『玉座の主』
新暦667年7月、ランバルトは戦争に勝った。敗亡の危難を潜り抜け道に立ちはだかる敵を打ち倒した彼の前にはやらねばならぬ事、殺れるようになった事、そしてやりたい事が幾らでもあった。時間はどれ程あっても十分ではなく、直ぐにでも取り掛かるべきだった。
王都へ帰還したランバルトが真っ先に行ったのは捕らえたブリアンの処刑であった。
◆ ◆ ◆
【新暦667年7月 王都ユニオン "公"ジュエス】
――まるで祭りだな――
大市場の一画。今日ここには王都の全住民が集まっているのかと言う程に人々が詰め寄せている。彼らの求めはある意味では祭りや見世物の類いとも言える。集う民衆の中央にあるのは処刑場であった。
臨時の処刑場は木造で、地面より一段高く作られている。段上には王国を代表する貴人の面々が並んでいた。
ジュエスもその中の一人だ。妻のサーラはいない。出産したばかりであるし、ジュエスはこれからの場面は見せたくはなかった。
「ええい、放せ! 私は王だ! 王だぞ!」
男が暴れながら衛兵に処刑場の段を引き摺られていく。ブリアンだ。
ブリアンは粗末な短衣を着せられ、髭の手入れもされていない。至る所に血や傷痕が付いているが、本人が暴れて付いたのか、乱暴に扱われて付いたのかは分からない。
段上の一人である新たな支配者ランバルトは醜態を冷ややかに眺めていた。
――ブリアンに同情などしないが、ランバルトの態度も大したものだな。ランバルトこそが事の張本人であると言うのに――
ディリオン王国に於いて貴人の処刑は宮殿地区内で自裁と言うのが常であった。先の僣王リメリオさえも処刑は自裁という形式を取っていた。しかし、ランバルトはブリアンの処刑を常通りには命じなかった。
大市場に引き出し民衆の前で斬首すると決めたのだ。これは平民の重犯罪者に対する処刑方法であり、決して王族へのそれではない。
何の事はない、苦しめられた意趣返しだ。
ブリアンを王族の様な高貴な存在とは認めない、先の戦争も王位継承争いなどではなく不遜な反逆である、との侮辱であり、一方、矮小化して言い募る事で、苦戦を強いられたという屈辱感をやわらげようとする自己防衛反応もあったのだろう。
「放せ! 放さんか!」
ブリアンは無理矢理に跪かされ、頭を垂れた状態で固定された。哀れな弟の姿をランバルトの隣に立つ女王ミーリアが何とも言い難い目で見つめていた。ミーリアは時にジュエスの方に視線を移すことがあった。
――そんな目で見られても困るな。真犯人は貴女の横にいる男ですよ。止めなかった事が罪だと言うのなら、この場の全ての者が、そう貴女自身を含めて罪人ですよ――
だがジュエスの注意はミーリアでも死へと向かうブリアンでもなく、ランバルトに注がれている。
女王の隣にただ一人立つランバルト。そして彼は今正に王家の嫡男を処刑しようとしている。その意味を理解出来ない者が一体どこにいると言うのだろうか?
ブリアンが固定されきるとランバルトは前へ出た。その瞳には炎が宿っている。
「この者、ロラン家のブリアンは王位を僣称し玉座に刃を向け、王土の平和と安寧を妨げ戦乱を撒き散らした不遜なる反逆者である。私、宰相、総司令官、メールの"公"、アルサ家のランバルトは栄光ある女王ミーリアの御名に於いてを彼の罪人をここに処断するものである」
そう言いランバルトは腰に佩いた剣を引き抜いた。この日の為にか刃は丹念に良く研がれ、陽光を反射して獰猛な輝きを放つ。自ら刑を執行するつもりなのだ。
「この裏切り者どもめ! 私は正統な王だ!」
哀れなブリアンは頭を垂れて固定された状態でも罵り叫んでいる。その激しさは声も枯れんばかりで、魂を込めて叫べば神々が願いを聞き届け救済をもたらしてくれるとでも思っているかのようだ。これ程無駄な行為もないが最早彼に出来ることなど他には何もない。
ランバルトは瞳に炎を湛える一方で冷然とした表情で剣を振り上げた。最期の時を目前に観衆達も息を飲む。ただブリアンだけが叫ぶ。
「絶対に許さんぞ! 例え首だけになろうと貴様の喉笛を噛み千切ってやる! 必ずこの報いは……」
言い切る前にランバルトは剣を振り下ろした。良く研がれた刃はまるで水を通り抜けるかのようにあっさりと反対側まで達した。
