第三話 落ち着かない一日
「遅いですねぇ……」
「なかなか来ないねぇ」
後宮に来てから、食事が運ばれてくるのが遅くなることが増えた。
本当に運んできてもらえない。
いっそ自分で取りに行きたいくらい、持ってきてもらえない。
日本にいた頃、レストランで注文を忘れられて待ちぼうけをくらったことを思い出す。
今の私は皇帝陛下の寵姫らしいので、忘れられているという訳ではないはず、なんだけど。
「お腹すいた……」
マイラは他の侍女たちと交代しながら食事をしているから、食べられないのは私一人だからまだマシとはいえ、それにしてもぜんぜん食事が来ないのはツライ。
思わずぼやいたら、心配したマイラは他の侍女に様子を見に行くように頼んで、私には先にお茶を淹れてくれた。
部屋に置いてある日持ちする焼き菓子を付けてくれたので、それを食べて空腹をしのぐ。
「そういえば、最近、雨が降らないんですよ」
気晴らしにか、マイラが不意にそんな話をはじめた。
帝都だけでなく、帝国の食糧庫と呼ばれる地方でも日照り続きで、困っているらしい。
「あー、それは困るねぇ」
旅をしている時、日照りと、その逆の雨続きというので困る人たちにたまに遭遇したことを思い出す。
自分の生活にあまり関係無いから忘れがちだけど、ここは魔法のある世界で、何かしら大きな魔法が使われると天候に偏りが現れることがあって、庶民が困ることになるのだそうで。
うちの一座はそういう時、雨乞いだったり太陽招来だったりの舞楽を頼まれたりしたものだ。
一座のみんなと離れてまだ数日だけど、五年一緒にいた人たちが今そばにいないことに、寂しさがこみあげる。
さよならの一言も、今までありがとうのお礼も、何も言えないまま別れることになってしまった。
カイルはなぜか私が彼らの話をするのを嫌がるので、連絡も取れない。
マイラが皆の無事と、たくさん褒美を貰って帝都を離れたのだと教えてくれたから、かろうじて不満を飲み込んだけれど。
ふと寂しいと思うのは、どうしようもない。
「雨乞いの歌を、歌ってみようか」
そんな寂しさに突き動かされたのか、衝動的に言葉が口から転がり出た。
私に特別な力なんて無いけれど、歌ったり踊ったりしている間に街の人たちの緊張がほぐれて、みんなで楽しく賑やかにしているうちに雨が降ったり、雲が途切れて太陽がのぞいたりしたこともあったし。
空腹をまぎらわすヒマつぶしにもちょうどいいだろう。
「雨乞いの歌まで歌えるんですか? すごいです、竜胆の姫様!」
素直なマイラはきらきらした瞳でそう言ってくれる。
「あんまり期待しないでね。ただの故郷の歌だし、気休め以上の効果なんて無いから。ただ、雨よ降れー! っていう怨念は込めるよ」
「怨念」
「あ、間違えた、雨乞い祈願ね。雨降ってお願いー、ってやつね」
「はい、姫様」
くすくすと笑うマイラにつられて私も笑い、お茶を飲み干して竪琴を取る。
外で警護をしている女騎士に言って、庭に続く大きな窓を開き、空が見えるところで絨毯に座って調律。
竪琴を爪弾いて具合を確かめながら、声を合わせて音を整えていく。
マイラや女騎士はこういう時、見事なまでに気配を消して静寂を与えてくれる。
竜胆の宮は他の側妃たちの住居から離れているらしく、たまに鳥の声が響くばかりの静かな部屋で、私は陽気に歌い始めた。
雨乞いの歌、と私が称する、雨が降ったら母さんがジャノメでお迎えしてくれる歌を。
ちなみに私はこの「ジャノメ」というのが何なのか知らない。
そのうち調べてみよう、と思っているうちにこっちに来てしまったので、もう調べることもできない。
でも知らなくても歌えるので、べつにいいか、とも思う。
そういえば「ふるさと」という歌で、「うさぎ追いし」を「うさぎ美味しい」だと思っていて、友人に笑われ「食う前に追いかけて捕まえろよ!」と言われた。
なるほど、と納得した翌日、彼女のツッコミも何かズレていたのでは、と思ったが、思っただけで言い忘れた。
だから彼女のツッコミがズレていたのかどうかも、今はもうわからない。
そんな、とりとめもない記憶が脳裏を通り過ぎ、何も無くなると、歌だけが私を満たしていく。
賑やかな歌を楽しい気持ちで歌いながら、誘うように空にお願いする。
雨さん、おいで。
