『王の治世・二』
◇ ◇
治世と改革が進む中、ランバルトの強い願いが通じたのだろうか――将又悪辣な邪神が手出ししたのか――、婚姻から5年、漸くミーリアは懐妊した。男児であれば王家の嫡男として次代の王となり、女児であっても王家の継承は果たされる。ランバルトにとっても王座支配の正当性をこれで完全に主張できる。正に待望の懐妊であった。
とは言え、生まれ出でるだろう赤子が真の意味での我が子として両親に求められているのかは、最早言葉にすることは不可能であろう。
そして十月十日が経ち、王の子が生まれることとなった。
◆ ◆ ◆
【新暦673年10月 王宮 女王ミーリア】
「はあっ、はっ、はあぁぁぁっ……!!」
ミーリアは寝台に横たわっていた。額はおろか全身が汗にまみれている。
大きく膨らんだ腹は中の子を外へ押し出そうと、ミーリアの意思とは無関係に、あらん限りの力を振り絞る。それを受けてこの世へ産まれ出でようとする赤子の頭は母の骨盤を嫌というほど押し開き、耐え難い鈍痛をミーリアに与え続けている。
生命の誕生は果てしない苦痛の末に漸く達成されるのだろう。だからこそ尊いという者もいる。だが既に一昼夜に渡り出産という戦いに挑み、苦悶の喘ぎ以外放つことの出来ないほどに疲弊したミーリアには一刻も早く終わって欲しいという思いしか無かった。
――何も考えられない……ただ早く、早く終わって……――
「陛下、あと少しです! もう御生まれになりますよ!」
医師や産婆達が声を掛ける。もう幾度同じ言葉を聞いただろうか、十や二十では効かないのではないか。しかし疲弊の余りにすべては朦朧としており、本当は今初めて言われたのかもしれないとさえも感じる。
「ぐっ、ううっ、ああああああああっ!!」
一際強烈な痛みが広がった。何か巨大なものが通り抜けた感覚があり、其れまで絶え間なく続いていた鈍い痛みが軽くなっていく。
「……アー! アー!」
直後。生臭い血の匂いが広がり、泣き声が聞こえる。
――う、産まれたの……? ならなぜみな黙っているの?――
先程まで慌ただしかった周囲の者はしんと静まり、ただ赤子の泣き声だけが響いている。喜びの声も何もない。少し視線を巡らせると皆産まれたばかりの赤子を驚愕の目で見つめている。
「どうしたのです、何故みな黙っているの……っ」
視線を落とし産まれ出た我が子を見た瞬間、さしものミーリアも声を詰まらせた。
ミーリアはこの時ほど運命を弄ぶ神々の無慈悲さを感じた事は無かった。
そこにいた子は全く異様だった。
彼の左半身は醜く歪み、動きもまたいびつであった。一方で右半身は健康そのものであり、寧ろ端麗で優美な風格さえあった。瞳は深い蒼に澄み、髪は黒みがかった黄金細工の様であった。
右半身は誰もが一目でランバルトとミーリアの血を引いていると理解出来た。左半身は神々の戯れか悪魔の所業か、何故そうなったのかは誰にも分からなかった。
否、ミーリアには分かった。
――ランバルトの飲ませた薬や彼のさせた儀式の所為だわ……――
婚姻の初夜以来、ミーリアはランバルトに得体の知れない薬を事あるごとに飲まされ、奇妙な異国の儀式を行わされた。ランバルトの妻への暴圧は月日が経つにつれて重く積み重なっていき、ついに懐妊した――或いは、してしまった。子が出来ても生まれるこの日までランバルトがその手を緩める事は無かった。
――恐らく、その結果が――
ミーリアは途端、猛烈な嘔吐きを覚えた。吐かずにいられたのは自制よりも新たな衝撃が現れたからだ。
「生まれたか?」
らしくもなくランバルトが扉を乱暴に開けて入ってきた。彼も出産の時を待ち続けていたのだ。ただし人の親としてではない。
「おお、あれか。男か。どう……」
またもらしくもなく喜色ばんだ声を上げる。だがその声色と表情は生まれた子を見た一瞬の内に消え去り、凍り付くような顔へと変わった。
「陛下……」
無意識に声を発したミーリアをランバルトは光のない目で見つめると、赤子にはそれ以上目もくれず踵を返して部屋から出て行った。
父との対面に気づいているのか否か、赤子はただ泣き続けている。
――哀れな子。罪無き我が子――
醜い左半身こそがランバルトの本当の姿。野望に歪んだ怪物。