首を撥ね飛ばされたブリアンの体は力無くぐったりと倒れ伏した。
「ああ……」
弟の首が飛ぶのを直視出来なかったのかミーリアは目を背け、諦めの声を漏らした。
処刑の瞬間には詰め寄せる民衆も喧騒を静め、静寂が支配する。
衛兵――親衛隊兵士だ――が撥ね飛ばされたブリアンの首を持ち上げる。鮮血を滴らせた首は今にも叫びだしそうな怨みの籠った形相だ。だが恐ろしさは僅かも感じない。死人の首になど一体何が出来ると言うのだ。
首が引き上げられ民衆の眼前に晒されると、今度は歓声が一面を満たした。歓声の大きさは地を揺らしまるで地震の様だ。
――誰が何の為に誰によって死に至ったのか、彼らは本当に理解しているのだろうか。全く、民とは大した連中だよ――
民衆の態度にはさしものジュエスもそう思わざるを得なかった。民衆は王都の戦いであれだけ流血を見たというのに尚、血を求めているのだ。いや、自分たちではない他人の血が流れているから喜んでいるのだ。そして、流れる血が高貴あるがために一層の喜びを見せている。その背景など気にはしない。
民衆はいたぶられるだけの哀れな存在だと言う奴も世にはいるが、連中はそんな甘い存在ではない。愚かだとしても、ずっと強かだ。
歓声が響く中、ランバルトは固い表情にやや満足げな色彩を加え、剣に付いた血を拭っていた。
血に塗れた剣。王であろうと主君であろうと、強者であろうと弱者であろうと、何者もその血の元にならないという保証はない。
ランバルトの世界には人は二つの種類しかいない。首を刎ねる側と刎ねられる側だ。そして刎ねる側にいるのはランバルト唯一人だけだ。他は敵も味方も刎ねられる側の存在だ。
これが、これこそがランバルトの治世なのだ。
分かっていた。そう、分かっていた筈なのに。
初めて会った時から彼はそういう人間だと分かっていた。
――僕は、自分だけは大丈夫だと思っていた。ランバルトと同じ側にいるのだと。しかし例えサーラであってもランバルトは勘案しないだろう。血を分けた兄弟だろうと関係ない――
だがそんなものは幻想に過ぎなかった。誰もランバルトと同じ側に立つことなどない。
決して、無い。
ジュエス自身もランバルトが流させる血に熱狂していた愚かな民衆の一人に過ぎなかったということだ。
――民衆と同じか……ならもっと強かになるだけのこと――
ジュエスはずっとランバルトを見つめていたが、不意にランバルトもジュエスの方を見た。手にはまだ剣が握られていて、瞳は凍る様に冷たい。
――だが僕は愚かなままでは終わらないぞ――
◆ ◆ ◆
ブリアンは敗れた王位継承者としてではなく、独りの犯罪者として処刑された。反乱など大層なものではないと言う意趣返しだ。
ブリアンの処刑は内戦の勝利宣言であり、同時に彼の野望の明言にも等しかった。野望とは云うまでも無く、ディリオンの玉座と王冠の主となる事である。
参加者の本心はどうあれ、ブリアンの乱はアルサ王朝開闢に対するロラン王朝としての最後の抵抗であった。最早ランバルトの登極を防ごうとするものは誰もいない。
犯罪者として処刑されたブリアンとは対照的に、太后ファリナは宮殿に軟禁されこそすれ一切の罪を問われる事無く、太后や王族の身分を剥奪されることも無かった。
これは勿論ランバルトが慈悲を掛けたなどと言うことはない。太后ファリナを罪に問えば同時に彼女の子、即ち王位にあるミーリアは悪党の血を引く事になり支配者としての正統性に泥が付く。引いては王位を譲り受ける予定のランバルトにとっても損になり、その事を嫌ったのだ。
ランバルトは即位への準備と平行して、早くも王としての統治も始めていた。ランバルトの登極自体はもう規定の事と言え、元々宰相として国政を一手に担っていたのでこれ迄の継続であるとも言えた。
この時期ランバルトが着手した案件が"ブリアンの乱"での論功行賞である。これは政権の骨格も変えかねず、即位まで待つ余裕が無かった。
基本的には功績者には領地加増・昇格、敵対者には領地財産没収で報われた。問題は功績者の取り扱いである。
功績者の筆頭と言えば、リンガル公ジュエスとコーア公フレオンである。彼らはランバルトの窮地を救い、内乱鎮圧に大功があった。
