『翻りし旗 ~スクルニーンの会戦~』
メガリス軍は兵を本土へと引き上げさせていった。撤退の全てはメガリス王サリアンの命令であった。サリアン王は侵略よりも遥かに重大かつ危険な事態に直面していたのだった。弟セファロスの叛意である。
◇ ◇
時は戻るが、新暦662年6月、遠征中にセファロスは本国へと呼び戻された。フレオンの策略の影響でもあったがサリアン王は弟から軍を取り上げ、東のラトリアへ向け送り込んだ。
サリアン王の敵意は露骨で、セファロスは幕僚も兵士も一から集めるよう命じられた。
セファロスは意外にも従順だったが、彼に進んで協力しようと思う者も少なく人集めには難渋した。
結局、セファロスは小氏族や山賊紛いの地方豪族、従属した南方部族民から人を集め、何とか3千人の兵と15隻の軍船、大小様々の輸送船を確保した。
セファロスはこの僅かな戦力を率いて再びの遠征に赴いた。自殺行為の如き無理な状況であっても攻めよとの王命でもあったが、セファロス自身は戦争へ忌避は無く、勝利への確信も揺らいではいなかった。
◇ ◇
ラトリア国はキルス山脈を挟んでメガリス王国の東に位置し、巨大港湾都市ラボックを首都とする都市連合国家である。長い歴史を誇る強大国であり、最盛期に比べれば減じているとはいえその勢力圏は広く、東部の海洋交易を一手に握っている。奴隷を大規模に使用した灌漑農場も各地に保有しており、陸海共に膨大な富を得ている。
有力者から構成される議会が国政を担当し、互選で選ばれる執政官と呼ばれる最高行政官が実際の政務を取り仕切る。官僚制や行政組織は長い歴史を反映してディリオンやメガリスより整備されており、領土以上の国力を誇っている。
メガリス王国とは主にキュラス河流域の覇権を巡って長年争っており、今回のセファロスの遠征も数多の国境紛争の一つに過ぎないと考えていた。
◇ ◇
新暦662年11月、セファロスは船団と共にラトリア領を目指した。
進軍中、セファロスは兵の調練を行った。恐怖と服従を刻み込み、文字通り兵を選抜する地獄の調練はディリオン戦時以上の苛烈さと徹底さで行われた。訓練と称して兵同士が互いに実際に殺し合う狂気の試合すら行われていた。
3千人いた兵は苛烈な調練でまだ本格的な戦闘に突入していないにも関わらず1千人にまで減少した。武装や編成はメール式を基本としながらも、従来のメガリス式抜刀切込み戦術も個人単位・部隊単位共に高度な水準で行えるよう訓練が施されていた。
自ら作り上げた兵士の完成度にさしものセファロスも満足感と多少の愛着を抱いたのか、血反吐と返り血に塗れた一千人の兵士達を"赤服"と呼び、極めて珍しく特別な呼称を割り当てていた。
新暦663年2月、調練を行いながらの為に時間は掛かったが、セファロスは国境に達し、そのまま隣接する河街ソボラへ迫った。
ラトリア側もメガリス軍接近の情報は得ており、ソボラに4千人からなる防衛部隊を駐留させていた。ラトリア軍は指揮官を除いて伝統的に傭兵を主力としており、これに従属国の徴収兵を加えて軍を構成していた。
接近するメガリス軍を迎え撃ったラトリア軍は勝利を疑っていなかった。
だが結果はラトリア人の予想を打ち砕いた。セファロスを筆頭にして攻勢を仕掛けたメガリス軍は一丸となった突撃でラトリア軍の前列を突き破り、ラトリア軍陣を散々に切り裂いた。
ラトリア軍はメガリス軍の猛攻を受けて潰走した。ラトリア軍の死傷者は2千人に達し、指揮官も戦死した。
敗走したラトリア軍をセファロスは追撃し、ソボラを瞬く間に攻略した。
ソボラを放置してセファロスは次の目標へ向けて出発した。常軌を逸した彼らしく、次なる目標としてラトリア本土を直に狙おうと言うのであった。獲得した船団を囮とし、自らは"赤服"を率いて国境に横たわるキルス山脈を越えてラトリア人の不意を突こうと図った。
険峻なキルス山脈は長く天然の防壁として存在していた。だが完全というわけではなく、現地民だけが知る山道は幾つかあり、セファロスは現地民から情報を引き出し道案内をさせた。
