第1話
これは、俺が四十五歳の時の話である。
俺は、小坂郡晴見町大字立川345で勇者の修行をしていたのだが、その最中に、エルメナンデスと名乗る男が魔王を倒してしまい、世界に平和が訪れるという一報を入手した。
「これは誤報だ!」
俺は小坂郡晴見町大字立川345辺りを、走り幅跳びの選手が助走の時に魅せるような走り方で怒鳴り散らした。その姿を目撃した人たちは、こればかりはカール・ルイスの再来だと我も我もと屋外へ躍り出し、たちまち狭い路地は混乱を極めた。
「何が誤報だ。お前なんかに勇者が務まるものか」
そうやって囃し立ててきたのが、隣の家に住む幼稚園児の勘吉である。いつものことながら、俺が勇者だと誇らしげに主張するたびに、勘吉には馬鹿にされてきた。今日こそ、この屈辱を晴らしてやろうと、俺は勘吉の家に押し入り、部屋の中から窓ガラスをぶち破った。窓ガラスを割るぐらいなら、別に部屋の中などに入らず、外から割れば良いではないかという声が聞こえてきそうだが、もし外から窓ガラスを割ってしまうと、中にいる勘吉に怪我を負わせてしまうかもしれず、それだけは避けたかったのである。怒りを露わにした俺であっても、やはり正義という名の良心がここぞとばかりに見え隠れしてしまう。こういう時に改めて俺は勇者なんだなあと気づかせてくれるのである。悪になりきれない自分自身を恨みながら、俺は勘吉の家を後にした。外に出ると、窓ガラスの破片が体に突き刺さって苦しんでいる老人がいたが、そっとしておいた。
魔王は倒されるは、勘吉には弁償代を請求されるはで、俺の人生は相当に滅茶苦茶である。怒りに怒りを重ねた俺だが、これ以上勘吉ばかりを標的にしているわけにはいかない。そこで思いついたのが、エルメナンデスという男を倒して、俺の第二の人生に華を添えるという計画だ。俺の人生を番狂わせさせておいて、ただで済むわけがなかろう。魔王を倒したエルメナンデスを倒せば、ほぼ魔王を倒したのと同義であり、世界中の人々は俺を勇者であると認めざるを得ない。こんな勇者がまだいたのか!と皆が驚く顔が想像できる。
俺は早速、小坂郡晴見町大字立川345を出発し、エルメナンデスを倒す旅に出かけた。このフットワークの軽さは喫茶店のメニューに加えても良いぐらいだと、立山さんもきっと思っているに違いない。
立山さんというのは、三十代半ばで喫茶店をやり始め、今や食べログなんかでも星四つ以上を獲得する名マスターとして世界中にその名を轟かせるまでに至った、俺の知り合いの中では最も成功した人気マスターの一人である。容姿も良く、頭も良い。その上、性格も良いときたのだから、星四つ以上は朝飯前なのであろう。モーニングなだけに(笑)。しかしながら、食べログがネット上に浸透してきた辺りから、やけに立山さんの行動や仕草の一つ一つが気に障るようになった。
ある日、立山さんの喫茶店に食事を摂りに行った時、入口の扉に、なんと食べログのシールが貼ってあった。俺は震えながらそのシールを剥がし取り、
「立山!俺はこんなことのためにお前の店に来ているわけじゃないぞ!」
と鬼の形相で怒り狂い、立山の前でシールを破り捨てた。
「勘違いするな。俺だって好きでこんなシール貼ってるわけではないよ」
立山は冷静に振舞った。小癪な男だ。
「では、何故貼っている。これ見よがしに入口の扉に堂々と!」
俺は攻撃の手を緩めない。立山は、ひとつ大きな溜息をつくと、
「お前が剥がした所をよく見てみろ」
と、扉のある場所を指さした。そのある場所を目で追っていくと、俺は「あっ!」と声が出て立ちすくんでしまった。そこには、陰茎を描いたであろうものがくっきりと浮かび上がっているのである。
「あっ、じゃないだろう。お前が描いたんだよ、その陰茎は」
よく思い出せと言わんばかりの強い声で、立山は俺に言い放った。
「いやいや、俺なわけがない」
この時、何度否定をしても立山の俺への信用は無くなっていた。
「もういい、出ていけ。そして二度とこの店に姿を現すな」
そう言って、立山は俺を店の外へ追いやった。雨の強い夕暮れのことだった。俺はずぶ濡れになりながら、店の前で突っ伏した。
「俺なわけがない…。俺には無理なんだよ!」
そう、俺には鉛筆を持つ右手が無かったのだ。涙は雨に消された。扉の陰茎は雨に濡れても平気な陰茎をしていた。
翌日、俺の利き手は左手だったことを思い出したため、すぐに立山の喫茶店を訪れ、そこらじゅうの壁という壁に陰茎を描き殴ってやった。そして、立山の名前をさん付けで呼ぶことは二度となかった。