番外中編 ある公爵令嬢の激動 2
舞踏会の夜から、数日後。
相変わらず光の雫と戯れながらも、いつの間にか祖父がいることに気付いて、私はふと我に返った。
「あら? お祖父さま。どうして帝都にいらっしゃいますの? ああ、私が帰ってきたのだったかしら。申し訳ありません、ご挨拶にも行かず」
「フィーユ、わたしが分かるのか? ここはまだ帝都だ。お前が帰ってきたのではなく、わたしが来たのだ」
まあ、とつぶやいて、状況がよく分からず首を傾げる。
「お祖父さまが帝都にいらっしゃるなんて。何か、ご用がありましたの?」
いくつもの深いため息が同時に落ちて、きょとんとしたまま見回すと、寝台の上に座った私を取り囲むように家族が勢揃いしていて驚く。
祖父だけでなく、父と母もいるばかりか、兄と嫁いだはずの姉二人までが揃っているのだ。
「あら、お姉さま。お久しゅうございます」
「フィーユ……、ああ、フィーユ。あなたときたら、変わっているのは昔からだったけれど、まさかこんな理由があったなんて……」
結婚式以来、ほとんど会うことの無かった姉たちに挨拶すると、二人はほとんど同時に進み出て寝台に腰かけ、私の手を取って涙ぐんだ。
けれど相変わらず何がなんだか分からない私は、幼い頃から私と違って気丈で賢い姉たちの、見たこともない姿にぱちぱちと瞬く。
「お姉さま? 私、夢でも見ているのかしら」
「フィーユ、お願いだからしっかりしてちょうだい。あなた、これから精霊神殿の巫女姫として、竜胆の宮の姫様の元へ行かなければならないのよ。これは皇帝陛下からの御下命で、お断りできないものなの」
ぱちんと泡がはじけるように、強制的に夢から覚めさせられた私の、そこからは激動だった。
祖父に侍従として仕えている精霊使いから、あなたは精霊の巫女に選ばれたのだと改めて告げられ。
その報せを受けて迎えに来た聖騎士たちに連れられて精霊神殿へ入り、訳が分からないまま禊をさせられて白一色の衣装へと着替えさせられて、聖殿の最奥へと導かれ。
もうどうにでもしてください、と半ば魂をとばした状態で光の雫と戯れているうちに、大神官と呼ばれる老人から「これはまた、よく精霊たちに愛されたものだのぅ」と言われて微笑まれた。
そしてその微笑みで、私はようやくまた少しずつ現実へ戻る。
ここまでくれば、鈍い私でもさすがに、ぽつぽつと降ってくる光の雫は精霊なのだと理解したけれど。
彼らに愛されているというのならば、それはあの舞踏会で可憐に舞っていたかの女神さまに相違なく、決して私などではない。
「ならば、その御方を拝したおかげで、おこぼれをいただいたのであろうな。そう思って、そなたはそのまま謙虚でありなさい」
年老いてしわがれた声で告げられた言葉は、風のように私の中を吹き抜けていった。
ふわりと体が浮いて、すとんと足が地に着く。
「はい、大神官様」
そうして私の、精霊神殿の巫女姫としての生活が始まった。
……のだが。
「無理です~! 女神さまにお会いするなんて、そんなの、そんなの、死んでしまいます~! 遠く離れたところからお姿をちらちら見ているだけでもお迎えが来そうだったのに~! 同じ部屋に入るなんて、もうそれだけで本当にお迎えが来てしまいます~!」
えぐえぐと恥も外聞もなく泣きじゃくりながら訴えたのだが、「その女神さまがそなたと会いたいと仰られておるでな。お断りするのは無理じゃな」とあっさり大神官に却下され、私はずびずびと鼻をすすりながら「あうう~~~」と床に崩れ落ちた。
そして今さらながら、姉が「あなた、これから竜胆の宮の姫様の元へ行かなければならないのよ。これは皇帝陛下からの御下命で、お断りできないものなの」と言っていたのを思い出し。
あの舞踏会の夜、一目で心奪われたかの人が、皇帝陛下の寵姫、竜胆の宮の姫君と呼ばれる御方であったことを知った。
まさか人だとは思わず、けれど人だと言われた後でも「皆さん気付いてらっしゃらないだけです! あの方は女神さまなんです!」と主張するのをやめられず、その合間に「だからお会いするなんて無理です~!」と泣きながらもその日を迎えた。
それは最高で最悪の日だった。