しかし幾ら準備を整えてあり、気候穏やかな南方とはいえ冬の山脈を越えようなど正気の沙汰ではない。それでもセファロスは自身に宿る狂気のまま突き進み、同じ狂気を持つよう作り変えられた"赤服"は何の戸惑いもなく後に続いた。
新暦663年4月、山脈の麓に出現したメガリス軍にラトリア人は驚愕した。本土直撃も山脈越えの経路で攻め込む暴挙も、ラトリア人達には想像だにしない出来事だった。
1万人のラトリア軍が迎撃に向かったがラトリア人は先の敗北が偶然でも幸運でも無い事を思い知らされた。メガリス軍の尋常でない機動攻撃を受け混乱に陥ったラトリア軍は戦闘開始から一時間足らずの間に崩壊した。
セファロスは悠々ラトリア本土を闊歩し、見せ付けるように町々を略奪した。
ラトリア人も本腰を入れて侵略に対処する事を決めた。国政を担う議会は議員同士の対立や利害関係のお陰で動きが遅く、軍事的行動も外交的判断も機を逸する事が多かった。
ラトリア国は各地から傭兵を集めた。その数は早くも5万人に達し、内2万人はダークス諸島出身の傭兵で占められていた。ダークス諸島はラトリア国の東に浮かぶ島々で、優れた傭兵の産地として知られていた。ダークス傭兵は独特な長柄武具"斧槍"を主な武器とし、高い練度と職業意識を持つ優秀な兵であったがその分非常に高額であった。セファロス隊に対して明らかに過大な兵力であるが、これもまた議員同士の利害衝突の産物であった。
新暦663年7月、5万人の傭兵が執政官マグネンティウス・ルフスに率いられてメガリス軍追討に出撃した。
悠々と略奪を続けていたセファロスは直ちにラトリア軍に向かい、首都ラボックから南に離れた街トリクロス付近で両軍は接触した。そして執政官マグネンティウスはセファロスに交渉を申し入れた。
◆ ◆ ◆
【新暦663年7月 トリクロス近郊 書記官ガビニウス】
――尻が痛い――
馬の背に揺られてガビニウス・パンサは思った。痩せ形でひょろっとした如何にもな文官である彼は執政官付きの書記官であった。貴族としてそれなりの家格の出自でもあるガビニウスはこれ迄殆ど戦争に出たことはない。
しかし相手が隣国の王族で、上司の執政官が出撃するとなっては、今回ばかりはガビニウスも出ざるを得なかった。
――執政官付きでも、私はただの書記官だ。こんな戦場に出るのは私のは向いてないんだ、まったく――
使用人や奴隷を引き連れ、沢山の調度品や嗜好品を持参し、貴族らしい暮らしを維持しようと努力したが、やはり戦場の暮らしは最悪だった。一応は今も上質の革鎧は着ているが不愉快極まりなかった。
――埃と泥と垢。情緒ある恵みの雨でさえここでは天罰の様だ!――
そう毒づいてみたところで事態が変わるわけでもなく、ガビニウスは諦めるしかなかった。とは言え、この最悪な体験ももうじき終わると考えると気分は少しは晴れてきた。
何故なら、今ガビニウスは執政官マグネンティウスに伴って敵将との交渉に赴いているからだ。交渉と言っても、端的に言えば立ち退き料を払って帰って貰うのだが、むやみやたらと血を流すより黄金の輝きで戦いを終わらせられるなら遥かに文明的と言えるだろう。相手が拒否したとしても(十中八九有り得ないが)連れてきた大軍で叩き潰してお仕舞いだ。
――はあ、でも尻が痛い――
ガビニウスは執政官マグネンティウスと護衛の警吏と共に馬を進めた。交渉は武器を持たずに行う事になっているので皆丸腰だ。強いて言うなら警吏が旗代わりに装飾を施した棍棒を持っているだけだ。
交渉はメガリス側の要求で両軍の間の平野で、互いの指揮官同士で行われる事との取り決めだった。王子と執政官との会談に到底相応しい場ではなく、何を考えてのことかガビニウスには理解出来なかった。
交渉の場にはもう既に相手が到着していた。相手は一人だけだった。馬から降り、兜も脱いでいる。
腰まで伸びた黒髪はさらさらとし、整った目鼻立ちが思った以上に魅力的で、見ただけではガビニウスには男か女か区別出来なかった。
