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ディリオン群雄伝~王国の興亡~ (修正版)  作者: Rima
第一部 第四章『盛者』
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『破滅の心』

 メガリスとの戦火未だ燃え盛る中、リンガル公ジュエスの突然の死はディリオン軍を大きく動揺させた。ランバルト不在の状況下、敗北したとはいえ戦意を保ち続ける上級者として彼の存在は戦場に必須だった。

 特にプロキオン軍の狼狽は酷く、一夜にして軍隊としての体裁も整えるのが困難な程に崩れた。プロキオン家臣は主君ジュエスを神の如く崇敬しており、その死による困惑も当然と言えた。副将セルギリウスは主君の遺した軍隊が混乱に陥ったままなのは恥だと考え――既に戦争の帰趨よりもそちらが優先していた――統制に死力を尽くした。

 ジュエスの死に関しては多くの者は疑念を抱かなかった。戦傷死と言うのは決して珍しい事ではなく、ましてや片腕を切り落とされるような重症である。何ら不思議は無かった。プロキオン将兵は逃げ帰ったランバルトとの対比として死を賭して勇敢に戦ったジュエス公と言う偶像を心中に生み出し、寧ろ戦死という結果を受け入れたがった。

 ―――ただ幾人かはランバルト王との関係悪化、そして極少数しか知らない死の直前にあった使者との接見から別の"真実"に近づいていた。


 一方のメガリス軍にもリンガル公ジュエス死去の情報はもたらされていた。事態を知ったセファロスは暫く荒れた後、酷く残念がり珍しく消沈した様子で手勢だけを連れて引き上げてしまった。取り残された軍勢もこのままいても四方がないとばかりにベルガラへと後退した。

 幸か不孝かメガリス軍は忽ちに去り、弱ったディリオン軍から火急の危機は取り払われることとなった。


 ◇ ◇ ◇


 リンガル公ジュエスの訃報は全土を駆け巡った。王国第二の実力者にして最大の諸侯である彼の死が話題にならない訳が無かった。戦地同様にプロキオン家領のリンガル地方とメール地方は紛糾し、影響下にあったバレッタ地方も少なからず混乱した。

 王都でも人気のあったジュエスの死を悼み無念に感じる者は多かったが、誰よりも嘆き哀しんだのは言うまでも無いだろうが公妃サーラであった。彼女の嘆きぶりは尋常でなく、街路からも悲歎の嗚咽が聞こえた程だった。

 だが、多くの者に意外なことにサーラは数日の内に王都を離れた。夫の遺骸の到着も待たず、葬式の準備に着手もせず、二人の息子と少数の供回りだけを連れ財貨や家臣を置いてリンガル地方へと去った。サーラもまた一つの"真実"に思い至ったのだ。


 また、どの様な関係があるかは不明であるが、ジュエスの死と共にランバルトは再び民前に姿を現すようになっていた。


 支配者の死という混乱。国家にとりそれは致命的である。だが、混乱は新たな支配者を生み出す切っ掛けともなる。

 ある者にとってそれは野望を達する大いなる機であるのだ。より強い支配者の死であればあるほど、より大きな混乱であればあるほど。例えその為に誰の命と想いが利用されようとも―――



