『一つの終焉』
―――ランバルト王、崩御せり。
この訃報に多かれ少なかれ動揺しない者は大陸西部には存在しないだろう。強大国ディリオンの王であり、紛れもなく――死した本人がどう感じていたかは兎も角――時代の覇者であった。内戦の勃発とブルメウスの死以後、大陸の歴史はランバルトを中心に動いていたのだから。
そして、ランバルトと共に女王ミーリアも亡くなった。同じ日、同じ場所で、である。二人の不仲、というより情の介在しない関係は公然の秘密であり、状況から察するに絶望したミーリアの心中であろう事は明白だった。だがその明らか過ぎる程の状況に反して、政府――そして指導するフレオン――が公式に発表したのは"王位簒奪を企むプロキオン家による弑逆"であった。
ランバルト崩御の政治的空白を埋めたのは――或いは埋められるのは―――リンガル公ジュエスも亡き今、宰相フレオンだった。
彼の動きは速かった。まるで全てを見越していたようですらあった。
領地が王都に程近いモロルにある事も重なり、ユニオンの掌握に僅かな時しか費やさなかった。何よりも素早かったのは、王国の後継者で未だ幼児の王太子アルティルを確保した事だった。両親を一度に失ったアルティルには親族がいなかった。ランバルトの政策で血族の粛清が行われていたからだ。プロキオン家のジュエスも亡く、独りとなったアルティルを確保する事は摂政となり王国主座を手に入れる事と同義だった。敵対勢力が事態を把握し動き出そうたした時には全てが終わっていた。
フレオンは遅れて集まった諸侯・諸官を前に王太子への忠誠を宣誓させ、宰相という公的な地位、後見人たる摂政という私的な地位の獲承を追認させた。未だメガリス王国の脅威は去っておらず、国家運営まで指導し得る人物と言えばフレオンしかいないのは否定は出来ない。だが指導者となるにも、"事実上"と"事実"の間には天と地の差があるのだ。何と言ってもフレオンのピュリア家自体はコーア公位返上で単なる地方領主に過ぎなくなっているのだ。何よりも権威と正統性が必要だった。
そして、新摂政という立場を尚保証するのが、ランバルトが残した"王子アルティルとフレオン末女スコルピアの婚約認可"と言う書状だった。
そして、フレオンは王国の支配という"事実"を確たるものとした。
◆ ◆ ◆
【新暦674年9月 王都ユニオン 摂政フレオン】
もうじき日が暮れる時分、フレオンは玉座の間に佇んでいた。
そこに彼以外の人影はない。
フレオンが見つめる先にあるものは王の姿なき静寂に満ちた玉座だった。
愚者も賢者も含め、この椅子は一体何人の歴代の王を見てきたことだろうか。
つい先日何代目かになる王を女王諸共失ったばかりだが、玉座は何事もなかったかのように物言わぬただの椅子として新たな王が再び現れるのを待ち構えている。
ただ静かに。ただ平然と。
――まるで私のようだな――
そう思いながらフレオンは無言で歩き出すと、玉座の目の前で立ち止まった。
王が死してまだ間もないが、次にその玉座に座るべき存在は既に決定している。
王と女王の忘れ形見である王太子アルティルである。尤もまだ幼すぎるためにそこに座ることは実質難しいところだが。
また更にフレオンの末女であるスコルピアがアルティルの未来の王妃となることも決定事項となっている。
生前の王の直筆の認可状によって正式に認められたことだ。
だがいつそのような談義が行われたというのか。件の経緯を全く知る由のない臣下たちにとってはそのようなことは寝耳に水で、そろって驚きと動揺を露にしていた。
まあ、密談での取引であったためそれは当然のことであった。
ましてこのような状況で冷静に事態の収拾にあたることができたのはフレオンただ一人であり、多忙に動き回る彼に反対の意を伝えることができるような強い反発心を持つ者など今は一人もいなかった。
まさに好都合と言えるこの状況がフレオンにとって非常に有利であり、彼を疑う心はあっても彼以上の実力を持つ者がいない現状が彼の独擅場を作り上げていた。
――このような時であろうと私に不信感を抱いていることは奴らの顔を見ればわかる。だが何も言えまい。まさか何の前触れもなく王も女王も一度にこの世から去ることになるなど、この私以外一体誰が予想できた――
当のフレオンがすべてを裏で操っていた張本人とはいえ、それを誰も見抜けなかった時点で誰もがただ無力としか形容しようがない。
罪人は寧ろ王を守れなかった無力な臣下たちだとフレオンは内心嘲った。