彼(彼女?)はやはり武器は帯びておらず、腰に角笛を佩いているだけだ。着込んでいる真っ赤な鎧は所々に焦げたような跡や凹みがあり、左肩から胸に向かって大きく裂けていた。中の人に比べて全く似つかわしくない汚い鎧だとガビニウスは思った。
相手方は此方をちらりとも見ず、手に持った兜を弄りながらそっぽを向いていた。
――たった一人だけ?双方の指揮官同士で話し合いの筈。そもそも、相手が王族だからマグネンティウス殿が出て来ているんだ。と言うことは、もしやこの人が王の弟セファロス?――
そっぽを向いたままの相手方に苛ついた視線を向けながらマグネンティウスは馬を止め、自らも地面に降りた。警吏とガビニウスも下馬し、後に続いた。
マグネンティウスは何ももたず、警吏は旗代わりの棍棒を持ち、ガビニウスは記録の為の蝋板と鉄筆だけを持った。
中年太りしたマグネンティウスはきらびやかな鎧を誇示するように大股で相手に近付いていく。
「お初御目にかかります、セファロス殿下。私はラトリアの執政官マグネンティウスと申します」
マグネンティウスは流暢なラトリア語で話し掛けた。王族相手ならラトリア語で通じるだろうし、そもそもメガリス人の野蛮な言葉で話す意味など無いという意図が込められている。(ガビニウスとしてはメガリス人の言葉は洗練されてはいないが決して粗野ではなく、嫌いでは無かった)
――それよりも、やはり彼が王弟セファロスなのか。まるで婦女みたいだなあ――
「……」
セファロスは何も言わなかった。目線だけは一瞬向けて、またそっぽを向いてしまった。
マグネンティウスから明らかに苛ついている雰囲気が伝わってくる。マグネンティウスは懐から文書を取り出し広げ、読み始めた。
「セファロス殿下、直ちに兵を退いて頂きたい。我々の間にはまだ話し合いの余地が有る筈。何もこれ以上戦争を続ける必要はないでしょう。兵を退いて頂ければ、此方は金貨一万枚を提供する用意があります。血を流すより遥かに賢い選択でしょう」
「……」
セファロスは何も答えない。今度は視線も向けず、兜を弄っている。相手の無反応にマグネンティウスは短気を起こしかけている。
――おいおい、駆け引きか何か知らないけど、さっさと受諾してくれよ。断る理由なんて無いだろうに――
ガビニウスは蝋板にマグネンティウスの発言を記載し、セファロスが何か発言すれば記載する備えをしながら待った。
「殿下、お答えを頂きたい。断ればあの大軍が次の交渉相手になりますが?」
マグネンティウスが後方に控える兵たちを指差しながら答えを迫った。今度はセファロスは此方を向き、少し近づいてきた。
その表情は笑顔だった。
――彼、笑ってるぞ――
ガビニウスは嫌な汗が不意に額から溢れるのを感じた。
そしてセファロスは言った。
「嫌だね」
セファロスはそう言うや否や、手に持った兜を投げ付けた。思わず見とれるくらいにしなやかで滑らかな動きで、ガビニウスは勿論、誰も全く反応出来なかった。
投げられた兜はその速さからびゅっと空を切り、吸い込まれる様にマグネンティウスの顔面にめり込んだ。マグネンティウスはだらりと力が抜けてその場に崩れ落ちた。
「あ、ああ、あ」
ガビニウスは執政官の血を顔に浴びながら呆然としていた。何も出来なかった。
「貴様、よくも!」
警護の警吏が旗代わりの棍棒をセファロス目掛けて振り下ろした。
「それだけじゃあ、まあまあ止まりかな」
セファロスは警吏の腕を軽く捌いて棍棒の一撃を反らすと、腰の角笛を握り、吹き口を警吏の右目に思い切り突き入れた。
セファロスが角笛を引き抜くと警吏は意味を為さない呻き声を上げて倒れた。
「う、うわわわ」
ガビニウスはあまりの事態に動転し、へなへなと腰から崩れ落ちた。恐怖で失禁し、股の間に水たまりが出来ている。
セファロスはガビニウスの事は眼中に入っていないらしく、踵を返した馬に乗った。そして血まみれの角笛を吹いた。ゴポゴポという妙な音の後に角笛が響く。
ハルーーー―ーー!!