 ◆ ◆ ◆


【新暦674年9月 王都ユニオン 女王(ドミナ)ミーリア】


 その凶報が告げられた直後、ミーリアは相手が一体何を言っているのかまるで理解できなかった。完全に思考が止まり、何も見えなくなり、何の音も聞こえなくなった。

 そうして一体どれくらいの時間が過ぎていったのか。ミーリアは己が宮殿の庭園へとやってきていたことに気づいた。

 いつものように"金蓮花(ロトゥス・アウレア)"の木へと近寄ると突如力を失ったように頽れる。


「ジュエス様……、どうして……どうして、このような……」


 譫言のような呟きと共に涙が止め処なく流れ落ちる。

 この涙も最早、永遠に叶わぬ願いと共にとうの昔に失ったはずだった。

 そして逃れられない運命に翻弄され、いつの間にか捨て去っていた心も突如として蘇り、胸が激しく締め付けられる。

 息が苦しい。頭が痛い。何も考えられない。


「ジュエス様……!」


 走馬灯のように脳裏を過るジュエスとの記憶。

 最後に見た優しい笑顔。

 初めて体を重ねた夜。

 いつの間にかこちらを見てくれなくなったあの眼差し。横顔。

 思い出すと絶望を味わうだけだったために、ずっと記憶の箱の中に封印していたものが次々とミーリアの意思に関わらず溢れ出してくる。

 本当に失ってしまって初めて知った。

 こんなにもまだジュエスのことを深く深く愛していたことを。

 もう二度と向けられることのないあの笑顔を遠くから見ては孤独に悲しんでいたあの頃さえも、とても愛おしく感じる。

 ただ見守っているだけでも幸せだった。

 いつも戦いから無事に生きて戻ってきてくれればそれだけで心から嬉しかった。

 今までジュエスに抱いてきた思いひとつひとつが涙と共に自分の中に零れ出てくる。

 いっそ涙が流れ落ちる度にジュエスとの思い出や彼への思いすべてが抜け落ちて行ってくれたらどれだけ楽だろうかとすら思えるほど胸が苦しかった。

 しかし今更強く自覚してしまった彼への強い愛情がそれを許しはしなかった。

 身も心も壊れてこのままでは死んでしまいそうなくらいなのに、これまで長い間堰き止めて覆い隠していたジュエスへの想いが洪水の如く溢れて止まらない。

 誰の目があるかわからぬ状況で、身も世もなく泣き咽ぶ哀れなミーリアの姿を、ただ一人がじっと静かに見据えていた。

 フレオンである。


「女王陛下」


 ミーリアから数歩離れたところで立ち止まり、冷静に声をかける。

 その声にぴく、と反応したミーリアは、酷く重たげに首を擡げフレオンを振り返る。

 そして彼を見てミーリアは思い出した。彼に内密に話があるとこの庭園に呼び出されていたことを。

 フレオンが現れたことで少しだけ冷静を取り戻したミーリアは、涙で濡れた目を拭い木に縋りつつ立ち上がった。


――相変わらず清々しいくらいに変わらない人ね。フレオン公。私だけでなくこの国にとっても非常に大きな存在を失ったばかりだというのに……――


 流石にここまで動じないフレオンにミーリアは感心する以上に怪訝にすら思った。しかしそれだけで怒りまで抱くことはなかった。

 フレオンはミーリアにとってこの宮殿内で最も信頼に足る人物だ。

 昔からあまり会う機会は多くはなかったが、彼が宰相プレフェクトゥス・スペリオルとなってからはより激減した現在も変わらぬその茫洋とした顔を見れば、奇妙なことに彼は昔と何も変わっていないと確信を持つことができた。

 故に王以外の男の訃報が入った直後に不審にも一人庭園で激しく泣き崩れる女王(ドミナ)としてあるまじき姿をフレオンに見られても、ミーリアは決して動揺することはなかった。


「陛下。ご気分が優れないご様子ですが、いかがなさいましたか」

「……いいえ。大したことはありません。少々、躓いてしまったですから」

「ですが、それだけの理由ではその涙も少々不自然に思われてしまうことでしょう。私以外の誰かに気づかれてしまう前に、お隠しになるべきでは」

「……それなら心配いりません。ここには今、私たち以外に誰もいないのでしょう?」


 ミーリアがそう指摘するとフレオンは沈黙する。

 それが肯定なのだとミーリアは察した。


「それに、もう気分は落ち着きました。やがてこの涙も乾いてしまうことでしょう」

「……ならば宜しいのですが」

「それよりも、私をここへ呼び立てた理由をお聞かせくださいませんか? フレオン公。貴方のことですもの、二人きりでなくてはできないお話でもおありなのでしょう」


 ミーリアはフレオンがここへ呼んだ理由はまだわからなかったが、少なくとも何か大きな目的があることは既に察知していた。

 ただそれが宰相プレフェクトゥス・スペリオルの立場としてのものか、それとも個人的なものなのかまでは図りかねていたが。


「……流石は女王陛下。昔と変わることなくご聡明でいらっしゃる」


 淡々としていながら心の中では真にそう思っているかのように深く溜めてからフレオンは告げた。

 無論ただの世辞でもあるのだろう。しかし今だけはミーリアにはそうは聞こえなかった。


「実は、陛下のお耳にだけお入れ頂きたい重要なことがあるのです」

「……それは一体どういうことかしら」

「その前に少々場所を移すことと致しましょう。……今ここにいるのは我々だけですが、用心に越したことはありませんので」


 フレオンは途中声を潜めながらそう言った。

 あらかじめ人払いを済ませておきながら尚周囲を警戒する必要があるなど、それほどまで誰の耳にも触れてはならない機密な話ということだろうか。

 ミーリアはそう考えながらフレオンの言葉に静かに同意し、庭園の奥へと移動することにした。

 そうして木々が多く並ぶ最も姿が隠しやすい場所へ来たところで、フレオンは改めてミーリアを庭園へ呼んだ理由を打ち明けた。


「このディリオン王国は今、メガリス遠征の事実上の失敗、そしてジュエス公の死により大きく揺れております。このような事態にこれ以上不吉な風を呼び込むことは決して望ましくないことですが、それでもこれは己の胸の内に秘し隠すべきことではないと悩み熟考した末、陛下にのみお伝えすることにいたした次第にございます」