疑心を密かに抱く面々の複雑な表情ひとつひとつを眺めながら。
――顔か。そういえばこの顔を見るたびに多くの者が独り言をこぼすように言っていたな。『貴殿は感情がないのか』、とか。『貴殿はいつも茫としているな』、とか――
そこでフレオンはふと過去のことを思い出した。
誰もが口を揃えて表情のわからないこの顔をそう評価してきたが、しかしそれは見掛けだけの事だった。
当人たちは全く気付いていないだけで、フレオンのその心の内は意外にも豊かで想像以上に起伏が激しかった。
顔は人間が抱く感情が最も現れるところであり、顔からその腹の中にあるものを読み取ることができる。
しかしフレオンからすれば表情など謀を操る上ではただの足枷でしかなかった。
顔は見ているのではなく見られているものだからだ。
常にそういった警告のような意識が根底にあったフレオンは、この顔を見た相手が感情の読めぬ顔だと口にする度に己の強い自信としていた。
この表情の読めぬ顔は、何よりも策謀において必要不可欠だからだ。
生まれつき表情が表に出ない質だったのか、それとも必要に迫られて感情を出さぬようになったのかは最早フレオン自身にも判然としなかったが、そのようなことは些末事に過ぎない。
今程普段は顔に出していない感情の高ぶりを抑えられない時はない。
フレオンは常なら微動だにしない口角をこれでもかと釣り上げ、わなわなと震えるほど手を強く握りしめた。
――ついに、ついにここまで昇りつめた――
己の知謀で敵を罠に嵌め、言葉巧みに操り、時には味方となり、殺し殺させ、この玉座の足元まで到達した。
かつては無名の地方豪族に過ぎなかったというのに、それも今は遠い昔のことだ。
フレオンが、今や玉座と、王国と、歴史を左右出来る力を得たのだった。
――神よ。見ているか。武力を使わず多くの人間を退けてここに佇む私を――
フレオンは強く噛みしめるように目的を達した無情の喜びに浸った。
何よりも困難な策略を成功させたこと自体にもこれまで以上に強い満足を感じていた。
思えばこれ以上望めない程の最高の状況が揃っていた。
内乱によって国が乱れている。思いがけず外からやってきた眩しく強大な覇者がいる。それに次ぐ力を持つ者が――今更誰とは口にするまでもない――すぐ下にいる。だが同時に彼らには隠しきれぬ人間的な弱さがある。そして外にも屈服しがたき大きな難敵がいる。
見れば見るほどこれ以上ない理想的な状況が揃っていた。
顔に出ぬようにするのが実に大変だった程までに。
相手を罠に嵌める方法は幾らでもあるが、フレオンからすれば私的な"感情"をも利用し尽くして策を成功に導かせることは、どの方法においても特に満たされることだった。
故にいつものように茫洋としたその表情の裏で筆舌に尽くしがたい至上の余韻に浸っていた。
――勝利の美酒とはかくも甘美なものだ。酒では殺せないと言ったのは誰であったかな――
益体も無い事を不意に思い、フレオンはふっと笑う。
ただ、完璧とさえ思えるフレオンの動きにも失点があった。
ロラン=アルサ王家に続いて王国最大の権勢を誇るプロキオン家、その後継者ジュラと母公サーラの確保には失敗していたのだ。
フレオンが動き出す前、そしてランバルトが死ぬ前にもサーラは事態を察し、領地へと去っていた。当時のフレオンとしては何よりもランバルトを消すことに注力しなければならなかったため、それを阻止する余裕まではなかったが故の失態だった。
だが寧ろサーラの動きを利用することでミーリアを動かせたとも言えた。
この点に関しては一概に負の出来事とは言えないだろう。
――それに肝心の物までは取り逃さずに済んだしな――
実はフレオンはミーリアが送り出していたサーラ宛の手紙を確保していた。そこにはミーリアの想い全てが書かれている。中身を確認する前からフレオンには全てお見通しだった。
間違いなくこの手紙があってはミーリアとプロキオン家の繋がりが証明されてしまう。そうなるとミーリアにも弑逆加担の疑いが――まあ、弑逆の張本人なのだが――公式のものとなってしまうのだ。
そして何よりもフレオンをひやりとさせたのは、手紙にはフレオンの協力の事も仄めかされていた事だった。
――まさかあの庭園での密談までサーラ姫に伝えようとしていたとはな。油断のならない女だ――
一歩間違えていればフレオンの策略が露見しかねない事態となっていたところだった。
どのような遺言をサーラに残そうとしていたのかは知らないが、一時は敢えて逃がすべきかもと思いもした。