この子は父の報いを神々によって受けさせられたのだ。
――この子には何の咎もありはしない。しかし、実の父にすら触れられることのないこの子を受け入れるのは一体誰なのだろうか――
そう思いはしても、母たるミーリアもまた赤子に手を伸ばせずにいた。
◆ ◆ ◆
生まれ出でた子は男児であった。即ち、ランバルトの後を継ぐ次代の王の生誕である。
子はアルティルと名付けられると生まれる前から決まっていた。名に"アルサ"の文字を冠する事からも分かるように、王朝の彼に対する待望の程が感じ取れるであろう。
だが運命の神々は無慈悲な程に残酷であった。
アルティルは奇妙な姿で生まれた。美しく整った右半身と醜く歪んだ左半身を与えられた彼には見たものは哀れみよりも畏れを抱いた。そこにはさながら半神とでも言うべき異様さがあったからだ。
ランバルトは生まれ出でた我が子に指一本も触れることは無く、一言の声を掛けることも無かったと伝えられている。ランバルトが何を感じたのか、如何な思いを抱いたのかを汲み取りえた者はいない。ただ確実なのはアルティルの誕生以降、ランバルトの瞳の冷たさが増し続けたことだけである。
◇ ◇
残る反乱地域の平定・制圧も進行していた。小規模な賊徒や犯罪集団は除外するとして、国内にはアイセン島のクィンティリス・カエピオとモア地方のクロコンタスがまだ残っていた。
何れも熱心な抵抗勢力であったのだが、一方のクィンティリスはこの地での抵抗に限界を感じていた。というのもクィンティリスの抵抗活動は故郷アイセンに多くいる支持者の援助を受けての事で、兵員・物資の補充、寄港地、軍船の修理など支援はどれほどあっても足りる事は無い。だがコロッリオの赴任と統治によりアイセン人は次第に抵抗への情熱を失い、クィンティリスへの協力に資財を割くよりも諦めてランバルト王朝に従いアイセン島の発展に注ぎ込んだ方が自分たちの為になると気付き始めた。同胞の追い出しにまで加担はしないものの反乱行為への消極的非協力はクィンティリスらには確実に打撃となった。
現地人の協力を得られないクィンティリスはコロッリオとの交渉を求めた。コロッリオもわざわざ戦闘せずに反乱者を追い出して治安を回復できるならこれに勝るものなしと交渉を乗り気で受けた。結果、クィンティリスが残った櫂船を全て引き渡す代わりに、コロッリオはディリオン領内からの離脱が黙認する事を受け入れた。クィンティリスはこうして平和裏に引き払うことに成功したのだが、残された船を見てコロッリオは愕然とした。残された船は櫂こそ積み込まれているものの全て唯の帆船であった。交渉の際、実は文言としては"櫂船"を引き渡すとされており、クィンティリスはこれを逆手にとって軍船となり得るガレー船30隻は櫂を積まないだけでその全てを連れて去ったのだった。クィンティリスにとってせめてもの意趣返しであった。彼ら反乱アイセン艦隊は北上を続け、サイス地方のレイツら亡命者と合流する事になる。
もう一方のクロコンタスらは亡命を選んだクィンティリスから誘いを受けていたのだが、これを激怒とともに一蹴し抵抗を選んだ。生まれ育った者が去り余所者が残るとは皮肉なことであるが、クィンティリス艦隊の支援無しでの戦いは一層苦しく、クロコンタス党は数を減らしながら山岳地帯へ入り込み、周辺地域への略奪や襲撃を時折行う程度にまで勢力を減退させてしまった。とは言え逃亡・死亡を加味しても未だ1千人近い人数のメール兵・重装歩兵は警戒するに足る脅威であり、まだコロッリオらディリオン王国統治者の心は安らかにはならなかった。
◇ ◇
名実共に王国の頂点に立ち全てを支配するようになって尚、ランバルト自身にとっても統治は平坦は道とは到底言えなかった。新暦673年12月、その困難さの最たる事件が起きた。
◆ ◆ ◆
【新暦673年12月 王宮 テオバリド】
無数の人が立ち入る王宮。だが中には人通りの少ない廊下も無いわけではない。
そこに一人の男が柱の影に見潜め、息を殺しひたすら待っている。目は爛々とぎらつき、顎中が髭に覆われている。如何にもな風体は華麗な王宮には全く相応しくない。
懐に隠した短剣は刀身を黒く塗って輝かない様にし、色の濃い外套を羽織って影に一体となるよう最大限の努力を欠かしていない。
