ぼくとサヤカさん
誰かの胸に抱かれていた。
いつからこうしているのか、なぜこんなことをしているのか、よく分からなかった。頭がなぜかぼうっとしてはっきりしないし、目は濡れているのかぼやけてよく見えない。
自分の頬がぐっしょりと濡れていた。おそらく泣いているのだろう、目がぼやけていることだってそれで説明がつく。
外は大雨のようだ。ぼくの耳の中で屋根を打ち付ける雨粒の轟音と、大地を揺らすような雷鳴がこだまする。
雨漏りが心配だった。ここがどこだかわからないが、先程から頭にぴちゃぴちゃと水滴がたれている気がする。
身を起こしてバケツを取りに行こうとしたができなかった。体が思うように動かない。
ぼくは立ちあがるのを諦めた。それにこうして抱かれているとなんだかすごく落ち着くのだ。ずっとこうしていたいとさえ思った。
そういえばさっきから誰かの声が聞こえているような。ぼくの名前を呼んでいるような気がする。
その声の主は分からなかったが、どこか聞き覚えのある声だった。その声色はとても優しくてきれいだったが震えていて、時おり嗚咽が混ざって聞こえた。
泣いているの?
急にその人のことが心配になって、声をかけようとした。うまく動かない体を動かそうとしていると、あることに気がついた。
目はぼやけて見えていないと思っていたが、じつは瞼が閉じられたままだった。とりあえずぼくは目を開けることにした。
ぼくは目を開けた。霞んでぼやける視界に映るのは見知った天井と照明。間違いなくここは自宅だ。
仰向けの状態から身を起こす、目の前に広がったのは空き缶の山と寝ている父親。間違えようもなく自分の育ったアパートの部屋だった。
周りを見渡すが、ぼくを抱いていたであろう人はどこにもいなかった。
さっきのは、夢?
傍に置いてある時計に目をやる。そろそろ家を出ないと間に合わない。急いで着ていたジャージを脱ぎ捨て、学校指定の制服に着替える。教科書の詰まったカバンを掴みながら台所に向かった。
このアパートは老朽化が進んでいるのでぎいぎいと床が軋む。父親は泥酔しているので起きないとは思うが、寝起きが悪いので起こさないよう気をつける必要がある。
台所で軽く顔を洗い、口をゆすぐ。鞄からタオルを取り出し顔を拭きながら、そばにあった鏡に目を向けた。
短いがどこか不揃いで不格好な髪。顔立ちは童顔そのものだが、眼が死んで乾涸びている。それがかえって言い知れぬ不気味さを醸し出していた。額の辺りに火傷の跡があるが原因は、忘れた。
いつも通りの顔を鏡越しに俯瞰してから、タオルを鞄にしまい玄関へと足を向けた。
玄関で靴を履いてそっとドアを開け、そっと閉める。カギはいつもかけていない。
季節は冬、こごえるような風がぼくを襲った。学ランの隙間という隙間から冷たい風が入り込み身震いする。手を擦って温めてみたりするが気休めにもならなかった。
このアパートは二階建てで、部屋は二階にあるのだが地面に降りるための階段の角度がかなりきつい。錆びて赤茶色になった手すりを掴みながら階段を降りると人影が見えた。
「おはよ、ユウくん」
そう言って彼女――サヤカさんはにこりと微笑んだ。サヤカさんはこのアパートの近くに住んでいる1つ年上の高校1年生だ。まだ小さかったころひとりで公園にいたぼくに声をかけてくれて、それ以来面倒を見てもらっている。
「……お、おはよう。サヤカさん……」
つい挨拶が不自然になってしまった。はじめて会った時からもう数年もたつがいつもこんな具合に緊張してしまう。ぼくはビビりだからたいていの人とはまともに話せないが、この場合は少し違う。サヤカさんがとても魅力的な女性だからだ。
艶やかな黒髪は腰に届くほど長く、冬の風に吹かれてふわりと光の飛沫を放つように輝いている。きりりと整った眉目と、長くすらりとした鼻は清潔な美しさを醸し出している。豊かな胸とそれ強調するようにくびれた腰。脚はすらりと長く男のぼくと身長はさほど変わらない。
おおよそぼくのような人間とは住む世界が違う人だ。これは決して比喩などではない。
「もう、さん付けはやめてよねえ。そんなかしこまらなくてもいいって言ってるでしょ。サヤちゃんとか、サヤカ〜とか。あ、マイハニーなんてどう?」
「や、で、でもさん付けでずっと、呼んでたから……」
ぼくが答えに窮していても気を悪くせずにししと笑っている。サヤカさんはお淑やかな見た目とは裏腹に、内面は明朗快活、天真爛漫。ぼくがどもっていても全くイライラした素振りは見せない。実はこれこそが一番の魅力なのだろう。
「まあ、ハニーの件は追々考えるとして。はいユウくんどうぞ」
そういって鞄の中から銀色の塊を2つ取り出した。銀色の正体はアルミホイルで、中におにぎりが入っている。ぼくの家のことは一切聞いてこないがそれとなく察しているのだろう、こうやって毎朝おにぎりをくれる。
ぼくは図々しくも毎朝いただくのは申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、空腹ばかりはどうしようもない。
「毎日毎日、ごめんね……その……」
「なにいいってことよ、あたしとユウくんの仲じゃない!それよりもう行かなきゃ。行儀悪いけど食べながら行かないと間に合わなくなっちゃう」
「あ、うん……いつもありがとう、ね……」
謝ってばかりでは気持ちは伝わらないので、しっかりとお礼を言った。うまく伝わったか不安だったので恐る恐る顔色をうかがったが、にししと笑っていたので多分伝わったのだろう。
アパートの敷地から小道を通り大通りに出る。その道路を道なりに歩いていけば、学校までは十数分で着くはずだ。サヤカさんの高校もぼくの中学のすぐ近くなので道は一緒だ。
落ち葉も枯れてすっかり寂しくなった並木道だったが、ぼくの心の中には寂しさよりも暗澹とした奇妙な感情が渦巻いていた。
――あたしとユウくんの仲じゃない!
