第二十一話 私の願いとカイルの願い
「それだけはできない」
先に目をそらしたのはカイルだった。
その言葉とひどく辛そうな表情に、罪悪感や落胆や喜びで心の中がぐちゃぐちゃになるのを感じる。
だから彼の返答を、どう受け取ればいいのか、分からない。
ただカイルに辛い思いをさせてしまった罪悪感が私の体を動かし、気が付いたら手を差し伸べて彼の頬に触れていた。
大きな手がその手を包み込むように上から掴んで押さえつけ、彼は私の視線から逃れるように横を向くと、瞼を伏せて手のひらに口付けた。
彼の薄い唇が私の手のひらに触れて、熱い吐息とともに言葉が肌に染みいるように響く。
「……愛している」
ささやくような声で彼は言った。
どうしてかそれには懇願の響きがあって、何か続きがあるのだと分かった。
はじめてはっきりと言葉にしてくれたその心が嬉しくて、静かな歓喜に満たされてゆくのを感じながら、待つ。
「自分でもどうしたらいいのか分からないほど、俺はお前を愛しているんだ、センリ。足を折ると言ったのも、のどを潰し指を折ると言ったのも本気だったが、それでもどうしても、髪の一筋たりとも俺はお前を傷つけられない。
……だから、頼む。俺にお前を傷つけさせないでくれ」
そんなことになったら、自分でも己がどうなるか分からない、とつぶやく彼の瞳は昏く、前に見た時と同じ混沌を宿していた。
威厳ある帝国皇帝としての泰然とした姿とはまるで違う今の彼もまた、カイルの一部なのだろう。
仄暗く激しい感情を胸裏に隠し持つ、普段は能天気な私と同じように。
「うん。じゃあ、もう私がどこにも落っこちたりしないように、離さないでいてくれる?」
「当然だ」
私の手を捕まえ、手のひらに唇を触れさせたまま答えて、カイルが視線だけこちらに向けた。
どこか物騒な気配を漂わせて底光りする金眼が、射抜くように私を見る。
「お前は俺のものだ。どこへも行かせるものか」
もの扱いされてるみたいな言い方だったけれど、執着心に満ちたその声は私の耳に心地良く響いた。
ほっと安堵の息をついて、カイルの胸にもたれかかる。
「良かった。私ね、一座の人たちと一緒に旅をするのも楽しかったけど、たぶん本当は、のんびり一つの場所で暮らす方が好きみたいなの」
「……彼らの元に、戻りたかったのではないのか?」
「ここへ来た最初の頃は戻りたかったし、今でもたまに思い出すけど、もうここで暮らすのに慣れてきちゃったからなぁ。それに、ここにはカイルさまがいるし、子どもたちもいるでしょう? 座長たちにはまた会えたら嬉しいけど、今さら一人で旅暮らしに戻るなんて、寂しくて無理」
「…………そう、なのか」
私の手のひらに触れたままの唇が、かすかに笑みを形作るのを感じた。
喜んでもらえたなら何よりだ。
このまま安心してもらって、ちょっと過保護気味の警備とか侍女たちの配置とかがゆるんでくれないかなぁ、と思う。
超過保護だった妊娠時期の配置のままっぽい現状、元気になった私には、どうにも閉じ込められ気味なのが少しばかり息苦しいのである。
と、そんな贅沢でのんきなことを考えていたので、次のカイルの言葉は完全に不意打ちだった。
「ならば、俺の願いを聞くのは簡単だな。センリ、俺の妻として、皇妃になれ」
たぶんそれを聞いた瞬間、私は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしたと思う。
“コーヒ”って何ですか? 私は異世界人なんで言葉分かんないですねぇ、で済むわけもなく。
ある意味、私が女児を産んだことで得た願いと、男児を産んだことでカイルが得た願いは一対のように合致したものではあったが、さすがに責任重大すぎてすぐにはハイとは言えなかった。
なので「いやいやいや、私には無理でしょ」と言ったのだが、一つ一つその問題点を丁寧に潰されていく。
それは例えば。
「私この世界の人間じゃないし」
「皇族の血は濃くなり過ぎて、近年は何人側妃を娶ろうとあまり子に恵まれない皇帝が続いたからな。生まれたとしても体質が虚弱で早世する者も多い。新しい血を入れることに、今ならば高位貴族ですら表立って反対はできぬであろうよ。何よりすでにセンリには二人も子を産んだ実績がある。これに勝る言葉など無い」
「いやでも何の後ろ盾も無いし、そういうのって後で困るんじゃないの?」
「お前の後ろ盾はベルトラン公爵家だ。後見人の説明は……、そういえばしていなかったか」
「えっ? コーケンニンって、そういう意味だったの?」
「ああ、まず言葉が理解できていなかったのか。そうだ。ベルトラン公爵がお前の後見人、後ろ盾だ。しかし彼らは有事の際の切り札とだけ思っておけばいい。普段は領地に引きこもっている閉鎖的な一族だからな、口出ししてくるどころか、そう会うことも無いだろう」
「でもそれじゃあ、カイルさまが困らない? ほら、貴族の娘さんと違って、親戚にカイルさまの力になってもらうとか、そういうのができないわけでしょ?」
「俺の場合、下手に皇妃の親戚筋から口を出される方が国内の勢力バランスを崩されて困るな。今まで皇妃を定めずにいたのは、特定の一族や国に帝国内で権力を持たせぬためというのもあった」
「あー、でも、皇族って男の子しか生まれなかったんでしょ? 女の子を産んじゃった私って、何か疑われるとかない?」
「誰が何をしようと文句をつける者はある。だがあの子の目は俺の父と同じ、皇族に稀に現れる特殊なものだ。おそらく父にしか使えなかった皇族に伝わる魔道具を、あの子ならば自在に扱えるだろう。そうなれば誰が何を言えると思う?」
などなど。
思いついたことを片っ端から言ってみたのだが、すべてに奇麗な返事が返ってきて疑問ごと潰された。
そしてその仕上げのように。
「センリ。不安は多くあるだろう。だがお前の珍しい装いは、今では貴族だけでなく庶民にも好意的に広まってきている。それにエンピツの話から始まった辺境の隆盛もあるし、お前が宰相と話していた他の道具も多方面から注目を集めている。己に無いものを気にするより、お前しか持たないものに誇りを持って胸を張っていればいい」
そう言って、何よりも、と私の手を取りじっとあたたかな眼差しをそそぐ。
「俺は生まれながらの皇帝だ。この身も人生も、すべては帝国のものとされ生きてきた。だが唯一、お前だけは俺のものであってほしい。これは俺の一生に一度の我儘になるだろう。それゆえに、おそらくお前には苦労をさせることになる。
だがそれでも俺は、お前を諦められない」
だから頼む、と言われて、どうして否と言えるだろう。
「頷いてくれ、センリ」
ため息をついて、小さく笑う。
これが惚れた弱みというんだろうなぁ、と頭のどこかでつぶやいて。
「はい」
不安は尽きなかったけれど、不思議と晴れやかな気持ちで、私は彼の言葉に頷いた。