『反乱の火種』
辺境の混乱が拡大化していく中、擾乱の根源たる王都ユニオンでは一向に収まる気配も無いままに事態が進んでいた。
原因は王と諸侯との深刻な対立にあった。
新暦656年時点でディリオン王位にあったのはロラン家のブルメウスであるが、野心的かつ専制的な彼は王国の更なる強化を目指していた。その一環としてブルメウス王は分権的な間接統治体制を改革し、中央集権体制を築く事を目論んでいた。
ディリオン王国では未だに官制が未発達であり、大幅な自治権を与えられた貴族達が地方領域を統治していた。貴族達は自治権を与えられる代わりに王家に対する軍事奉仕や貢物を求められていた。
そして、彼ら貴族の中でも特に権勢の強い大貴族達は"公"と呼ばれて大権を振るい、主君たる国王に対しても公然と反抗することさえもあった。
ブルメウスは大小関わらず貴族達の権力を掣肘しようとし、その方策は決して穏やかなものではなかった。
当然、貴族や領主との折り合いは悪く、王土に混乱をもたらす始末であった。
貴族達の混乱はより直接的な形で世間へ伝わっていく。治安の悪化や困窮する平民の続出、そして大小様々な貴族同士の闘争である。
ブルメウスの改革は成功すれば王家を著しく強大化させることが出来るが、それまでは自分の首を絞め続ける自傷行為でもあった。
そして、王都では何らの好転も無く、国王と貴族の対立が今尚、繰り広げられていた―――
◆ ◆ ◆
【新暦656年10月 王都ユニオン 王ブルメウス】
ディリオン王国の中心である王都ユニオン。
その更に中心に位置する王の宮殿はロラン王朝が開かれて以来数百年の歴史を誇る。
外周は市内にあるにも関わらず丈高い壁に覆われており、本殿も大理石と良質な材木を惜しむ事無く建設された重厚な構えの大建築だった。
中には無数の議場や広間を抱え、正しく王国の中枢であった。
その広間の一つ、玉座の間では家臣による王への謁見が行われていた。
数十人の家臣が詰めかけ、その倍の傍聴者が遠巻きに謁見を眺めている。これだけの人数が集まると秋の寒気も和らいでしまう。
ブルメウスは玉座に座り、家臣の陳情を聞いていた。
ディリオン王国の王ブルメウスは先日四十歳を迎えたばかりで、男として最も脂の乗った時期にあった。体に満ちる精気は生来の傲慢さを一層強くさせ、全身から溢れさせていた。
頑健な肉体によく合う漆黒の髪は豊かで、威圧感を与えるのに一役買っている。
他の者より一段高く設けられた玉座に座ると下々の者が跪くのよく見えるので、ブルメウスはこの眺めが最も好きだった。
とは言え、この謁見の時間自体は最も好まぬ時間でもあった。
「陛下、タルキスの町は先祖代々我がホラント家の所有地で御座いました。それをズカル家の領地であるとお認めになるなど、承服しかねます!」
家臣の某が頭を垂れながら跪き言った。
名前は覚えていないが、自分で名乗っていたのだからホラント家の誰かなのだろう。どこぞの小領主の身の上など一々覚えていられないし、覚えていたくもない。
ブルメウスは苛つきで頭が痛くなっていった。
「ましてや、ズカル家は我が陪臣に御座います。この裁定ではズカル家と我がホラント家が同格であると仰っておられるも同然! 如何な理由によるご裁定なのか、ご説明頂きたい!」
パッと上がった家臣の顔は怒りで紅潮している。
ホラント家の男が不遜にも頭を上げて此方を見たことでブルメウスの怒りは限界に達した。
――黙って頭を垂れていればいいものをっ!――
「此度の裁定は勅命である。説明など不要だ!」
ブルメウスは口角から唾を飛ばしながら大声で怒鳴った。
本当の所、ホラント家を退けてズカル家の要求を認めてやった理由は覚えていない。