 その口調は至って冷静だったが、慎重に話そうと努めているかのような緊張感が漂っていた。

 このような現状だ。かのフレオンといえど無理からぬことかもしれないとミーリアは思ったが、同時に彼らしくないとも違和感を覚えていた。


「よってこれよりお話しすることはすべて他言無用に願います。この国にこれ以上の混乱を招かぬために」

「分かりました。決して誰にも打ち明けないと貴方に約束しましょう」

「ありがとうございます。陛下」


 フレオンは仰々しく深々と頭を下げる。

 普段の彼であれば白々しく映るところであったが、先程彼も言った通りこの国は今動揺の渦中にある。

 その元凶はメガリス遠征より逃げ帰るようにして帰還したのち、公の場に中々姿を見せようとしないランバルトにあったが、そこへ更に追い打ちをかけるようにしてジュエスの訃報が舞い込んできたのである。

 かといって当のランバルト以上に冷静でなくてはならないのが宰相プレフェクトゥス・スペリオルであり、その重責を考えればこうして神妙にならざるを得ないものなのかもしれない。

 そう考えるとミーリアは初めてフレオンに対し同情に近い感情を覚えた。


「では陛下。どうかお気を強くお持ちいただきますようお願いいたします」

「ええ。話して頂戴」

「実は私は、宰相プレフェクトゥス・スペリオルとしての立場上、メガリス遠征の前線にて戦傷死なされたジュエス公のことについて内密に調査を行っておりました。そして、それによりある思いがけない事実を知るに至ったのでございます」


 その言葉を聞き、ミーリアは忽ち胸に刺し貫くような痛みを覚えると同時に怪訝に眉を顰めた。


 ――ジュエス様のことについて内密に調査を? それは、フレオン公の立場を考えれば詳しい経緯を把握するためにも必要なことかもしれないけれど、でもそれを態々私に話す必要性はあるというの?――


 先程ミーリアが泣き咽ぶところをフレオンはしっかり目撃していた筈である。

 この様な状況で誰かの死を悼むように涙する女の姿を見れば、フレオン程の知謀家ともなればある程度察することなど容易なはず。

 にも拘らず、配慮を欠いた言動をしたフレオンを理不尽かもしれないが思わず叱責したくなったミーリアだったが、ここで感情的になっては彼からの信用を失ってしまうと思い、ぐっと言葉を飲み込み平常心を装った。


「……それは一体どのようなことでしょうか。フレオン公」

「ジュエス公は、戦死なされたのでは御座いません。何者かに暗殺されたのです」


 ミーリアは大きく瞳を見開いた。


「なん……ですって……」


 愕然と強張る顔と震える声。

 それを見てフレオンは僅かに目を細めた。


「一体……、一体誰が……あの方を……」

「数日前、ジュエス公暗殺を実行したと思われる下手人を捕え、私自ら尋問を行いました。それによれば、どうやらその指示を下した人物は……」


 フレオンはそこで一旦言葉を止め、数秒程溜めてから短く答えた。


「ランバルト陛下です」


 ミーリアは衝撃のあまり強く息を呑んだ。

 ここが静謐な緑溢れる庭園であるせいか、それはフレオンの耳にもやけに大きく聞こえた。


「そ……そんな……、フレオン公、貴方……何を世迷言を」

「残念ながら陛下。これは決して世迷言ではございません。確かな事実にございます」


 淡々とそう述べるフレオンの冷徹なまでに変わらぬ無表情がより強くミーリアにそう訴えかける。

 それにより恐るべきその真実を受け入れざるを得なくなったミーリアは、愕然としたままその場に座り込んでしまう。


「なぜ……どうしてあの御方が……」

「私もその理由を確かめようと下手人に尋問を継続したのですが、しかしそのことについては何も吐くことなく、下手人は我々の目を盗み自害いたしました。私としたことが、力及ばず面目次第もございません。しかし同時に、その点については流石はランバルト陛下とも申し上げるべきでしょう」


 確かにフレオンの言う通り、あのランバルトという男ならそうしていたかもしれないとミーリアは同意する。

 決してジュエスに向けた愛慕と似た感情を僅かでも一度も抱いたことのない相手だったが、女王として近くにいるだけでも見えてくるものは少なからずある。

 それがあの男の冷徹さとミーリアに対しても隙を見せない並々ならぬ強い警戒心だ。


「……今の私に断言できることは、ランバルト陛下にはジュエス公を暗殺しなくてはならない何らかの理由がおありだったということだけです。貴女がご納得されるにはあまりにも不十分すぎるかもしれませんが」