が、徹底して物証は確保すべきと手紙も回収しておいたことはやはり賢明だった。
ランバルトもミーリアも王子アルティルの正統性の為には"綺麗"な存在でいて貰わねばならないのだ。その為には心中したなどと醜聞があって貰っては困る。それ故に身代わりとしてプロキオン家に汚れて頂くのが最適の流れであった。
――これでサーラたちプロキオン勢は間違いなくそのまま軍を起こすだろう。それにより奴らに敵対的な反乱者という"実績"も着せる事が出来る――
敢えて皮肉を込めてフレオンはそう表現した。
ほぼ心酔といっていいほどジュエスを慕っていたあの一団を勢力を保った状態のまま懐に入れてものちのち面倒でしかない。
常に邪魔者を排除するには格好の口実が必要となる。その為の濡れ衣であり、策謀である。
"正当"な理由の下、プロキオン家は反乱者として叩く。
それにこちら側の結束を考えれば、討つべき敵がいる方が状況的に都合が良いとも言える。
――幸い、私を不審に思う者はいても私の差し金と疑っている者は今のところ少ない。私はあくまで優秀な宰相に過ぎないからな――
ミーリアの手紙を始め、証拠と言える物証は残さぬよう抜かりなく回収してある。
唯一フレオンの策に確信を抱いているのはサーラだけであり、もし王都の何者かがフレオンを全ての張本人だと疑いはしても証明は出来ない。
この事は策謀の運命を決めるような重要事だ。正当さとは極めて小さな要素の様に思えるが、決して無視してはならないのだ。
そして、その結果が今フレオンの目の前にある。
――私は王国を手に入れたのだ。ただの地方豪族の男という惨めな運命を捩じ伏せ、この国を手中に納めたのだ――
再度反芻するようにフレオンは天を仰ぎ、目を閉じる。
後始末はまだまだ沢山残っている。敵もいる。しかし、この時だけは何度もこの喜びに浸りたかった。
それほど長い夢であり強い野望であった。
一時は自分が本当に望んでいるものがこの道にあるのか自問自答したりすることもあったが、純粋に戦いを求め戦場に赴くメガリスの戦神しかり、己の本能に従い知謀を振るい策を張り巡らせた。
その結果得られるものは遥かに偉大なものだと以前からわかっていたことだから。
しかし、自ら玉座に座る事は生涯ないだろうとフレオンは確信していた。
謀を扱う者は光を浴びるところよりもその影に潜んでいる方が何かと都合が良い。
ましてランバルトのように戦に秀でていた才が決定的に欠落していることを自覚しているフレオンは、かつてのランバルトのように民の心を掴むことはできないと考えていた。
――ランバルトは良くも悪くも王の器そのものだった。王には相応の力が伴っていなくてはならないものだ――
民の心を強く惹きつける魅力。信頼を呼び寄せる自信。屈服させる恐怖、力。
それらを持ち合わせたランバルトをフレオンは心の底では王として認めていた。
――私はあの男のようになることはできないが……――
だがそれでも、玉座の主は選ぶ事が出来る。
己の望む王を据え、己の望むようにこの国を動かしていく術を得た。
そのためのアルティルとスコルピアの婚約だ。
――未来の王も王妃も私がこの手で育て、そして操っていく。それで望み通りに事を運んでいけばいい――
フレオンは今後の企図とともに自分自身へ言い聞かせるように独白する。
今更迷うことなど何もなかったが、しかし未だにフレオンは心の何処かに小さな違和感が残っていた。
それは以前から常に感じていたものだ。そしてあの時に自問自答したきっかけにもなった。
自分は本当にこの"玩具"を求めていたのだろうか、と。
本当に欲しくて止まずに、自ら望んで手を伸ばしたのだろうか。
ここまで辿り着いて尚、フレオンははっきりとした解を得られることができなかった。
――全く……度し難いものだ――
それは思わず自分自身に嘆息せざるを得なくなる程であった。
まるでフレオンの中にいるもう一人の己が密かに己に問いかけているかのようだ。
目には見えず、声も聞こえないが、時折自分にだけ囁きかけてくる。
それが本当に望んでいることなのか、と。
素直に考えることもあれば無視することもあった。ここ最近は無視を決め込んでいたが、それでも相変わらず小さなしこりのように残り妙な違和感を訴えてくる。
――腫れ物のように容易に取り除ければ良いのだがな――
しかし、誰にも自分にもどうにもならないことはわかっている。
フレオンは苦笑いを浮かべた。
恐らく一生消えぬのだろうと半ば諦めている。
或いは自分でも気づくことのできない真の目的を運よく達成できた瞬間には、この違和感が消失するかもしれない。