――俺は公なんだぞ! クソッ! それなのに何だってこんな暗殺の真似事なんぞを!――
男の名はザーレディン家のテオバリド。かつてライトリム公にまで栄達し、主君を裏切り、そして敗北した逃亡者である。
王都ユニオン、そしてクッススの地でも負けたテオバリドは全てを捨てて逃げた。持てるだけの財貨だけを伴として、家臣も領民も何もかも置いて去った。
捲土重来と心に言い訳する無惨な逃亡者となったテオバリドだが彼に救いの手を差し伸べる者達がいた。外国への脱出を手引きし、追っ手を撒くのに一役も二役も買った。何者かの命令で動いているようだが、それが誰であるのかは判明しなかった。メガリス人かとも思っていたがそうではないようだった。
脱出に成功し安堵したテオバリドだったが、差し伸べられたのは慈悲深き神の恵みではなく、残酷で賢しい魔の手であったのが忽ちに露になった。
――これでは虜囚と何ら変わりない。だが最早どうする事も出来ん――
彼ら謎の救出者達はテオバリドにランバルト暗殺に加わる事を要求したのだった。テオバリドには拒否する術は無かった。
ただ彼らの手引きはその後も大したもので時間こそ掛かったが捕まることなく現にこうして武器を携え王宮に忍び込む事が出来ていた。ランバルト暗殺も夢ではないと思わせられる手際の良さであった。
とは言え気がかりなこともあった。決行の前日、救出者達の黒幕と思わしき者が接触してきた。そいつは封のされた書簡を渡し、中は開けずに常に持っていろと厳命してきた。計画に必要だと言っていた。見るなと言われた以上見ることも出来ず、ただ懐に入れておくしかなかった
まるでただの使い走りの様な扱いにテオバリドは酷い不快感を覚えたが、どうすることも出来なかった。
――今思い出そうとしてもそいつの声や風体は妙に思い出せん。顔は隠れていたし余計にだ。何とも記憶に残り難い奴だった――
剣を握る手に汗が滲む。手だけではない。額からも体からもあらゆる所から汗が吹き出してくる。無論、今は冬の真っ只中で、暑さの為ではない。
その時、廊下の奥から足音が聞こえた。影に潜みながらそっと様子を伺う。
――来た――
黄金の王。冷酷な支配者。
悠然と歩みを進めるその姿は正しく征服者のそれである。
覇者ランバルト。
かつての主を見た瞬間に吹き出していた汗が一転して全て止まる。
側には侍るのは二人だけだ。先導する近衛兵が一人、そして――余りに印象に残らないので一瞬思い出せなかった――フレオンだ。
――まだだ、まだ待て――
まだテオバリドは待っている。襲うなら背後から、兵法の基本だ。自身の心臓の鼓動が聞こえて仕舞わないかと不安になってくる。
視線の先をランバルト達が通り過ぎていく。彼の青い目まではっきりと見える。
そして屈辱的なまでに縮こまり身を潜めていた甲斐があり、ランバルトらはテオバリドを通り過ぎ背後を無防備に晒していた。
絶好の状況だった。テオバリドとランバルトの間にはフレオンがいるが、彼の武才は"悪い意味で"有名だ。戦場の勇者だったテオバリドを押し止める役には立たないだろう。
――今だ。今しかない!――
テオバリドは短剣を握り締めて柱から飛び出した。
その瞬間の事だ。
「陛下! お気を付けを!」
フレオンがくると後ろに振り向き叫んだ。
テオバリドが飛び出した時とどちらが早いか、彼には分からなかった。
予想だにしない突然の事に頭が白くなる。しかし、もう止められない。兎に角、刃を突き立てるしかない。
それからは全てがゆっくりに感じた。全ての光景や感覚が脳裏にやきついていくようであった。
ランバルトのぞっとする様な青い瞳が此方を見据えたのも、近衛兵が素早く剣を抜いたのも、突き出した短剣が標的に届くとこもなくかわされたのも、そして近衛兵の剣に自身の首筋から胴体まであっさりた切り裂かれていったのも、全てだ。
――斬られた!――
致命傷を受けたのに、そんな感想しか頭に浮かばなかったのは自身の事ながら意外だった。
テオバリドは走りよった勢いのままどうと倒れ込んだ。切り裂かれた傷からどくどくと血が溢れていくのが感じられた。
「……テオバリドか……」
ランバルトが苦々しい声で呟いた。
