『荒神・二 ~カッシアの会戦~』
◇ ◇
一方、遅れて反転したランバルトら本隊は隘路に差し掛かっていた。その地はカッシアの谷間と呼ばれ、北こそ急峻な崖であるものの南は比較的なだらかな丘陵が続き、間に挟まれた隘路は平坦な道で軍隊の通行には適し飲水の確保も容易な反面、湿度が高くなりがちであった。この日は折からの小雨も災いし霧が立ち込めていた。
ランバルトは行軍に際し、総勢4万3千人の兵士を通常の縦隊ではなく自身を中心にして前後左右に部隊を配置していた。これらの隊形は半行軍隊形とも言える状態で、行軍から戦闘への突入をより容易にした隊形である。敵軍に追いつかなければならない以上速度は重視したいが接敵した場合に即時戦闘へ入りたいというランバルトの相反した欲求に妥協した結果である。
前衛としてデサイトス家のピズダンクス・イルシャイア家のダワッドら支援軍騎兵1千騎・歩兵2千人、ロザドー家のパウサニアスやウムホルド家のコロンら密集長槍兵4千人・軽装散兵1千人、そしてロシャらコルウス族2百人が配置されていた。
中央にはハスタール家のジャヴァルら近衛騎兵2千騎、平民のゲルハルトら銀盾隊2千人、ウルラフ家のウルヴィンら青銅楯隊3千人、平民出身のヒーニアスら"ブケラリィ"2百騎、それらのやや後方にキンメル家のレオザイン・ヘルワース家のオマー・モンタグリ家のガムロー・ルフォ家のベネディクトス・スコーネ家のエンマルコや平民出身のブリツィオら密集長槍兵8千人が配置された。
ランバルト王が国王軍司令官ヒュノー、親衛隊隊長アレサンドロやピュリア家のフライオルら近衛兵と共にその中心部にあり、全軍を指揮していた。
両翼にはそれぞれ重騎兵5百騎、軽装散兵1千人、密集長槍兵2千人ずつが配置され、左翼はジンカイ家のバルトン・平民出身のヴェラルドらが、右翼はワーレン家のジャン・リトン家のアグラムらが任された。
殿にはプロキオン軍が置かれた。"公"ジュエスが指揮を執り、クレア家のセルギリウス、ニールトン家のコンスタンスが副将として支えていた。軍勢がトリックス家のセイオンら選抜騎兵2千騎、平民出身のトクタムら選抜歩兵1万人、軽騎兵5百騎からなり、プラー家のフェイス、その子フェリシオンやバウフェン家のマリウスなどのリンガル人だけでなく、カルコン家のネフノスやハルマン家のミュハール、マレザール家のティムロスらメール人も多く士官として任命されていた。
前衛を勤める支援軍達は目の前に此方に近付いてくる人影を認めた。霧中でよくは見えなかったが、格好からディリオン兵の様であった。
指揮官の一人ピズタンクスは先行したダロス隊が戻ってきたのだと判断し迎えようと出向いた。そして返礼に無数の矢と刃を叩き込まれた。
突然の出来事にディリオン軍内は混乱した。前衛が裏切った、ダロス隊が寝返った、いや只の手違いで損壊など出ていない等々、錯綜した情報が溢れた。
ピズタンクスを討った集団は明らかに完全武装しており、敵意に満ちていた。彼らはその勢いのままディリオン軍前衛を攻め立てた。
と同時に折からの霧が薄くなり、周囲全てを人影が囲んでいる事が判明していった。
霧が晴れた時、ディリオン軍は自陣営の窮地に気付く事が出来た。メガリス軍に包囲されていたのだ。しかしそれは"漸く"という話であり、奇襲され包囲され完全に敵軍の手中に陥った事、全ての対応は後手に回らざるを得ない事を示していた。
隘路の出口、西方向にはダークス傭兵1万人、亡命兵団1000人が待ち構えていた。