「……いいえ、フレオン公。あの御方が手を下したという事実がわかっただけでも、十分納得いたしました」


 そう。あのジュエスが敵の刃にかかり死ぬことなど、やはり有り得なかったのだ。

 例え片腕を失った程の重傷を負っていたことが変わらぬ事実だとしても、それでもあのジュエスならば死に抗い尚もこのディリオン王国のために戦おうとしていたはずである。

 ミーリアは知っているつもりだった。

 ジュエスという男がいかに輝かしくも勇ましい誰もが羨むような素晴らしい英雄であったかを。そしてこれまでこの国の為にどれ程の困難や危機を幾度となく乗り越えてきたかを。


 ――やはりあの方は……あの時からずっと変わらず勇敢で慈悲深い私にとってたった一人の最愛の人だった――


 ミーリアは徐に立ち上がると、低く俯きながらフレオンに静かに告げた。


「感謝いたします、フレオン公。私に真実をお教えくださって」

「……いいえ。最後にひとつ、貴女にお渡ししておきたい物がございます」


 するとフレオンは懐からある小瓶を取り出し、ミーリアに差し出した。


「これは?」

「殺しの道具……とだけ、今は申しておきましょう」


 具体的な中身を打ち明けることなくフレオンは答える。

 ミーリアは瞠目し、震える手でそれを受け取った。


「一体何故、私にこれを」


 フレオンが一体どういうつもりなのか、ミーリアはすぐには理解できなかった。

 ただその色のない瞳でこちらを少しも揺るがぬことなくまっすぐ見つめてくる彼の表情は、普段の家臣としての彼ではなく一人の人間としてそこにいるかのように映った。


「このようなことを申し上げても貴女は信じて下さらないかもしれませんが、私は貴女の忠実な家臣であると同時に誠実な友人でもあったと思っているのです。故に、貴女が抱いていたジュエス公への想いも、分かっているつもりでした」


 フレオンの言葉にミーリアはただただ言葉もなく驚嘆するしかなかった。

 ここで涙を流していた姿を見る以前から彼は気づいていたという。この誰にも言ってはならない秘さねばならぬ強い想いを。

 小瓶をその胸に強く抱き締めると、再びミーリアの頬に涙が伝う。


「フレオン公」

「何をご決断なされるかは陛下の御心のままにして頂きたく思います。私からはこれ以上何も口を出すべきではないと」


 そう言い、フレオンはミーリアの前で恭しく跪き頭を垂れてから立ち上がると、そのまま庭園を立ち去っていった。

 一人残されたミーリアはしばし遠ざかるフレオンの遠ざかる後ろ姿を見つめ、胸に抱いた小瓶を見下ろした。


「……私は」


 ミーリアは逡巡するように呟き、目を閉じる。

 そうして己の中でじっと静かに何かを考えたあと、ゆっくりと目蓋を開いた。

 その目にはある決意の光が強く宿っていた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜。ミーリアはアルティルの部屋へと赴いた。

 安らかに眠る我が子の寝台に静かに歩み寄りながら、その懐よりかの小瓶を取り出す。

 そして空いた手をアルティルへと差し伸ばし、その小さな頭をそっと撫でた。

 すると驚いたようにアルティルの体がびくっと震える。

 しかし目を覚ますことはないまま母であるミーリアの手を受け入れていた。

 生まれてから一度も撫でたことはない。

 故にそれが初めてその手で感じる我が子の温もりであった。

 