「は、初めまして、り、竜胆の姫様。ひ、姫様に、お、お、お目にかかれて、わ、わたくしは……、わたくしは……ッ!」
大勢の人が間にいて、いくらか離れた場所から遠巻きにしていられた舞踏会ならばともかく、同じ部屋の、真向かいという状況で、女神さま相手に私が普通でいられるはずなどなく。
初っ端から何度も練習したはずの挨拶の言葉がまったく出てこず、口をパクパクさせながらとうとう何も言葉が浮かばなくなり、前日までもさんざん泣いていたというのにさらに涙があふれてしまったばかりか、腰を抜かして座り込んでしまい。
「えっ?! だ、大丈夫? どこか具合が悪いの?」
鈴を転がすような愛らしい声でそう言いながら、そばに来てしゃがみこみ、顔をのぞきこもうとされる女神さまに、いろんな意味で気絶しそうになった。
申し訳ありません……、女神さまにご心配おかけするなんて、なんという罪深い……、あ、良い匂いがする……
ここまでくると、もはや思考は支離滅裂だ。
まともに女神さまのお顔さえ見られず、今日のお召し物の裾は爽やかな新緑と白のレースでやっぱり可憐、ということくらいしか分からない。
あともうお迎えされた後の世界に来てしまったかのような、素晴らしくうっとりする良い匂いがして魂が飛びそう。
というか、本当に半分ほど魂が飛んでいたような気がする。
なにしろハッと気付いたら、精霊神殿の私室として与えられた部屋に戻っていたのだ。
ここまでどうやって帰ってきたのか、女神さまとの謁見がどうなったのか、まったく何も記憶に無い。
その後、どうしよう、ひどい粗相をしてしまった、と真っ青になった私がまた気絶してしまったのは、言うまでもないことだった。
◆×◆×◆×◆×◆
おそらく歴代の巫女姫の中で、最も情けない醜態をさらしながらその座についた私は、しばらく落ち込んだまま立ち直れなかった。
なにしろせっかく私を居所に呼んでくださった女神さまに、何のご用だったのか理由を聞くどころか、まともに挨拶すらできないという失態をさらしたあげく、姫君付きの女騎士に抱きかかえらえての退席となったというのだ。
それを知った時は、寝台で毛布に包まったまま半日出てゆけなくなったし、恥ずかしながら空腹に耐えきれず出てきた後も己の情けなさに涙が止まらず、数日ずびずびと鼻をすすっては、思い出したように「もう私、生きてるの無理です……」とぼそぼそ言いながら泣いていた。
自分でも面倒な小娘だと思うが、あの女神さまに何と思われただろうと考えると、身悶えするほど恥ずかしくて情けなくて泣けてくるのだから、どうしようもない。
けれどありがたいことに、大神官も、私の世話をしてくれることになった女性神官たちも、護衛をしてくれるという聖騎士たちも、その落ち込みぶりを誰も非難しなかった。
長く空座となっていたものの、精霊神殿の巫女姫は非常に繊細で過敏で人と接することが下手なのが共通の特徴である、と伝わっていたのがその大きな要因らしい。
そしてそれに加えて私の実家であるベルトラン公爵家が治める領地が、精霊使いを多く輩出する土地であることが幸運に働き、「うちの公爵さまの末のお嬢さまが繊細なお人だというのは、昔から皆が知っておりますから」と一人の聖騎士に言われた。
喜んだらいいのか、恥じるべきであるのか、両方なのか、分からないまま「ありがとうございます」と泣き腫らした赤い鼻で私は答えた。
苦笑したその聖騎士は、まるで妹にするようによしよしと頭を撫でてくれて、なんとなくそれにホッとした私は、それから彼に懐いた。
「聞いてください、クライヴさま! うまくできました! 私、はじめてうまくできました!」
「はいはい、聞いてますよ、巫女さま。慌てないで、ゆっくり話してください。はい、ここで立ち止まってね。歩きながらだと、また転んでしまいますよ」
ベルトラン公爵家の領地出身の聖騎士クライヴは、はじめて精霊神殿の巫女姫としてのお役目をまっとうすることができて大喜びする私を、そうしてたやすく落ち着けてくれる。
「はい、クライヴさま」
歩きながら話そうとして転んだり、転びかけたところを彼や女性神官たちに助けてもらったりすることが何度かあったので、私は言われた通りクライヴの前で立ち止まった。