ダークス傭兵は陽動として沿岸部でディリオン軍を翻弄した後、内陸へ移動すると共に戦場へ合流したのだった。"斧槍"と堅固な隊列を武器に立ちはだかった。
亡命兵団は内戦で破れ去ったハルト人・ライトリム人・フェルリア人達から構成されホラント家のトラード、ユカール家のグルティオが首班として率いていた。数は少ないものの意気軒昂で、皆内戦を生き抜いた戦闘経験豊富な勇士であった。武装は当然ながらディリオン兵のそれであり、ディリオン軍前衛が友軍と誤認したのも単なる偶然ではなく、セファロスはその事も見越して配置していた。
後側、東方向にはメール重装歩兵2千人、"踊手"1千人、王の精兵2千人が回り込んでいた。彼らは殿のプロキオン軍と対峙することとなった。
メール人も亡命集団であるが、より特異的で連帯感のある彼らはトラードら他の亡命者とは共同せず独自の組織を維持していた。残った上級者であるガウェンド家のロジャースとアルソートン家のネービアンが指揮権を掌握していた。その錬度は些かも衰えることはなく、戦力としての有用性は言うまでも無かった。
南側、緩やかな丘の稜線に沿って"踊手"6千人が展開した。強固な戦列ではなく比較的散開した隊型を取り、剣と小盾のみを装備した機動性重視の"踊手"は一見すると脅威足り得なく感じられるが、実際はセファロスの狂気に蝕まれた恐るべき狂戦士達である。
更にその後方にはドルクロス率いる百戦錬磨の傭兵隊1千人が控え、敵陣を掻き乱す機を伺っていた。
そして北側、断崖の上にはセファロス本人と"赤服"8百人、"踊手"3千人が姿を現した。遠く離れた場所からでもセファロスの深紅の鎧は一目で分かり、その威圧は場に居る全ての者を遥かに上回、ディリオン軍の将兵達は否が応にもあの軍神と再び戦場で合間見えることになったのだと分からされた。
総勢2万7千人のメガリス兵をセファロスは警戒網に引っ掛かる事もなくすり抜けさせ、相手を翻弄したままに包囲する事を成功させていた。
只でさえ不可能な程に困難であるのに、更にランバルト麾下の新生ディリオン軍相手にやってのけるなど全く類い稀な用兵手腕であり、神憑り的な――或いは正に神の如き――才覚がなければ到底果たし得ないだろう。
折からの雨や霧の存在も偶然や幸運ではなく、よもや天候すらも操りえるのかと思う者も少なくなかった。
奇襲の勢いのまま襲い掛かられたディリオン軍前衛の支援軍は指揮官の討死も合間って見る見る内に崩されていった。追い立てられるままに後退する羽目になった彼らは結局戦線復帰出来るほどに再編されることはなかった。
ランバルトは混乱の掌握に苦心しながらも対応に素早く取り掛かった。完全に一枚上手を取られたのは忸怩たる所であったが悲しんでいる余裕などない。
幸いと言うべきか狙い通りと言うべきかは兎も角、半行軍隊型を採っていた為に戦闘への移行は比較的に容易である。殿のプロキオン軍は早くも後方から迫るメール兵団に対しており、前後から無様に貫かれる恐れさせ無さそうであった。
加えて、敵軍の最強戦力であるセファロス自身が崖上に在しているのも取り沙汰すべき点だ。指揮の為に高所を陣取ったと考えられるが、崖の上である以上戦闘への参加は無いか或いはあっても地形迂回に時間が係る筈であった。
ランバルトは後方の守りはプロキオン軍に任せ、左右翼に配置していた兵力をそのまま前進させ崩壊した前衛軍を補強させるようと決めた。まだ動きを見せない南側のメガリス軍に対しては後衛の密集長槍兵を投入して対応しようと図った。一方で自身を含む本隊は動かさずに、受け身ではあっても先ずは戦線の構築と収集を優先した。
