『梟雄の時代・二』
新暦666年12月、ランバルトは残るブリアン派勢力を駆逐するべく南下した。
クッススでヒュノーらと合流しフィステルス市へ到達し攻撃の準備を進めていたランバルトは予想以上の出来事に遭遇する。何とそこには当のブリアンが取り残されていたのだ。
クッススの敗北で最早ブリアンの事を誰も省みず放置していたのだ。フィステルス市民も扱いに困りどうする訳でもなく置いていた。ブリアンも逃亡なりすれば良いものを、ただ怒り叫び無為に時を過ごしていた。
ランバルトはフィステルス市民に交渉を持ち掛け、代償に寛大な処遇を約束するとブリアンは呆気なくランバルトの手に引き渡される事となった。
ランバルトのフィステルスへの処遇は約束通り寛大なものであった。ランバルトは冷酷無情だが約束は無視しないのだ。
フィステルスを奪還しブリアン"王子"を確保したランバルトは軍勢を率いて直ちに南下、ライトリム地方へ入った。
攻撃の対称となったライトリム地方だが最早抵抗の意思は挫けたと言っても過言では無かった。
クッススで敗北した後、テオバリドは確保できる限りの財貨を持ってここでも単身逃げ出した。既にある者の協力で亡命の手筈を整えていたテオバリドは全て捨てて南のペラールへ亡命した。
ある意味潔いが、仲間の兵士と共に新天地を求めた同胞のレイツとは大違いである。
テオバリドに捨て置かれた軍勢もそれぞれ思い思いに撤退を続けていた。ライトリム諸侯やレグニット勢は領地へ逃げ帰り、ネービアンやトラードらはまだ反乱勢力が力を失っていないフェルリア方面へと足を向けた。
公都サフィウムも早々と開城を申し出た。
重要拠点サフィウムに無血入城を果たしたランバルトは、驚くべき事に兵士に略奪を禁じ市民に手を出させなかった。と言うよりも手を出せない様な事態になった。ランバルトが到着した時、サフィウムの城壁には既にロラン家とプロキオン家の旗印が掲げられていたのだ。
事情をいち早く嗅ぎ付けたジュエスはサフィウムの使者が到着する前に偵察隊を派遣した。ジュエスはそのまま自身の名の下にサフィウムへの接触を命じ、サフィウム勢は名高きジュエス公の言うことならばと門を開いた。
今からになって手を出すのは幾らランバルトでも――そして今の状況だからこそ――難しかった。ランバルトはジュエスの独断専行に内心憤怒の炎を燃え上がらせたが、受け入れざるを得なかった。
ここでランバルトは一旦足を止めた。真冬という季節も理由だったが、ライトリム・レグニット各地に降伏勧告を送り届けたのが第一の理由だった。
効果は抜群だった。ライトリム・レグニット全土から領主自ら降伏に訪れ、忠誠の再宣誓するため我先にと集まった。そこにはガムローやエナンドルの姿さえもあった。
しかし、ランバルトは寛大な処遇までは約束していなかった。またクラウリム平定やサフィウム入城とは異なり、断罪の鎌を振るうのに躊躇する理由もないと言えた。
だが粛清の嵐を吹き荒れさせようとしていたランバルトの前に再び反対者が立ち塞がった。ジュエスが今度は真っ向からランバルトに反対したのだ。
◆ ◆ ◆
【新暦667年1月 サフィウム リンガル公ジュエス】
「もう一度言ってみろ」
「私は反対です」
ランバルトは凍り付くような、それでいて全てを焼き尽くすような"冷たい炎"を瞳に宿らせた。
ジュエスは崩れたくなるのをぐっとこらえ、正面から彼の視線を受け止めた。敵に回るとさしものジュエスも少なからず恐れを感じる。
「私の言葉を分かっておらんな。もう一度言ってみろ」
「分かっていますよ。ですから、反対だと言っているんです」
サフィウムの公邸。かつての公の執務室で二人は向き合っている。他には誰もいない。だが部屋中を満たさんばかりに殺意と熱気が溢れている。
ランバルトは執務卓の向こうに座り、ジュエスは対面する形で立っている。
ランバルトの手元には粗葦紙の書簡の束が広げられていて、直ぐにでも署名出来るよう筆が傍らに置かれている。書簡は処刑命令書、追放・収監指令書、改易や土地剥奪に関するものばかりだ。
全く容赦のない恐怖の独裁。ジュエスはそれを止めに来たのだ。
――残念ながら他に止められるだけの治からを持つものはいない。僕に関係がなければこんな身投げするものか――
ランバルトとの対決は敢えて一対一の状況で行った。彼の自尊から考えれば軍議など他に誰か居るほうが説得そのものは難しくなるだろうからだ。他者の同調を圧力とする方法もあるが限界を超えるまで刺激しかねない可能性のほうが高い。
「貴方こそ分かっていない、ランバルト殿。いや理解していて尚無視しているのでしょうが」
「……」
ランバルトは返答しない。無言の方が言い返されるよりも圧力は強い。
「貴方はまた全ての敵を消し去り、皆殺しにしようとしています。時にはそれもいいでしょうし、確かに殺すべき敵と言うものは存在します」
ジュエスは早期の戦争終結を望んでおり、ランバルトの容赦ない強権政策では敵を作るだけだと考えていた。戦争が続けばその分、自身の大切な家族達に危害が及ぶ可能性が高くなる。もう先の王都包囲の様な危険を妻子に降りかからせる訳にはいかない。その為ならランバルトの対決も辞さない覚悟だった。