「ごめんなさい……許してね……」


 そう呟き、ミーリアは小瓶の蓋を握る。

 しかし握ったまま手が震えだし、なかなかその栓を抜くことができない。

 やがてゆっくり手を離すと、ミーリアはその小瓶を懐へと戻した。


 ――やっぱり私にはできない……――


 まるで誰にも愛されないようにと呪われながら生まれた醜い哀れな我が子。

 あの男の前に先にその短い生涯を終わらせるつもりでいたが、それでも気の毒と思うあまりつい触れてしまった直後、強い自責の念に襲われた。

 たとえ生まれるべきではなかった存在だとしても、この腹を痛めて生んだ子に何ら変わりはない。自ら生んだその命をこの手で断とうとしたことをミーリアは激しく悔いた。

 今更こうして我が子への情が湧いてくるとは、ミーリアは涙を流しながら悲しみに満ちた笑みを浮かべた。

 今一度静かに眠る我が子の寝顔をじっと見つめると、ミーリアは何事もなかったように寝台を離れて部屋を出た。

 そのまま自室に戻ると執務卓にかけ、手紙をしたため始める。

 送る相手はサーラであった。

 おそらくジュエスの死の真実を誰よりも先に掴み王都を離れた彼女に自身の想いと最後の別れを綴ると、ミーリアはそれを懐へと仕舞い、再度部屋を出た。



 ◇ ◇ ◇

【同 王の寝室 女王(ドミナ)ミーリア】


 先のテオバリドの暗殺未遂事件以降、ランバルトの警戒心は元よりさらに高まり、暗殺者が近づくことは極めて困難な状況にあった。

 しかしそのような中でもランバルトに近づくことが可能である人物がこの王都の中には僅かに存在している。その貴重な幾人かの一人がミーリアであった。

 誰もが寝静まった夜。静寂に紛れながら王の執務室を訪れるミーリア。

 それをランバルトは物珍しいものを見るように迎えた。


「ほお……誰かと思えば珍しいじゃないか。このような時分に何の用だ」


 悠然を装っているが、一目でわかる。

 かつて王国を震撼させたかの覇王の姿とは思えないほどその顔は沈鬱なものに変わっていた。

 はっきり言って別人そのものだ。

 嘲りと哀れみが同時に込み上げ、ミーリアは複雑な心持ちになる。


 ――随分と落ちぶれられたものですね――


 そう思っても口には出さず、ミーリアは怖気づくことなくランバルトに面と向かいまっすぐ部屋を進む。


「最近ずっとお顔色が優れないご様子でしたから、少しでも気が紛れればと思いましてこれを」


 ミーリアは神妙に来訪の理由を明かし、その華奢な腕に抱いた酒瓶をランバルトへ差し出して見せた。

 ランバルトを案じる家臣の配慮によるものか、或いははミーリアの独断か。相手にどちらと捉えられても、ミーリアは一向に構わなかった。


「ふうん。健気なことだ。いいだろう、盃を用意しろ」


 しかしランバルトはそれ以上特に追及することなく僅かに口角を緩めると、容易くミーリアの心遣いを受け入れた。

 ミーリアは言われた通りに二人分の盃を用意すると、ランバルトの盃には少し多めの酒を、自分の盃にはやや少なめの量を注ぎ入れた。

 するとランバルトは唐突に自分の手前に置かれた方ではなくミーリア側に置かれた盃を手に取った。

 このような時でも自衛は怠らないということらしい。

 しかしミーリアは気にすることなく残された方の盃を取ると、ランバルトより先に自ら盃に口をつけた。

 そうしなくてはランバルトは安心して酒を口にしないだろうからである。


 ――今まで味わったことのない不思議な甘みがするわね……――


 平静を装う表情の下でミーリアは密かに感想を溢す。

 するとランバルトはミーリアが酒を口にしたのを視認しながらも盃に口をつけようとはしなかった。

 まだミーリアの反応を疑っているらしい。

 しかしそれを窺わせようとしないかのように盃に鼻先を近づけ、その香りを嗅いだ。


「ほう。香りでわかるぞ。中々の美酒のようだな。これならばお前の期待通り少しは気を紛らわすことができるかもしれんな」


 ミーリアは思わず眉を顰めそうになったが、歯を噛みしめて堪えた。


「ふん。かのメガリスの怪物もこうして容易く殺せたらいいものを。しかし人心を意のままに把握し操る彼奴相手ではそれも儘ならんか」


 かと思えば今度はかの怨敵、メガリス軍の総大将のことを溢し始める。


「全く……どいつもこいつも役に立たぬ。相手は同じ人間だというのに、たった一人の戦狂いのために我が国の殆どの兵力が潰されてしまった。時間をかけ、鍛錬に鍛錬を重ね入念に作り上げたあの軍団を。いとも容易く、玩具を壊すように」


 ランバルトはセファロスの感覚を真似るように何も握ってはいないその手を無残に握り潰すように握りしめ、嘲笑を浮かべる。


「だが彼奴は好敵手なくして戦う意義を見出せぬ大きな欠点もある。今まさに最も戦いたい相手がこの世を去り、さぞ今頃落胆していることであろう。実にいい気味だ」

「……随分お悦びになられておいでですね。我が国にとってとても惜しい人を亡くした後だというのに」


 ミーリアは皮肉を込めてそう指摘する。


「ああ、ジュエス公の死は最も大きな損失だ。しかし彼の死があのセファロスの戦意を挫いたのも事実。彼の死も決して無意味ではなかったということだ」


 ――何を白々しい…――


 ふつふつと込み上げる怒りにミーリアはランバルトを睨め付ける。

 まるでジュエスの死に自身は何の関わりもないと言いふらすような軽い口ぶりに、ミーリアは最早これ以上自身を抑えきれなかった。


「誰よりも先に敵前逃亡を図られておきながら、実にご立派なことでございますね」

「何だと……」


 ランバルトは笑みを消すと冷たい瞳でミーリアを鋭く見据える。


「総司令官である貴方が戦場を逃げ去っても戦意を失うことなく最後まで戦おうとしたジュエス公ほどではありませんが、貴方も立派に戦われましたねと、励ましているのですよ」