確かホラント家の奴らが税の支払いを滞納したか何かの懲罰だったと思うが、忘れてしまった。それかズカル家から王への忠誠心の表明があったからだろうか。
たがそんな些細な事はどうでもよかった。ブルメウスが激怒したのは、目の前の男が王の命令に異論を唱えたからだった。
理由はそれだけで十分だった。
――自分は王なのだから当然だ。王とは偉大なのだ。その権力もユニオンの如く大きくあるのだ!――
奴ら下々の屑共が従うべきなのであって、王国の頂点たる王、即ち主人が節を曲げる必要など無い。
――連中もいい加減分かってしかるべきだ。もう何度この類な裁定を繰り返したか分からない――
一々、王の考えに逆らい、文句を言ってくる。あまつさえ、税金を掛けるなだの土地を返せだのと喚き立てる。
平民でさえ税を払い土地を差し出すのだから、それより少し上な程度の領主共も同様にすべきなのだ。
――当然ではないか? にも拘らず謁見を開けばこの様な輩ばかりやってくる。奴らは一体何様のつもりなのだ!――
ホラント家の某はまだ食い下がり、何を言っているのか分からないくらいに喚き立てている。
業を煮やしたブルメウスが摘み出すよう命じようとした時、段下の廷臣席に座っている男が言った。
「ホラント家のトラード殿、どうか気を鎮めて欲しい。陛下の御命令は尤も至極な事ではあるが、私の方からも説明させて頂こう」
そう言ったのは、クライン家のハウゼンだった。大諸侯クラウリム公にしてディリオン王国の宰相を務める男だ。
四十代半ばの痩せ型の男で、将軍としても統治者としてもその識見と力量は広く知られている。そして、独特な人を惹きつけ包み込む雰囲気は只でさえ高い彼の人望をいや増していた。
独裁志向の強いブルメウスもハウゼン公の事は認めざるを得ず、これまでずっと重用してきていた。
今回の様に事態が熱くなるとハウゼンは必ず出てきた。ブルメウスが望むと望まぬとに関わらずだ。
「ズカル家はホラント家の代わりに個人の財産を投じて一部なりとも街道の整備を行ってくれた。その功には報いねばなるまい。スカル家が私財を投じねばならなくなったのも発端はホラント家が規定の賦役を果たせなかったからである以上、補填はホラント家から出すのが筋であろう?」
ハウゼンは目を逸らすこと無くホラント家の男を確りと見つめている。
「またズカル家に認めたのはタルキスの管理権だけで、領地の所有権ではない。徴収した税の収め先は貴殿のホラント家であろう? 決して同格の扱いなどはしてはいない」
ハウゼンは落ち着いた声で語りかける。ハウゼンの重々しい雰囲気にはブルメウスも自然と気分を落ち着かされていった。
「それに、先祖代々の土地を任せられた臣下は、貴殿の信頼と度量の広さに感服するのではないかな」
説得というより言い包めているとしか言いようが無いが、それでも事態の解決は成された。こういった交渉術も身につけているからこそハウゼンは王国を変える為には不可欠な人材だとブルメウスも分かっていた。
「は……確かに、その通りで御座います。私が誤っておりました」
「分かってくれればそれでよいのだ。今後も陛下と王国に対して忠実であってくれ」
ホラント家の男はすっかり落ち着いた様子でハウゼンの言葉に首肯し、勅命を受け入れることを誓った。
だがブルメウスへの謝罪の言葉は結局聞かれることは無く、王を見る目は冷たい怒りに満ちたままだった。
ブルメウスは貴族への八つ当たりに近い怒りを一層高めた。そして、必ずや奴ら全員を叩き潰し、跪かせ、命乞いをさせてやろうと誓った。
◇
謁見は続いた。次の陳情も、その次の陳情も、そのまた次の陳情も同じ光景が展開された。
貴族が逆らい、王が怒り、宰相が間を執り成す。その繰り返しだった。