「しかし、同時に殺す必要のない敵もいます。それらも含めて一掃した後に何が残りますか、何が生まれますか。忠実な下僕? 騒擾無き平和? いいえ、違います。また新しい敵と戦争ですよ。これは他ならぬ貴方が証明して見せた事だ。この二度の内乱でね」
ランバルトも自覚はしている様で眉をぴくりとひくつかせた。
メール地方の殺戮劇は故郷を憂いた配下のメール人の離反を招き、強権を降り翳して土地を奪い取った結果ハルト諸侯は尽くが寝返った。
ブリアン派の決起などはその内実は反ランバルト闘争であることは誰の目にも明らかだ。
「ではどうしろと言うのだ。反逆し刃を向けた屑どもをただ許せと? 随分と慈悲深いことだな」
「慈悲を掛けろとは言いません。これは統治方法の問題です。貴方のやり方では無意味に敵が増すだけだ」
「ならば増えた敵も殺す。それだけだ」
ランバルトは冷然と言い放つ。だが本心からそう思っていると言うよりも、そう思わなくていけないと言う"揺れ"も感じる。
――全てが消え去った後の荒野に立っていればいいと言うのだろうが、何故自分だけが最後まで立っていられると思うのだ?――
「領地を接収するのでも人質を取るのでも宜しいが、何もかもを血と炎の海に投げ込むのは間違いだ」
ジュエスにはプロキオン家継承の際の経験がある。まだ若いジュエスの継承に多くの貴族が反対し、歯向かってきた。どれ程殺してやりたいと思ったかは言葉に言い表す事も出来ないが、何とか耐え受け入れた。膝下にねじ伏せた後も酷く扱わず、手入れし続けてきた。その結果、かつての謀反人達は消え、代わりに忠実な"犬"が出来上がった。確かに苦労は多いが反乱が後を絶たないよりは遥かによい。
「先が無いと分かった時、人は座して死ぬくらいなら戦って死ぬ事を選びます。そして彼らには戦いでの犠牲など考える必要はもうありません。こんな危険なやり方を続けていたら最後には血と炎に覆い尽くされますよ」
"我々が"とは言わなかった。もし、其のような事態に陥った時はジュエスも血と炎を撒き散らす側に回るだろう。
あくまでも統治論・方法論として語ったのには理由はある。
ランバルトが独裁・強権主義なのは彼の好みもあるだろうが、最大の理由は"歴史を動かすとは支配する事であり、支配するとは全てを決定すると言う事"だとランバルトは思っているからだ。少なくともジュエスは彼との付き合いの中でそう感じていた。
故に、ランバルトは必要性から独裁を選んでいるのであり、他の必要性が現れれば別の手段を選択するだろうと考えたのだ。
暫くの沈黙。
ランバルトは視線をジュエスから外し、窓の外へ向けた。
――視線を逸らすのは後退の証拠。今、優勢だ――
ジュエスは言葉を次いだ。
「まだ続けますか?」
「黙れ」
「黙りません。まだ続けるのですか?」
「黙れ!!」
ランバルトは怒りの表情も露に机に拳を叩き付けて叫んだ。叩き付けた勢いで筆は弾け飛び、インク壺が倒れて中身が溢れ落ちた。
しんと部屋が静まる。ランバルトはジュエスに視線を向けずにいた。戦場に等しい緊張感が満ちている。
――どっちだ? "分かった"、か? それとも"消えろ"、か?――
「もうよい。下がれ」
そう言ってランバルトは手元の処刑命令書を握り潰した。
――勝った――
ジュエスは掌が汗でじっとりと濡れているのを感じた。
◆ ◆ ◆
どの様な話し合いが持たれたかは記録に残ってはいないが結論から言えば、驚くべきことにランバルトが折れたようだった。
ランバルトは避け得ざる処分を除けば流血を避けた。勿論、領地や権限は大幅に減らされたが、それでも今までの容赦ない暴力に比べれば遥かに寛大で穏健な対応であった。
"温情策"の効果は覿面で、ライトリムもレグニットもほぼ全域が再びランバルトらの傘下に加わる事を受け入れた。
しかしランバルトとジュエスの溝は深まり、唯一の同道者から最大の政敵へと互いに立ち位置が変わりつつあった。
そして互いの誤解と偏見、譲れない望みが溝を一層深いものとしていた。
冬が明けた3月、ヒュノー将軍を防衛に置き、ランバルト自身は次の戦場フェルリアへと進軍する事となった。
◇ ◇
フェルリア地方では両軍の戦いが続き、戦争の天秤は一定せず傾きを変えていた。
7月の時点では反乱軍が優勢であった。アンドロス・ケファロニア勢は思うがままに暴れ回り、シェイディン・テュリオイは包囲され、公都ウォルマーも安全とは言いがたい状態だった。
翌月になると王都攻防戦の余波がブリアン派を動揺させ、月末にはミーリア派軍も態勢を立て直し反撃に出た。今度はアールバルも兵を分散させず、シェイディンの解放へ向かったが、ロジャーズら包囲軍や援護に来たドルクロスらアンドロス勢の奮戦で撤退を余儀なくされた。
ミーリア派軍の下にワーレン家のジャンとバレッタ兵3千人が物資と共に援軍に訪れたが睨み合いは変わらなかった。
11月に差し掛かると両軍の動きは鈍った。比較的南方に位置するフェルリアも気温が下がり、軍事行動や食料補給に適さなく成りつつあった。以前ならばそれでも活動可能であったが今の荒れたフェルリアでは行動を阻害するには十分な要素だった。