動転していてもガビニウスにはそれが戦いの合図だということが理解出来た。セファロスの後方に砂煙が見えていたからだ。
そしてガビニウスは馬上のセファロスを見上げた。
――彼、笑ってるぞ――
その表情は笑顔だった。
◆ ◆ ◆
執政官マグネンティウスはセファロスによりその場で殺害された。セファロス率いるメガリス軍はそのままラトリア軍に攻撃を仕掛け戦闘へ突入した。1千の"赤服"達は三隊に分かれ、見事過ぎる程の連携で敵陣を切り裂いた。時に挟み撃ちにし、時に陽動し、時に集結して一丸と成って攻撃し、互いに示し合わせたように敵部隊を翻弄して打ちのめした。特にセファロス直卒の中央部隊は八面六臂の働きを見せ、鬼神の如き強さを見せ付けた。
一方のラトリア軍は戦闘が始まる前に指揮官を失い、いきなりの攻撃で混乱の極地に置かれた。ラトリア軍の傭兵達は一度劣勢に陥ると踏ん張りが効かず、生まれも育ちも多様で使用言語も別である事も災いし、忽ちに打ち砕かれて算を乱して逃げ惑った。
ダークス傭兵は練度と誇りの高さから統制を保ち、混乱に巻き込まれながらも何とかメガリス軍に対抗しようと踏み止まった。だが、その讃えられるべき勇敢さは今回は全く逆効果だった。セファロスの狂気の攻撃は緩まる事など一切無く、それどころか果敢な敵兵の存在に一層活気づき、攻撃は激しさを増した。
余りの猛攻に対しダークス傭兵は防御陣を築き抗戦を図るが、機動力と突撃力を十全に発揮して攻め立てる"赤服"の前に次第に陣形は削り取られていった。一部の部隊が焦って迎撃に突出すると、その間隙をセファロスは決して見逃すこと無くすかさずに突入した。陣を崩されたダークス傭兵達は奮戦虚しく潰走を余儀なくされた。
トリクロスでの戦いはメガリス軍1千人に対しラトリア軍5万人という圧倒的な兵力差にも関わらず、セファロス率いるメガリス軍が快勝した。敗北したラトリア軍は執政官マグネンティウスを筆頭に8千人近くの兵を失い、生き残った兵も多くが逃散した。ダークス人傭兵の被害は特に大きく、3千人もの死者を出していた。
◇ ◇
セファロスはラボック近郊まで進出したが、市への直接攻撃には移らず、周囲の農園や貴族の別宅を襲った。
ラトリア人は再び反撃の為に軍勢を集めていたが、度重なる敗北で市民は現議会の主導派閥への不満を募らせ、敵対派閥らが市民達の支持を取り付けつつあった。貴族や富豪達も自らの所有地への被害を嫌い、ラトリア市井の世論は停戦と講和へと傾いていた。厭戦の動きに押され、ラトリア議会は再度和睦の使者を派遣した。
今度の使者はセファロスに殺されずに迎え入れられた。そして交渉では、驚くべき事に、セファロスの側からラトリア国に一つの提案を持ちかけられた。彼は賠償金や領土は要求せず、ソボラも返還すると提示した。代わりにセファロスは"今後の出来事"に関して、メガリス王国にではなく、彼個人に対するラトリア国の支援を要求したのだった。ラトリアはセファロスの提案を受け入れ、両者の間には和睦とともに同盟関係が構築される事ととなった。
だが当然、これらのセファロスの動きはサリアン王に脅威を抱かせるに十分であった。サリアンは弟の叛意を確信し、明確な追討の意思を顕するに至るのだった。
◇ ◇
ラトリア国に自らへの支援を強いたセファロスは憚ること無く独自の軍備増強を始めた。サリアン側も反逆を企てていると確信し、弟に対抗する軍勢を集めていた。