漸く謁見が終わった時にはブルメウスは怒りよりも疲れを感じてしまっていた。
この所、貴族共の反抗が増していた。回数も規模も執拗さも全てが増加し続けている。
これ以上、反抗を続けさせない為にももっと徹底的に対処しなければならないとブルメウスは思った。
そもそもハウゼンもいけない。幾ら説得が必要とは言え、反抗する貴族共にあんなに甘い態度をとるから付け上がらせてしまうのだ。
やはり、逆らう者は根こそぎにしてしまうべきなのだ。
臣民は王の命令に従ってのみ生きていれば、それで良い。
――それこそが王国の正しい在り方というものだ。当然ではないか?――
◆ ◆ ◆
ブルメウスが改革を断行し得たのは宰相であるクラウリム公ハウゼンの存在が大きかった。
ハウゼンは政治・軍事共に優れた資質を持ち、誠実な人柄でも知られ、王国内での人気は非常に高かった。
ハウゼンも貴族の強大化と恣意的な領主権力の行使には予てから懸念を示しており、目的を同じくしたブルメウスの改革を支持し、宰相に任じられるや砕身して政務にあたっていた。
さしものブルメウス王も他の貴族に対すると同様に弱体化政策はハウゼンには採れず、力を保ったままのクラウリム公が王の背後に居ることで諸侯は従う事を選ばされていた。
しかし、改革が進むほどにブルメウス王の苛烈さと強引さは悪化の一途を辿り、次第にハウゼンの力を持ってしても埋め合わせることは困難になっていった。
皮肉と言うべきか、ハウゼンの優れた手腕によってブルメウスの暴政を進めえてしまったことが、王の無体や貴族の憎しみを助長し事態をより悪化させていたのだった。
そして諸侯の国王に対する敵意は際限無く高まり続け、ついに破局を迎えることとなった。
◇ ◇
◇ ◇
新暦657年6月、王国東部のバレッタ地方で反乱が発生した。
バレッタ公であるレイアントロプ家のトルシカは良くも悪くも家臣思いな主君で、大切な家臣達が苦しむ事に耐えられなかったのだ。
トルシカには王を打ち倒そうとする意思は無く、家臣への権利侵害を止めさせようとしているだけで、王に対し強気に出ることで譲歩を引き出そうとしていた。
ところが、当然という言うべきかブルメウスはバレッタ公を決して許さず、一切の交渉を拒否した。
ハウゼンは両者の間を取り持とうとしたが、ブルメウスの態度は硬化する一方で、ハウゼンに対してすら敵意をむき出しにし始めた。
そしてトルシカ公も交渉を諦め、最後通帳としてバレッタの独立承認要求をブルメウスに送りつけた。
怒りが限界に達したブルメウスはバレッタの反乱者を討つ事を決めた
ブルメウスは主に王家直臣から集めた2万8千人の兵を平民出身のヒュノー将軍に預け、討伐に差し向けた。
これらは国王直下の兵力の過半にも相当し、ヒュノー将軍は最も高名な将の一人であった。
これだけでもブルメウスの怒りの程は推し量れようというものだった。
討伐軍が送られて来るに至り、トルシカも自ら3万人の軍勢を率い、ヒュノー率いる国王軍を迎え撃った。
そして、戦場に立つのは戦士ばかりではない。また一人の無力な平民が地獄の入り口に立たされていた―――
◆ ◆ ◆
【新暦657年6月 バレッタ地方 兵卒ロック】
陽が中天に差しかかる頃、戦列が組みあがり両軍は睨み合った。双方共に無数の歩兵が槍を掲げて密集して長方形の陣形を形作り、その前方には弓兵が一列に並んで腰にさした矢筒から矢を取り出し弓に番えていた。
両翼には騎兵がずらりと並び、興奮していななく軍馬の上に鎖帷子と革鎧を着込んだ猛々しい勇士――主君の下で戦闘を生業とする身分の人間――が跨って今か今かと突撃の時を待っている。
戦場は喧騒と静けさが同時に存在する不思議な緊張に包まれていた。