一体どんな仲だというのだろう。
正直にいえばぼくはサヤカさんのことが好きだ。こんなに素敵な女性にここまで親切にされて、寧ろ好意を抱かない方が不自然だろう。
だが何故ここまで親切にしてくれるのか、ぼくには全く分からない。
おそらく仔犬を拾ったような軽い気持ちで面倒を見始めたはいいが、引き際が分からなくなっているに違いない。
ならば義務感だろうか?なるほどそれが一番しっくりくる。
ではいい加減好意に甘え続けるのはやめたほうがいいのでは?
しかしぼくにそれができるのか?唯一にして最も安らげる居場所を自分から手放す事など、ぼくにできるのか?
思考の堂々巡りだ。たとえそれが彼女を利用した自己憐憫だと言われても、やめることはできなかった。
するとサヤカさんが不安げな顔で聞いてきた。
「……お腹すいてないの?それともおいしくないから食べたくないとか?」
声を聞いて我に返る。
「ち、違うよ!サヤカさんのおにぎりはおいしいよ!た、ただちょっと考え事をしてて」
やってしまった。サヤカさんのことを考えていると言いながら、その本人を悲しませてどうするんだ。
結局はただの自己陶酔の自己憐憫ということでこの問題を頭から放り出す。
急いで2つのうち片方のアルミホイルを開けると、真っ白い米粒がきらきらと輝いてみえた。おもわずぱくりとかぶりつくと中の具は鮭だった。ぼくが鮭のおにぎりを好きなことを知っているのか、いつも片方の具は鮭だ。
「おいしい」
こぼれるように自然に出た言葉だったが、もちろん偽りなどではない。サヤカさんのつくるおにぎりは本当においしい。
するとサヤカさんはにししと笑って笑顔になった。
「ユウくん鮭好きだもんね」
「あ、あれ?言ったことあったけ」
「言わなくてもユウくんのことなら何でも分かるよ。顔に出やすいしねえ」
「そ、そうなんだ……」
「さっきも、またなんか考え込んでたんでしょ?ユウくんすぐ悲観的に考えるんだから。相談ならいつでものってあげるのに」
「や、でもほんと大した事じゃないから。その、ごめんね……」
「もう、なんでもすぐに謝らないの。でもほんとにいつでも相談していいからね?」
「うん……」
そういってぼくはこくりと頷きはしたが、まさか本人に相談するわけにもいかない。この問題はいずれ自分で結論を出さねば。
ぼくは鮭のおにぎりを食べ終わり、凍える手で二つ目のおにぎりを頬張る。冬の乾いた空の下、言い知れない茫洋とした不安を感じていた。
その日の学校は恙なく終わった。
特に用事もないのでそそくさと学校を出る。沈む夕日に目をしかめながらこの後どうしようかと思案していると、不意にあの公園のことを思い出した。
初めてサヤカさんと会ったあの公園。場所は学校とは反対方向にあるので、行くにはアパートを通り過ぎなければならない。
父親が帰ってくるまで時間の余裕はあるし、行ってみようかな……
薄闇に変わりつつある空を眺めながら、あの日のことを思い出していた。
あれはぼくがまだ10歳くらいの頃だったと思う。はっきりとは覚えていないが、母親が事故で死ぬより前だからそのくらいだろう。
両親は所謂デキ婚らしくぼくは望まれずに生まれた子らしい。思えばよく今まで捨てられずに殺されずに済んだと思うが、とりあえずよく殴って蹴る両親だった。
その日はたしかすごくお腹が空いていた。夏休みだったから給食もなかったし、まさか家のモノを勝手に飲み食いするわけにもいかない。そこで公園の水と食べられそうな草で餓えを凌ぐことにした。
両親は夜遅くまで帰らないことが常だったので、ぼくは遅くならないよう時間に気を付けて公園へと向かった。
公園に着くとそこには誰もいなかった。夏休みだから人が大勢いると思っていたが、予想に反して人ひとりいなかった。
これはぼくにとっては好都合だった。公衆の面前で水道の水をがっつき、草をむしって食べていては何か言われるだろう。それに、もしそれが親の耳に入ったらいよいよ殺されるかもしれない。
ぼくはもう一度周りを確認してから、まず水道に向かった。夏はどうしても喉が乾いてしまう、それに水をたらふく飲めば腹も膨れる。
蛇口をひねって出てきた水を飲む。夏の暑さのせいか水はぬるかったが飲めただけでも満足だ。
満足いくまで飲んでから口元を拭い、傍にあったベンチに腰掛けた。どの草を食べようか、などと考えていたがとりあえず休むことにした。
ベンチの辺りはちょうど木陰になっており、そよ風が頬を撫でつけとても心地いい。
いい気分でくつろいでいるとお腹が鳴った。さてもう少し水でも飲むか、と立ち上がったその時。
「ねえ、お腹空いてるの?」
急に誰かに話しかけられ大袈裟にも飛び上がってしまうと、声をかけてきた少女――サヤカさんはにししと笑った。
その日から特に約束したわけでもなく公園に来ては、サヤカさんと遊ぶようになった。それから自然と仲良くなって家に遊びに行ったりもした。
