第二話 竜胆の宮の姫
(ここ、どこ……?)
天蓋から垂らされた、青みがかった薄い紗には青糸の花の刺繍。
それを透かして射し込む陽光が、白くてつやつやしたシーツに照り返されてすこし眩しい。
肌触りの良い最高級の寝具に体を沈めたまま、見覚えのない場所に困惑して、私はぼんやりと記憶をたどる。
前にもこんなようなことがあったなぁ、と思いながら。
(えーと、最初は「建国祭が終わるまでここに居ろ」っていう話で、だから昨日で建国祭は終わりだし、いいかげん一座に戻らないと、ってカイルさまに言ったら、「あれらはもう帝都におらぬ」って返されて、びっくりしてたら肩に噛みつかれてそのまま……、ううぅ……)
思い出し笑いならぬ、思い出し赤面。
かー、と顔が熱くなるのを止められず、うまく動かない体をくねらせてもだもだ悶える。
なにしろ経験値ゼロなもので、こういう時どうすればいいのかさっぱり分からない。
黒髪黒目の珍獣をからかってやろうとする男性をかわしたり、珍しい物をコレクションに加えようとして手を出してこようとする“お貴族様”から逃げるのには慣れているのだけれど。
「竜胆の姫様、お目覚めですか?」
じたじた悶えていたら、薄い紗の向こうに人影が現れた。
声で侍女マイラだと分かる。
見知らぬ場所に知っている人がいることにほっとしつつ、「竜胆の姫様」とかいう呼び名に「誰?」と思った。
「起きてます。けど、竜胆の姫様って、誰のこと?」
「もちろん、皇帝陛下より竜胆の宮の主として迎えられた姫君のことでございますよ」
天蓋から垂らされた薄い紗を開いて支柱に括りつけながら、マイラが答える。
だからそれ誰? とぼんやり思った後、あ、私か、と理解した。
日本にいた頃から、友人たちには「脳細胞を犠牲に胸肉が栄養をぜんぶ吸った」と言われていたくらい頭の回転は鈍いし、今はさらに寝不足で体がだるくて、考えることさえ億劫だ(余談だけど「胸肉」って何だ。「鶏のもも肉」と同じ扱いか、と言われた翌日に思った。昔から頭の回転が鈍いことには定評があるのだ)。
それもこれも毎晩私の元を訪れて、その逞しい体躯に見合った情欲の激しさを思う存分見せつけてくれる皇帝陛下のせいである。
あの人どんだけ体力あるの?!
それに付き合わされる私の体力も考えて?!
基礎体力からして明らかに違うの、体格差見れば分かるよね?!
無理だから! 気絶するまでとかマジやめて?!
と、何度訴えたことだろう……
彼なりに手加減はしてくれているようだけれど、今のところ一日分の体力を夜の間に全消費させられる日が続いている。
そのせいで昼間はまともに動けず、マイラに組み紐の作り方を教えたり、竪琴を爪弾いて歌の練習をすることくらいしかできない。
ああ、時間があったら建国祭の出店や市を巡ろうね、と一座のみんなと話して、楽しみにしていたのになぁ。
寝て起きてカイルとじゃれあっているうちに、建国祭が終わって一座のみんなには置き去りにされてしまった……
遠い目をしてしばらくしょんぼり肩を落としていたけれど、いつまでもたそがれているわけにもいかない。
気を取り直して、マイラを見る。
「マイラ、色々よく分からないことがあるんだけど。まず、竜胆の宮って、何?」
夜に来てじゃれてくるカイルは、あんまり説明をしてくれない。
なので話はだいたいマイラに聞くことにしている。
マイラは易しい言葉で上手に説明してくれるので、五年経っても異世界言語に慣れないところのある私には、とてもありがたい人だった。
そうして説明を聞いたところ、なぜか私は『一時の遊び相手』から、『後宮の寵姫』に格上げされたらしいと判明した。
これまでいたのは皇宮殿の本宮にある皇帝陛下の私室だったらしいのだが、これからも私を手元に置くなら後宮に入れろと側近や重臣たちから声が上がり、後宮にある『竜胆の宮』を整えて移動させたんだそうな。
うん、私、誰にも何も言われてないし、「後宮に入りたい?」とか聞かれてもいないんだけどね!
寝てる間に運ばれての、強制移動だったけどね!