ロックはバレッタ公の陣営に所属する民兵だった。
勿論、他の殆どの兵と同様に彼は勇士ではない。ついこの間まで鍬や鋤を手に畑を耕していたただの農民に過ぎない。戦いの経験が無い訳ではないが、村同士のちょっとした抗争とか盗賊を追い返したとかそんな程度で、こんな大掛かりな戦いは初めてだった。
持っている武器も粗末な槍と小さな盾だけで兜も鎧もない。
不安と恐怖で槍を握る手から汗が染み出して止まらないし、耳には鼓動の音がうるさいくらいに激しく鳴り響いている。
◇ ◇ ◇
ロックが軍に加わったのは一ヶ月前の事だった。その日は村の年に一度の祭りの日だった。
祭りの真っ最中に馬に乗った勇士がやってきて、暴君を倒す為とか主君の権利を守るのだとか何とかいって村の若い男全部に従軍を要求してきた。
ロック自身は領主の命令には逆らえないから仕方ないと思っていたし、独り身だったからそれ程抵抗感はなかった。
村の老人の中には戦場で活躍し褒章を得た話を長々と語る者もいて、その話を子供の頃から聞いていたから褒賞欲しさもあった。
従軍を拒否したり怒声を浴びせたりする者もいたが、逆らった者は皆馬に蹴り倒され、最後には誰もが口を閉じて命令に従うことしか出来なくなっていた。
村を離れた時には五十人の仲間がいた。子供の頃から知っている連中ばっかりだ。
行軍の最初の内はまだよかった。不満はあっても皆元気があったし、見知らぬ土地への興奮もあった。
だが一月もしない内に疲れ、食べ物が足りなくなり、病気も広まってきた。馬に乗った勇士たちは腹一杯飯を食っているのに、民兵には食い物が分けられない事もあった。
指揮を執る貴族連中は民兵のことなんか少しも気にかけていなかった。
長い長い行軍で心身共に疲れ、皆ボロボロに擦り切れていた。戦場に辿り着いた頃にはまともに動けるのは半分になっていた。
ただ、だからこそ村の仲間同士では助けあい、共に戦う事を誓い合っていた。遠い異郷の地では村の同胞だけが頼りなのだから。
ある時、不運にも食料の分配を受けられなかったロックが腹を減らしていると村からの友人のボーマンがどこから取り出したのかパンの切れ端を幾つも分けてくれた。彼がいざという時の為に毎日ちょっとずつ取って置いていた物だった。
ロックは空腹が満ちる喜びを噛み締めながら、戦場でボーマンを助ける事を誓った。
ボーマンはただ笑って、"友達じゃないか"、と返してくれた。
戦いの前夜に聞いた陣営を歩き回る歩哨たちの話ではこれからの戦いは本番に先立つ単なる小競り合いに過ぎないらしい。
それでも自軍も敵軍も一千人もいるのだ。今まで考えていた"戦"とはわけが違うとことだけは分かった。
ただ敵というが相手が誰で何故戦わなければならないのかも知らなかった。指揮官達は何も教えてはくれなかった。
ロック達はただ戦う為に連れて来られたのだ。
明日にも戦いは始まる。殺し合いをしなきゃならない。
そう思うと疲れ切っていても寝る事もできなかった。
そして今日、ついに戦いの時が来たのだった。
◇ ◇ ◇
朝分け与えられた飯を食い、指揮官に戦列を組まされたが、自分達農民兵はろくな武器も持っていない。
勇士連中は鎧や兜を着込み、いい剣を持っているのが見えるのが余計に絶望を増させた。
運の悪い事に自分は最前列に並ばされてしまった。
突撃で最初に敵と戦い、死ぬことになるのか、とロックは嘆いた。
周りの連中も同じ様に恐怖が顔にありありと浮き出ている。きっと向かい側の敵兵士も同じことを思っているだろう。
恐れと後悔がない交ぜになった感情で頭がグチャグチャになっている。呆然としていると、かん高い角笛の音が鳴り響くのが聞こえた。
ハルーーーーーーーーーーーーー!