フレオンがテオバリドの懐を探る。まるで何があるか知っていて、それを探しているかのような手付きだった。
「陛下、御覧下さい。この書簡を」
耳に入った声は、死の間際にあるにしても、妙に印象に残らぬ望洋とした声だった。
◆ ◆ ◆
王宮内を移動中のランバルトが突如襲撃された。襲撃自体は直ぐ側に侍っていた近衛兵ピュリア家のフライオルに依って阻止され、下手人もその場で討たれた。幸いにもランバルトには傷一つ付かなかったが、取り沙汰すべきはそこではない。問題はそもそも襲撃を許した事、下手人が逃亡者テオバリドであった事、そして彼がプロキオン家の印が捺された書簡を持っていた事である。
下手人テオバリドはかつては政戦の要職に付くランバルトの側近であり、確かに王宮やランバルトの行動については詳しいであろうがそれだけで暗殺計画を遂行出来る訳がない。際どい処まで呼び込み得る手引きした協力者がいる筈で、それもテオバリドを下手人に選んだ時点でランバルトの事情に明るい者であると考えられた。
そこに来てプロキオン家の印字である。ランバルトがジュエスに疑惑を抱くのは当たり前とすら言えた。
如何に印字付きとは言え偽造は不可能ではなく、下手人に態々証拠品を与えるなど陰謀としては稚拙という他無いが、疑心暗鬼に囚われた人間にとってはそれは見たいと望む事実ではないのだ。
◆ ◆ ◆
【新暦673年12月 小議の間 公ジュエス】
「私が暗殺を? そう、仰るのですか?」
ジュエスの声は訝しみを通り越して呆れさえもが混じり始めている。
「馬鹿馬鹿しい」
――それ以外に掛ける言葉が思い付かないな――
思わず口に出していた。
突然召喚を受け何事かと思えば暗殺容疑の詰問である。王の弑逆未遂などと言う大罪の疑いに、その余りの突発さから本来ならもっと動揺すべき事柄にも関わらず、ジュエスは呆れてしまった。
ランバルトに対する評価を変えつつあるとは言え、漸く収まったばかりの戦乱を再び起こして妻子を危険に晒そうなどとついも考えもしない。王位にも興味はない。
そんな大それた事をする利点がジュエス自身には何一つ無かった。
ランバルトは座したままジュエスを冷たい瞳で見据えている。
「テオバリドはプロキオン家の印章が捺された書簡を持っていた。それはどう考えるつもりなのだ?」
「こんなものどうとでも作れます。何の証拠にもなりはしません」
「偽造出来る程度のものを、重要極まりない印章に用いるのか」
「それは今の話とは別問題です!」
印章はその文書が誰の記したものであるか明かす重要な証である。だが所詮は印でしかなく、偽造も捏造も必ずしも不可能ではない。古今の陰謀の裏には無数の偽造文書が隠れているものだ。今回の事も同じだろうとジュエスは思った。
無論、偽造されないよう作りを工夫したり、盗まれないよう保管や取り扱いを厳にしたりはするがそれでも人の手による以上、限界はある。
「そもそも何故私が陛下を殺そうとしなければならないのですか」
「絶対に有り得ないと否定できるのか?」
「当たり前です」
――戦乱が収まったばかりの今に態々危険を犯して暗殺の手立てなどとるものか。やるならまずランバルトへの非難を正当なもにとしてから……考えが逸れたな――
その時、どかと音を立てて扉が開けられた。衛兵の焦った声を無視して女が入り込んできた。
「兄上!」
入り込んできた女、サーラは兄と同じ黄金の髪を靡かせて颯爽と歩みを進めた。声は怒りに満ちている。
「ジュエスが兄上を殺そうとするなど有り得ません! 何者かの罠に決まっています!」
怒りに溢れていてもサーラの優美さたるや、僅かながらの翳りもない。ましてそれが自身の擁護の為であると思えば愛しさもひとしおである。
サーラは夫の無実を心から確信している。よしんば無実でないとしてもジュエスを支持する事は絶対だ。
――寧ろこの手の遣り口はサーラがやりそうな位だ。もしそうなら、ランバルトがどうであれ、僕はサーラを全力で支援するが――
「何者かとは誰の事だ」
「知りませんよ。でもジュエス以外の誰かです」
「知らぬのにジュエスだけは除外出来ると言うのか。大した論法だな」
「兄上の論だって根拠は薄いでしょう! そんな得たいの知れない書簡だけが兄上の言う"証拠"ではないですか」