その様な状況下で興味深い事に食料補給に事欠かない部隊がいた。バレッタ辺境の小領主チェリーナ家の一隊は略奪でも挑発でもなく住民からの提供で補給を続けていた。何故か同行していた"冥神"の神官と名乗るロックという男の説法を聞くと皆、特に貧者であればある程、自身の蓄えを切り崩し飢えの危険を犯してでも支援を行うのだった。彼らの"冥神"への信仰は巷のそれとはやや異なるものであったが、それはまた別の話である。
とはいえそれは稀な一例であり、両陣営共に殆どは戦い以上に物資調達に力を割かざるを得なく、ブリアン派も遂にはシェイディンの包囲陣を解き撤退した。戦いの続きは冬の後に持ち越されることとなった。
12月、ライトリムの残党軍がリカンタの反乱軍陣営に雪崩込み、同時にブリアン捕縛の報ももたらされた。
反乱軍達は今後の対応を協議した。ネービアンやトラードは亡命を望み、ロジャーズは難色を示したが同胞のメール人達に説得され受け入れた。すぐ南のドルクロスにも伝えられ、返答の代わりに逃亡の準備で態度を示した。
ケファロニアのサギュントは領地に篭もり、ネアルコスは何の反応も示さなかった。
1月、亡命者達は部隊を纏め、3千人がリカンタを出立した。亡命先は言うまでもないが、隣国メガリスである。
メガリスは残党の亡命を受け入れていた。ただ、メガリス王セファロスはディリオン領への進軍を固く禁じており、残党達は自力で国境線まで辿り着かねばならなかった。
残党達は南下し、バシレイアを通過した辺りで奇襲を受けた。ウォルマー隊かアンドロス勢が攻撃を掛けてきたのかと考えたがそのどちらでもなかった。
◆ ◆ ◆
【新暦667年1月 フェルリア地方 "神官"ロック】
「我らが救世主、神の化身よ。御覧あれ。直に神敵は討ち滅ぼされましょうぞ!」
槍の突き刺さった幾つもの死体を前にして、そう男は言った。丈高く頑強な体、傷だらけの顔に潰れた鼻、使い込まれた武具。一目見るだけで兵士なのだと分かる。
男の名はネアルコス。戦乱の渦中、フェルリア地方で成り上がった傭兵だ。
「有無。素晴らしきかな、忠実なる冥神の聖戦士よ。邪悪な太陽神の手先をまた始末してくれたな」
言われた相手の方は背丈も高く無く貧相な体つきの男だ。
如何にも農村生まれの平民といった風体だが衣服だけは不釣り合いに良質で、金細工の首飾りや腕輪を身に付けている。見るものが見れば威厳を持たせようと必死な姿に情けなさを覚えるだろう。目の前にいる戦士と比較すると一層際立つ。
不釣り合いな男、ロックは身振りも大袈裟に答えた。
――俺も下らん事言うのが上手くなったな――
「勿体なき御言葉! 我等が救いの神にこの身を捧げることこそ使命にございます!」
ネアルコスは感涙と言うに相応しく体や声を震わせた。その目は澄んでいる。澄みすぎている。"イってしまっている"とも言える。
――馬鹿だな。全くありがたいぜ――
ロックは心の中で嘲った。
◇ ◇
ロックは内乱に乗じてバレッタ地方の一隅で土地と勢力を確保した。旧ヨド党の山賊、チェリーナ家や近隣の小領主、そしてピラ達冥神教徒を駆使して支配圏を少しずつ固め拡大させていた。
そうなってくるとずっと山賊団の頭と言うのも具合が悪く、と言ってチェリーナ家を通して勇士階級に入り込むのも貧者を主体とする冥神教徒達の反感を買う可能性があった。
そこで名乗ったのか"冥神の神官"である。勿論、神殿で仕える正規の――と言うのも妙な表現だが――神官ではないし、神官に求められる知識や祭儀についてすら知らない。教義の類いは回りの信者が勝手に組み上げ、ロックはそれに"救世主"、"神の化身"として適当に言葉を添えているだけだった。結果、ロックの"冥神教"は本来の信仰体型とは掛け離れたものとなっていた。
そして曲がりなりにも形を得た教徒達の布教は更に促進された。対象は主に貧者や流人である。ロックがかつて属していた下層階級の者は想像以上に救いを求めていた。それも破壊的な救済を、だった。今の世を悪徳の世界と断じ、弱者の救済を唄う"新たな冥神教"は彼らと極めて相性が良かったのだ。そして"冥神教"の教えは過激化していった。
ロックは教祖としての権威を保つ為、財を集め着飾り教徒達の制御に勤めた。幾ら辺境の小勢力と言えど現政権否定に等しい教義は危険性も高い。教徒達には救済の部分だけを強調して布教するよう指示し、寄進という形で集めた財貨を賄賂として地方の有力者へ付け届けた。
田舎の平民出身にしてはロックは上手く立ち回り、彼の"神聖なる"勢力を破綻させずに維持させていた。
そうこうしている内にブリアン派の反乱が起き、チェリーナ家にも召集令が来た。流石に拒否する訳にもいかず、チェリーナ家の兵を中心に数十人を送ることとなった。ロックとしては自身が戦争に出るのは御免被るといったところであったが、教徒からの権威を守る為に出陣に加わった。
フェルリア地方では布教活動を続けながら村々を回った。荒れ果てたフェルリアの民衆はバレッタ以上に神々の救済を渇望しており、想像以上に簡単に信徒へと転じた。彼らは自分達も窮乏するなかでも救いのためならと物資や食料を捻りだし、ロック達に差し出していた。