次々と角笛が吹かれ、指揮官が怒鳴り声を上げて部隊に命令を下す。
「いいか! 槍を構えて隊列を崩すな! 絶対に逃げるんじゃないぞ!」
とにかく槍を構え、隊列を維持する。それが歩兵の最大の任務だ。
両翼の騎兵が砂煙を上げ敵軍に向かって突っ込んでいく。対する敵側の騎兵も同様に駆けた。
陽光に照らされて鋼の武具がきらめく。振り上げられた剣も兜も鎧もすぐに真っ赤に染まるのに違いない。
地響きを立て両軍の騎兵が集団で駆ける。騎兵で構成された群れが衝突し、一つの塊になった。
衝撃の時に何人もの騎兵が落馬し砂煙の中に消えていくのが見える。塊の中で騎兵同士の戦いが始まった。ガチャガチャと剣と剣で切り結ぶ音が聞こえる。
そして馬同士がぶつかる音、切り殺された勇士の悲鳴や断末魔もここまで伝わってきた。
ロックは味方の騎兵が勝つ事をひたすら祈っていた。もし敵が勝てば次は自分達が標的になる。
騎兵同士の戦闘は左翼ではまだ続いていたが、右翼では短時間で決着がついた。味方側の騎兵隊が打ち破られたのだ。
敵側の騎兵は間髪いれずに次なる標的に向かって馬首を翻した。歩兵戦列に向かって近づいてくる。
前方に並ぶ弓兵から矢が放たれるが騎兵の鎧に弾かれ大した効果はなく、突撃の速度を緩める役には立たなかった。
むしろ直後に突撃に薙ぎ倒され踏み潰された弓兵自身の方が邪魔になったくらいだ。
弓兵を踏み潰した敵の騎兵が隊列を整えているのが見える。指揮官が一層声を張り上げて迎え撃つよう命令している。逃げれば殺すと叫んで槍を振り回している。
ロックは目をつぶってせめて戦列の別の部隊に突っ込んでくれと必死に祈った。さっきの願いは駄目だったが今度こそ頼む、と。
一縷の望みを託して目を開ける。
見えたのは一つの楔を形作った騎兵隊が、正に自分の方へ向かっている光景だった。
恐怖のあまり漏らして股間が湿っているがその事に気付いたのはもうすっかり出きってからだった。
騎兵が迫る。蹄が地面を踏みつけ、もうもうと上がる土煙と共に迫ってくる。
ガシャンと隣で音がした。
「もう駄目だ! みんな逃げろ!」
隣の兵が武器を捨て逃げ出したのだった。
一人が逃げるとその隣の奴も、そのまた隣の奴も後に続いて逃げ出した。後はもう逃亡の波がひたすら広がるだけだった。
ロックは逃げ出した。槍も盾も放り捨てて、走り出した。
「貴様ら逃げるな! 逃げるんじゃない! 殺されたいのか! 畜生!」
指揮官は最初は兵士達を止めようとしていたが無理と悟ったのかやはり逃げ出した。
あっという間に騎兵は追いついてきて必死で逃げる歩兵を後ろから剣で切り裂き、馬蹄で踏みにじりバラバラに引き裂いていった。
ずっと一緒だった村の仲間も、昨日合流したばかりの奴もどんどん殺されていく。
懸命に走った。周りの景色が歪み、地響きの様な馬の足音しか聞こえない。息が切れ足がもつれる。
ただただ生きる為に全身の力を振り絞って走った。
ここまで殺されなかったんだからきっと生き残れる!
死にたくない! 村に帰りたい!