サリアン王はセファロスの如き狂人に味方など居る筈がない、と考えていたが実際はそこまで簡単にはいかなかった。セファロスはらしくもなく各氏族への調略を行った。王位の他は何も要らないとでも言うかのように大盤振る舞いの条件を提示した。強敵ディリオン軍に圧勝し、宿敵ラトリアをねじ伏せた勇名も大いに利用された。
一方のサリアンも直ぐの攻撃に踏み切らなかった。セファロス軍に対するだけの兵力を集めるには時間が掛かる上に、セファロスの調略に対抗して各氏族の抱き込みにも重点を置いていたからだった。
種々の駆け引きの末、最終的に全体の三割程の氏族がセファロスの味方に付くこと決めた。
大氏族の中でセファロス支持を表明したのはマクーン氏族・プラトゥス氏族・キャロン氏族である。
マクーン首長オルファンは当初から熱心なセファロス支持者であり、唯一の純粋な支持者でもあった。
プラトゥス氏族・キャロン氏族は大きな利益を提示されてセファロスの支持を表明するようになっていた。セファロスは両氏族には自ら交渉に赴くなど集中的に調略を仕掛けていた。両氏族は勢力も大きく、王家バルター氏族にも近い血族である為に味方に付けたがったように見えた。その甲斐あってか両氏族はセファロス支持に回っていた。
一方、サリアンを支持した大氏族はペトラ氏族・アンニー氏族・テルケン氏族・ルドン氏族・コナンド氏族と錚々たる面子であり、肝心の王家バルター氏族も殆どがサリアンを支持していた。
特筆すべき事態として西のペラール市は中立を宣した。セファロスは何の反応も示さず、サリアンはペラールの大艦隊が敵に回るよりはとこれを黙認した。
セファロスは自らも兵を鍛えながら、新たな試みとして赤服達に新兵を調練させることにした。狂気に染まった"赤服"達は思うまま流血の調練を実行し、掻き集めた新兵達を時間の許す限り極地へ連れ回し、互いに刃で血に染めさせた。"血の巡業"と呼ばれて恐れられたが、結果として"赤服"程ではないにしても7千人もの十分に凶暴かつ従順な兵を仕立てあげる事が出来た。
そして、一年近くの時が両陣営の準備に費やされた。兄弟相剋の争いに向けて互いに刃を研ぎ続けていた。
◇ ◇
新暦664年7月、ついにセファロスが動いた。セファロスは自らが王に即位することを宣言した。
セファロスはキュラス河沿いに西へ向けて進軍を始めた。その兵力は"赤服"と"血の巡業"で鍛えた新兵を中心に、自派氏族兵や傭兵なども加えて総勢4万人の陸軍からなり、ラトリア艦隊を中心に軍船200隻が輸送・側面防御で援護していた。
更にセファロスの動きに呼応してベルガラのオルファンが軍を率いて南下し始め、彼のもとには1万3千人の兵が率いられていた。マクーン氏族兵・ディリオン戦線で戦った歴戦兵、そして傭兵から構成される。
メガロ海の北にはキャロン氏族とプラトゥス氏族の軍勢がおり、セファロス本隊との合流に備えている。
対するサリアン王は召集した大軍を二手に分けた。一つは東から迫るセファロスに対抗する軍勢でサリアン自身が率いて都ギデオンに集結させていた。総兵力は7万6千人に及び、王の兵とバルター氏族は勿論、首長アグーらペトラ氏族兵、首長へネスらルドン氏族兵、中小氏族の寄合衆や傭兵から為った。
もう一つは北のオルファンとマクーン氏族に対するもので、コナンド首長モレイリィが率いていた。兵力はマクーン氏族領への攻撃部隊を除いても総勢2万2千人で、コナンド氏族兵、首長エルバダンらアンニー氏族兵、首長ブランケンらテルケン氏族兵、傭兵から編成されていた。