雲さんたち、こっちに集まってー。
太陽さんは、ちょっとお休みしようね。
からっとした奇麗な青い空には、ひとかけらの雲も無い。
建国祭にはぴったりの快晴が続いていたけれど、祭りが終わった後もずっとこれでは、確かにいろんなものが乾いてしまう。
雨が欲しいという気持ちは、きっとみんな持っているだろう。
自分の歌に雨を呼ぶ力があるとは思わないけれど、みんなが同じことを思っているのなら、そこに自分の気持ちも一滴そそいで、それがいずれ雲を呼んでくれたらいいなぁと夢想する。
日本の友人に言ったら「夢見すぎ!」と笑われそうだけど、誰にも言わないからかまわないだろう。
それにここ、剣と魔法のファンタジーな異世界だし。
そんなことを思いながら他にも雨の歌を三曲くらい歌ったところで、ようやく食事が運ばれてきた。
どうも二回ほど運ぼうとしたらしいんだけど、二回とも途中でワゴンが引っくり返ってしまって、全部作り直しになってしまったせいで遅くなったんだそうな。
絨毯か何かに引っかかったのだろうか。
それにしても、食事がみんなダメになるほどひどくワゴンが引っくり返るなんて、運んでいた人は大丈夫なんだろうか。
思わず「誰もケガしなかった?」と聞くと、大丈夫ですと返されたので、ひとまずほっと安堵する。
けれどその日はその後も、何だかやたらと落ち着かない一日になった。
まず私が食事を終えた頃に皇帝陛下がいきなり現れて、「無事か?」と聞いてきた。
危ない目にあった覚えは無いし、やっと運ばれてきた食事でお腹も満たされて、至極満足だ。
だからそのまま答えたのだが、大人と子どもほどの体格差がある陛下に、腕一本でひょいと抱き上げられ、確かめるように顔をのぞきこまれる。
世界の大半を支配しているとかいう超大国の最高権力者で、みんなが跪いて首を垂れる天下の帝国皇帝だけど、彼は私にとって“ご褒美の飴”のカイルだ。
その彼に、なんだか知らないけど気にしてもらえるのは嬉しい。
「私は大丈夫だよ。ご飯が来るまでは雨乞いの歌を歌ってたの。楽しかったよ」
「……そうか」
頬にキスして笑顔で言えば、表情の読みにくい強面に刻まれた眉間のしわが、すこし薄くなる。
そのまま少し、飼い主に甘える猫みたいにごろごろじゃれついていたけれど、皇帝陛下は忙しい。
何か用があるとかでマイラを連れて、彼はじきに部屋を出ていった。
マイラが傍にいないのは珍しいけれど、彼女だってずっと私のところに居られるわけじゃないから、たまにはこういうこともある。
私はいつも通り、踊り子の姉さんに教えてもらったストレッチをして体をほぐし、いくつかの踊りの型で運動してから、また竪琴を手にして歌の練習をする。
ここの生活がいつまで続くのかは分からないけれど、陛下が私に飽きたら終わるだろうと思う。
そうしたら私は市井に戻ることになるだろうし、そうなったらまた歌を歌って稼ぐしかない。
その日のために、私は今でさえ素晴らしいとは言えない自分の歌の腕前を落とすわけにはいかないのだ。
生活がかかっていると分かっているから、練習は真剣になる。
そうするとあっという間に時間が過ぎて、まだ戻らないマイラの代わりの侍女がお茶を淹れてくれた。
「ありがとう」
お礼を言ってそれを飲もうとしたら、口に運びかけたところでいきなりカップが割れた。
「姫様!」
割れたカップから淹れたばかりのお茶が飛び散り、部屋は一瞬にして大騒動になる。
いや大丈夫だから、お茶で服が濡れただけで、火傷とかしてないから、大丈夫だから、と繰り返してパニック状態になった侍女たちをなだめた。
どうにも今日は、ついてない。
ため息をつきながらお風呂場に放り込まれて洗われて別の服に着替えて部屋に戻ると、先ほどお茶を淹れてくれた侍女はもういなかった。
私はいちおう皇帝陛下の寵姫という立場だし、もしかして何か罰を受けるんだろうか。
カップがいきなり割れただけなのに?
心配していると、罰を受けさせるために連れ出したわけではなく、寵姫にお茶を浴びせてしまったことで倒れそうなくらいパニックになった彼女を落ち着かせるために自室へ戻しただけだと言われたので、そうなの、と頷いた。
きっと繊細な子なんだろうに、運が悪かったね。
カップが勝手に割れただけなのだから、気にしないでと伝えてね、とお願いした。