隣で味方――ボーマンだ――が転び、倒れたのが見えた。彼は此方に手を伸ばし、助けを求めていた。
だがロックは無視して走り続けた。彼を助ければ、騎兵に追いつかれ殺されてしまう。
仕方なかった。
直後、後ろから悲鳴が聞こえてきたがボーマンのものかどうかは分からなかった。振り向く余裕も無いし、もし生きていたとしたら尚更見たく無かった。
間違いなくボーマンはロックに見捨てられた恨みの視線を向けているだろうからだ。
走り続けた。武器も味方も誇りも何もかも捨てて走り続けた。
ロックはただ生き残りたかった。
◆ ◆ ◆
だが、戦いはバレッタ軍の大敗に終わり、自トルシカも戦死してしまった。バレッタ貴族は戦意を圧し折られ、それ以上の抵抗が出来なかった。
勝者のヒュノーは大した抵抗も受けずにバレッタ公都レンブルクを占領することに成功した。
ブルメウスはそのままヒュノーを駐留させ、バレッタ地方の鎮定に従事させることにした。
◇ ◇
バレッタ地方の反乱は一応の収束を見せたが、騒乱は他の土地でも起きていた。
王国南東部のフェルリア地方で地方貴族ラング家のサレンが突如兵を挙げ、フェルリア公を殺害してその領土を奪い取ったのだった。
サレンの名は決して名の知れた人物ではなく、この突然の挙兵には誰もが意表を突かれた。
このサレンという男も勝算無く兵を挙げたのではなかった。
反乱が起きている今、国王には対応するだけの力は無く寧ろブルメウス王支持を掲げれば承認すら得られるだろうと見込んでの挙兵であった。
諸侯はサレンの暴挙を強く非難したが、ブルメウスはサレンの読み通り、これを追認した。
ブルメウスにとっても過激なサレンのやり方は好ましいものであった。
王の支持を後ろ盾にしたサレンは無法者や傭兵を掻き集めると、公の残党やフェルリアの反対派を尽く粛清して周り、フェルリアを略奪し尽くした。余りの暴虐さにフェルリアの住民は震え上がり、殺されるよりはとサレンに忠誠を誓う他に道を選択出来なかった。
更に時機の悪い事にブルメウスは政策の方向性を巡ってハウゼンと対立していた。
特に両者の対立を燃え上がらせたのはフェルリアのサレンの問題だった。サレンの様な悪人を用いる事がハウゼンには受け入れらなかったのだった。
ハウゼンはブルメウスに説得を続けていたが、ブルメウスは業を煮やし、ハウゼンを宰相職から罷免して追い出してしまった。
諸侯から敬意を抱かれていたハウゼンが離れた事は、王への敵意を危険な程に強める結果となった。
そして、王への忠誠心に疑問を抱いたのは何もハウゼンだけではない。もう一人の忠実な家臣でさえも王国の行く末に不安を抱いていた―――
◆ ◆ ◆
【新暦657年9月 公都レンブルク 将軍ヒュノー】
ヒュノーは執務室の中で思案に暮れていた。
執務室には大きな窓が備え付けられており、宵闇の暗さは月明かりと蝋燭の灯火により大きく和らげられている。
執務用の机や椅子等の家具は執務室自体の豪華さに比べると質素でありふれていた。トルシカ公は家臣からは良く支持されていたが、本心かアピールかは分からないがこういう飾らない所が配下の支持を得る要因の一つだったのだろう。
ヒュノーはギシッと音を立てて椅子に深く座りなおし、飲み干されて空の杯に葡萄酒を再び注いだ。
ヒュノーは今年で四十歳になる。ブルメウスやハウゼンと同世代の男だ。
錆びた銅色の髪とたくましい長身を持ち、傷だらけの鍛え上げられた体が長年の戦場暮らしを証明している。
彼は土地を持たない下級勇士の生まれだった。平民出身という平民上がりの姓名がそれを証明している。何の後ろ盾もなく、何の財もなく、腕一本で武功を上げて漸く将軍の位まで伸し上がってきた。
ヒュノーは呑底から自分を掬いあげてくれたディリオン王国という存在に忠誠を抱いていた。そして、王とは王国を体現する存在であるべきだと信じていた。