ロックはそんなフェルリア人の信徒達を"利用しやすい、貪られるだけの阿呆"だと思った。
他の部隊が物資不足から動きが鈍っていたのを良いことに制肘される事無く動き回っていたある時、ネアルコスらが現れた。
ロックの兵は古参兵や元山賊、熱意はあるが戦闘経験はない教徒が五十人程、後は精々勇士が何人かいるくらいで、数でも質でも上回るネアルコスら歴戦の傭兵隊には到底太刀打ちなど出来ない。
また逃げ出す羽目になるのか、調子に乗りすぎた、罷めればよかったらなどとロックは焦ったが、ネアルコスはあらゆる予想を裏切って何と跪いたのだ。
ネアルコスは"冥神教"の教えに目が覚めたのだという。傭兵として血を流しつつ付けてきたが真に正しい教えの為に奉仕したいとさえも言った。配下の兵士達も同じ思いの様であった。ロックには彼らの気持ちは全く理解出来なかった。
勿論、"冥神教"の教えは支配と利用の為に作っただの道具である。そんなものを本気に受け取るネアルコス達をロックはとんでもない馬鹿だと思った。ただ、ネアルコスは大領主であり、大きな軍事力も保有する。拒絶する理由は何一つとして無かった。
同時に"神の力"というものを目の当たりにした。そこらの餓鬼の言い訳にも劣るような戯れ言でさえ神の名を冠しさえすれば、これ程多くの者を心の底から跪かせる事が出来るのだ。神の力を得た今のロックは正しく"貪る側"だった。
◇ ◇
そしてロックはネアルコスを配下に収め、落ち延びようとする反乱軍を襲撃したのだった。ネアルコス兵は梃子の様な特殊な道具を使って投槍を遠くまで飛ばし反乱兵を次々に討ち取った。威力も増すようで、反乱兵の盾を撃ち抜いて殺したのも一度や二度ではない。襲撃した反乱軍は抵抗もむなしく敗走していくしかなかった。
ネアルコスは強力な兵とトリッサという利を持つ。バレッタにあるチェリーナ家の領地とは比べ物になら無い。だからこそロックは事あるごとにネアルコスを褒め称えた。
バレッタで入信した連中はネアルコスに嫉妬しているようだが、何だって役に立たない奴隷を優遇して戦士を下に置かねばならんのだ。ネアルコスを優遇した方がずっと意味があるというものだった。
「ネアルコスよ、お前の働きは全く素晴らしい。これからも信仰の為、私の為、"冥神"の為に戦い続けてくれ」
「全ては正しき教え故に御座います、ロック様」
領主から"様"と呼ばれるのがこれ程心地好いとは昔のロックには想像も付かなかった。
――あの頃に戻るくらいなら自殺するな――
ロックは胸に掛かった金細工の飾りを弄る。こんな黄金の装飾品も他者を利用する今の立場があればこそだ。
――この馬鹿共を骨の髄までしゃぶりつくし使い尽くしてやろう。俺の為に死ねるならこいつらも喜ぶだろう――
「……では今一度問おう、ネアルコスよ。神聖にて不可侵、唯一絶対の正しき"冥神"の教え、そして救世主たる私のために死ねるか?」
「是非もなく。他の如何なことにこの身、この魂を捧げられましょうや」
ネアルコスは澄み切った瞳を向けて応えた。死に至る様を無双して恍惚としてさえいるようだ。純粋さも行き過ぎれば狂気に至る。
その答えにロックは満足だった。
――そうさ。俺のために死ねたんだ。ボーマンの野郎も喜ぶべきなんだ!――
◆ ◆ ◆
トリッサの領主ネアルコスは突如神官ロックの語る"冥神"の教えに目覚めた。そこにどの様な決断があったのかは不明であるがただ一つ分かるのは相応の戦力がミーリア派軍に加わったことである。ネアルコスは"正しき行い"の第一歩として逃げ去ろうとする反乱軍を襲撃したのだった。
ウォルマーとバシレイアの部隊も追撃し、少なくない被害の中で反乱軍は漸くメガリス領内へ入った。
冬が明け3月、反乱軍の多くが逃げ去ったフェルリアにランバルトが到着した。ランバルトはシェイディンやウォルマーの部隊と合流しつつ敵軍の放棄した諸拠点を次々と奪い返し、抵抗を続けるサギュントを粉砕して要衝ケファロニアを奪還した。
フェルリア地方には組織的抵抗の出来る勢力は残っておらず、平定用の駐留軍を残してランバルトは王都へ引き返した。
戦争はまだ終わってはいないが、最早戦後の為に行動する時であったのだ。
新暦666年12月、 残された北部方面軍はスレイン・モア・アイセン侵攻を継続していた。
ダロスや降伏したガーランドはスレイン勢の調略を進め、テレックも艦隊を率いてスレイン南岸の制圧に動いた。
しかし艦隊は動きを察知したクィンティリスらアイセン艦隊に阻まれ、撃退されてしまった。そして不運にも撤退の折りに嵐に巻き込まれ、艦隊に大きな被害が発生してしまう。特に"鉤爪"を装備していた船――既に多くの船からは取り外されてはいたが――は転覆しやすく、最終的に戦いと嵐で軍船二十隻が失われた。
一方、メール人のクロコンタスら旧オーレン配下の兵は抗戦を主張し続けたもののスレイン勢の心を覆すことは出来ず、スレイン地方からも撤退を余儀なくされた。