メガリス軍は先手を取った利を決して逃さず、前後から猛攻を加えた。亡命兵やメール兵は鬱憤を晴らし自陣営の正義を振り翳すかの如くに奮起し、ダークス傭兵や王の精兵もその勇名に恥じない働きぶりを示した。
ディリオン軍前衛は崩壊しかけている中も増援が来るまでよく持ち堪えたが、肝心の増援は行軍からの戦闘突入では流石に完全な機動と言うわけにはいかず、速度と投入の時機には齟齬が生じてしまった。強固な一枚の戦列の構築は難しく、凹凸や薄厚にある状況とならざるを得なかった。
ジュエスは自身のプロキオン軍だけでも一つの軍隊として戦列を作り、尚且つ全体の変化にも対応出来るよう部隊を配置し直した。そして、そこはプロキオン家の精鋭である。メガリス軍の猛攻に直面しても忽ちの内に体勢を整えた。選抜歩兵には三つの悌団に分割しつつ前面に展開させた。悌団が互いに側面を守りながら、柔軟に攻勢を掛けられる様な編成である。両翼には軽騎兵を、後方には選抜騎兵を配置した。正に個兵としても部隊としても高度な運用を可能とするプロキオン軍ならではの展開であった。
プロキオン家の選別歩兵を前にしては精強無比のメール兵団も鎧袖一触というわけには到底いかず、激戦が繰り広げられた。寧ろ数の差を覆う程にメール兵の練度が際立ってさえいた。
しかし側面はメガリス軍の優勢が明らかになった。プロキオン軍の軽騎兵は接近戦や正面戦闘には向かない遊撃部隊とはいえ決して弱兵ではない。対するメガリス軍の踊手と王の精兵が強敵なのだ。特に踊手はその軽快さと捨身――文字通り――の攻撃を思う存分叩き付け、敵の馬に飛び乗り引き摺り落とした兵も十人や二十人では聞かなかった。軽騎兵は後退を余儀なくされる。王の精兵は選別歩兵に側面から圧力を加えた。
ジュエスは王の精兵よりもセファロスの狂に通ずる踊手を脅威と認識し、選抜騎兵を投入してでもこれを止めるべきを考えた。重装騎兵で構成される選抜騎兵はプロキオン軍最強の戦力で、ディリオン王国軍内でも屈指の精鋭である。当然正面対決での威力は軽騎兵の比ではない。剣刃と穂先を揃え猛然と突撃する選抜騎兵を前にしては殆どの兵は崩れ去り敗走して命繋ぐ他は術がない。だが踊手はその"殆どの兵"ではなかったのが運命の分かれ目だった。二倍の重装騎兵と対しても踊手は僅かも崩れなかったのだった。
ランバルトは東側のプロキオン軍の演じる激戦を苦戦と評した。兵数で勝るにも拘らず優勢を保てない、剰え最精鋭の騎兵隊を投入しても尚勝利をもぎ取れない、これを以てして有利に事を運んでいるとは到底言えないと断じたのだ。そう決めた真実が心中にある以上、事実がどうかは関係無いのだ。ランバルトととしてもとは言え現状を放置する訳にはいかない。密集長槍兵2千人を割き増援として送り込んだ。必要性が真にあったかは不明だが、それでもまだ優勢を勝ち取れ得なかったのは事実だった。
その時、南側の踊手6千人が遂に動いた。後衛の密集長槍兵は戦闘可能なまでには配置を終えていたが、重装騎兵の突撃でさえも挫く事の出来ない狂った戦意を歩兵陣で打破出来ようものか。答えは否である。
鎧も身に着けない軽装兵達は抜き身の剣を煌めかせ槍の林を切り開き、密集歩兵陣へと躍り込んだ。当然槍に串刺しにされたメガリス兵も大勢出たが"踊り"を減じるには足りず、それよりも多くのディリオン兵が狂刃の餌食となった。