これまであまり家を出ることがなかったので、自分がこんなにも動くのが下手なとろい人間だとは知らなかったけれど、皆からは気にする必要は無いと言われた。
精霊の姿を視ることができて、訓練すれば意思の疎通もできるようになる巫女姫は、その代償のように生きることが下手な人が多かったと伝わっているからだ。
歴代の巫女姫の中には、とても病弱で早逝してしまったり、ひどくケガをしやすくて、専属の治療師がいないとまともに生活できないほど日常的にケガをするような人もいたといい、「そなたはすこし転びやすい程度で、良かったのぅ」と大神官が安堵していた。
それでも私は、何もないところで転んでしまったり、家具に服を引っかけて倒れてしまったり、手に持っているものをふとした瞬間に取り落としてしまう不器用な自分が、とても恥ずかしかったし。
歴代の巫女姫の中でもそうした特徴が軽い方だというのは、あまり力が無いせいではないかと思って、心の中で (もし何の役にも立たなかったらどうしよう)と心配していたのだけれど。
「いい子ですね」
クライヴの前でぴたりと立ち止まった私を、彼はからりとした青空のような笑顔で褒めてくれる。
私はその笑顔を見られるのが嬉しくて、ますます笑みくずれながら話をした。
「クライヴさま、私、今日はじめて精霊たちの流れに触れることができたんです。それで、どの方向でどの精霊の動きがあるのかとか、少し分かって、水の精霊の力の流れが弱まっているところがあるのに、気付いたんです」
「それは素晴らしい成果ですね。今は精霊使いといえど、自分と契約した精霊以外を視ることはほぼ不可能ですから。流れを感じ取れるだけでなく、触れて分布を知ることができるとは、さすがです、巫女さま」
背の高い彼は、私と話す時は少しかがんで視線を合わせやすいようにしてくれる。
そうしてはしゃぐ私に優しい笑顔で言うと、また頭を撫でてくれた。
ずっと昔、幼い頃に家族がそうしてくれた時の記憶がよみがえって心が浮き立ち、けれどそれだけでもないような、みょうなむずがゆさにちょっと戸惑う。
どうして私は、クライヴがこうして話を聞いてくれたり、頭を撫でてくれたりする時に、頬が熱くなるのだろう。
実家にこもりきりだった頃に読んだ小説に出てきた、恋というものだろうか。
けれど恋物語に出てくる女性たちは、みんな相手の男性に出会った時、激しい感情に揺さぶられたと書かれていた。
でも私は、そういうのじゃなくて。
ただクライヴを見ると、ちょっと落ち着いて、ちょっとそわそわするだけ。
彼が笑顔だと嬉しくて、頭を撫でてもらえると心が浮き立つだけ。
じゃあやっぱりこれは恋じゃないんだわ、と思って、よく分からなくなる。
聡明な姉たちなら、相談したら私のこの反応が何なのか、教えてくださるだろうか。
精霊神殿の人たちは、皆さんよくしてくださるけれど、こんな些細なことで煩わせるのは申し訳なくて、誰にも何も言えないでいる。
「巫女さま、続きはお部屋でお聞きいたします。お勤めを終えたばかりで疲れていらっしゃるでしょう。まずは体を休ませねばなりませんよ」
「はい、クライヴさま」
余計なことを考えてぼうっとしていると、疲れていると思われたのか、そう言われて促された。
差し出された腕に手を置いて、クライヴのエスコートに従い歩き出す。
「ところで巫女さま、私のことなど呼び捨てにしていただいてかまわないのですが」
「まあ、そんなことできませんわ。ここにいらっしゃるのは、皆さんずっと厳しい訓練を積んで、精霊との繋がりを持った凄い方ばかりですもの。女神さまのおこぼれにあずかって、たまたま巫女のお役目を授かった新参者の私などが呼び捨てにして良い方など、一人もいらっしゃいませんわ」
私の歩調に合わせてエスコートしながら、クライヴは「巫女さまは意外と頑固でいらっしゃる」と苦笑した。
そして、口の中で何かつぶやく。
「本来ならば公爵令嬢であるあなたの方がずっと、触れることはおろか、言葉を交わすことさえ許されない、遠い存在だというのに……」
転ばないように気を付けながら歩いていた私はその言葉を聞き逃し、「クライヴさま、何かおっしゃいまして?」と訊ねたのだけれど、彼は「いいえ、何も」と微笑んだだけだった。