サヤカさんの家はとても大きい一軒家だったけど、両親はいつもいなかった。仕事が忙しくてなかなか帰って来られないらしい。使用人?っていう用務員みたいな人はいたけど話しかけてくることは一度もなかった。
サヤカさんとの時間は宝物だった。学校の人とは違って嫌な顔せずに最後まで話を聞いてくれるし、話も面白い。とても優しい人なのだ。
そうこうしているうちに目的の公園に着いた。時間はまだ5時くらいだったが、ほとんど日が落ちているため誰もいなかった。
水道近くのベンチに腰掛ける。ここから見える景色は何も変わっていなかった。ブランコも滑り台も、そしてこのベンチもあの日からなにも変わっていない。
僕は思わず一息ついた。今吹く風はそよ風ではなく北風だったが、それでもなんだか落ち着いた気分になる。
「なんだかユウくんおじいちゃんみたい」
急に話しかけられ大袈裟に飛び上がると、声をかけたサヤカさんがにししと笑っていた。
「ユウくんってばびっくりしすぎ、そんなに驚くとあたしの方までびっくりしちゃうよ」
「や、で、でもほんとにびっくりして……。驚かせたなら、そのごめんなさい」
「なんでユウくんが謝るのさ〜もう。あ、座るからちょっと寄ってくれる?」
言われてぼくがベンチの端に寄ると、隣にサヤカさんがよいしょと座った。
ベンチの幅はそんなに広くない。だから2人とも鞄は膝の上にのせているが、それでも肘がこつんと当たった。それに距離が近いせいか、サヤカさんの甘い香りがぼくの鼻腔をくすぐる。
どくんと鼓動が早まって、背中にじんわり変な汗の感触がした。
黙っていても顔が熱くなるばかりなので、ぼくから話しかけた。
「サ、サヤカさん、どうしてここに?」
「それならユウくんだってどうしてここに来たの?あたしはユウくんがここに来そうだなあって思ったから来たんだけど……」
ひょいとこちらの顔を覗き込む。こういった思わせぶりな態度は勘違いしそうなのでやめて欲しいのだが、もう何年もこの調子なので諦めていたりする。
目が合うとロクに話せなくなりそうなので、気を付けながら一呼吸おいて答えた。
「な、なんとなくだよ。暇だったし、昔ここでよく遊んだなあって思い出して……」
「懐かしいよねえ。でもユウくん中3なのにいいの?こんなに暇してて」
ん?中3だとなにか忙しかったっけ、と考えているとふと思い出した。
「あ、受験のこと?」
「うん。ユウくん頭いいけど勉強しなくて大丈夫なの?」
サヤカさんの言う、頭いいはお世辞ではなかったりする。
もともと1人で、さらに遊ぶモノもお金もなかったから勉強しかすることがなかった。好きではないが選択肢がひとつなので仕方がない。それにテストの点が悪いと母親に殴られた。
でも分からない問題はサヤカさんが教えてくれたし、一緒にする勉強はとても楽しかった。ぼくはサヤカさんとする勉強は好きだった。
それでもぼくは高校にいくつもりはなかった。というより、いけなかった。
「高校は、その、いかないつもりでいるんだ……お金もないしね……」
最後の方はぼそぼそと言ってしまう。ちらと横顔をみると気まずそうな顔をして俯いていた。ぼくのせいで気まずい沈黙が続き、居た堪れまくなって取り繕うように口を開いた。
「で、でも大丈夫だよ。雇ってくれるところはあるだろうし、ぼくも頑張って独り立ちするから。だから、その心配しないで」
ぼくは努めて明るくそういってみせた。サヤカさんは優しい人だ、きっとぼくが高校にいけないことを不憫に思っているのだろう。だがぼくとしてはこれ以上心労をかけるわけにはいかなかった。
独り立ちというのはもちろん親からのだったが、サヤカさんからのという意味もある。
サヤカさんは中学でも人気者だった、去年まで見てきたからよくわかる。それなのに今こうしてここにいたり、毎朝来てくれたりしている。きっと友達からの誘いも幾つか断っているのだろう、直接言いはしないがそうに違いない。
ぼくはサヤカさんのことが好きだ。だからこそ普通に幸せになってもらいたい。
それにいつもぼくの隣じゃ不釣り合いだと感じていたのだ。
「そう、ユウくんは強いね、それに優しい」
「い、いやどっちも当てはまらないよ……」
さすがにこれはお世辞だ。返事を聞くように顔をみると、こちらを向いていた。
その瞳は僅かにうるんでいながらも真剣そのもので、ぼくは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
なんとなく気まずくなって、無理矢理に話をそらした。
「い、いや〜寒いね。ゆ、指先なんか、もう痛いくらいだよ。はは……」
露骨に話をそらすために、よく分からないことを言ってしまった。
それでもサヤカさんは気を悪くした素振りはいっさい見せずに、一呼吸おいてから優しくつぶやいた。
「ユウくん話逸らすの下手すぎだよ」