憎々しげにサーラは言い捨てる。そして、ランバルトの隣に居たフレオンに目を向ける。
「フレオン公。貴方はどう思われるかしら? 事件の場にいたのは、後は貴方だけよ」
弑逆未遂という大事件を前にしてもフレオンは相変わらずの望洋とした表情をしていた。その変わりなさが今のジュエスには不気味であった。
――サーラは王都包囲の後からフレオンに気を遣う様に、いや恐れるようになった。同時に奴の力量を高く評価する様にもなった。妙な事だ。まあ、フレオンが大した奴なのは僕も認める処ではあるが……――
「そうですな、ジュエス殿程の人物の策謀としては些か稚拙ですな。もしジュエス殿が本当に暗殺を企むとするなら、もっと確実にもっと緻密に計画を立てるでしょう」
フレオンは顎に手を置き、平然とした態度で言った。これはフレオンの謀略家としての、ある意味での職人としての意見だろう。
「反乱者の生き残りかメガリスの差し金あたりが妥当な線とは思います。特にメガリスとは避けられぬ戦いが待っておりますからな。先手を打たれたとしても不思議ではありません」
――そう、理性的に考えればその辺りしかない。だが何か違和感もある。逃げ落ちた反乱者達に今更策謀を弄する余裕があるか? ましてや裏切り者のテオバリドを使ってまで、だ。メガリスが黒幕だと言うのも、"あの"セファロスが戦争ではなく策略で決しようとするなどもっと解せない。セファロスが直接乗り込んで来たとかなら理解は出来るが――
陰謀の多くの部分がちぐはぐで、計画的な統一性を欠いているように感じられる。
例えば、本物と見紛う印章付きの文書の偽造も相当な労力が必要だ。それだけ準備に力を割いて置いて、肝心の襲撃があの体たらくである。普通計画を練るなら、寧ろ襲撃自体の方にも多く注力するのではないか。
王暗殺という大逆を図るにしては下手すぎるのだ。
単に計画者が知恵無しであったと断じてしまえばそれで終わりではあるのだろうが、そうなると侵入までの滞りなさがそぐわないとジュエスは思った。
「……ふん」
「加えて申し上げれば、裏切るとしても時機がよろしくない。事を起こすならば先のブリアンの乱の際にすべきでした。もし今起こすと言うならば、私には図り知れぬ考えか、今迄は無かった起こすべき理由が出来た事になりますな。ああ、勿論仮定の話だぞ、ジュエス殿」
「分かっている」
ジュエスは苛つきを抑えつつ答えた。
「何か心当たりなど在りましょうや、陛下?」
フレオンは少し演技掛かった言い方をした。フレオンには珍しい事だ。
――心当たりならあるさ。サーラを危険に晒し、閉じ込めた。忘れるものか。だが、それとこれとは別問題だ――
先の王都包囲でのサーラとジュラへの仕打ちを思い出すとランバルトを睨み付けたくなるが、だからと言って殺害までは考えない。それで戦争を誘引し再び妻子を危険に晒しては意味がないからだ。
問われたランバルトは瞳の冷たさを一層深めた。
「……サーラの件についてなら、あれは保護の為に行ったのだ。本人の承諾の上だ。そうだろう、サーラ」
「……ええ」
「その件についてはもう結構です。と言うより論点が変わっていますよ、ランバルト陛下。今は私が無実であると言う話をしている筈です。何故もう動機の話になっているのです。兎も角、私は陛下の御身に害を及ぼす事などしておりません」
「そうです、兄上」
「……」
ジュエスとしてはこれ以上言うべき事はなかった。憤懣やる方ないサーラは憮然とした表情をしている。
ランバルトは暫し視線を落としていたが、直ぐに臣下達に目を向け直した。
「ジュエス、サーラ、お前達は下がれ。フレオンは残れ。話がある。メガリス戦の件もな」
「御意のままに、陛下」
――フレオンはランバルトに随分と影響力を持っている。あの独裁者にあそこまで取り入れるとは、本当に大した奴だな、全く。僕も含めてだが、誰もが武力で対抗しようとして危うい状態になっているのを見ると、案外フレオンのやり方が正解なのかもしれないな――
ジュエスとサーラは一礼して部屋から下がった。扉から出ていく時、フレオンが何事かランバルトに耳打ちしているのが見えた。