そしてキュラス河には王の艦隊を中核に軍船300隻が揃い、水上のセファロス派軍を撃破せんと意気軒昂であった。
漸く動いたセファロスだったが、その動きは今までの彼とはどうにも違っていた。至って常識的で平凡な進軍を続け、軍の威容で進軍先の氏族や豪族を懐柔し味方に引き入れるという極々普通の攻め方だった。さしものセファロスも王位を巡る戦争ではいきなり都を狙わず、味方を増やし外堀から埋めていこうとせざるを得ないかのようだった。
セファロス艦隊とサリアン艦隊は接触したが、河川という地形的な制約も合間って大規模な海戦を行わず、睨み合いに終始した。
新暦664年8月、艦隊の動きが止まった事を受けたセファロスはキュラス河から離れ、一旦陸路で北へ向かった。メガロ海北岸を制圧しキュラス河のサリアン艦隊を挟み撃ちにするとの作戦だと伝えられた。北にはセファロスが肝いりで懐柔したプラトゥス氏族やキャロン氏族の領地があり、それも考慮しての軍事行動でもあった。
北岸へ進んだセファロスは道中の城市スクルニーンを制圧し、これを前進拠点とした。スクルニーンは交通の便が良く、味方に付けたプラトゥス氏族やキャロン氏族の領地に通じていた。
セファロスのメガロ海北岸への進軍に対応してサリアンもまた軍勢を動かした。王自らが大軍を率いて進軍した為に折角味方に付けたセファロス派の氏族からは早くも離反者が出現し始めていた。サリアンもそれを狙っており、積極的に寝返りを奨めていた。
サリアンもセファロスも下手に相手を攻撃しようとはせず、互いに調略と交渉による各氏族の取り込み合いを展開していた。
だが、そうなるとやはりセファロスは不利だった。セファロスが自ら足を運んで味方に引き込んだキャロン氏族・プラトゥス氏族は揺れ、セファロスからの離脱の動きが見え始めていた。
両氏族の動きを知ったセファロスは兵を派遣した。それもセファロスの子飼いである"赤服"をそれぞれ二百人ずつ派遣していた。彼らしくない事ではあるが、自軍最強の兵を投じてでも離反を防ごうとの意図があるように見受けられた。
"赤服"達は自慢の健脚と拠点スクルニーンの立地に依ってキャロン・プラトゥス両氏族の氏族領に直ぐ駆けつけた。しかし、両氏族の決断の方が一足早く、駆け付けた"赤服"達は両氏族の軍勢に攻撃を受けた。さしもの"赤服"達も長距離を走った後に攻撃を受けては耐え切れなかったのか、被害は出さなかったものの退いていった。
そして、キャロン氏族は退いた反乱者が残したセファロスからの部隊への伝令書らしき書類を手に入れ、サリアン王へ送った。そこには"キャロン・プラトゥス両氏族を引き留めるべく力を尽くし、無理ならば土地を焼き、王軍との合流を妨害せよ、合流を許せば彼我の戦力差は増大し勝利は困難になる"との旨が記されていた。
伝令書を読んだサリアンはセファロス軍の窮状を確信し、精鋭の"赤服"が派遣されて数を減らしている事も含めて、それまでの慎重な動きから一転して積極的に軍を進めた。
彼の得意とする野戦の機だというのにセファロスは後退した。サリアンの確信を裏付けるかのような消極性だった。進軍するサリアンに対しセファロスは後退を続け、ついに拠点スクルニーンにまで達してしまっていた。
◆ ◆ ◆
【新暦664年10月 スクルニーン 書記官ガビニウス】
――はあ、どうして私は今こんな状況になっているんだ――
ガビニウスは心の中で一人ごちた。