狂兵の存在は必ずしも一方にばかり訳ではない。ディリオン軍の狂兵と言えばコルウス族狂戦士を置いて他にはいない。コルウス族兵は単純な攻撃力では新生ディリオン軍に於いてさえも最強と言うに相応しかったがその制御は難しく、下手に投入すれば先のサフィウムの会戦の如くに戦場に混乱を巻き散らす恐れがあった。ランバルトは現在の混乱した戦況を鑑みてコルウス族兵の投入は差し控えていた。
だが狂兵とは本来人間の手に余るからこそ狂兵なのである。広がる戦火を前にした族長ロシャらコルウス族はランバルトの命令を無視して前線へ飛び込んだ。邪魔な味方を押し退け――時に切り開いて――前方のメガリス軍に襲い掛かった。
コルウス族の襲撃は敵味方に区別なく更なる混乱を齎した。寧ろ背後から押されたディリオン軍の方が混乱の度合いは酷かった。メガリス軍も多く流血したが、ディリオン軍の戦陣は崩れ全体としての戦闘力は著名に低下した。それが割に合う戦果だと考える者はまともな者の中にはいなかった。
前衛は混乱状態・南側面も混戦とディリオン軍は苦境にあったものの、プロキオン軍は数の差もあり徐々に押し返し始めていた。ランバルトの下には近衛騎兵や親衛隊ら王国最強戦力がおり、戦況を逆転させる起点はまだ残されていた。ランバルトは十分勝利を掴めると考えていた。
だがランバルトの思考を阻害するかのように敵軍の一隊が動く。南側の踊手達の背後にあったドルクロス隊が混戦の間隙を縫って突入を仕掛けた。ドルクロスら歴戦の傭兵達の動きは如何にも掴み処がなく、幻惑するようなその機動にはどうしても警戒を要さざるを得なかった。止むを得ずランバルトは増援を送り込んでの対処を決めた。結果としてドルクロスは南側の密集長槍兵攻撃に加わるに留まったが、誰もが一瞬彼らに気を取られた事は確かだった。
これが致命的だった。
一瞬の心の隙、僅かな目移り。その刹那である。
◆ ◆ ◆
【新歴674年6月 カッシアの峠 ガビニウス】
崖の上にはずらりと兵が集っている。殆どは歩兵で、隊列は密ではない。緊密な陣形は彼らの持ち味ではないからだ。彼ら、"赤服"と"踊手"は抜き身の剣や槍を握り、今にも飛び出しそうな熱狂を保ち続けている。
だが彼らは動かない。主君の命令がないからだが、ガビニウスとしてはそもそも崖の上では動きようがないだろうと思っていた。
――陛下の戦場はいつも私の理解を超えているが、今回は極めつけだ――
ガビニウスは戦場を引き回され、結局この場まで付いてくる事になった。自分でも数奇な運命に翻弄されていると思うしかなかった。
ガビニウスはこの集団の中では希少な乗馬者である。馬の上からだと尚の事、戦況を一望出来る。
ディリオン軍はメガリス軍の罠に嵌まり、囲まれている。しかし、苦戦しつつも戦列や意思は固く維持しているように見えた。四方全てに向いている訳ではないのも理由の一つだろう。
ディリオン軍の事実上の背後にあるこの崖は、断崖と言う程では無いが降りるには十分に危険で急峻だ。ディリオン軍が警戒を薄くしているのがよく分かる。
では何故総司令のセファロスは自身を含む最強の戦力をこんな所に配置したのか。ガビニウスには分からなかった。
――一体何をお考えなのだろうか。神々の叡智の本の一滴でも良いから理解できるようになりたいものだなあ――
ガビニウスは隣で楽しげに戦況を眺める"軍神"セファロスをちらりと見た。
セファロスは焦げ目と返り血で汚れ左肩から胸までが大きく裂けた赤い鎧を身に纏い、彼もまた馬上にあった。馬に乗って戦うメガリス人は珍しいのだ。
セファロスは目は輝き、正に遊戯に集中する童のようだった。
「陛下、お聞きしても宜しいでしょうか」
「何かな」
「何故ここに布陣なされたのですか? 陛下ご自身が遊兵となっておりますまいか」