「い、いやほんとに寒いんだ。去年まで使ってた手袋とかも無くしちゃって……」
これはまったくのでたらめで、ぼくの手袋は無残な姿で教室のゴミ箱の中にあった。
手袋は拾い物だったので悲しくもなかったが、思わず嘘をついてしまった事がぼくの胸をちくりと痛めつけた。
「だからつけてなかったのね……」
サヤカさんはそう呟いてからごそごそ鞄を漁りだした。ぼくはとりあえず話を逸らすことができて胸をなでおろした。
「はい、どうぞ」
そういって鞄から取り出したのは手袋だった。
どうぞと言われてぼくに差し出されているのだから、くれるという意味なのだろう。
だが予想外というか、不意な出来事に呆然としてしまった。
「これ、ユウくんにあげるよ。ちなみにあたしのは別にあるから心配しないでね」
「で、でも悪いよ……」
「いーの、凍えてるユウくんみてるとあたし心配で死んじゃいそうなの!」
「そ、それは大袈裟すぎるような……むぐっ」
やんわり断ろうと思っていたら顔面に手袋を押し付けられた。顔全体にサヤカさんの甘い香りが広がり脳味噌に電流が走る。
「もうあげたからね。あたしだと思って大切にしてよ?」
そう言ってにししと笑った。いまさら断るのも失礼だろう。
「わ、わかったよ。ありがとう、大切にするね」
「うんうん、それでよし。ユウくんいつもなんだかんだ遠慮して受け取ってくれないから、今回は強引にいってみました」
そういって胸の前で小さくガッツポーズをつくる。その仕草がまた愛らしいのだが、ぼくはこの手袋を純粋に喜べないでいた。
親にばれたら殴られるからだ。
理由はぼくがお金を持っていないからだ。お金がないのにこんな綺麗な手袋を持っていたら盗んだと思うだろう。だからいつもは拾い物を使ったり、それが綺麗だったら汚してから使っていた。
親がぼくに渡す洋服や小物もどこかで拾ったものや、中古品の小汚い物がほとんどなので汚れていればばれない。
でも折角もらった手袋だ、大切にすると約束したし汚すわけにはいかない。なんとかばれないようにしないと。
そう思いながら手袋をはめて、あることに気がついた。
「あれ、これ同じ……」
ぼくの小さな呟きも聞き漏らさなかったようで、きらりと目を輝かせながらずいっと寄ってきた。
「気がついちゃった?色違いだよ!」
ばーんと手を突き出しぼくに自慢する。その手袋は黒地に控えめな真紅の雪結晶が飾られていた。ぼくがつけている手袋は黒地に碧色の雪結晶。
そういえば今朝はいつもとつけている手袋が違った気がする。ぼくのためにわざわざ用意してくれたのかな。でもさすがに色違いのお揃いは恥ずかしいような、誇らしいような。
複雑な感情が入り交ざり悶々としていると、隣のサヤカさんが立ちあがった。
「さ、もう真っ暗だし行こうか。今晩は食べてく?」
「う、うん。それじゃあ、申し訳ないけどご馳走になります……」
「いいの、いいの。あたしもユウくんと一緒に食べるの好きだし」
そう言いながらサヤカさんはぼくの手をとった。手袋ごしに伝わる体温に鼓動が一段早まるのを感じつつ、その心地よいあたたかさに連れられるままに歩き出した。
ぼくはアパートの急な階段をのぼりながら先刻までの幸せな時間を思い出していた。
ぎいぎいと古びた鉄骨の軋む音。手すりを使わないと危ない急な階段。手すりは錆びついているので、貰った手袋はすでに鞄の一番奥にしまってある。
共通廊下をゆっくりと歩く。目的の場所に着くころにはすっかり現実に引き戻されていた。
なかには誰もいないと分かっていながらも、音をたてないようにゆっくりとドアをあけた。
真っ暗だ、人の気配もない。玄関に父親の靴がないのを確認してから、一息つき電気をつけた。
靴を脱ぎながら部屋を見ると、転がる空き缶の数が増えているような気がした。触らないようにそおっと部屋の奥へと向かう。むかし散らかった空き缶をどけようとしたら、吐くまで蹴られたので要注意だ。
ぼくは部屋の隅、窓のすぐそばで寝起きしている。空き缶の山で寝る場所がなくならないか心配だったが、まだ大丈夫そうだ。
学ランだと寝にくいので傍に脱ぎ捨ててあるジャージに着替えた。脱いだ学ランは枕に使うので綺麗に畳む。ふと時計をみると、針は午後十時を指していた。
風呂はサヤカさんの家で使わせてもらったし、学校の課題もなかったので少し早いが寝ることにした。
電気を消して畳んだ学ランを枕に毛布をかぶる。この毛布は薄いうえに少し小さいので、丸まっても足先が出てしまう。
隙間風が吹き背筋を震わせたが、寒さばかりはどうしようもないで身を固くし瞼を閉じた。
眠りに入るまでの間、今朝見た奇妙な夢のことを思い出していた。
はっきりとは覚えていないが、ぼくが誰かに抱かれながら泣いていた夢だ。
あれはいったい何だったのだろう。そしてぼくを抱いていたのは誰だったのだろう。そもそも本当に泣いていたのか?