と言うのも、ガビニウスは今メガリス王に対する反乱軍と共にいたからだ。その上、反乱軍の頭目で、故国ラトリアに攻め込んだ張本人であるセファロスの天幕にいた。挙げ句、繰り出された討伐軍に追い詰められている。
「顔が青いぞ、書生くん。ラトリア人に陰気な奴は少ないと聞いているが」
「は、はあ……」
ラトリアから奪った上質の寝椅子に横たわりながら件の王弟セファロスが言った。
ゆったりとした色彩豊かな南方風の衣を纏い、香煙草の煙を燻らせている。一見すると女とも見間違える王弟の姿は意外なほどに艶やかで魅力的だった。
――この状況では顔も青くなろうと言うものではないかい、全く――
セファロスはどういう訳か、ラトリア遠征で出会ったガビニウスを気に入ったらしく、捕虜にし直後に解放した後も手元に置いていた。彼はガビニウスを"書生"と呼び、書記やラトリアとの連絡係としても用いていたが、もっぱら単なる話し相手として使うを好んでいた(もっともセファロスの狂った話の多くはガビニウスの理解を超えていたが)。ラトリア本国も一人の若貴族程度で機嫌が取れるならと、ガビニウスを取り戻そうなどとはしなかった。
大嫌いな戦場暮らしを強いられる事を除けば待遇は悪くなかったのは幸運だった。反乱軍の兵士達もセファロスと普通に話をするガビニウスに畏れを抱いている様子で、その事もガビニウスの暮らし易さを向上させていた。
最初は絶望していたが、数ヶ月も居ると不思議と慣れて来るもので、今ではこうして王弟と向き合うことにも忌避しなくなっていた。
「まあ、私の事は兎も角、殿下はこの状況をどの様にお考えなのですか」
「どう考える、とは?」
「御言葉ですが、今の状況は此方側が大いに不利なのではありませんか? 敵は大軍で、此方は追い詰められています。味方は寝返りを続けています。私は戦は詳しくありませんが、それでも事態が良くないのは分かります」
ガビニウスはやや強めの語調で言った。
「ふーん、書生くんは勝てないと思っている訳だ」
「不興を覚悟で端的に申しますが、その通りです」
「正直な奴。意外と物怖じしないんだなあ」
セファロスは上体を起こしながら答えた。口調は柔らかで、敵意は感じさせない。
「私はそうは思わない。端的に申して、さ」
「何故そう思われるのです?」
「今回の戦いは楽しくないから。勝てる方法しかとって無いからさ」
――理由には全くなってないが、この人と話していると"なら大丈夫か"と納得してしまいそうになる――
ガビニウスは思った。良くも悪くもセファロスからは揺るぎ無い絶対性を感じるのだ。
「つまり、仰らないだけで殿下には勝利への道筋を既に立てておられると言うことですか?」
「別に隠してる訳でもないけど、そんなところかな」
「我々にはまだ勝ち目があるとそう言うことなのですね」
今我々と言った事にガビニウスは自分の事ながら不思議に思った。目の前にいる男は恐ろしい侵略者である筈なのに、何故か目を離せない感じがした。
正直な所、セファロスにわざわざこの話をしたのも、戦場で死にたくない以上にセファロスに危なっかしさを感じて忠告したくなったからだった。溌剌な少年に対してあれこれと老婆心を見せてしまう時のような感触だった。
「勝ち目がある、とはあまり正確な言い方じゃないな。ま、折角だからどういう事か教えて上げよう、書生くん」
セファロスは自信に満ちた声で言った。ガビニウスはそう発言する王弟の顔を見て、心臓が速鳴りした。
――彼、笑ってるぞ――