だがアイセン艦隊は活動を続け、クィンティリスはアイセン島対岸の港町ケルシヌムや大西海の要衝トライブス諸島を支配下に置いた。
新暦667年4月、ダロスはクラウリム兵や寝返ったスレイン諸侯軍らの軍勢を率いてスレイン地方へ入った。忽ちに公都ロディは無血開城し、南岸地域も降った為にダロスは更に降伏兵を加え2万人を率いた。
クロコンタスはモア地方へ撤退した。モア地方にはロイスタン家ら有力者がまだ反乱支援を表明しており、各地に兵を集結させていた。モア最大の港町ネダーにはモア兵1万人とクロコンタスら2千、中心都市トレヴィネにはモア兵6千人が駐留していた。
追ってディリオン王国軍はモア地方への侵攻を開始した。
ダロス麾下2万人の兵が西海岸沿いに南下してネダーへ迫り、ボンベア方面からは兵5千人がトレヴィネに向かった。 テレックの艦隊が長らく延期になっていたアイセン島襲撃作戦を実行に移すべく海路から進軍した。
しかし三方からの侵攻する甲斐無く、何れの攻撃も失敗に終わった。ネダー方面ではクロコンタスら反乱メール兵の活躍で撃退され、ボンベアの部隊はトレヴィネまで到達したものの増援に送り込まれていたアイセン兵の勇戦で弾き返された。海軍はクィンティリスらアイセン艦隊の攻撃で寧ろ追い立てられるという全くこれまで通りの敗北が展開された。
これらの敗北でモア戦線の動きは停滞すると思われた時、ランバルトが王都へ帰還したとの報せが伝えられた。 この事は反乱勢力が最早モア・アイセンにのみしかおらず、王軍の余剰戦力が増援として送り込まれる事を意味していた。
間も無く1万人の増援部隊がスレイン地方に到着し、中には武装解除していたメール兵の一部も復帰させて投入されていた。更にヒュノー将軍も陸路からケルシヌム港を制圧し、アイセン島への圧迫を強めた。
そして本格的にトラヴォ艦隊が活動を開始し、70隻の軍船に兵を満載して瞬く間に北トライブス島を奪還した。
流石にクィンティリスは焦りを見せた。やや強引とも思えるが、海上での優勢を確保しようと分散した敵艦隊を狙った。
先ず狙うは相対的に弱体なテレックのストラスト艦隊である。アイセン島襲撃に失敗しモア東岸に逗留しており、クィンティリスは直ちに追跡して攻撃を掛けた。
しかし、テレックは無策で待ってはいなかった。戦局からクィンティリスならば積極的に打って出てくるだろうと予測し、決戦の準備を整えていた。役に立たない"鉤爪"は全て取り外し、船内環境の悪化と引き換えに各船の漕手を増員し、更に近海の入江に軍船の一団を潜ませた。これらの策は本来は戦略的機動性は削がれるのだが、今回の場合はアイセン艦隊の方からこちらの設定した戦場にやって来るのだから不利益は大幅に減少していた。
アイセン艦隊はディリオン艦隊を発見するや果敢に攻撃を仕掛けたが手痛い反撃にあう事となった。これ迄の勝利から驕り高ぶりもあったろう。ディリオン艦隊の望む海域で混戦に突入してしまい、潜んでいた別動隊の襲撃を受けて元々船数では劣るアイセン艦隊である。混戦からの乗船切り込みでは不利は免れず、遂に敗走を余儀無くされた。
テレックは艦隊を引き連れてアイセン島へ接近、トライブス諸島を奪還したトラヴォ艦隊もまたアイセン島へ攻め寄せた。両艦隊はレオンティ近海で合流し、同都市を海路から制圧した。
遂にアイセン島の土を踏ませてしまったクィンティリスは残る船を根刮ぎ掻き集めた。新造船・老朽船、警備用の小型船、武装帆船、敵からの拿捕船も集め、船乗りや陸戦要員もかき集めて乗船させた。数だけなら120隻兵員3万人に達し、故郷の為と高い士気を誇った。
アイセン艦隊は決戦を挑み、トラヴォ・ストラスト艦隊も海上での決着をつけるべくこれに受けて立った。両艦隊はレオンティ沖で会敵した。
ディリオン艦隊は提督テレックが総指揮を執り、総勢170隻のガレー軍船からなった。
左翼にトラヴォ船30隻、中央にテレック直卒のストラスト艦隊100隻、右翼にスコージ家のユースティス率いるトラヴォ船40隻と布陣した。操船技術の高い船団を両翼に、切り込み戦闘に向いた船団を中央に配置するという極めて正統派の布陣である。
アイセン艦隊は総指揮クィンティリス・カエピオの元、120隻の武装船が集結した。緊急動員の為、船は統一されてはおらず様々な種類の船からなった。
前衛に武装帆船20隻、その背後に三十人漕ぎの小型警備船20隻。後衛左翼に新造船・老朽船・拿捕船からなるガレー艦隊30隻、右翼に歴戦のガレー艦隊50隻が布陣しクィンティリスが直接指揮した。
クィンティリスは前衛の帆船に多数の弓兵を配置し、小型船で快速を活かして間から翻弄させると同時に前衛全体を壁とした。アイセン軍船団左翼は直進して敵右翼のトラヴォ艦隊を拘束、その間に精鋭を集めた右翼アイセン艦隊で敵左翼トラヴォ艦隊を撃破し側面から突き崩すという策を採った。成否は右翼艦隊の錬度と速さに懸かっているがアイセン人にはそれだけの自信があり、実際事は作戦通りに進んだ。
機動力は無いが防御力の高い帆船と間を動き回る快速挺の組み合わせは思った以上に効果があり、ディリオン艦隊中央の動きを止めた。アイセンの左翼艦隊は互角の戦いを繰り広げ、右翼艦隊は敵トラヴォ艦隊の包囲に成功した。
