第九話 約束をしよう
そんな勉強漬けの日々が悪かったのか、たまたまムシャクシャしていたのか。
家庭教師がつけられて数週間後のある日、また朝食が運ばれてこなかった私はついに爆発した。
「もうやだぁー! ご飯も食べられないところで暮らすのやだよぉぉー! 帰るぅー! もう家に帰るのー!!」
泣き叫びながら窓から脱走しようとして、当たり前だけど侍女や女騎士たちに止められる。
そうこうするうちになぜか陛下まで駆けつける騒ぎになり、彼は私の言葉を聞いて初めて怒鳴った。
「帰るだと?! ここ以外のどこへ帰るつもりだ、センリ! お前の居るべき場所はここ以外に無いと分からぬか!」
たぶん誰に何を言われても、その時の私には届かなかっただろう。
けれど彼に捕まえられて揺さぶられながら怒鳴られたせいで最後の一線がプツリと切れて、その後はもう完全に興奮状態になり、私は日本語で喚きまくった。
『私は野原千里だよ! だから帰る家は野原家なのっ! もうこんなわけわかんないとこヤダ! 帰りたい、帰りたいよぉ! お母さぁぁぁん!!』
そうして誰にも分からない言葉でしばらく叫びまくった後、スイッチをオフにされた玩具みたいに、エネルギー切れを起こしていきなりぐしゃっと力尽きた。
これにはさすがにカイルも驚いたらしく、私はすでに呼び出されていた女性の医者に診察されて、診断された。
「おめでとうございます。竜胆の姫様、ご懐妊でございます」
かつてこれほど騒々しく妊娠が判明した妊婦がいただろうか。
は? なにそれ? という顔で揃って固まったカイルと私を笑うものは誰もいまい。
いや、診断した女医は一瞬ぷっと吹き出しかけてたけど。
急いで取り繕った彼女は、真面目くさった顔で続けて説明した。
「妊娠初期で、姫様はお気持ちが不安定になっていらっしゃるのです。そこに空腹や日頃の不満が溜まって、爆発してしまわれたのでしょう。これからはもう少し、心穏やかに過ごされるよう調整されるのが良いかと思われます」
びっくりしすぎて誰も何も反応できず、空間ごと瞬間冷凍されたかのようなその場で、私はおそるおそるカイルを見上げた。
その可能性はあったはずなのに、今の今までまさか自分が妊娠するなんて考えてもいなかったから、頭の中は真っ白だ。
心のどこかで、自分は異世界人だから、この世界の人の子どもを身ごもるはずはない、と思い込んでいたのかもしれない。
でも、本能が「聞け」と叫んだのだろう。
考えるよりも先に、私は彼に訊ねていた。
「産んで、いいの?」
その言葉に大きく目を見開いて、珍しく表情を変えたカイルは、泣いているような笑っているような、奇妙な顔で言った。
「産んでくれ。……俺の子を産むのはお前だけだ。お前に、産んでもらいたい」
いつもの彼のストレートな言葉に、何よりもほっとして、いつの間にか強張っていた体から力が抜けた。
それでも倒れることなく大きな腕の中でしっかりと囲われて保護されているのに、自分がずっとカイルの膝の上にいたのだとようやく気付く。
どれだけ興奮してたんだろう、私。
とろりと蜜のようにとけた私は、ちょっとくらい体重をかけてもびくともしない胸に身を預け、ふと意識に引っかかりを覚えた彼の言葉に反論した。
「カイルさまの子どもを産むのが私だけでいいって、それ、ダメじゃないの? うち、女系一家だから、男の子生まれないかもしれないよ? それってたぶん、困るよね?」
ほう、と面白いものを見つけたかのように、私を見おろす彼の目が光った。
「それはどうかな? 我が国の皇族は始祖より一度も女児を授かったことがない血筋だ。皇帝の子は男児しか生まれぬ。お前の血筋と皇族の血筋、どちらが勝るか見物だな」
そう言いながらも、彼は自分の血筋が勝って男の子が生まれると確信しているらしい。
私はむっとして言い返した。
「うちだってずっと女の子しか生まれない家で、長女がお婿さん貰って続いてきたの! 親戚だって女の子ばっかりだったし、私もその血を継いでるんだから、もしかしたら女の子が生まれるかもしれないよ!」
べつにどうしても女の子がいいわけじゃないけど、うちの女系の血筋を軽く見られているようで腹が立ったのだ。
たぶん、まだ空腹が解消されてなくて、“お気持ちが不安定”だからだろう。
売り言葉に買い言葉、みたいになった私に、彼は言った。
「ならば、そうだな。一つ約束をしよう」
「約束?」
「お前が産んだ子が女児であったなら、お前の言うことを一つきいてやる。だが男児であった時は、お前が俺の言うことを一つきけ」
「乗った!」
すぐ思いつくような願い事があったわけでもなかったけれど、面白そうだったので即答した。
そして、大騒動を起こしたばかりのくせに仲良くそんな話をしている私達を、周りの人々がちょっと苦笑気味に、でも微笑ましく見守っていることには気付かず。
私はマイラに呼ばれて、ようやく用意された食事を陛下に「残すなよ」という目で監視されながら食べることになった。