――フレオンは僕の無実だとは考えているようだ。謀略家としての意見か宰相として国乱を避けようとしてるのかは分からないが、少なくとも滅多な事や讒言の類いは言わないだろう――
ジュエスは心中に小波立つのを自覚した。
――何だ今の感覚は。まさか僕はフレオンに期待しているのか? いや、そんな訳がない。それこそ馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない………奴を信用するなどあってはならない事だ………――
だが一度芽生えた感覚を振るい捨てるのは容易な事ではなかった。
◆ ◆ ◆
勿論ジュエスは否定した。彼の妻にして王妹サーラも夫を強く擁護し、他にも多くの者がジュエスの潔白を訴えた。
だが、これらの事態が示すようなジュエスへの支持率の高さそれ自体がランバルトには危機感を与える事になっていた。王権を揺るがしかねない対抗者であるとの何よりもの証明であるからだ。
結局は宰相フレオンの取り成しやこれからの遠征等にプロキオン家の力がまだ必要だとの判断もあり、ランバルトはジュエスへの疑惑を取り下げ、襲撃はメガリス人の手先となったテオバリドの単独行動であると決定した。
しかし、確実にランバルトとジュエスの間の対立と疑念の溝は深まっており、両者の不和は転がり落ちる雪玉の様に増大していっていた。
◇ ◇
ランバルトはメガリス王国への侵攻を決定した。自身への暗殺未遂の報復、未だ敵の手中にあるフェルリア南部の奪還を大義名分に掲げ、自ら軍を率いての親征を宣した。
事情を知らぬ者には満を持しての出陣と思われるだろうが、メガリス攻めの決定はランバルトの近しい者はまるで無力感や劣等感を払拭するかのような焦りを感じとっていた。
◇ ◇
セファロス即位後もメガリスでは一向に戦火が遠退く様子は無かった。ディリオン王国にとっては攻め込まれる可能性が減り有り難いことではあったが、ペラールなど西部を中心に前王子サロネンス派が依然として反セファロスの勢力を保ち、南方部族やルガ人など周囲の蛮族もメガリスの混乱に乗じて襲撃を繰り返していた。
スクルニーンでも大勝利を収めたセファロスである。彼が本気で平定を目指せばメガリス王国の再統一など赤子の手を捻るようなものであろう。だが彼は積極的に動かなかった。
ディリオン王国も攻めず、サロネンス派への攻撃も基本的には境界の諸氏族の行動に任せていた。サロネンス派攻撃も近隣の蛮族平定も、出陣自体こそしても敵を撃破すると直ぐに引っ込んでしまうのだ。それらの動きはまるで何かを待っているかのようで、戦いも"暇潰し"であるかのように感じられていた。
唯一積極的に取り組んだのは"血の巡業"であった。各地への遠征や領内の反乱軍殲滅を利用して地獄の調練を繰り返した。"赤服"らもこの宴に加わり、新たな狂人を幾人も作り上げていった。ある面ではメガリス人には戦争よりも恐ろしかったかもしれない。と言うのも今度は女も巡業に取り込まれ、貴族も平民も奴隷も目を付けられたが最後、容赦なく引きずり込まれたからであった。
再びの"血の巡業"で生み出された或いはより鋭く調練された兵士は"踊手"との呼び名を与えられた。文字通り死と血を撒き舞うのだ。重装軽歩兵とでも言うべき"赤服"とは異なり、殆どはメガリス式に近い軽装剣士として編制されていた。数は一万人程もおり、皆その目は爛々とした狂気の徒達であった。
王となったセファロスだが内政には全く関与しなかった。税の徴収も行政整備も裁判も一切に興味を抱かなかった。代わりに王国の運営を差配したのはセファロスの信頼厚い――少なくとも周囲にはそう認識されている――マクーン首長オルファンとラトリア人のガビニウスであった。オルファンは持ち前の思慮深さを発揮して滞りない運営に尽力し、ガビニウスはラトリアの人脈を用いて多くの行政官を推挙した。逆らえばセファロスが討伐に赴くので、反抗は即ち死を意味した。結果として豪族連合体であったメガリス王国はより集権的な国家への第一歩を踏み出すこととなった。
その様な状況の中、遂にディリオン王国がメガリスへの攻撃を決定した。これあるを予期していないメガリス人など存在はしない。誰よりもセファロスが予期し待ち望んでいた。
◆ ◆ ◆