ぼくは泣くときの感覚を思い出そうとしたが、できなかった。もうここ何年も泣いていないからだ。
ぼくがまだ小さかったころは、殴られるたびに泣いていた。でも泣いたり、うるさくするとさらに殴られたので泣かない努力が必要だった。
そういえば母親が事故で死んだときも泣かなかった。当然といえば当然か。
母親は父親よりもよくぼくに怒った。テストの点が悪ければタバコの火を当てられ、うるさく泣けば灰皿で殴られた。母親が彼氏に振られたときは八つ当たりで歯が欠けるほど殴られたが、乳歯でよかった。
それに比べ父親はあまりぼくには怒らない。興味がないらしく、視界に入らないように気を付ければ問題ない。
だから母親が死んだと聞いても安堵の感情の方が強く、またその感情で泣くにはぼくの心は渇き過ぎていた。
そんなぼくでも泣くことができるとしたら、きっとサヤカさんの前だろうと思う。サヤカさんの前でなら泣くことができるかもしれない。泣くために必要な潤いと安心がそこにはあるような気がした。
そんなことを考えているうちに、ぼくはこころが安らぎ深い眠りについた。
学校からの帰り道、ぼくは自宅を通り過ぎ少し離れた商店街に向かっていた。
もちろんお金はないので買い物ではない。サヤカさんの家に行くまでの時間潰しだ。
今朝学校に行く途中で晩御飯をご馳走になる約束をしたのだが、約束の時間まで一時間とすこしある。
最初はこの前の公園で時間を潰そうかと思っていたが、大勢の子供とその親なんかがいたので諦めた。
この商店街はお金がないのに喝上げされるので本当は来たくなかった。まあ、大通りの人目に付く場所を歩いていれば大丈夫だろう。
今日も肌寒い日だったが、ここの雰囲気はどこかあたたかく和やかな感じがした。
なんだか、カップルか家族連ればっかりだなあ。
先程からすれ違う人たちはみんなそのどちらかだった。もちろん1人でいる人もいたとは思うが、なぜかぼくの視界には強く映し出されなかった。
無意識のうちに妬んでいたのかもしれない。ぼくには欲しくても絶対に手に入らないから。
憂鬱な気分でいるとなんだか体まで重く、だるくなってきた。特に昼休みにクラスメイトに殴られた鳩尾がいまだにじんじんする。
早くサヤカさんに会いたい。
ぼくは貰った手袋の感触を確かめながら、これから待っている楽しい時間のことを考えるようにした。
早くこの場を去りたかったが足取りはなぜか鈍くなる。脚も蹴られていたことにいまさら気がついた。
ここを選んだのは失敗だった……
ぼくは一度立ち止まって呼吸を整えることにした。吸って、吐く。手を握って、開いてから、手袋を見つめる。
もう少しの辛抱だ。なんだか今日は体調が悪いらしい。そういえば昼休みは手袋がどうのって言われて、いつもよりたくさん殴られた気がする。珍しく女の子もいたけど、なんて言ってたっけ。蹴られたことは覚えているけど、なにを言われたのかは忘れちゃった。
一息ついてからまた歩きだした。脚がずきずき傷んだが我慢して、サヤカさんの家の方向へと足を向ける。少し予定より早かったが、この脚なら遅れてちょうどいい時間に着くだろう。
早くサヤカさんに会いたい。
会って話していればこんな痛みなんてどうとでもなる気がした。あの優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。ぼくはそれさえ見られればいい、それだけで大丈夫だ。
ふらふらと歩いていると、少し先にある店の前に一組のカップルがいた。
制服はサヤカさんと同じだから隣の高校の生徒だろう。
男の方は知らない人だった。グリースで靡かせた黒髪に、鋭くとがった眉。二重まぶたは持ち主の眼を大きく印象深く魅せていた。遠くから見ても背が高く、ぼくよりも一回りは大きいはずだ。ぼくの目から見てもかっこいい人だった。
その男が隣の女となにやら楽しげに話している。
女の方に目を向けた。その刹那、後頭部を氷塊で殴られたような衝撃がぼくを襲った。
女はサヤカさんだった。
衝撃が全身を伝いその場に崩折れた。背中に嫌な汗がミミズのように這う。鼓動はどんどん早くなり、今にも口から臓物が出そうな勢いだ。
サヤカさん、彼氏いたんだ……
声をかけたい衝動にかられ、口を大きく開いた。だがすぐにその衝動も開いた口も閉ざされた。
さきほどとは違い、いまは凍てつくような静けさが体を包んでいた。衝撃で見開いた瞼もすでに鳴りをひそめ、不格好にも半開きになっている。
よろよろと立ち上がって踏ん張ると、踵を返して自宅へと向かった。
なんだか今日はいろいろ大変だった。
ぼくのなかには疲労や衝撃、悔恨と苛立ち、不安や心細さなど様々な感情がまさに渾然一体となって渦巻いた。でも一番は諦念だった。
それにぼくがなにかいうのは、どう考えても御門違いだ。本人が居たい人と一緒にいるべきだろう。もしかしたら独り立ちする良いきっかけかもしれない。
ぼくは自分にそう言い聞かせることにした。
思えばサヤカさんとの約束を破るのはこれが初めてのことだった。後ろめたさを必死に振り払い、ぼくは独りとぼとぼと帰路についた。
ぼくの頭に包帯が巻かれていることに気がついたのは、次の日の朝だった。
まさに茫然自失の状態でふらふらと包帯をほどいていた。頭は重くずきずきと痛むし、目はうつろでぼうっとしている。
けっきょく一睡もできなかった。
眠りにつこうと瞼をおろしても、眼窩に浮かぶのは楽しげなふたりの笑顔。ふたりをとりまく景象が、まるで呪詛のように内側壁から離れなかった。