だがここで波乱が起きる。褒美が決まる前に、フレオンはコーア公位と領地の返上を申し立てたのだ。代わりに空白地となった元ホラント家領のモロルを賜りたいとフレオンは求めた。王国最大の有力者の一人が功績を上げたにも関わらず自ら領土と地位を返上しようとするなど騒動は引き起こさない訳が無かった。
慌てたのは寧ろ他の功績者達である。フレオン程の者にさえ録々褒美が無いならばフレオンよりも小身の自分達にも与えられる事は無くなると考えたのだ。そして彼らは土地や位が実質減るのならばせめてフレオンを上位の要職、即ちランバルトの即位に伴って空席となる"宰相"に就けるよう新君主に訴えた。
ランバルトとしては悩み所だった。モロルを与えるのは問題はなかったし、公がまた一人消えコーア地方が直接統治下に無血で入るというのだからフレオンの要望自体は受け入れるに否やは無かった。"宰相"の就任となると即決は出来なかった。親政と言う名の独裁を望んでいたランバルトは宰相職も空席のまま留め置くつもりだった。
しかし結局はフレオンを宰相として取り立てる事を決めた。確かに幾ら何でも無視しては功績と恩賞の均衡が取れておらず、宰相となってもモロル領主程度の力しかないのだから王に敵対は出来ないだろうと判断したのだ。
当のフレオンは唯々主君の命令を受けた。
フレオンの処遇は決まったがもう一人の大物、ジュエスの恩賞に関してまた波乱が巻き起こった。
ジュエスの勲功は間違いなく第一位であった。何と言ってもミラッツォで大勝を遂げ、絶体絶命の王都を救ったのだ。この功績を如何に無視しうると言うのだろうか。ランバルトがどれ程警戒し憎んでいても、ジュエスの功にはどうあっても報いねばならず、統治者たる国王になるのならば尚更だった。
だがジュエスはランバルトからの下賜を受ける前に要望を伝えた。
彼の要望はランバルトの戴冠と共に空位となるメール公位をサーラに継がせろと言うものだった。サーラは言うまでもなくジュエスの妻であり、夫妻の関係を鑑みれば、それは事実上メール地方の割譲要求であった。
メール地方は未開拓の辺境ではあっても地味は豊かで、鉱物資源にも恵まれている。これ迄ランバルトを支えてきた有望な後背地である。ジュエスは今後の勢力維持や政争の為にもこの地を欲したのだった。
ランバルトは難局を示し渋った。如何に反乱続きと言えどメールのもたらす地力は確かであり、それを譲り渡すのは危険と言えた。だが結局は状況の圧力と正当性には抗えず受け入れざるを得なかった。
しかしランバルトも只では転ばない。代わりにプロキオン家の保有するハルト地方の土地を放棄させたのだった。ハルトの土地もまた豊かで経済力に富むが、何よりも王都の近くからジュエスの影響力を排除しようとしていた。
ジュエスとしても遠く離れたハルト地方の土地を管理するよりも隣接するメール地方をこそ手に入れ一円的支配地を拡充するべきと判断し、ランバルトの命を受け入れた。
大物二人の波瀾に満ちた論功行賞が終われば今度は下位者達の番である。多くの者が新たに土地や地位を得たが、殊にランバルトに与し続けたアルサ家臣達の伸長が著しかった。
忠実な家臣で居続けたテレック、コロッリオ、ハルマート、アールバルは各地方に大幅な加増か決定され、辺境豪族から一躍大領主へと取り立てられる事になった。またコロッリオ・テレックは離反したオーレン・テオバリドに代わりそれぞれシュタイン家・ザーレディン家の当主となるを許され、一門の改易も防ぐ事が出来た。
また大きな戦功を上げたヒュノーは二百人の家臣を養えるだけの土地を与えられ、落ちぶれた投降者を脱して有力者への復権を果たした。
何れもディリオン王国に形作られる新たな枠組みの一部でしかないが、今後これらの変動は加速し続け、最早過去へ立ち戻りはしないだろう事は明白であった。
新暦668年2月、アルサ家のランバルトは遂に長年の野心を叶える。即ちディリオン王への即位である。厳密に言えば女王ミーリアの伴侶となり彼女の共同統治者となるのだが、王冠を戴き王国の頂点に立つ事には変わりは無い。
最早止める者は誰もいない。覇権への道はランバルトが力と策謀の限りを尽くして押し開いてきたのだ。思う処のある者がいても、流血の恐怖で押し黙っているか、同じく策謀を胸の内に秘めているかであろう。