【新暦674年1月 都ギデオン 首長オルファン】
湖畔の都ギデオン。街は至る所に水路や運河が走り、人や物資の往来を支える血管として機能している。気温は温暖で、街が霧に包まれる事も稀でなく、この時の風景は全く優美である。
そしてメガリス王国の中心地にして、王の御所である。とは言え、豪族の連合体に過ぎなかったメガリスでは王の都には他国のそれ程には高い価値は無かった。
だが、昔日のセファロスの簒奪とそれに続く新体制は皮肉にもメガリス王の力を飛躍的に向上させ、文字通りのメガリス"王国"へと変貌し、同時に都としてのギデオンの価値も上昇していった。
――セファロス陛下の二律背反な性質を正しく表していると言えよう。王としては失格かもしれないが、国を発展させる契機となったのは彼だ――
オルファンは宮廷を足早に歩きつつ思った。
マクーン首長オルファンは新王セファロスの即位以前からの支持者かつお気に入りとして知られ、セファロスの登局と共にその地位を確固たるものとしていた。
それだけでなく、セファロス王の全面的な委任に依って事実上の国家運営者として君臨しさえするようになった。オルファンが積極的に望んだ立場では無いが、セファロスへの忠義だけでなく人並みの野心や名誉心もあり、決して悪くは感じていなかった。
政敵にはオルファンの地位を妬む者も少なくないが、現状ではオルファンへの攻撃はセファロスへの抵抗と同義に近く、誰も文句は言わなかった。後ろ楯としてのセファロスは正しく神の如くであった。
オルファンにはメガリス王国を運営し、国家として進化させるだけの十分な力量と思慮深さがあった。セファロスがそれを見抜いていたかは不明だが、この点に関しては多くの人間にとって幸いであった。
そして更なる幸運として同志もいた。
――味方の存在は有り難いことこの上ない――
オルファンの前方に同じく足早に歩く人影が見えた。オルファンより忙しなさげで、ひょろと痩せた風体はどうみても戦士のそれではなく、寧ろ学者の様だった。
後ろにいるオルファンに気付いた彼―――ラトリア人のガビニウスは敵意の無い笑みを見せた。
「これは、オルファン様」
「ガビニウス殿。私に"様"という敬称など不要だ。君も私も地位は変わらないのだから」
「しかし、私は唯の陛下の懇意の外国人に過ぎませんから……あまり立場を鼻にかけていると思われるのは危険なのです。これも保身の一つなのですよ」
そう言ってガビニウスは苦笑う。
実のところオルファンはガビニウスの事は嫌いではなかった。ガビニウスは己の事を臆病な小心者だと話しており、回りの評価も"軟弱なラトリア野郎"に過ぎす、オルファンの評価も概ねその枠から外れはしない。
だが、オルファンはガビニウスに他とは違った感覚を抱いていた。臆病者と自認しながらも軍神セファロスと彼の作る戦場に付き従うその姿勢――狂性とさえ言えるかもしれない――に、セファロスに抱いたのと同じ"ほっとけなさ"を感じていた。
――全く奇妙な思い入れが出来たものだ。人生どうなるかの予想など誰にもつかんな――
ややあって二人は宮殿の奥、セファロスの居室へと到着した。セファロスは滅多に玉座の広間には居らず、執務室や評議場にも姿は表さない。だが宮殿の奥に引きこもっているのかと言えばその様なことは決してなく、護衛の一人も伴わずに宮殿はおろか都中を彷徨いていた。居室に関しても水辺の風当たりの良い小部屋を好み、宮殿内ならば多くの時間をその部屋で過ごしている。
その様な狙いたい放題の状況なので即位以降もセファロスは頻繁に暗殺者の襲撃を受けているらしい。らしい、と言うのも、何かあってもセファロスが助けを求めることなど無く、時折何者かの首を――おそらく侵入者か暗殺者の――持っている姿を目撃されて漸く事件があったのだと皆が認識するからだ。セファロスとしては襲撃が絶えない事を好ましく思っているようで、意外にも上機嫌が続いていた。
――敵意の刃を向けられて心底喜ぶ人間などセファロス陛下位なものだ。あの御方は真に神々の領域に住まわれていると思わざるを得ない――
扉は此方から手を置くまでも無く開いている。部屋の中は風通しが良く心地好い。雑多で統一感の無い家具の数々は変わりない。窓辺に置かれた寝台にセファロスは寝そべっていた。
