『荒神・三』
カッシアの会戦で大敗を喫したディリオン軍はエステドーナまで後退した。小城に過ぎないエステドーナでは数万の兵を収容する防御拠点足り得ないが体勢を立て直す足掛かりにはなる。フライス指揮下の補給隊も襲撃されて失われており、物資の集積や輸送に割く余力が足りなかったのも特定の点に拠る必要性を生み出していた。
ランバルトはエステドーナを中心に宿営地の設営を命じた。周囲を何重もの防柵や土塁で囲み櫓で補強した堅固な野戦築城である。確かに敵地で身を守る砦は今不可欠ではあるが、その設計思想には籠城志向や明らかな受け身の姿勢が見てとれた。
反転した別動隊、補給隊敗残兵の残余、後方守備隊からの抽出兵などと合流して戦力回復を果たしても尚消極的態度を崩さなかった。
一方のセファロス率いるメガリス軍もまた後退して拠点ベルガラへと入城し、そこから動きを見せず篭り続けていた。損害の大きさに尻込みした訳でも、エステドーナの守りに怯んだ訳でもない。またしてもセファロス自身にしか理解出来ない理由で後退したのだった。
◇ ◇
互いに動きを見せなくなったベルガラ戦線含めメガリス王国領全土で戦乱が巻き起こっていたが全体としては一進一退と評するのが妥当であった。
本隊の苦戦とは対照的にセレーノ方面では新生ディリオン軍の力量が見事に発揮されていた。トーラルサ家のトレアード率いるセレーノ方面隊はその機動力を十全に生かして主導権を握って不利な体勢での決戦をメガリス軍に強要し、統率された諸兵科部隊の威力で以て勝利をもぎ取った。
セレーノ市の包囲も同様だ。重厚な包囲陣地、多数の攻城兵器、整備された兵站体制と包囲戦に不可欠な要素を取り揃え腰を据えて攻め立てた。
その様な状況の中でセレーノが陥落を回避出来たのはメガリス軍の海上優勢の成果であった。ディリオン軍シェル海艦隊は複数の軍船を擁する水上戦力であるが、それでもメガリス軍艦隊には及ばない。セレーノもまた市外からの補給を維持し、沿岸部からディリオン軍へ反撃を企図出来たのだ。
ランバルトの魔の手はメガリス王都ギデオンにも届いていた。兼ねてからの計画通り、セファロスの後方を乱す為、ギデオンにサロネンス派兵を主体とした遊撃部隊が侵入し擾乱を起こした。数は千人にも満たないが現地の同胞を煽り、軍施設に火を放った。
王都の混乱は拡大化したが、その主たる原因は王都駐留の武将イスホスが騒動に乗じてギデオン掌握に乗り出したからだった。イスホスは元サリアン派将であったが先の内戦の折りにペトラ首長アグー同様降伏、以後は上手く立ち回り、セファロスの無関心も利用して王都守備部隊長に任命される事に成功していた。彼はこれ有るを予期していたかのような手際の良さで――或いは彼もまたディリオン王国の協力を当初は得ていたかもしれない――手勢と傭兵を集結させてギデオン各地の占拠を目論んだ。
だがイスホスはどちらの側にも協力しなかった。セファロス派もサロネンス派も排斥したのだ。戦争の趨勢がどうなっても利益を得られるように――ディリオン軍がギデオンまでやって来ても――ある種の第三勢力として立った。そしてギデオン中でセファロス派の兵、サロネンス派の反乱者、イスホスの私兵が衝突する事ととなった。
ペラール方面でも戦火は広まっていた。メガリス王国内に流れる三本の河は何れも大河と呼ぶに相応しく、ローランディア河もまた例外ではない。ローランディア河は西へ向かって流れ、その川幅は河口部で20キロメートル以上を誇り、中流域でさえ5キロメートル近くに達し、無数の支流と湖が連なっている。当然、交通や輸送の要路であり、両軍は河川沿いに展開して各地で衝突した。
陸上では正面決戦を繰り広げられつつも互いに兵を水路から側背へ送り込み、大は数万、小は数人単位での死闘が展開された。ローランディア河でも数十隻規模の軍船がぶつかり合う艦隊戦が巻き起こった。