そして王家ロラン家の血を引かない王はランバルトを除けば初代王ディリオンだけ――伝説や主張を含めばこの限りではないが――である。かつて婚姻によってディリオンがロラン家の一員となり王朝を開いた時と重ねて、誰しもが新たな世界の開闢を予感せずにはいられなかった。ランバルトの婚儀と戴冠は未だ戦火燃え立つ最中に行われた事は征服者としての彼の治世を象徴出来事と言えた。
戴冠式と婚儀は王土の支配者に相応しく盛大かつ豪奢に執り行われ、数々の勝利の凱旋をも兼ねていたため歴代諸王でも屈指の規模で開かれた。ロラン家の象徴金蓮華、アルサ家の象徴銀十字に因んで、あらゆる箇所に金銀が散りばめられていた。
無論、費用も莫大な額に昇り、総額10万金貨が費やされたと推定されているが、実際にはどれ程の金貨銀貨が注ぎ込まれたかは定かではない。
儀式を豪華絢爛なものとすることでランバルトは自らの権勢比類無いことを世に示し、同時に正当性への疑問を覆い尽くそうとしたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
【新暦668年2月 太陽神の大神殿 女王ミーリア】
戴冠の儀式。
王土の頂点を定める祭事。
王国の支配者の為だけの式典。
そして選ばれし者は首の痛くなる重い冠を被る権利と座り心地の悪い玉座に座る資格を手に入れる。
――下らない――
列柱の回廊に囲まれた主神太陽神の大神殿は詰めかける人の多さにも関わらずその荘厳さを満たさせている。
祭壇の前では神官長がまた祈りの言葉を唱えながら王冠を清めている。以前にミーリアも出会った光景であるが、今度は立場が違う。
前はミーリアは純白の長外衣を着て祭壇の前に跪いていた。だが今は彼女は神官長と共に祭壇の前に立ち、対して跪いているのは別の人物だ。
――何もかも下らない。多くの血を流し、数え切れないほどの人を踏みにじって得る価値がこんなものにあるというの? 私には全く理解出来ないけれど、梟雄共、特に"彼"には他の何にも代え難い価値があるのでしょう――
跪く"彼"、アルサ家の――――いや、"ロラン王"家のランバルトは神妙な面持ちで黙り祈りを聞いている。表情が見える事からも分かるがランバルトは跪いていこそいるが決して頭は垂れていない。神聖な祭儀を利用してはいても服従している訳ではないのだ。
面には表してはいないが王位を得る事に対して全身から燃え立つような満足さが放たれている。
儀式は既に一刻近く行れているが、跪いているランバルトが膝の痛みを覚えていているようには見えない。
――これからは全てが変わってしまう。王国も、王家も、王も。この私も――
戴冠の儀を受ける権利がある、それは即ちランバルトは女王の配偶者となったことを意味している。ミーリアはランバルトの妻になったのだ。既に婚儀の方は終えていたが、婚儀よりもいざランバルトの戴冠となった時の方が二人の関係が変わった事を強く実感させられた。
そして意外にもジュエスの婚儀を聞かされた時よりも心は重くなかった。"愛する男が他の女のものになる"時の耐え難い心を焼き黒く染まるような暗い感情は湧き上がってこなかった。"愛してもいない男のものになる"方が一層屈辱的だろうと頭では分かっているのに。単に諦めているのか何なのか、自分のことながら分からなかった。
それでも愛するジュエスの事を思うと胸の奥がぎりぎりと痛んだ。
――いえ、私はもう全てが変わってしまった。何もかもが遥か昔の……ああ、ジュエス様……――
ジュエスへと目を向ける。彼は祭壇の方を見てこそいるがミーリアの事は見てはいない。その翡翠色の瞳は黄金の王へと鋭く注がれていた。ランバルトとジュエス、王国最大の有力者の関係悪化は最早公然の秘密であった。
そしてジュエスの隣には今日は"愛と美の女神"妻サーラは侍っていない。病身故の欠席との事だが兄の一世一代の晴れ舞台に現れないなど尋常なことではない。それが夫と兄との争いの影響があるのかは流石に当人達以外には誰にも分らないが、不穏な邪推を巡らせる者は数え切れないほどいた。
「エト・コンシリウム・パシス・グラティオ・デオス」
儀式は終盤に差し掛かる。神官長が清めの水に浸していた王冠を取り出したのだ。黄金の放つ輝きが水滴に反射して一層光を飛ばす。
