴収、人別改めが行われていた。
又、街道監視の役目を兼ねた旅籠や茶店が存在すると云われている。
甲賀の手練れとして諸国に名を馳せた老忍が、今は茶店の隠居の顔でこの任を負っている。
幾度の死地を乗り越えて生き延びた老忍の息を乱れさせた女たちの、正体はすでに知れている。
(―――"ののう"…頭領自ら出張るとは…)
武田信玄に仕える『ののう』と呼ばれる女忍集団、甲賀忍者の別れといわれるこの集団に、好んで戦いをいどむ者はいない。
女忍は死を厭わない。
戦えば、たとえ自分より強い相手でも相打ちで必ず仕留める。
気配がようやく消えた。
厳重な結界に守られて提灯の灯りが行く。
もしあの灯りの後ろに手裏剣を打ち込んでもそこに人はいない。
殺気を放った瞬間にこの茶屋は爆破され火炎に包まれる。