だがあと一歩と言うところで運命はアイセン人に微笑まなかった。戦場に突然の強風が吹いた。強風はアイセン艦隊の正面から吹きつけ、反対にディリオン艦隊の追い風となった。
左翼・中央アイセン艦隊は風に煽られ陣を崩し、ディリオン艦隊の救援行動を可能にしてしまった。アイセン精鋭の右翼艦隊は風にも動じなかったが追い風に乗って突撃力を高めたトラヴォ艦隊に戦列を突破され、更にディリオン艦隊中央・右翼隊から増援が駆け付け、遂に敗走へと陥った。
アイセン艦隊は80隻の船舶を失って敗北し、クィンティリスは這う這うの体でクロトン港へ逃げ込んだ。ディリオン艦隊はトバーク海・大西海の制海権を奪取、対岸のレグニット地方からも陸兵を上陸させた。
猛威を振るってきたアイセン艦隊の敗北は両陣営の陸軍にも大きく影響を与えた。ディリオン軍は再度の攻勢の意欲を高め、反乱軍は劣勢に追い込まれたと萎縮した。増援を得た事も重なり、ディリオン軍はネダー、トレヴィネへ再び攻撃を仕掛けた。
クロコンタスはネダー防衛に迎え討つが今度は敗北を喫してしまう。増援に投入された王側のメール兵に行動を抑え込まれ、残るモア兵はダロス隊に撃破されてしまったのだ。反乱軍は敗走し、陸海の防衛戦力を失ったネダーは抵抗虚しく陥落した。他方、トレヴィネ方面でも兵力で優越するディリオン軍に圧され、アイセン人部隊の奮戦で壊滅は防いだもののトレヴィネは包囲される事になった。
ネダー・トレヴィネの敗戦でさしものモア人も心を挫かれ、降伏する者が出始めていた。まだ戦いを続ける者も少なくなかったが、最早個々の抵抗に留まった。
クロコンタスは配下のメール兵や支持者達と共に山岳地帯へ逃れた。モアはまだ未開拓の土地が多く、逃亡するのは難しくなかった。
そしてアイセン人はクィンティリスの元、未だにしぶとく抗戦の意思を見せていた。難渋しながらだが、早くも艦隊再編に着手していた。
全ての剣が置かれた置かれた訳ではなかったが、モア・アイセン方面での戦いも大局は決した。
新暦667年5月、ブリアンの決起と続く戦争が終結しつつある中、ハルト地方でも一つの動きがあった。大局的には影響の無い、些末と言って良いかもしれない。ウッド家の拠点ウラタイアが陥落したのだ。
大規模な攻城戦や壮烈な決戦の末の陥落ではない。包囲に耐えかねた兵士をフレオンが調略し開門させたのだった。パーレルは抵抗したものの程なく捕らえられ、その他のウッド家生き残りと共に捕虜となった。
フレオンは捕らえたパーレルを尋問した。最早ブリアン派との戦いは終ったも同然であり、今更尋問にどれ程の価値があるのかといったとこであったが、フレオンはそう考えていなかった。
◆ ◆ ◆
【新暦667年5月 ウラタイア "公"フレオン】
ウラタイア城郭の地下。囚人房に続く廊下は暗く湿っていて、とても寒い。手元の灯りだけでは明るく照らしきることなど出来ないし、暖の代わりになど到底ならない。
フレオンは上に着こんだ外套を体に巻き付け、足早に廊下の奥の扉に近付いた。
――寒さは囚人の心を砕くためだが、さてさて、彼は扱いやすくなってくれているかな――
フレオンは古臭い木製の扉を鍵を開け、きしんだ音を立てさせ扉を押した。部屋の中も真っ暗だった。フレオンの持ち込んだ灯りが唯一の光だ。
灯りに照らされ部屋の隅に一人蹲っているのが伺えた。寝入っているわけではないが呼吸は緩い。
その男が顔を上げた。両手足は縄で縛られ、顔も服も薄汚れている。突然の灯りに眩しそうにしているが、フレオンを見る瞳は未だ生気を湛えている。
「久しいな。元気かね? パーレル」
「裏切り者と交わす言葉などない」
囚われの男、ウッド家の庶長子パーレルは猛然と言い放った。パーレルは王都での敗北後、拠点ウラタイアに籠って抵抗を続けていた。父パウルスの死と主君ブリアンの捕縛後も降伏を拒否して戦っていたのだが、配下の兵は嫌気が差しており、フレオンの調略にあっさりと懐柔され、先頃ウラタイアは陥落、パーレルは虜囚へと相成ったのだった。
「世間は玉座に逆らった君達のことを裏切り者と呼んでいるぞ」
「我々は正統な王に従ったのだ! 軽薄な反逆者め!」
「別にブリアンが正統と思うのは私は構わんよ」
フレオンは部屋の中に入り扉を締めた。
「それに勘違いしているようだが、私は君達を裏切ってなどいない。最初から騙し利用していただけだ」
「くたばれ! この屑野郎!」
パーレルは激昂してフレオンに飛び掛かろうとするが手足を縛られているので床に倒れ込むだけで終わった。
――怒りは弱さの裏返しに過ぎない。憤怒など恐れるに足らぬ――
「私の様な地方豪族が言えたことではないが、貴人の言葉遣いは忘れん方がいいのではないかな」
「お前のような豚にも劣る屑には不要だ!」
「まあそれならそれでもよいさ。私は気にしない。本題はそんなことでは無いしな」
フレオンは表情を崩さず、パーレルが噛み付けるかどうかの距離まであえて近付いた。限界線挑発することで相手より優位に立つためだ。
「お前と話すことなどない! 真実と誠実さに唾吐く下劣さは死なねば治るまい! 私は死ぬまで真実を供とするぞ!」