だが、この方面においてはメガリス軍優勢であった。それは方面司令官を務めるマクーン首長オルファンの働きが大きかった。彼は巧みな用兵術を駆使する良将であり、地道で堅実な作戦を受け入れる忍耐力も備えていた。軍神セファロスの輝きにこそ隠れてはいても、彼は極めて有能な将帥であった。また政治や統治、外交の面でも力量を発揮するオルファンはセファロスよりも遥かに指導者としての総合力を持ち合わせていた。
◇ ◇
無為の停滞を続けるランバルトに諸将は困惑の色を隠せなかった。即断即決の覇者らしからぬ沈鬱なのだから当然だ。一日二日ならまだしも一週二週、果ては一月に達しようともなれば焦りや苛立ちを感じ始めても無理はない。況してや総指揮者ランバルト王が、彼の常通りとはいえ、何も説明しないのだ。
諸将は戦いはこれからであると息巻いていた。確かにカッシアでは負け叩き潰された。だが兵力は回復した。やろうと思えばセレーノ方面軍との合流や後方で増援を掻き集める事も不可能ではない。それに先の敗戦は不意の奇襲の結果ではないか。ディリオン軍の本領たる正面決戦に敗れた訳ではない。前哨戦で出鼻を挫かれただけだ!と。
分けてもリンガル公ジュエスは特に苛立っていた。彼は兵力や決戦云々から苛立ったのではない。セファロスに克つには立ち止まる事こそが許されないのだと確信していた。
◆ ◆ ◆
【新暦674年7月 エステドーナ リンガル公ジュエス】
カッシアでの敗北以後、軍議の頻度は目に見えて増え、エステドーナに篭っている今や毎日の様に開かれるようになった。
ただランバルト自身が召集しているというよりは諸将が勝手に集まり、ランバルトをそれを否定せず結果軍議の様な体裁になっているという方が正しかった。
「ベルガラを落とせるのか? あそこは難攻不落の堅城だ」
「セファロスを引きずり出さねば、到底攻略など出来ない」
「奴なら"餌"をちらつかせれば引きずり出せるだろう。そこを撃てるかもしれん」
「浅はかだぞ。背後を取られ、王都も攻められかねん。"かも"や"だろう"で軽々に判断するな」
「セファロスを仕留めれば勝利なんだぞ! 何としてでも奴を倒す手をだな!」
諸将は誰と無く好き勝手に持論をぶつける。その無秩序さはとてもランバルトの維幕とは思えなかった。
――だが軍議としての価値は? 有ろう筈もない。無意味な言い争いに不毛な主張の押し付け合いだ。そしてなによりも、肝心の国王陛下が一言も発さないのだから、どうしようがあるというのだ?――
ランバルトは黙って険しい顔をしているばかりだ。その瞳には冷たさも鋭さももう感じられない。
だが、ジュエスは自分の"目"にはまだ熱さが、炎が宿っていると確信していた。
――しかし、何もしなかったのは僕も同じだ。でも、今こそ動くべき時だ――
ジュエスは立ち上がった。
騒然としていた場は鎮まり、皆がこれから発せられるだろうジュエスの言葉に耳を傾けた。ランバルトでさえもそうだった。
「これ迄我々は幾度と無くセファロスに良いようにやられてきた。サフィウム、フィステルス、カッシア……何れも奴の掌中で事が進んできた」
数々の敗北を思い起こし、ある者は苦々しい表情を、またある者は憤怒の顔を見せた。
「敗因は何だ? 兵の数か? いや、いつも我々の方が上回っていた。兵の質か? いや、我軍の諸兵が精鋭揃いであることは言葉にするまでも無いことだ。では何か? それは奴の望んだ場所、望んだ時で戦わされたからだ」
ジュエスは一呼吸置き、再び諸将を見据えて話続ける。ジュエスの熱の入った演説に皆聞き入っている。積極的な策と言うのはいつの世も人々の心に入り込むものだ。
「此方から攻めているつもりでもそう動くよう誘導されていたのだ。何かを守る為、敵の進行を阻む為、野戦に持ち込む為、セファロスの動きに対応しようとしたその判断そのものが間違っていた、奴の術中に嵌まっていたのだ! 故に、だからこそ! 出撃する! 追うのでも迎え撃つのでも無く突き進み、今度こそ我らの望む場所、望む時に戦うのだ!」
そうだ、賛成だ、戦おう、などと至所から諸将の賛同の声が上がる。声を上げない者も多くはその表情は賛意を示していた。
「王土を攻めると言うのならそうさせればよい。なれば我らもにベルガラを落としギデオンを焼く。それだけのことだ。まあ、セファロスが我軍との戦いよりも優先する筈は無いがな」