――黄金の光。それは美しいけれど、強すぎる光は見る目をも潰してしまう――
「アウト・オフィシオルム・プロンプトゥ・エスト・ムリエ?」
「ベネディクティオ・エト・オムネス・ホス、ファトゥム・エスト・エト・マレディクト」
神官長は両手で王冠を恭しく持ちながら問い、ランバルトは淀み一つなくすらすらと答える。間違えない様答えるだけで精一杯だったミーリアとはまるで違う。
今になっても言葉の意味は分からない。ランバルトは分かっているのだろうか。或るいは分からなくともどうでもよいと思っているのだろうか。もしそうならば、その点に関してだけは彼とは考えを同じにしているとミーリアは思った。
神々への聖なる詞だか何だか知らないが、どの神が一体何を助けてくれると言うのだろうか。ミーリアもかつては信心深く、数多の神に祈りを捧げてきた。たがあれ程熱心に神殿へ参拝しても何の恩恵も在りはしなかった。王の声で唱えられたからと言って、効力があるとは露程も思えない。
金蓮華の花や葉を模した装飾や象嵌で彩られた黄金の冠がランバルトの頭に載せられる。如何な因果か彼の金色の髪に良く似合った。
ランバルトは冠が載せられるや否や立ち上がった。余りの速さに前にいる神官がびくりとするのが見えた。
背筋は少しも前に折れず、黄金の重みは寧ろランバルトには喜ばしくさえ感じられているようだ。蒼い瞳には久しく見えなかった諧謔みが浮かんでいる様に見えた。
ランバルトが参列する観衆の方を向き、純白の長外衣が翻る。
新たな王の誕生。
それは期してか期せずしてか、家臣を少なからず熱狂させるものらしい。神官長が叫ぶのを待たずして参列者の誰かが新王を称える言葉を叫び、後を追う様に多くの者が叫んだ。
あの茫洋としたフレオンや得たいの知れない所のあるアレサンドロでさえも声を枯らさんばかりであった。
「新たなる主に永遠の繁栄を!」
「永遠の繁栄を!」
「永遠の繁栄を!」
「永遠の繁栄を!」
歓呼の声は重なり合い巨大な音の塊となって神殿を震わす。
より大きな声で叫べば神にも通じるとでもいうのだろうか。
――ここに何人いるだろうか。百人? 二百人? でも、どれほど人がいたって私はもう独りでしかないの――
「王土の護り手に悠久の平和を!」
「悠久の平和を!」
「悠久の平和を!」
「悠久の平和を!」
かつて自身が冠を戴き歓声を浴びた時は皆がミーリアを見ていた。
家臣も、貴族も、兵士も。
母も。サーラも。ジュエスも。
皆がミーリアに何かを求めていた。憎しみや欲望ばかりで素晴らしい事や有難い事は殆ど無かったが、それでも皆々の心の中には何かしらミーリアの場所があった。
――誰も、誰一人も私の事は見てはいない。私は、誰にも必要ではないのね――
「王陛下に無限の栄光があらん事を!」
「無限の栄光があらん事を!」
「無限の栄光があらん事を!」
「無限の栄光があらん事を!」
――彼以外にとっては――
ランバルトがちらと振り向いた。今、この場でランバルトだけが唯一自分を見ているとミーリアは感じていた。
己の存在の意義を嫌が応にも感じさせられたが、それは決して喜びではない。
――王冠を手に入れた今、私に何を求めているのか、そんな事言うまでも無いわ。婚姻を遂げた王家の人間が果たさねばならない義務はたった一つ――
その事は常に覚悟はしていたが、目前まで迫っていると考えると吐き気がしてきてしまう。
止まない歓声がミーリアの頭までもを揺らす。物事を変えようがないというのはやはり耐え難い程に苦痛であった。
――彼は男で、私は女なのよ――
◇ ◇
【同 王の寝室 ミーリア】
王の寝室は王都の中でも最も由緒正しい場所の一つと言っても過言ではない。ユニオンが王都となる以前からあったとさえも伝えられている。そしてそこで"作られて"きた歴史、流されてきた血や怨嗟の程も並大抵ではない。
ミーリアは今婚儀の後に待つ最初の義務、即ち初夜に向かっていた。
そして既にしてミーリアは男を知っているが公式には今日に至るまで操を立て続けていると言うことになっている。
――こうなる前にあの人に捧げる事が出来たのはせめてもの慰めと言うべきかもしれないわ――