「聞く気が無くても聞いて貰うが、まあ君が話に応じないなら、そうだな代わりに従妹君の所へ行くとしようか」
先程まで怒りに歪んでいたパーレルの顔が凍り付く。
――だから恐れるに足らんのだ――
「い、従妹、だと」
「そうだ。まさかあんな稚拙な脱出劇で逃げられると本気で思ったのかね? 義理の従弟も捕らえているぞ」
従妹とは正嫡の子のいないパウルスにとってウッド家の後継者であり、義理の従弟とははその夫で亡きロンドリクに代わりアッシュ家の継いでいた。信義に忠実なパーレルは残った肉親である彼女らを城攻めの混乱の中で逃がそうとしたのだが、彼の期待も儚く失敗に終わっていた。
声の震えも露になったパーレル。フレオンは黙って見ていたがじきにパーレルは音を上げた。
「……話とは何だ」
「宜しい。その態度の方がお互いに楽だからな。さて、話とは君の父上の事だ」
フレオンは話を続けた。
「パウルスとはかれこれ十年近い付き合いがあった。彼の謀略の手腕についてもよく知る機会があった。だがどうにも探り切れない事があってな。そう、例えばハウゼン公を殺した件、とかだ」
ハウゼン公はパウルスが殺したのだと考えていた。証拠はない。言質を取ることもできなかった。だが、あの時の状況で条件に合致するのはパウルスしかいない。
ランバルト戦死の誤報が流れる中、恐らくパウルスは混乱を利用して一挙に王国を奪い返そうと図り、メール反乱の扇動と秘密裏に進めていたハウゼンの説得を急遽進めたのだろう。前者は成功したが後者は失敗したので、反乱時に敵に回る、或いは情報を漏らされる可能性を危惧して始末したのだろう。
「……」
「殺した、という言葉を否定しないな」
パーレルは黙ったままだが、ばつが悪そうに目を背けている。
「ハウゼン公暗殺は私も敵対していた頃に試したが全く上手くいかなかった。私が駄目だったのだからパウルスにだって無理だろう。普通のやり方なら、な」
この点に関してがフレオンの確信の一つの拠り所となっていた。つまり自分程の人間でもなければハウゼン暗殺などこなせる訳がなく、唯一匹敵するのはパウルスのみ、そして実際に遣って退けたのだから余程の手を打ったに違いないのだ。
極めて主観的な発想で、飽くまでも判断材料の一端に過ぎないとはいえ、フレオンには無視出来ない観点であった。
「恐らくパウルスは自ら手を下したのだろう。本人が行くならハウゼン公に近付く事自体は難しくは無い。接近した事実を隠すのも何とか出来る。だがその先、肝心の殺害の時はどうだ?」
――そう、それこそが問題なのだ――
そして、フレオンは徐に懐に手を入れた。指先に小さな冷たい感触がする。
「短剣で突き刺したのか? ハウゼン公は歴戦の戦士、パウルスの細身では到底無理だ。では毒を飲ませたのか? 最もあり得るが、何の証拠も出なかった。苦しんだ様子さえない。そんな便利な毒があるか?」
毒を飲ませて殺す、とは言葉で言えば簡単だが実際はそう易々とはいかない。毒を盛るだけでも、標的の近辺に近寄らねばならないし、仕込むべき飲食物も探し当てねばならず、警備や毒見役も躱す必要がある。見付からずにに実行するとなれば難度は格段に跳ね上がり、もし毒殺したと悟られないようにするのであれば遥かに困難となる。それに毒というものは――少なくとも暗殺に使えるだけの確実性があるものは――口に含んだ時にそもそも何かしら違和感を感じるものだ。味・匂い・形の何にしてもである。
一体何処に見破られずに確実に、かつ毒殺とも判別されないように殺せる毒があるのだろうか。
「あったのだ。驚くべき事にな。そしてパウルスこそが持っていたのだ」
そう言ってフレオンは懐から小瓶を取り出した。掌にすっぽり覆い隠せる程度の大きさで、薄い色硝子で出来ていて、中にはやや橙色の液体が入っている。瓶の蓋は取り外すと小さな入れ物の様になっていて、瓶の液体は入れ物で換算するなら六回分と言った所だった。
これが予想通りの代物だとするなら、正直多いとも少ないとも言えない。効果もまだはっきりとは分からない事だし、尚更だった。試すにしても、無駄遣いは避けたかった。
だからこそ事情を知る可能性のあるパーレルを尋問しているのだ。
「これを見たことがあるだろう」
「……ある。一度だけだが」
パーレルは言った。
「ロンドリクと婚姻の話を纏めていた晩だ。父上がロンドリクへの盃に注いでいた」
「量は見たか?」
「詳しくは分からないが、その入れ物一杯はあったと思う」
「極めて良い。それが聞きたかったのだ」
亡きロンドリクは婚礼を決めた宴の夜に急死していた。もとより不健康なまでの肥満であったのだから誰も死には疑問は持たなかった。積極的に怪しんだ訳ではないが、やや都合の良い死に関心をひかれたフレオンはロンドリクの死体を調べさせたものの、特に殺害の形跡は見当たらなかった。
――何も見当たらなかった事が寧ろ引っ掛かっていた。今、繋がったよ――
「しかし、これほど便利な毒を持っているのなら、ランバルトをさっさと毒殺してしまえば君らの敗北は無かったろうにな」