ジュエスは数歩前へ出る。丁度居並ぶ諸将の中央の位置になる。
「軍勢を分散して攻め手を増やしてもよい。兎に角、先に選択し主導権を握る。これが大前提だ」
何よりも動きを止めないこと。それこそがジュエスの主張の根幹だ。一度受け身か心に現れたとき、その瞬間に敗北は決まったも同然だ。
――――その時。
「話にならん」
王座から話を断ち切るように声が放たれた。銀十字と金蓮華の輝きを背景に、ランバルトはジュエスの方を見ていた。
「出撃して主導権を握るだと? そんな事で勝てる様な容易い相手か。分散したところで各個に撃破されるだけだ」
「そうまで仰るのなら陛下には腹案がおありなのでしょうな。考える時間も沢山お取りになられていたようですから」
「待つ。他の戦線では優勢を得られるだろう。それにギデオンは我が方の計略で擾乱が起きている。セファロスと言えど都を守るために撤退するかも知れない」
「有り得ない!」
ジュエスは叫んだ。張り詰めた空気に激情が走った。
ランバルトは一見すると動じた様子もなく、王座に座り直す。
「セファロスの望みは戦う事。戦争こそが奴の求める唯一の事柄だ。セファロスがこれ迄我らディリオン王国を攻めずに国力が増強していくのを座視し、軍勢が整えられるのを見過ごし、総力を結集する時間を与えたのは何故か。単により強力な敵と相対したいが為なのだ。そして待ちに待った御馳走が今目の前まで来ている。それに食らい付かないなどあり得ましょうか」
「……」
ランバルトは視線を横に向け、黙っている。
――誰よりもその対象となってきた貴方に分からない筈がない――
ジュエスは畳み掛けた。今度はランバルトに対してではなく、固唾を飲んで成行を見守っている諸将に対してだ。
「諸卿の理解し難い気持ちは分かる。戦好きなのはそうだろうがそこまでなのか、という思いはな。私も理解している訳ではないが、これまでセファロスと戦ってきた経験からはそう結論するしかないのだ。先のカッシアの戦いで我々が殲滅されなかったのもな」
まだ鬨こそ発してはいないが諸将からはっきりと戦いへの意思を感じた。
再びジュエスはランバルトの方を見た。
「もう奴の意思を待ってはならない。我々が決めるのです」
ランバルトは何も答えなかった。
◆ ◆ ◆
リンガル公ジュエスはセファロスとの再戦を強硬に主張した。それも単に攻め立てるだけではなく、主導権を握る為に常に積極的な機動をし敢えて二手に別れセファロスに選択を突き付けるべしと唱えた。
この強引な作戦を諸将は寧ろ好意的に受け取った。元々戦意に満ちた彼らはカッシアの敗戦と現在の逼塞に不満を持ち、何としても勝利を上げようと餓えていた。そこに来て勇将ジュエスの積極策である。同意しない訳がない。これ迄痛い目を見せられてきたセファロスを今度は出玉にとってやると意趣返しの熱意にも溢れていたのだ。慎重論者も居ないわけではないがその声量は全体から見れば小さなものだった。
諸将はランバルトに出陣の下令を求め、今こそ戦う時だと叫んだ。ジュエスはこうなることを予期し、ランバルトへの圧力に諸将を利用したのだ。
だが、それでもランバルトは動かなかった。その消極性は最早時機を待っていると言う範疇を超え、戦いを避け閉じ籠っているだけであった。
ランバルトはジュエスに軍の分離を厳に戒め、己の意に反して攻勢を主張する将への処罰も仄めかした。諸将は反発を強めたがランバルトはこれを無視した。―――事態を見ていた幾人かはランバルトが"直ちに処刑"という決定に至らない事に注目していた。
業を煮やしたジュエスは麾下のプロキオン軍だけを率いて勝手に行動を始めた。計画を実行に移してしまえばさしものランバルトも勝利を得るためには戦いに赴かざるを得ないだろうと考えたのだ。
ジュエスの独断にランバルトは激怒したがそれ以上の対応はしなかった。指揮下の諸将がジュエスの"英断"を称賛し、ランバルトにも戦いを求めた事も一因である。が何よりも餌に釣られたセファロスがベルガラ城塞を発ち、エステドーナの本陣へ迫って来た事が最大の理由であった。




