第二十話 激情の証明
体が弱っていると、心も弱るものだ。
出産からしばらく経ち、ようやく体調が戻ってきた私はしみじみ思った。
初産にしては経過も出産も順調だったとはいえ、魔力の強い双子の妊娠というのは、私の体にとってかなりの負担で、それは精神的な負荷にもなっていたようだと、女医や魔術師に診察してもらっているうちに分かったのだ。
彼女らは私とカイルがギクシャクしていることも知っていて、とくに私が精神的に不安定だったのは体調からくるものだから、気にしなくていい、と励ましてくれた。
あと、心が弱っている時の考えはろくでもないものばかりだから、ぜんぶ忘れてしまうくらいでもいい、という助言もくれた。
私は「そうですよね! 私もそう思います!」と同意した。
普段から働かないことに定評のある私の脳細胞は、調子を取り戻した今、その能天気さをいかんなく発揮しており、私はとても元気である。
なのでとくに後先考えることもなく、ここ数日、皇子と皇女の誕生祝いに駆け付けた遠方の高位貴族や隣国の大使たちとの会談やら晩餐会やらで忙しくて、まともに顔を合わせていなかったカイルが久しぶりに竜胆の宮を訪れると、私は迷わず彼に飛びついた。
「カイルさま、お仕事お疲れさまー!」
「……センリ?」
珍しく面食らった様子で、それでも危なげなく私を抱きとめたカイルに、そのまま腕に抱きあげられる。
「どうした? 今日はずいぶんと様子が違うな」
「だいぶ体調が戻ってきて、元気になったんだよ」
「……ああ、そうか。そうだな、先日より顔色が良くなっている」
片腕に私を抱いて、もう片方の手が包み込むように頬に触れた。
そのあたたかくて大きな手のひらに頬を寄せて、上機嫌でにっこり笑う。
カイルは懐かしいものを見るようにかすかに目を細めると、そのまま足を進めて部屋に入った。
彼がソファに座り、当たり前のように膝の上に私を乗せるのを待って、侍女たちが素早く二人分のお茶を用意し、何を言われるまでもなくさっと下がる。
お仕事早ぁ、と目を丸くして見送った私をどこか訝るように眺めていたカイルは、用意されたお茶を一口飲むと、二口目を私に飲ませた。
一つのカップのお茶を二人で飲むのは、妊娠するまでたまにやっていたことだ。
なんだか懐かしくて楽しくて、嬉しい。
「今日は、機嫌が良いのだな」
「うん。体調がいいし、子どもたちも良い子でいてくれたから」
それにね、と本題に入る。
「カイルさま、前に約束したの、覚えてる? 私が女の子を産んだら、言うことを一つきいてくれるって」
「ああ、男児が生まれたら俺の言うことも聞く約束だ」
即座に返された言葉に笑いながら頷く。
「そうそう、それ。最近ずっと私のお願いを考えてたんだけど、決まったから聞いてもらおうと思ってたの」
「……うむ」
上機嫌の私とは逆に、なぜか眉間のしわを深くして、カップをテーブルに置いたカイルは難しい顔で顎を引いた。
なんだろう、警戒されてる?
そんな怖い顔されるとちょっと言いにくいんだけど、でもダメならダメで却下されるだろうから、まあいいか。
働かない脳細胞のおかげで能天気な私は、カイルの険しい表情にすこしためらったものの、とくに内容を変えることもなく「お願い」を言うことにした。
「あのね、“これからも私をカイルのそばに置いてください”。……これがね、私のお願い。聞いて、くれる?」
さすがにすぐにイエスを貰えるとは思ってない。
なので、言葉は途中でおずおずとしたものになったけれど、カイルの反応はなんともよく分からないものだった。
彼はうなるような声で言ったのだ。
「センリ。お前、記憶力は大丈夫か」
…………うん?
「記憶力? 大丈夫って、どういう意味?」
「子どもたちを産んだ後、俺と話したことを覚えているか?」
「覚えてるよ」
「ならばなぜ!」
急に大きな声を出されて、膝の上に抱かれたままびくっと肩がはねる。
私が驚いたことに驚いたような顔をして、カイルは声のトーンを落とした。
「どうして、そんなことが、言える……」
うーん。
どうして、と言われてもなぁ。
「私がカイルさまのそばにいたいと思うから、じゃ、ダメ?」
「俺の元から逃げたら足を折ると言ったのを忘れたか」
「忘れてないけど、折られてないし、逃げる予定もないしねぇ」
「ならばのどを潰し、指を折ると言われたことは。恐ろしいとは思わんのか?」
「潰さなかったし、折らなかったよね」
穏やかに言葉を返しながら、胸の奥の仄暗いところにある感情が蠢くのを感じ、ひそやかに昏く笑う。
女医や魔術師はすべて忘れていいと言ったし、私もそれに同意したけれど、あの精神的に不安定であった時に考えたこと、思ったことは、何もかも私の内にあるものだ。
忘れても、考え直しても、それが間違いなく私の一部であったことには何の変わりもない。
私は覚えている。
のどを潰されることも指を折られることもなく目覚めた時、感じたのが落胆と悲しさだったことを。
それは、彼の激情に勝るとも劣らない強い感情が私にもあるのだということの証明だった。
「センリ」
その声には警告の響きがあり、あっという間に私の首を捕らえてゆるく巻きついた武骨な指には、それを容易く潰してしまえる力があることは明白で。
「……いいのか?」
けれどそう問う声にはどこか戸惑いがあった。
彼の手に首を捕らえられたまま、とくに息苦しさを感じることもないその力加減に内心で苦笑して応じる。
「いいよ」
「……」
ちょっと返事が軽すぎただろうか。
それでもこれが私の本心で、遊びじゃないことを理解してもらいたくて、言葉を足す。
「あのね、カイルさま。私もともと、あんまり深く考えないタイプなの」
「それは知っている。しかし自覚があるなら、もう少し考えるべきではないのか」
「私がもっとよく考えるタイプだったら、最初にカイルさまに抱かれた次の日に逃げてるよ。超大国の皇帝陛下と旅の一座の歌姫とか、普通に考えて未来がないにも程があるからね。そりゃあさっさと逃げて一座に戻るよね。その方が良かった?」
「……う、む」
カイルはなんだか難しい顔をしたままうなっている。
そんなに難しく考えなければいいのに、脳細胞がよく働く人って大変そうだなぁ。
「それでまあ、あんまり深く考えずにきたから今があるわけだけど。私、後悔はしてないの。むしろ良かったなぁと思ってる。カイルさま好きだし、子どもたち可愛いし、マイラたちにも親切にしてもらってるし、いろんな人に子どもが生まれたの喜んでもらえてるし」
首に巻きついたままの指がゆっくりと動いて、うなじを撫でている。
別のことを考えているらしい顔をしたカイルはそのことに無頓着で、無意識の動きらしいそれにぞくりと肌があわだつのを感じながら、できるだけ表情は変えないよう注意して言葉を続けた。
今は真面目な話をしているのだ。
「それにね、もしまた私がここから消えて、どこかへ落ちちゃうことがあったとしたらね」
私の首からカイルの手が離れた。
猛獣めいた目がまっすぐに私を見つめるのを、ぴたりと視線を重ねてむしろこちらから捕らえるように見据えながら言う。
「カイルなら、私を殺してでもそれを止めてくれるんじゃないかなって、思ったの」
強靭な支配者の目に動揺が走るのを、私はじっと見つめた。