これは本心の一つである。自身の裏切りや両天秤など一切を棚に上げているが、それとこれとはフレオンの中では別だった。
"ブリアンの乱"は間違いなく王国の運命を決める分岐点だった。歴史上幾度か起きてきた他の事件、"後継者戦争"、"僣称者ガトランの戦争"、"女王ガレリアの乱"、"ジェバンスの簒奪"、そして"諸侯同盟の反乱"の何れとも同様だ。
なればこそ、手段をあれこれ悩んでいる場合ではないのだ。
「あれは大義の為の……」
「分かっている分かっている。大義の為の、正統な王の為の戦いであり、暗殺などという卑劣な手段で王道を汚すことは許されない。正面からの堂々たる戦いで簒奪者と奸臣を打ち滅ぼすべし、だろう。何度もパウルスが言っていたからな」
主君ブリアンに穢れや泥をつけたがらず正義の戦いに拘ったのはパウルスの決定的な敗因だとフレオンは考えていた。どの様に玉座を手に入れたところでブリアンに清らかな忠誠を抱くものなど今更おりよう筈はなく、ハウゼン暗殺の様な手段だって結局は講じるのだから、最初からやってしまえば良かったのだ。人間の判断は常に理性以上に感情に左右されるものだという好例であろう。
尤も、だからこそフレオンには付け入る隙が大いにあって助かっているのだが。
「ちっ。さあ、私はお前の求めには応じたぞ。従姉達には絶対に手を出すなよ!」
「君は実に立派だ。主君への忠義、家族への親愛。これは大事だが、本心から全うしようとするものがどれ程いるだろうか。そして庶長子としての分を弁えて年下の後継者を立てている」
戦乱の時世、パーレルの様な確かに貴重だった。自己を滅して主君と家族に尽くすなど、フレオンには到底出来ないししようとも思わない事だった。勿論、貴重であるからと言って意味があるというのでもない。
「世の摂理から言えば敗者たる君達に何かを要求する権利など無いのだが私としては、パーレル、君の信念に敬意を評して取引と言う形で耳を貸す事に否やはない」
フレオンは表情は崩さないもののやや大げさに身振りを加えた。
「従姉は殺さないし傷つけもしない。夫殿には領地と継承権は放棄して貰わねばならないが二人とも安全を保証しよう。だが君は別だ。年若い少年少女は目溢ししてもよいが、パーレル、君は捕虜であり反逆者だ。君には死んで貰う」
「……分かっている。覚悟はしている」
「いやまだ分かっていない。君には"私が"死んで欲しいと望んだ時に死んで貰う、と言っているのだ」
正面から確りとパーレルを見据えた。目を見据えるという行為は相手からすれば虚偽のなさを示している様に感じられる。
――意味は分かるな、パーレル。この私がお前の大事な肉親を生かすのだ。ランバルトでも、女王陛下でもなく、この私がだ――
パーレルは拳を握り締める。
「さあ、誓い給え」
「……妹と弟は助けてくれるのだな。約束しろ。先に誓ってくれ」
「約束するとも。古今の神々にかけて誓う。一言一句、決して違える事はないとここに断言しよう。反故にする事あらば我が身に神罰が下されるだろう」
パーレルの様な人間には利を解くよりこちらの方が良く効く。彼らは剣の煌めきも金貨の重さも、誓いの言葉には適わないと考えているのだ。これ程薄っぺらい保障も他には無いというのに。
「分かった。私も誓おう。私の命は貴方のものだ」
「素晴らしい。では合意の祝杯といこう」
フレオンは色硝子の瓶を傾け、丁度入れ物一杯分に液体を注ぎパーレルの口元に運んだ。
パーレルは驚きの表情を覆い隠そうとして失敗していた。恐らく今殺されるのではなく槍働きの様な忠誠を求められたと思っていたのだろう。
だがフレオンが求めていたのはそう言った奉仕ではない。彼は実験材料としての奉仕を欲しがっていた。
「死ぬまで真実を供とするのだろう? 君の誓いが疑うべくもないのだと証明してくれたまえ」
パーレルは覚悟を決めたように一息つくと、一度で飲み下した。そして果実の様な甘味がある、と感想を添えた。
暫くはパーレルの様子は変わらなかったが刻程も経たない内に明らかに動きに鈍さが見え始めた。だがパーレル自身からは何の体調の訴えもない。何も知らない者が見れば眠くなったのかとしか疑えない。本人さえもそう感じている様子だった。
「いいか、たすけ、ちかいは……」
パーレルの体からはぐったりと力が抜けていき、言葉も途切れ途切れだ。呼吸も弱まっている。しかし、依然として苦しんでいる様子はない。
――良いぞ。確かに大した毒だ。従妹の方はもう暫くしてから役に立って貰うとしよう。夫の方はもう不要だし、始末するか――
もうパーレルで必要な目的は達成された。大収穫である。
フレオンは緩慢に死にゆくパーレルを見て思った。
――誓いはどうしたのかって?――
珍しくフレオンは笑みを浮かべた。思わず、と言ってよい程に彼にも自制出来なかった。
――悪いな。あれは嘘だ――
◆ ◆ ◆
ウラタイアは王国の直接統治下に置かれた。パーレルと従弟は獄中で自害したと伝えられ、正統な後継者であった従妹は制圧の最中行方不明となった。ここにウッド家は滅亡した。だがウッド家の行く末など気にする者は最早一人もいない。時代は次へと進んでいるのだ。