「うーん、そうだな。書生くんはどうしてだと思う?」
「戦況の把握には最適とは思います」
ガビニウスは軍事は不得手だ。理解の為に勉強してはいるが、表面的な部分だけしか身に付かない。
「じゃあ、質問を変えようか。敵軍は私がこの崖の上にいてどう思うだろうか」
「……セファロス陛下の事は大いに警戒を必要とします。しかし、この場にいる限りは大きな脅威にはなり得ないと考えるでしょう」
「そう、その通りだねえ」
その時、唐突に目では追えない程素早くセファロスはガビニウスの後頭部を軽く叩いた。突然の事、それも頭の後ろを叩かれガビニウスは動揺した。
「な、何をなさいます」
「驚いた?」
「も、勿論です、陛下」
動揺するガビニウスを見るセファロスは愉しげな表情を隠さない。
「どうして?」
「え、いや、突然の事でしたし、その後ろからなされるとは考えていなかったので……あ」
「なら此所から攻めたら敵軍は大慌てと言うことだなぁ、書生くん」
「ま、まさか……」
「そう言うことだ」
まさかという表情のガビニウスに対し事も無げに言い放つセファロス。敵の意表を突くのは兵法の王道とは言えいう程易くないのはガビニウスでも理解できる。まして相手は精鋭のディリオン軍であり、こちらは姿を見せつけている。スクルニーンの時の様に上手く行くのかと疑問だった。だが、それでも尚セファロスはやるし出来ると言うのだ。
「見ろ。先程の命令で突入した傭兵どもがディリオン軍の戦列を混乱させている。その対応に兵が動いているのが分かるだろう」
セファロスを戦場を指差し言った。
彼の言う通り、一瞬の隙を逃さず亡命者の一隊が素早く敵軍の間に入り込み、その傷口を抉っている。ディリオン軍も対応せざるを得ない、傭兵らしい実に厭らしいやり口だとガビニウスにも分かる。
「敵軍の目は僅かと言えど私から離れたのだ。その根本は正に"此所からは攻めてこない"と言う点にあるのだよ」
そう言われてガビニウスは改めて"此所"を見つめる。やはりそこには急峻な崖がそそりたっているではないか!
「で、ですが崖ですよ、陛下」
「そうだね。でも足は付くだろ? なら行ける」
セファロスはまるで、"嫌いなものでも鼻を摘まめば食えるだろ"、とでも言っているかのように事も無げに返す。
理論上ですらおかしいと思えるセファロスの主張。しかし彼が出来ると言えば出来ると思えてしまうのが、やはりセファロスの軍神たる所以だろう。実際ガビニウスも、そう言われてみれば確かに、とつい納得しかけてしまっていた。
「最初から負の方向であるよりも、正の方向から負の方向へ転換した方が落差は大きい。人の心は特にね」
セファロスを知る者の中では彼の事を"狂人"だと認識している者が殆どだ。それは事実だ。だが、セファロスの狂気の裏には人智を超えた万物への理解が潜んでいるのだとガビニウスは感じていた。森羅万象の出来事は勿論、人の心の奥深くでさえもだ。尤も、セファロス自身がそれを人々と共有しうる形で表出するかはまた別の話である。
「さあ、行くぞ!」
セファロスはそれはそれは楽し気に笑顔を浮かべ、真っ先に乗馬を崖に向かって掛けさせた。そしてその後ろには何の疑問も抱いている様子もない、それどころか同じく気狂い染みた笑みを浮かべる"赤服"が続いていった。
――見ろ、笑っているぞ――
「は、はい、陛下、はは、は」
崖下へと姿を消していった軍神を見てガビニウスは自身の変化に気づいた。
今自分は何をした? 何と声を発した? どんな顔になっている?