 無論、欠片もそのようなことなど思ってはいない。


「貴様……この俺を侮辱するつもりか」

「紛れもない事実ではございませんか。それにこのディリオン王国だけでなく憎きメガリス軍の司令官ですら彼の死を嘆いたのです。当然のことでしょう。彼ほど立派に戦おうとした勇敢な戦士はいなかったのですから。戦において最も肝心な総大将の首よりもジュエス公は重要な存在となっていたということですよ」


 ミーリアは尚も皮肉を込めながらランバルトを詰っていく。


「黙れ。それ以上はたとえお前といえど許さんぞ」

「あら、お怒りになられているのですか? 己の行いを顧みもせずに。まだ戦い続けようとした大切な部下を戦場に残して去っていったことは何の落ち度もないと?」

「うるさい。お前に何がわかる。あの男の真の恐ろしさが女のお前にわかるものか。奴は戦争を操る神にも等しい男だ。そんな化け物を相手に俺は戦おうとしたのだ。この国の為に。この国の民の為に。そしてお前たちの為にな」


 まるで叶わぬ相手であろうと果敢に挑んだ己を評価しろと言わんばかりにランバルトは捲し立てる。大義を鎧に戦おうとするとはランバルトらしからぬとミーリアは感じた。そして彼が弱ってきているとも。

 ミーリアは人とは思えぬ醜い何かを蔑むようにランバルトをじっと見つめる。


「私たちの為に、ですか。本当にご立派です。最初から勝てぬ相手に挑もうとなさる勇気はおありなのですから。ならば貴方も最後まで戦い、あの人のように栄誉ある死を成し遂げればよかったのではありませんか? そうすれば貴方も今よりは惜しまれる存在となられたことでしょう」

「俺が死ねばこの国はどうなる。再びこの世界に動乱が舞い戻ってくることになるぞ。王としての器を持たぬ奴らばかりが集い、また国王の座を狙って小競り合いのような戦が始まる。そうなれば民が安心して暮らせる世界は夢のまた夢となるだろう。お前にそれを治めることができるのか」


 確かにランバルトがいたからこそこの国は安定を取り戻すことができた。その冷徹かつ独裁的手腕で諸侯を委縮させ、力を奪い、そしてかつての故郷すら蹂躙し、恐怖でこの世界に平和をもたらした。

 だがどの功績も結果も、ジュエスの最期と比べれば何と見劣りのすることだろうとミーリアは嘆息する。

 そして、ランバルト自身は国の安定や平和を真に求めてはいないだろう。"乱を治め、国を治め、全てを支配した"という満足が欲しいのだ。


「そうですね。ですが誰しも死は避けられませんでしょう。貴方が遅かれ早かれこの世を去れば、また別の誰かがこの国の王となるだけのことです。その時にまた戦いが起ころうとも、私達にはどうすることもできません。かつて王の座をかけて実の弟と戦争をした時のように」

「あれは避けられぬ戦いだったのだ。王は2人も要らぬ。まして能無しであったかつての王の息子となれば尚更だ」

「私が女王(ドミナ)とならなくては私を利用して我が弟に代わり(ドミヌス)となることができなかったのですから、それも当然のことでしょうね」

「違う。お前などいなくとも俺はいずれこの国の王となっていた。お前は都合のいい口実に過ぎんのだ……ちっ、何故こんなことをお前に言っているのだ、俺は」


 ついに本音まで吐露してしまうほどまでランバルトは理性を失い始めているようだ。

 酒のせい、或いは酒の中の"アレ"のせいか。

 しかしミーリアは構わなかった。ランバルトの言葉自体も同じだ。分かりきっていることなのだ。


「私はジュエス公のように慈悲深く勇敢な王を願ったこともありました。あの方のような人が王となれば、無益な血を流すことのない本当に平和な御世となるのではないかと思い」

「ふん。嘘をつくな。それはお前の私心だろう」


 ランバルトは容赦なくそうミーリアに指摘した。


「どういう意味です?」

「惚けるな。お前の胸の内は知っている。まだジュエスに懸想をしていることはな」


 ミーリアは己の心に再び直面させられている気分になり、目を伏せた。

 ジュエスとの関係。ミーリアは口にしたことは無いし、ジュエスも語ったりはしていない筈だ。しかし、サーラも知っている以上、ランバルトが知らない筈はないとは思っていた。