確かにミーリアの体は王の妻として役割を果たすに十分に整えられている。歳こそ二十をずっと過ぎているものの、その肢体の瑞々しさは些かも衰えてはおらず、時の重なりによる円熟した魅力も兼ね備えつつあった。そして見る者によっては、憂いを秘めたその表情に一層魅了されさえもしただろう。
それはミーリア自身も意外だった。きったまだ彼の人に女として求められる事を諦め切れていなかったのだろう。
だが目の前の黄金の王、ミーリアの夫となった男はそんな妻の感傷や事情など一切勘案してはいない様子であった。王国と新たな歴史を前にした今、妻が美しい事などランバルトには些事でしかないのだ。
「子を孕んだ事はあるか?」
ランバルトの発言は極めて不躾であった。妻に対しても失礼であるし、幾ら王と言えど一人の女に対して面と向かって言うの態度ではない。
ミーリアもあまりに直裁的な物言いに怒りや不快を通り越して呆気にとられてしまった。
それでも返答することが出来たのは王女としての教育の賜物か、それとも過酷な運命の副産物たる諦念からであろうか。
「私は今日まで独身でありました。ご存知でしょう」
「私は"事実"を聞いている。あるのか?」
勿論あるわけがない。ジュエスとの逢瀬は有りはしても、妊娠はしない様に慎重に進めてきた。女王と公の私生児など万に一つも洒落にならない。
幾ら事実であっても自身の秘部をはっきりと口に出させられるのは一人の女としても屈辱であることに変わりはない。
「……ありません」
「ふん。まあいいだろう。ではこれを飲め」
そう事も無げに言うとランバルトは懐から小瓶を取り出し、ミーリアに手渡した。小瓶は赤色の得体の知れない薬液で満たされている。
「何なのですか、この瓶は?」
「お前には確実に子を産んでもらわねばならない。その為に必要な物だ」
「それは、まさか……」
ランバルトには実しやかに囁かれるある噂があった。"ランバルト公は種無しで、子を作るために妖術の類いに手を出している"と。その噂を裏付けるように彼は当代の最大の権力者であるが実子がおらず、嫡子だけでなく庶子さえもいなかった。だが所詮は巷に流れる民草の冗談に過ぎないとミーリアも思っていた。
――ただの噂ではなかった――
「飲め」
ランバルトの目は酷く冷えきっている様に感じられた。有無を言わせぬとはこの事であろう。
瓶を持つ手が震える。この薬液も子を孕ませる為の何かなのだろう。ランバルトにとって自分は本当に道具でしかないのだと改めて思い知らされた。
役に立つように作り替えられ、それでも尚役に立たなければ容赦無く切り捨てられるだろう。
――何故こうなってしまったの……何もしてこなかったから? もっと戦うべきだったの? でも――
絶望感に全身を包まれつつ、ミーリアは瓶に口をつけ、薬液を一飲みにした。
味や匂いはしなかったが胃に溜まるような嫌な感触があった。
――運命から逃れる術なんて、一体何処にあるというの?――
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
これ迄ランバルトは独身であったが、これは単に正式な婚姻を結ばず正妻を持っていなかったという意味に過ぎず、男色嗜好があった訳ではない。現に他の名族士族と変わりなく彼も数多の妾や愛人を囲っていた。だが妾達は誰もも歴史上に名を残してはいない。何故なら多くの妾を囲っていたにも関わらずランバルトは彼女らの一人も孕ませる事が無かったからであった。
仮にも大豪族の当主に跡継ぎがいないというのは家門の上では大した危機で、妾の存在か物語る様にランバルトも決して努力を怠らなかった訳ではない。それどころか怪しげな薬や呪いにさえも手を出しているとさえも噂されていた。―――無論、噂を口にした者は即刻処分された。
王朝の主となった今、後継者を成す必要性は尚更増している。加えて、ロラン家の血を引かないランバルトの王位を正当化しているのは比類なき武功とミーリアの夫であるという点にしかない。この上、結局子が成せないとなればランバルトを蹴落とそうと図る者――ランバルト自身は殊に義弟ジュエスにその疑惑を投げ掛けている――が現れないとも限らない。王位を完全に手中に収める為にも"如何なる"手段を講じてでも、ランバルトはミーリアとの間に嫡子を得なければならなかった。