最も国を操作できるこの玉座の前まで辿り着いておきながらこれ以上果たすべきことがあるのかどうかも疑問だったが、それでも一つはっきりしている事はあった。
――今は笑える。心の底からな――
誰もいない静寂に満ちた王の広間。
いずれ訪れる遠くない未来にフレオンの操る傀儡の王が座るその玉座を前にして、フレオンは漸く笑い声を少しずつ漏らし始めた。
「くくっ」
邪魔者を排除し、勝利を確信した歓喜の声。
きっとまだ誰も聞いたことのない声だった。
まだ解せぬことはあっても、フレオンは笑った。
そこには彼以外誰もいない。彼の笑い声を妨げられる者は誰一人いない。
いや、もし誰かがいたとしても、もうフレオンという人の行いが妨げられる事はないだろう。
最早彼に逆らえる力を持つ者はこの王都には残っていないのだから。
「……くくくっ、くっ、ハハハッ!」
自分自身でも聞いたことがない高々とした笑い声が広間の広い天井に反響する。
あの覇王が多くの反逆者を殺して手に入れた玉座を前にして。
あの哀れな女王が望んでいたであろう愛する男が座ることのなかった玉座を前にして。
フレオンは初めて心の底から笑った。
◆ ◆ ◆
日は暮れ、勝敗は決まった。過程は問題ではなく、最後に勝利を得た者こそが強者なのだ。強者は勝利の美酒に酔いしれる権利を思うがままに振るう事が許される。
――――暫くの間だけは。
次の日は昇り、新たな戦いが始まるのだから。
第一部 終
第一部はここで終わりです。
第二部以降はまたいずれ別枠で投稿します。
幾つか感想で頂いた意見など含め、当作品に対する私の考えを後書きとして記載することにしました。
◆ ◆ ◆
この作品の登場人物は上から下までどいつもこいつも「悪人」で「碌でもない奴ら」です。皆、欲望に支配され、極めて利己主義的です。利他に見える場面もありますが、あくまでも自身に極めて近しい相手に限られます。勿論、そういう風に敢えて描いていますし、追い詰められた人間は皆そうなると私は思っています。
ですが、それこそ「人」というものだと思います。汚い面、悪い面、凶暴な面、そういった負の側面を持たない人間などいませんし、持たないと自負する人間がいるならその人は途轍もない狂人か悪人だと思います。
そして、私としては、そういう存在だからこそ描く価値がある、と感じています。
◆ ◆ ◆
人は自身の努力とは無関係に運命に翻弄される存在だと感じています。
圧倒的な理不尽、神の悪戯としか思えない様な偶然、そんな不確定要素にいつだって蹂躙されてしまうものです。それは歴史の幾つもの事象を見れば感じ取れると思いますし、普段の生活でさえそうでしょう。
確かに、かなり極端に運命の理不尽を描いているとは思いますが、それもまた私の世界観・人生観だとご理解頂きたいと思います。
もし、この運命の理不尽を突破できる者がいるとするなら、それは「狂人」か「神の手駒」か「極めて強い執着をぶつけている」か、だと思います。「狂人」はセファロスとして、「神の手駒」は一部をフレオンとして作中では描いたつもりです。「執着」の人物は第一部では明確には作っていません。
◆ ◆ ◆
また、世界の流れというのは誰にもコントロールできないし、時に何故こうなるのかと不満や焦りを感じることもあるものです。それは登場人物に対しても、読者に対しても、作者に対しても、そうだと私は思っています。そして、それは作品を飛び越えたこの現実世界でもそうだと思っています。
だからこそ、「ええ、何故こうなったんだ?」と思って頂けるようで、寧ろありがとうございます、と感じています。
◆ ◆ ◆
根本的な事を言えば、私が最も作りたかったのはこの世界の「歴史」です。それは第一部を書き終わり、第二部を作っている今もそうです。あくまでも「歴史」の出来事が主であって、私の世界においては登場人物はそれを彩る、或いはより鮮明に映し出すための道具なのです。彼らの幸福や満足や何事かを果たせたかどうかは……実際のところ二の次の様な感覚です。何事かを成し得るならそれも良し、果たせないでもそれでよし、というところです。
物語の構成上、比較的メインとなる人物はいますが、真の主役はこの世界の「歴史」そのものなのです。
◆ ◆ ◆
第二部は完成させるつもりではありますが、どうしても時間は掛かります。下記の別サイトで適宜未編集やプロットなどは更新していますので、気が向いた方は見に来てもらえると暇潰しにはなるかなと思います。