照明の灯りはついたままで、その薄明かりがぼくの顔に深い陰影をつける。
時計をみるとまだ朝の4時だった。
外は真っ暗で、強風に煽られたアパートが鉄骨を軋ませ震えていた。隙間風がぼくの体を撫でつけて、寒さで骨が軋むようだった。
外に出ても寒いだけだが、ぼくは鞄を掴んでアパートから出た。
サヤカさんと会うのが気まずい。約束を破ってしまったし、彼氏の件もある。
階段を降りるといつもいるはずの人は、そこにはいなかった。こんなに早い時間だ、当然といえば当然だったが胸の苦しさは抑えきれなかった。
その場に呆然と立ちつくす。足の裏から伝わるコンクリートの感触がこんなに冷たく感じられたのは初めてだった。
ぼくはただ亡霊のように歩き出した。
学校は、サボろう……
幸い登校日数は足りているので多少サボっても平気なはずだ。
問題は食料だ。給食がなくなれば食べるものがなくなり餓えてしまう。当分は公園の水で凌げるが、それからどうするか。
不意にサヤカさんとの食事を思い出した。本当だったら昨日食べるはずだった、手料理の数々。
もう二度と見ることができないその光景を無理矢理に脳裏から引き剥がした。
胸の苦しさは強まるばかりだが、我慢する。もう何年もやってきたように、薄い膜を身に纏い無関心の殻に籠った。
全身の筋肉が弛緩して、重い瞼は自重で垂れ下がる。
いまのぼくには寒さすら感じないようだった。外気よりも冷たく乾涸びたこころは以前のように潤いは求めず、ただ北風に身を任せているだけだ。
行く当てなんてなかったが、どうでもよかった。
まだ薄暗い空の下、ぼくは脚を引きずりながら歩いていく。映し出されるぼくの影は、闇に呑まれて溶けていくようだった。
それから目的もなくふらふらと歩きまわったが、一度自宅に帰ることにした。
学ラン姿で行動するわけにもいかないので、なにか別の服に着替えるためだ。
ぼくはジャージに着替えてから、そばに置いてある毛布を乱雑に鞄の中へと押し込んだ。
このアパートにはもう帰らないつもりだ。もしかしたら学校から連絡が入るかもしれない。学校をサボったことが父親の耳に入ればいよいよ殺されるだろう。
だからここから出ていく。未練などない。
毛布を持っていくのは野宿する際に温まるためだ。無一文なのでどこか雨風凌げる場所で野宿するしかない。こんな貧相な毛布でもないよりはマシだろう。
あとは働き口を探さないと。
いろいろと思考を巡らせながら玄関のドアを開けた。
そこから見える景色はいつもと変わらなかった。仮にも新生活の門出にしては爽やかさとはほど遠い、鬱陶しくなるほど見飽きた景色。
だがそんな気持ちになるのは景色のせいなのか、見ている自分のせいなのか。
今のぼくには知りようもないことだった。
甘くみていたかもしれない。
そう思いはじめたのは自宅を出てから5日後のことだった。
いまは隣町のはずれにある河川敷にいた。前時代的な寂れた橋が架かっていて、たもとを屋根代わりにしている。
甘くみていた、というのは働き口のことだ。
いくつかの店や働けそうな場所をあたってみたが、どこもダメだった。とりあってすらくれない。
理由ははっきりとしていた。
まずぼくが童顔で、実年齢よりも幼く見えること。中学生でも働けないのに、さらに幼く見えるなら断られるのも当然だろう。
そしてぼくの連絡先や住所がわからないこと。口から出まかせを言えばそれで良かったが、すぐに思いつくものでもなかった。
どこにいっても子供のいたずらだと思われて、追い払われてしまった。
空腹が痛い。そろそろ水以外のモノも口にしたかった。
だが辺りを見回しても目に映るのは荒涼とした大地に、魚の骸が浮かんだか細い川。
なにか食べられるモノはないか、と立ち上がる。
土を食べようにも、無秩序にひびが入り混じる地面はとても固く、指が押し負けてぐにゃりと曲がった。
その場にへたり込む。不意に、ぷかぷかと浮かんだ魚の骸と目が合った。
死んで彩の無くなった眼に、屍者の亡霊が映ってみえた。
あれは、ぼくだ。
死んだ魚の眼に映る、死んだ魚の眼。
ぼくの知っている、ぼくの眼だ。
現下の絶望で死んだのではなく、元から死んでいた屍者の眼。
屍者に具わる屍者の眼が、なぜ生者のぼくにあるのだろう。
なぜぼくはいままで生者足り得たのだろうか。
理由は、分かりきっていた。
ぼくは鞄からそっと手袋を取り出すと、手にははめずに抱きしめた。
いまだ失われない優しい香りを感じた。だがその手袋は手袋に過ぎず、ぼくが求めるあたたかさはそこにはなかった。
手袋をさらに強く抱きしめ、うずくまる。額が地面に当たり、擦りつけた。
濁流の如く感情の波が押し寄せる。
胸が強く締めつけられた。苦しくなって何かがこみ上げ、顔をしかめて嗚咽をもらす。声にならない呻き声がもれた。
だが、泣くことはなかった。
数時間か数秒か、どれくらいの間そうしていたかは分からなかったが、次第に呼吸も落ち着いてきた。
ぼくは目下の問題を解決すべく、重いからだを引きずりながらある場所へと歩き出した。
急な階段を登り切り、共通廊下を歩いていく。
目的の場所の前まで来ると、ドアを開けた。鍵はかかっていない。
部屋の電気はついたままだった。
約一週間ぶりの帰宅、もう二度と戻ってはこないつもりだった場所に立っていた。
ぼくはなんて情けないのだろう。なんて卑しいのだろう。
ぼくはいま、そう考えていたのかもしれない。
だが考えるより先に体が動いていた。