葡萄酒を注ぎなおした杯を口に運ぶ。既に五杯目になる。質のいい葡萄酒だからか酔いはそれ程強くない。
バレッタ軍を撃破しトルシカ公の居城であったレンブルクに入城したヒュノーは王命に従いバレッタ地方の占領統治を行っていた。
先の大敗北、トルシカの戦死はバレッタの貴族や領主達の物心両面の抵抗力を撃ち砕くのには十分であったようで、逆らう事なく命令に服している。
またトルシカの遺児でレイアントロプ家の新当主となったイルセルを"保護"しているのも大きかった。
遺児イルセルはまだ幼く父の死も理解できてはいないようだった。見知らぬ連中が城に乗り込んでくるのを見て怯えて母親の胸に埋もれている。
バレッタ公妃も逆らう事なく自室で大人しくしている。夫の死を聞いた時は取り乱し泣き暮れていたそうだが、我々が入城した時にはそんな様子は一切なかった。
――今の所バレッタの占領はうまく行っている。思い悩むのはこの地のことではない……王国の行く末だ――
王と諸侯の対立は激化の一途を辿り、武力衝突は最早避けられない段階に達している。現にバレッタ公は反旗を翻し兵を起したばかりだ。
ライトリム公もレグニット公も王に対して不満を抱いているのは周知のことである以上、反乱がバレッタだけで収束するとはとても思えない。
王の下で数多の命令に従ってきたが、王のやり方は強引で臣下のことを省みているようには見えない。特に現在の様な強引な課税は諸侯の正当な権利の侵害だ。
貴族も勇士も血を流して戦う事が使命で十全にその使命を果たしている。
彼らの財産を守る事が報いとして王が果たさねばならない義務ではないか。
王命に従いトルシカ公を討ったが、彼の抵抗も当然といえる。
兵を起した事は逸ったとは思うが、自らの正当な権利や財産を守ったに過ぎない。
彼の臣下達には寛大に処置しているつもりだった。配下には略奪は許さなかったし、投降者にも処罰は行わずに許した。彼らにバレッタ公の旗を掲げることも許している。
彼らもまた主に尽くし、守られるべき物を守ったに過ぎない。忠義の者達をどうして鞭打つ事ができようか。
そして、王の裁定について看過できない事件があった。
先頃、フェルリア地方で反乱を起したサレンとかいう無法者がブルメウス王によってその立場を追認されたらしいのだ。
この奸物は報告によれば正統な公を殺害したのみならず、自身に従わない者共を片っ端から処刑して財産を我が物とし、どこの誰とも知れぬ連中を勇士として取り立てているという。
――王ならばこの無法者を叩き潰すのが責務であろう。にもかかわらず罰しないばかりか、あまつさえ認めてしまうとは!――
秩序も平和もあったものではない。
かつて"誠実なる"バトス王がカゼルタの領主に簒奪者から土地を取り返してやり忠誠を得た話はディリオンの人間なら誰でも知っている。
王に相応しい行いとはこういうことではないか。
ハウゼン公なら王と諸侯の間を取り持てたのだろう。ハウゼン公は王の改革を進めながらも諸侯の事も案じていた。
しかし王はハウゼン公を罷免して追い出してしまった。それはブルメウス王は自らの手を切り落としたような行いだ。
――王国を憂えるならばこのままブルメウス王の手下となっていてよいのか……――
王は全て民衆の平和の為だというが、まず民衆を統べる貴族や勇士が守られてこそ平和は保障される。
――たとえ王の家臣であってもそれ以上にあるべき姿があるのではないだろうか……――
それから長い間、ヒュノーは葡萄酒の杯を口に運び続けた。
蝋燭が燃え尽き、酒瓶も空になりつつあった。
空も白くなりじきに夜が明ける頃、ヒュノーは考えを決した。
羽ペンと葦紙を取り出し手紙を書き、封蝋を押した。伝令に大至急で手紙を届けるよう命令を出した。
だが届け先は王都ではなかった。
◆ ◆ ◆
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