はー……、寵姫。寵姫、ねぇ……
なんか嫌な予感がするなぁ。
というか、嫌な予感しかしないなぁ……
「カイルさまの寵姫って、何人いるの?」
とりあえずこれは聞かねばなるまい、と思って質問したそれの、返事は「十七人」だった。
何代か前の皇帝は百人以上の側妃がいたらしいので、これでも少ないらしいけど、私は内心(多っ)と驚いた。
ただ、寵愛されている姫という意味での『寵姫』は私一人で、十七人は上位貴族たちが強引に突っ込んできた『側妃』というものだそうで、皇帝陛下は彼女たちのところで夜を過ごしたことは無いらしい。
だからか、と私はなんとなく察した。
後宮に女はいても、何かしら事情があって思う存分抱けないから、きっと鬱憤がたまっていたのだろう。
そのツケが回りまわって体力も経験値も無い私にきたのだ。
なんてこった……
踊り子の姉さん、私の“ご褒美の飴”は、甘いだけの飴じゃなかったよ……
「どうぞお気を付けくださいませ、竜胆の姫様」
またもや遠い目になった私の手をそっと握り、いつになく真剣な顔をしたマイラが言った。
「陛下にはまだ御子がいらっしゃらず、側妃様方は身ごもることで皇妃の座につくことを最上の目標となさっておいでです。そのためには今、陛下からの深い寵愛を受けていらっしゃる姫様を排除しようとなさるやもしれません」
なにそれ聞いてない。
っていうか、全部が全部聞いてない。
自分には関係無い話だと思ってたから、その辺りの噂話とかもぜんぜん聞いてなかったし。
「竜胆の姫様の御身の安全については、皇帝陛下がとくに注意を払っておいでですが、姫様もどうかご協力をお願いいたします」
そうして、マイラや護衛の女騎士たちの傍を離れないように、と頼み込まれた。
彼女たちは警護のための訓練を積んでいるけれど、その仕事を確実に遂行するためには、守る対象の人物からの協力が不可欠なのだそうな。
確かに、守られる人が逃げたりしたら、守れないよね、と納得した。
それにしても、えらいところに来てしまったなぁ……
皇帝陛下に宴の席で拾われて、夜に甘くじゃれあっているだけだったのに、それが続いた結果こんなことになるなんて、まるで想像していなかった。
働けよ、私の脳細胞、と切実に思う。
日本にいた時の友人が言った通り、栄養が胸肉に吸われすぎなんじゃなかろうか。
そういえば、旅の一座にいた頃は「けしからん」とか「危ない」と言われてさらしで胸を潰していたけれど、皇宮殿に滞在するようになってからカイルにさらしを取り上げられたので、潰さずにすんで息が楽になった。
マイラにその話をしたら、上から下までじっくり眺めた後、じーっと胸を見てから「確かにけしからんですね!」と笑顔で言われたけれど、いまだにそれがどういう意味なのかよく分からない。
けなされているわけでもなく、褒められているわけでもなく、かといってどちらでもないとも言い切れない、ような?
ただ、「竜胆の姫様の体形は独特ですね。仕立て屋が来たら、似合う衣装をたくさん作らせましょう」と言われたのには驚いた。
この世界には大量生産の既製品とか無いから、上流階級の人は仕立て屋に作ってもらうのが普通だけど、私は旅の芸人だ。
そんなことをしてもらうつもりは無かったのだけど、後宮に住む姫の一人になったからには、そういうわけにもいかないらしい。
あまりみすぼらしい身なりでいると陛下の威信に関わりますから、とよく分からないことを言われ、あれよあれよという間に仕立て屋が来て服を脱がされて「なるほど、独特の体形でいらっしゃいますね。これは腕が鳴ります」とワクワク顔で言われて大騒動に巻き込まれた。
私だっておしゃれな衣装は好きだけど、なんだか周りの人たちの熱狂に負けた感じだ。
最後には盛り上がるマイラと女騎士と仕立て屋たちの議論に取り巻かれながら、死んだ魚の目をしてマネキンのごとく真ん中で突っ立っていた。
そして夜になって訪れたカイルに、「おんなのひとこわい」と縋ってしくしく泣いていたら、何かのスイッチを入れてしまったらしく大変なことになった。
だから! 体格差と体力差を! もっと考えてくださいと! 言いたい!
……のだが、声が枯れて言えなかったこの腹立ちを、どこへぶつければいいのだろう……