空き缶の山を掻き分けるように蹴散らして進む。冷蔵庫の前までくると扉を乱暴に開け放ち、中にあったミネラルウォーターを浴びるように飲んだ。
細胞ひとつひとつ隅々まで染み渡っていく。水すら最後に口にしたのはいつだったろうか。
中身を飲みきってペットボトルを放り捨てると、そばにあったビニール袋に目がいく。中に入っていたのは大量のつまみと、菓子パン。
ぼくは菓子パンを袋から取り出し、中身を貪り食った。食べながら鞄の中に大量のつまみを突っ込む。
ふたつめの菓子パンを食べようと手を伸ばしたその時、異変が起きた。
急に周りの景色がぐるぐると渦を巻くように回転したのだ。床が上にあって、壁が下にある。
はじめはまわりの景色がまわっているのかと思っていたが、違った。
ぼく自身が、まわっていた。
空き缶の山をなぎ倒し、窓際の壁にぶつかり止まった。そこで、ぼくが床の上を転がり回っていたことに気がついた。
胃からなにかがこみ上げてくる。抑え込もうとするぼくの意思を無視して、さっきまで口に入れたものすべてを床にぶちまけた。
口の中に苦く酸っぱいものを感じながら苦悶していると、髪が引っ張られる感覚とともに顔が起き上がる。
すぐ目の前に誰かがいた、大人の男だ。ぼくになにか怒鳴り喚き散らしている。
ぼくの顔に鈍い痛みが走った。気がつくと床の上に投げ出されている。
身をよじっていると腹に重たいモノがのしかかる感触、男がぼくの上に馬乗りになっていた。その男がぼくの首をぎりぎりと締めつけてくる。
苦しい……
ぼくは遠のいていく意識の片隅で、床に転がる手袋を見つめていた。なにかのはずみで鞄から飛び出したのだろう。
視界が狭まり、目に映る景色から色彩が失われていく。ただひとつのモノを除いて。
どれだけ目に映る世界が色褪せたとしても、彼女からもらったモノ、彼女を取り巻く世界だけは、ぼくの目に彩りを与えている。
サヤカさん……
ぼくは雲散する意識の片隅で、消えるような声でそう呟いた。
誰かの胸に抱かれていた。
力強くも優しく、包み込むようにぼくを覆ってくれていた。震える声でぼくの名前を呼んでいる。ぽたぽたと顔にあたたかい水滴がたれてきた。
泣いているの?
これは、いつかみた夢の再来かと思った。だがその考えはすぐに消えた。
なぜならぼくの意識ははっきりしているし、だれに抱かれているかもすぐに分かったからだ。
「……サヤカさん?」
ぼくは恐る恐るそう尋ねてみた。すると一度からだがびくっと強張ったかと思うと、さらに強く優しくぼくのからだを抱きしめた。
「ユウくん、ごめんなさい。ごめんなさい」
サヤカさんは嗚咽まじりに泣きながらそう答えた。
「あたしまた遅れちゃった。ユウくんこんなになって。ごめんなさい……」
サヤカさんは今にも消えそうな声でずっと謝り続けた。その声が、仕草がぼくにはとてもか弱く心細そうにみえた。
だからぼくはそのからだを支えるように、そっと抱き返した。
「ぼくは、大丈夫だから。そ、それにサヤカさんは何も悪くないんだから、もう謝らないで……」
そういってそっとからだを引き離す。居住まいを正していると、ぼくの全身が水でびっしょり濡れていることに気がついた。
外は大雨のようだ。雨粒が屋根を打ち鳴らし、雷の地響きがアパートの鉄骨を揺らしている。
雨が降っていたのか……
傘もささずに来たのだろうか、サヤカさんもずぶ濡れだった。長い黒髪はしっとり濡れていて、とても色っぽくみえた。
色気にあてられどぎまぎしていると、サヤカさんがぼくの頬に長く綺麗な指を這わせてきた。
「ユウくん……」
「だ、大丈夫だって。歯は折れてないし、すこし腫れているだけだから」
そう言っても、サヤカさんは目をうるうる充血させながら頬から手を離さない。
「ほ、ほんとに大丈夫だから。安心して!」
ぼくはまた泣き出しそうなサヤカさんを励まそうと努めて明るく言ってみせた。だがサヤカさんは首をふるふると小さく横に振り、こう言った。
「ユウくん、大丈夫じゃない。だって泣いてるもん……」
「えっ」
ぼくは驚いて、自分の頬に手をあてるとぐっしょりと濡れていた。そしてぼくの目からは堰を切ったように涙が流れ続けている。
どうして?いままで泣くことなんてなかったのに。
ぼくはそういった疑問が浮かび上がるのと同時に、また答えも浮かび上がっていた。
「……この涙は、大丈夫だよ」
「ほんとうに?ユウくん、どこか痛いところは……」
「ほんとうに大丈夫。これは……」
この言葉を言うのには少し勇気が要った。でも、いまだ心配そうにおろおろしているサヤカさんをみて意を決し、口を開いた。
「これは安心して泣いてるんだ、と思う……。ずっと、サヤカさんに、会いたかったから……」
恥ずかしくなって、最後は消えそうなほど小さな声になってしまった。それでも聞き漏らさなかったようで、すこし驚いたような顔をしてこう聞いてきた。
「え、あたしユウくんに嫌われちゃったのかと思って……あの日も来てくれなかったから……」
「き、嫌いになんてなってないよ。ただあの日、サヤカさん彼氏といたから。その、ぼく邪魔かなって……」
ぼくが答えに窮していると、サヤカさんは一瞬ものすごい剣幕になってから、すぐに優しく、だがどこか恨めしそうな顔つきになった。
「ユウくん、あんなのは彼氏でも何でもないよ。学校の係で買い出しをしなくちゃいけなかったの。気を遣わせちゃったなら……」
「い、いや、いいよ。ぼくが勝手に勘違いしただけだから」