――いや、陛下だけじゃない、私も……だ。私も笑っている!――
そう頭に浮かんだ時には既に自らも崖に向かって歩を進めていた。
◆ ◆ ◆
遂にセファロスが動いたのだ。直下の"赤服"と"踊手"を引き連れ、その様は怒涛の如くであった。
セファロスは崖の上に布陣していた。ランバルトはその位置故にセファロスが動いても対応するまでに時間的余裕があるだろうと踏んでいた。だが軍神セファロスはランバルトの人智を蹴散らした。
セファロスは率いた兵と共にそのまま崖を駆け下りた。確かに急峻ではあっても断崖とという程ではなく高さも二十メートルには達しない以上、崖を逆落としに降りるのは不可能ではない。しかし、それを実行するとなると、その胆力と健脚が如何に要するものであるのかは想像するに難しくない。
だがセファロスは微塵も恐怖を見せず、続く諸兵もまた同様だった。その猛然たる攻撃は最早勇気があるというより狂っていると言って差し支えなかった。
ランバルトは直下の精鋭部隊や手元に残った予備兵力を有らん限りに投入した。セファロスの猛攻を幾度も浴びてきたランバルトはその恐ろしさを能々認識していた。していた筈だった。
セファロス直下の狂兵でさえ厄介極まりないというのに、一瞬の心理的間隙と逆落としでの急襲による相乗効果は痛恨の極みだった。親衛隊ら精鋭部隊と言えども苦戦を免れ得なかった。
矢面に立った青銅楯隊はそれでも戦列を維持し猛攻に耐えたが、一方に投入された密集長槍兵の予備兵力は突破を許してしまった。重騎兵達もこの狭い戦場での混戦ではその威力を発揮することは出来ず、近衛騎兵隊に至ってはランバルトは早くも下馬させ重歩兵として使用する事を選択した。
変化はまだ終わらない。セファロスの参戦を知ったロシャはコルウス族を率いて反転、強引に動いた所為で友軍を更に混沌に陥れつつこちらも猛撃を仕掛けた。両軍の最狂戦力同士が遂に衝突したのだ。言語を絶するような空前の激戦が展開されるだろう事を誰もが想像していた。ランバルトもコルウス族の勝手な動きには苛立ったがセファロスの足止めとしてこれ以上の適任は無いだろうとも考えていた。そう、その筈だったのだ。
◆ ◆ ◆
【新歴674年6月 カッシアの峠 族長ロシャ】
――素晴らしい。やはり来たか――
ロシャは歓喜した。あの、戦神に捧げるに最高と言うしかない供物がまた現れたのだ。
深紅の鎧を身に付け崖を駆け下りてきた"奴"に向かってロシャは猛然と馬を駆けさせた。
巨大な鉄球が先端についた棍棒を握り締め、彼我間の邪魔な小者どもを振り払い突進した。自身の後ろにはコルウス族の同胞が、奴の後ろには同様の従属者がいるだろうが、ロシャにとり重要なのは自分と相手だけだった。
向こうもロシャを見つけたらしい。この戦場の喧騒にも関わらず、妙にはっきりと聞こえる声で喋った。
「カザ・デ・ベスティア・エスン・プリフェレン、 ペロ・エスタ・ビエン。」
"奴"の話す言葉はロシャには理解出来ない。だが受けて立つという意思だけはよく分かった。
――こうでなくては、殺す価値がない!――
"奴"は近くの兵から槍を数本奪うと、一本を宙高く放り上げた。空気を裂く鈍い音がする。
――何のつもりだ。鬨をつくっているのか? どうでもよいが――
ロシャにその意図は分からなが関係ない。ただこの鉄球をその頭蓋に叩き込むのみだ。
今度は"奴"は流れるような、百戦錬磨のロシャをして思わず見とれてしまう程しなやかに槍をこちらへ投げ付けてきた。
ロシャは鉄球付きの棍棒で槍を薙ぎ払った。この程度の攻撃で傷を負うほど柔ではない。
だが、自ら振るった鉄球の影から突然にもう一本の槍が現れ、ロシャの兜を跳ね飛ばした。
――時を置かずに連続で投擲するとは、やはり大した武勇よ!――
兜を失い頭部を剥き出しにしてロシャは歓喜に震えていた。これ程の供物を捧げたら戦神は如何にお慶びになられるだろうか!