 今も尚、彼の事を想っている。それは事実だ。ランバルトとの結婚は愛によるものでないのだからその事をとやかく言われる筋合いはないとミーリアは思っていた。

 だが、それは開けっ広げにされたり、はっきりと他人に口にされる類いの想いではない。心の内しか自由に出来ないミーリアにとって、この事は殊更の重要性があった。


「そのようなことを……」

「何を隠す必要があるのか? お前が簡単に股を開く売女だったという事実は消せまいが」


 あまりなランバルトの物言いにも怒りを感じたが、それ以上にジュエスが侮辱された様に感じ、そちらの方が不愉快だった。まるで簡単に落とせる女に飛び付いたのだ、と言っているようだったからだ。

 ミーリアは思わず沸き立つ怒りを抑えて何とか返答する。


「確かにあの方に思いを寄せていた時がありました。でもそれは昔のことです」

「本当は俺を恨んでいるのだろう。俺の妹がお前の想い人を奪ったようなものなのだからな」

「いいえ。むしろあの方が幸せそうにされていたことが私も自分のことのように嬉しく思っていました」


 ミーリアはランバルトをまっすぐに見つめながらそう答えた。

 事実は異なる。だが今この場で答えるべき"真実"は別義だ。


「どうだかな。この俺を憎んでいるのだろう? サーラもだ」

「いえ……サーラさんにそのようなことは思っていません」


 ―-これは真実―-


 実の所、ミーリアはサーラの事をもう恨んではいなかった。王都を巡る戦いに巻き込まれた時から二人の間には奇妙な理解が生まれていたとミーリアは感じていた。決して友情や親愛の類ではない。だが、だからこそ、ある意味でミーリアの人生に欠くべからざる一かけらになっていたのだった。


「嘘が上手くなったな」


 ふんと鼻を鳴らし一瞥するランバルト。その表情は再び憎々しげな調子を湛えだす。


「サーラ……あいつもあいつだ。先日王都を去っていった……俺に断りもなく」

「それは無理からぬことでしょう。最愛の夫が戦地で命を落とし、今最も悲しみに暮れているのは他ならぬ彼女です。ましてその原因の一端である貴方がいるこの王都で心安らかに過ごせるはずがありません」


 このままジュエスに関する話題を続けたく無かった。悲しみばかりが募るし、ランバルトの疑念が膨らむ事にも繋がりかねない。

 今のランバルトなら簡単に"挑発"に応じるだろう。

 ミーリアが再度詰るとランバルトは「黙れ」とミーリアを、予想通り、威圧した。


「俺はやるべきことをしたのだ。いずれこの国に侵攻してくるであろう蛮族どもを制圧し、この国の脅威を薙ぎ払うために侵攻したのだ。その労を労われることはあれど、責められる謂れなどない。あれは必要な戦いだったのだ。そしてその戦いの中でジュエスは立派な死を遂げたのだ。俺に代わってな。故にそのような思い違いで俺を詰れば彼の死を軽んじることにもなるぞ」


 ランバルトは堂々としていながらどこか嘲るような口ぶりでミーリアにそう論じてみせる。この期に及んで己の肥大化した自尊心に折り合いを付けられず、今更になって大義の鎧を纏おうとするランバルトにミーリアは言い様の無い暗い感情を得た。

 ミーリアは膝の上に置いた手を爪が強く食い込む程握り締め、口の中で奥歯をぎりぎりと噛みしめる。


 ――本当にどこまでも傲慢な、愚かな男。もう正直になればいいのに――


「俺は正しいのだ。何もかも俺がやるべきことをしたのだ。そう、俺こそがやるべきことをしたのだ」


 するとその直後、ランバルトはミーリアから目を逸らし、突然独り言のように何かを語り始めた。


「どいつもこいつも俺に従わない……奴らは気に入らぬことがあるとこの俺に逆らおうとする愚か者ばかりだ」


 ミーリアは怪訝な表情になるが、瞳孔が開いた彼の目を見るとすぐにその心境を察した。


「俺が殺した奴らはすべて敵だ。殺すべきだったのだ。そうしなくては俺の道は成りえない……俺が支配出来ない!」


 ミーリアのことなど全く眼中になくなったランバルトは何かに取りつかれたように詭弁のような言葉を並べていく。

 己に言い聞かせているのか、それとも彼の中にいる何かに語りかけているのかは定かではないが、最早抜け殻のように覇気を失った彼の言葉は何もかもただの言い訳でしかなく誰の耳にも届かない哀れな男の戯言だった。