勝手に勘違いして空回りしていただけと知り、恥ずかしさを誤魔化すように返事が変に力んでしまった。
サヤカさんはそんなぼくを見て、すこしおかしそうに、優しく微笑んだ。
それから少しの沈黙の後、もじもじと恥ずかしそうにぼくに尋ねてきた。
「ねえ、ユウくん、あたしにずっと会いたかったの?」
「う、うん」
自分で言った事とはいえ改めて聞かれると、恥ずかしい。顔がすこし熱くなった。
「嬉しい、あたしもずっとユウくんに会いたかったよ。だって……」
サヤカさんが答えに窮してうつむいていたかと思うと、急にがばっと抱きついてきた。
「だって、ユウくんのことが好きだから」
ぼくをぎゅっと抱きしめながら、耳元でそう囁いた。
一瞬あたまが真っ白になってから、心臓をきゅっと掴まれるような感覚がした。胸が苦しいはずなのに、でもどこか心地いい感覚。
すこし鼓動が落ち着いてくると顔が燃えるように熱くなった。
サヤカさんはぼくが思考のループに入るのを許さないように、一度離れてからじっと見つめてくる。真っ直ぐにぼくを見つめていたが、眼の奥では不安が見え隠れしているように見えた。
「……それで、ユウくん。返事を――」
「ぼくもサヤカさんのことが好きだよ」
サヤカさんの言葉を半ば強引に遮るように、そう答えた。
ぼくは自分の気持ちがこころの内から、こんなにも自然と出てきたことに驚いた。
サヤカさんもすこし驚いた顔をしていた。でも、すぐに目を潤ませながら顔いっぱいに喜色を浮かべた。
自然と顔が近づき、そのまま吸い込まれるように唇を重ねた。
甘い唇の感触、鼻と鼻がぶつかり擦れる。優しい香りと、柔らかい唇がぼくを包み込むようだった。
舌があたり、痺れるような電撃が脳に伝わる。そのまま不器用に舌を絡めようとした。
だがそこで思いとどまり、唇を離した。
「ご、ごめん。さっきぼく吐いちゃったのに……」
「いいよ、ユウくんのだったらぜんぜん大丈夫」
そういってサヤカさんはぼくを押し倒した。
唇を重ね、舌を絡める。
ぼくはそのままサヤカさんを求め続けた。
「ユウくん、ずっと一緒にいてね。もうどこにもひとりでいかないで」
「うん、ずっとサヤカさんと一緒にいるよ」
ふたりの指を絡めてしっかりと握った。もう二度と離さないように。
外はまだ雨が降っていた。雨音と雷鳴が甘い吐息をかき消す。今だけは、ここはふたりだけの世界だった。
互いの肌を重ねながら、ぼくは諦めていた潤いと安心が満たされていくのを感じていた。
ドアを開けると、雨はやんでいた。まだ早朝で空はいまだ薄闇に呑まれていたが、雲ひとつなく気持ちの良い景色だった。
見飽きた景色のはずなのにサヤカさんとふたりで見れば、爽やかで彩り鮮やかにみえた。新生活の門出に相応しい晴れやかな気分だった。
ぼくとサヤカさんは互いに手袋をはめ、指を絡めて握っていた。
「大事に使ってくれてたんだ。嬉しい」
「ぼくの大切なモノだから。それに、約束したからね」
ぼくは手をきゅっと握り直した。
ふたりで階段を降りる。この階段は急なうえに高さもあって、なによりそこまで広くない。ふたりで慎重に降りていくと、どこかぎこちなく変な感じがした。
だが今のぼくにとっては、そのぎこちなさすら心地がよかった。サヤカさんもぼくの顔を覗いてにししと笑っている。こころがあたたかいモノで溢れるようだった。
階段を降りるとコンクリートの地面に父親が突っ伏して倒れこんでいた。
父親は全身血まみれで、着ている洋服を真っ赤に染め上げている。とくに頭部の損傷が激しく周囲に脳漿をぶちまけていた。雨に洗われたせいか、飛び散った血液の色も綺麗だ。ぱっくりと空いた頭は、てらてらと艶があり、醜く散乱する頭髪の存在を忘れるほどに美しかった。
この光景には見覚えがあった。母親が死んだときもこんな感じだった気がする。
あの日の母親は何故かすごく機嫌が悪かった。たくさん殴られたせいで歯は折れたし、熱湯をかけられたせいで火傷もした。額のやけど跡もそれが原因だ。
その時もサヤカさんが助けに来てくれて、ぼくはこうして生きている。
母親もこの場所で、車に轢かれた蛙みたいにのびて死んでいた。
潰れた蛙と違うのは、ぼくはこの死体をみても醜いとは思わず、むしろ安らぎと安心を感じることだ。
両親ふたりとも階段から落ちて死んでいるとは。
ぼくは嘲笑ともつかないなんとも奇妙な感情になったが、まあどうでもいいことだった。
父親の死体を跨いで、通り過ぎる。二度と見ることはないであろう父親の姿に未練など微塵もなかった。
「ユウくん、家についたらご飯食べようか。お腹空いてるでしょ?」
「うん、じつは何日も食べてなくて……」
「それじゃあたくさんつくらないとね。腕がなるぞ〜」
「あはは、ぼくも料理つくるの手伝うよ」
「ほんとに?ユウくんってば優しいね」
そういってぼくの頬に軽くキスをした。ぼくが照れていると、その様子をみて屈託のない笑みを浮かべる。いつもぼくにいたずらをする時の、澄み切ったように純粋な笑顔。
ぼくたちはアパートの敷地から出ていく。もうここには戻ってこない。
なぜならぼくには居場所ができたから、安心して帰れる居場所が。
消えかけの街灯に映し出されるぼくの影は、闇に呑まれている。だがその影もいまはひとりではなかった。隣でサヤカさんが寄り添ってくれている。
暁天の星を眺めながら、手袋ごしにやさしい体温が伝わってきた。ぼくは手をしっかりと握り直してから、そのあたたかさに連れられるままに歩みを進めた。