"奴"が挑発するように指招きし、何となれば一層馬を駆けさせ、棍棒を振り上げた。
その瞬間。
衝撃が頭を打った。
――な、んだ――
さしものロシャも何が起きたのか一瞬不明に陥った。
だが脳天から顎先を通り抜け、跨がっている馬まで何か棒のようなものが貫いていると察するのに掛かる時はごく僅かだった。
――槍だ――
最初に"奴"が宙へ投げた槍。それが今落下し、突き刺さっているのだ。
――兜を撥ね飛ばしたのも、ここへ誘い込んだのも全て狙った、のか――
そう気づいた時にはロシャの体からは力が急速に抜け、力尽きた馬と共にどうと地面に叩きつけられた。
"奴"が馬を疾駆させたまま倒れ伏すロシャの横を通り過ぎた。一瞥しただけで、特に猛者を討ち取り喜ぶ素振りもない。
「ナイ・ディベルシオン。アシクェロス、ベスティエ・ノ・ノメ・グスタ。」
去り際にそう呟いていったのが耳に入った。
戦いに倒れ伏すという戦神の最大にして最後の寵愛に抱かれ、急速に薄れゆく意識の中でロシャは悟った。敵う筈の無いものを狩ろうとした愚かさに、立ち向かう資格の無い相手に手を出した不信心に。
――"奴"は供物などではなかった……神の化身でさえもない。"奴"は……いや、"彼の御方"は戦神と同じ、神々の一柱なのだ――
◆ ◆ ◆
コルウス族の族長ロシャは一合も打ち合う事も無くセファロスに一撃で討ち取られた。現人神と崇拝していたロシャの死はコルウス族の戦意もまた一瞬で打ち砕いた。
コルウス族を粉砕したセファロスの足を止める事は最早不可能に近かった。精鋭の青銅盾隊の戦列も奮戦空しく破られ、軍神と赤服の勢いはディリオン軍の最強の歩兵、銀盾隊でさえも押し留め得なかった。強固な堅陣である筈なのに、セファロスの突破攻撃の前にはまるで柔らかな果物を切り裂くかのようにその陣は削られていった。
ランバルトは下馬させた近衛騎兵隊の中央に避難し――もっと言えば転がり込み――、ヒュノー率いる私兵隊"ブケラリィ"さえも投入させたが状況は絶望的だった。他の戦線も手一杯であり、本陣へ回す兵力の余裕は無かった。
だがそれ以上にランバルトがそのまま討ち取られなかったのはセファロスがそう動かなかったからという要素が大きかった。ランバルトの必死の努力を楽しんででもいるのか、或いは何かを期待しているのかセファロスはじわじわと兵力を削り取っていく戦いを選んだ。それでもゆっくりと絞め殺すような攻めであってもいつかは確実に命を奪うだろう。
絶望的状況の中、一筋の光明が差し込んだ。補給隊の惨状を見て危機を逸早く察したダロスが騎兵隊だけでもと送り返したのだ。重騎兵と支援軍騎兵からなる増援は逸る戦意を解き放ちメガリス軍に襲い掛かった。混乱と劣勢で崩壊し掛けていたディリオン軍前衛隊にはとってそれは神々の恵みにも等しかった。
さしものダークス傭兵と亡命勇士兵団も騎兵突撃を背後から受けて無傷というわけにはいかない。前方への攻撃の手を緩めてでも背後の新手に対応しなければならなかった。
新手の到着を見たセファロスは突然攻撃を止め、全軍に後退を命じた。自身が直卒する赤服だけでなく、踊手やメール兵など各方向から攻撃している全兵員に対してである。