風に靡かれる黒髪はいっそ流麗で、敵味方関わらず数多の命を戦の放り込む事を望む者であるとは、見ただけでは到底図れない。細く引き締まった体は南方風のゆったりとした薄絹の服に包まれ、何も知らず見れば遊女とさえも思うだろう。
――陛下が"頭"を抱えていなくて良かった――
オルファンが最初に思ったのその事だった。切り落とされた首を見るのは例え下手人のそれであっても決していい気分がするものではない。
「やあ、諸君。遅かったね」
セファロスは二人に満面の笑みを見せる。
セファロスから呼び出されたのはオルファンの経験では三度だけで、その何れもが戦の前触れだった。今回も同じであることは言うまでもない。
「いやあ、全くこの日を随分と待ったものだ。思わず我慢出来ずに手を出しそうになったよ」
セファロスは実に愉しげに言った。これ程にセファロスの心を盛り上げせしめるのは何か心当たりなど最早語るに手間を要しない。
「ディリオン王の攻撃は直ぐにでも行われるだろう。過程は兎も角として、決断してから手をこまねく様な奴ではないからね」
ディリオン王ランバルトのメガリス親征が宣されるや否や、セファロスは大戦の到来を狂喜し、腹心の部下たるオルファンとガビニウスを呼び出したのだ。他の者達の慌てぶりも尻目に、その様はまるで待ち望んだ贈り物が届いた少年の如くであった。召集も軍議や評議と言うよりも、己の喜びを兎に角誰かに伝えたいと言った風であった。
――ディリオン王国も渾身の軍勢を叩き付けようとしているだろうし、対する我がメガリスもどれ程の打撃を受けるか想像もつかん。だが、それでさえも、セファロス陛下には興のそそる出来事の一つに過ぎない。何と雄大で、何と獰猛で、そして何と畏ろしいことか。我ら只の人子には到底至れぬ――
「連中の軍隊は情報によれば大した強兵に鍛え上げられている。今まで以上の練度だそうだ。中核の精鋭だけで四万、総勢では二十万を超えると。サロネンス共もディリオン王と同盟を組んで私を攻めてくるとさ! 楽しくなってきたな!」
自分から呼び出しておきながら、オルファンらの言葉を聴く素振りすら見せず恍惚とした表情でひたすらに想いを語る。
こと戦争に関する事象に於いてセファロスの情報力はそこなしであった。一体どの様にして情報をえているのか全く不明だが正確で多くの情報を獲得してくるのだ。自ら敵国へ侵入し探っているという噂すら流れているが有り得ないと一蹴出来ないところがセファロスの畏怖すべき点の一つである。
「さて、という訳で私はディリオン軍と戦ってくる。書生くんも」
「え? じ、自分もですか?」
――常に一方的に告げるのがセファロス流だ。神の信託とはそう言うものだろう?――
ガビニウスは突然の命令に狼狽している。オルファンもガビニウスもお気に入りの玩具の一つに過ぎない。命令には断るという選択は用意されていない。それは誰よりも自身がよく分かっている。
「オ、オルファン様。本当に自分も戦場に行かねばならないのですか? ま、また?」
「こういう時に陛下は嘘は付かないだろう。それに陛下直々の御指名だぞ。名誉な事ではないか」
ガビニウスは横にいるオルファンに向く。
――セファロス陛下と共にいた方が少なくとも敗北とは無縁だろう。まあ命の危険としてはより近いかもしれんが……――
「そ、そんな。私は戦士ではないのに………」
そう言いながらもガビニウスどこか嬉しげだ。実際、ガビニウスの気持ちもオルファンには理解出来た。
――彼も私も、もう狂っているのだ。神の領域は人間には理解できない。魅いられて立ち入ったら最後、元の世界には戻れない――
「ははは、盛り上がってきたな書生くん! それと他の事は任せるよ、オルファン君。上手い事やってくれたまえ」
「は、御意のままに。陛下」
オルファンは一呼吸も置かずに受け入れた。あっさりと、何の戸惑いもなく全権を委任する。細々とした下界の出来事などは流血の祭事と奉納に比べれば何の価値も無い。
正しくセファロスだ。
――尤も、後悔はしていないがね――
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