 ――だからあの人も敵として殺したというの? 下らない――


 ジュエスの暗殺を指示した張本人を前にして、ミーリアは相手に知られてはならないその最大の疑問を胸中で静かに問い詰めた。

 もし普段の状態でそれを尋ねればランバルトは理由を吐いていたかもしれないが、しかしもうミーリアに残された時間は限られている。

 未練を振り払うようにその強い疑問を押し殺し、ミーリアは再びランバルトを強く見据える。


「そうだ。俺は実力ですべての敵を薙ぎ払い、今の座を手に入れたんだ。そして……そしてその挙句がお前が産んだあいつ、あの化け物だ」


 己を守る正論を連ねていたランバルトは、ついに非難の矛先をミーリアとその子供へと向けた。

 ようやくこちらを見たランバルトの目をまっすぐ見つめ、ミーリアは静かに反論する。


「……アルティルです。あの子の名はアルティル。"あいつ"でも"化け物"などという名ではありません」


 まさかこれほど反論が口を突いて出るとは思っていなかった。ミーリアは内心驚いていたが、しかし平常心を失わぬよう毅然とランバルトに立ち向かう。


「化け物の名などどうでもいい。あれの運命などとうに決まっている。そうだ。あれはまるで終焉の化身だ。俺の道の終わりを告げるために神から遣わされた忌まわしい存在だ」


 ランバルトはひどく酔っているかのように尚も己の醜態を晒し続ける。

 それを見聞きする価値などないのだが、来るべき時のためにミーリアは目を伏せる訳にはいかなかった。


「天は、神々は私に背いたのだ! 私が世界を手にするのを妨げたのだ!」


 まさにこの世の終わりと言わんばかりにランバルトは両腕を広げ、天を仰ぐ。そんな哀れな姿を静かに見据え、ミーリアは問いかける。


「では貴方は何をするというのですか? そうして己に酔い、私に罵声を浴びせる以外に一体何を」


 容赦ない指摘にランバルトは見下すようにミーリアを一瞥すると、彼女の盃を奪いそれを一気に飲み干した。


「もうこれ以上お前に話すことはない。失せろ」


 口を手の甲で拭い、ランバルトはかぶりを振ってミーリアに退室を命じる。

 しかしミーリアはそれに従わず、その場に留まった。


 ――……まだ駄目よ。まだ、死ぬわけにはいかない――


 今頃になり意識が薄らいできたのを感じ、ミーリアは意識を振り絞る。

 真の目的を果たすまでは、何が何でも意識を手放すまいと己を叱咤しながら。


「では最後に陛下。ジュエス様を殺したのは貴方ですね」

「……お前に答える必要はない。早く消えろ」


 ミーリアが単刀直入に問いただすと、ランバルトは忌々しげに顔を歪めながらも目を反らし答える。

 だが引き下がらずにミーリアは詰問し続ける。


「ある人物から聞きました。ジュエス様は戦死したのではない。暗殺されたのだと。そして手を下したのはランバルト陛下……貴方だと」

「ほお。だったらどうだと言うのだ。それを知ってお前に一体何ができる」


 ランバルトは負けじとミーリアを睨みつけるが、しかしそこに冷たく切り裂くような覇気はもうない。

 それを彼女も感じ取り、霞む意識のなか微動だにせずランバルトを見据え続ける。


「愛する男の命を奪った俺を責め立て詰りさぞ気分がいいだろう。そうすれば、俺が地べたに這いつくばり許しを乞うとでも思ったのか?」

「いえ、そんな事は考えていません……」


 ミーリアは低く俯き呟いた。声が出なくなってきていた。


「考えて、いないのですよ」


 直後、ランバルトは異変を感じ、目を見開く。


「な……まさか、毒か」


 ミーリアは俯き続ける。


「貴様、この俺に……毒を」


 そうです、と答えようとしたがミーリアはもう声が出なかった。

 フレオンから渡された秘薬。それをミーリアは己の死をもってランバルトに飲ませたのだった。


「ぐっ、お……おの、れ……わたし……しはいする‥…」


 怒りを露にし、ランバルトは立ち上がると短剣を引き抜こうとした。が、既に手足は大きくふらつき、そのまま床に倒れ込んでしまった。

 仰向けになりまだ何か言おうとするが、その声もやがてすぐ聞こえなくなった。

 聞き取れない声でぶつぶつと何かを呟いたのを最後に、ランバルトはもう二度と動くことはなかった。時代の覇者も呆気なく死ぬのだなとミーリアは他人事のように感じた。というより、もう頭が殆ど働かなかった。


「……ジュエス、さま」


 ミーリアは小さく呟くと、机の上に倒れ伏した。

 ランバルトの死を見届け、気が緩んだ途端に急激に意識が薄らいでいく。

 人間は死に際、走馬灯という幻を見ると聞いたことがあった。

 だがミーリアは己の人生を振り返りそれに思いを馳せさせることももうなく、やがて静かに息を引き取った。


 ◆ ◆ ◆


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