突然の命令に困惑を来した兵は少なくなかった。優勢に進めていた西側の部隊は特にその傾向が強かった。一方で南面の踊手達はセファロスの命令は絶対であるとして直ちに攻撃を中止し交代に移った。
セファロスは進撃の方向を東に転じ、帰り掛けの駄賃とばかりにプロキオン軍の戦列を引き裂いて戦場を離脱した。勿論、受ける側はそんな軽い出来事ではなく、プロキオン兵はメール重装歩兵との挟み撃ちに合う羽目となり、多大な出血を強いられる事となった。
メガリス軍は包囲を解き後退していったがディリオン軍は誰も追撃する事は出来なかった。どの様な判断があったかは誰にも理解出来ないがセファロスが攻撃を止めた事をただただ幸運と思い、心身の疲弊に打ちひしがれていていた。
被害は甚大だった。ディリオン軍は1万4千人もの兵を失った。特に前衛部隊の損耗は見るに耐えず、投入兵力の6割近くが戦闘不能となった。周囲に布陣した中央軍の主力兵やプロキオン軍はおろか、中心部で守りを固めた国王軍も損害を被り、親衛隊1千5百人・近衛騎兵5百騎が損耗の目録に名を連ねることとなった。
激戦の中で将士達も多くが戦場の露と消えた。上級指揮官としてはデサイトス家のピズダンクス、平民出身のブリツィオ、そしてコルウス族長ロシャが討ち取られている。ジンカイ家のバルトンやウムホルド家のコロンらは負傷し本土へと後送された。
そして、コルウス族はロシャの死と新たな神の顕現を目の当たりにし、セファロスを追ってディリオン軍から離脱した。
また離れた場所で言えば、補給隊はほぼ壊滅し、6千人の戦死傷――ただし戦傷者は二度と復帰できない傷を負っている――が出た。フライス家のローウェンら高級士官もまた戦傷を負わされた。
メガリス軍は4千人を死なせているが、やはり戦果から見れば大いに割りに合うと言わざるを得ない。ダークス兵も亡命兵団も所詮は外注品の傭兵に過ぎず失っても然程痛手でもなく、"赤服"、"踊手"さえも極論すればセファロスさえいれば幾らでも"補充"出来るのだ。無論、セファロス自身は一筋の傷も負っていない事は言うまでもない。
控え目に言っても、ディリオン軍の敗北である。
戦術的には言わずもがな、戦略面でもセファロスの捕捉撃滅という目標も補給隊の護衛という目標も達成する事が出来ず、大目標たるベルガラ攻略も達成困難な事態へ追い込まれた。
壊滅を免れたのはディリオン軍も精鋭を揃えていた事、先行隊の一部が戻って援護を得られた事、そして何よりもセファロスが相手を叩き潰す選択をせずに後退した事による。
物質的な消耗以上に心理的な打撃は大きかった。精鋭を集め、最善の手を尽くした筈――少なくともディリオン側はそう信じていた――なのにあっさりと手玉に取られ、その挙げ句に敵側の決断で生かされた。その屈辱と衝撃は並大抵のものではなく、それは将も兵もまた同様だった。
だがディリオン軍将兵の殆どはまだ諦めていなかった。別動隊と合流すれば戦力を補充でき、今戦闘も奇襲を受けたからであって正面決戦なら勝敗は変わると考えていた――――但し、ランバルト王を除いて、であった。