◆ ◆ ◆
セファロスを追い詰めたサリアンだったが、必ずしも万事順調であった訳では無い。誰がセファロスという大魚を仕留めるかで揉めていたのだ。ペトラ首長アグーはディリオン王国攻撃での失敗を取り戻そうと躍起になり、キャロン氏族やプラトゥス氏族らは一度セファロスに付いた汚名をそそごうとしていた。他の傘下氏族や中小の独立氏族も名を上げようと我も我もとセファロス討伐の機を狙っていた。サリアン自身もまたセファロスを討ち取る事に並々ならぬ意欲を示し、その実績を望んでいた事が事態をよりややこしくしていた。
サリアンは個人としては他の首長と同様に反逆者セファロスを討ち取る事に執着していたが、王としては氏族間の利害調整に動かなくてはなかった。メガリス王は氏族という擬似血縁集団の長に過ぎない為、縁者たる各氏族の利益を無視して動くことはどうしても出来なかったのだ。サリアンは積年の想いと王の責務の間で揺れ、何方か一方に徹しきれなかった。個人の想いに身を支配させようにも王の立場という理性が歯止めを掛けていた。
新暦664年11月、スクルニーンに依るセファロスの陣営から大規模な脱走が発生した。傭兵や氏族兵ら4千人が勝ち目なしと見て逃亡したようだった。多くは直ちに派遣された"赤服"に処刑されたが、セファロス陣営の弱体化を見て取ることが出来た。そして兵の脱走を受けてこれ以上時は掛けられないと意を決しでもしたのか、セファロスはついにスクルニーンから出撃しサリアン軍に戦いを挑んだ。機が訪れたとみたサリアン王はこれに受けて立ち、セファロスに止めを刺さんと軍勢を繰り出した。
セファロス軍は脱走と派遣で兵を減らし、残った3万5000の兵を展開させた。中央前衛には氏族兵2500人と傭兵1万5000人を配置し、その後ろには"血の巡業"で鍛えられた子飼いの新兵7300人を置いた。戦列を強化すると同時に前衛部隊の後退を防ぐ督戦隊としての役割も任されていた。両翼にはダークス人傭兵5000人ずつを配置し、包囲攻撃への対応の為に戦列は斜めに配置されていた。そしてセファロス自身は"赤服"600人を直接率いて後衛にいた。
サリアン軍はセファロス派からの離反者や日和見勢力を取り込んで兵力を増加させていた。王の精兵7000人・バルター氏族兵2万人・首長アグーらペトラ氏族兵2万人・首長へネスらルドン氏族兵7000人・首長ジクードらキャロン氏族8500人・首長ムートンらプラトゥス氏族7000人・中小氏族兵や傭兵の寄合勢2万3000人からなる総勢9万3000人の大兵力である。布陣は後衛と本陣を兼ねる王直属部隊を除いては有って無きが如く、各氏族の熱情と欲望のままの布陣であった。大まかにみてキャロン氏族は前方に位置し、出遅れたルドン氏族は後方に位置していた。
サリアンは大兵力に驕らず秩序立った攻撃を企図していたが、キャロン首長ジクードの抜け駆けでその目論見は潰えた。先を越されてなるものかと他氏族も後に続き、焦ったサリアン王も引き摺られるように動いてしまった。結果、攻撃は連携を欠き、大軍による強引な力押しとなった。余りに多くの兵が攻め寄せた為に、斬り込み戦術を得意とするメガリス氏族兵には剣を振り回す余裕が無くなってしまった程だった。
キャロン氏族の先行攻撃は撃退されたが、後から後からサリアン派軍の兵がセファロス軍に向けて押し寄せた。サリアン軍の猛攻を最初に受けるセファロス軍前衛部隊は元々士気も低く、戦意は十分とは言えなかった。だが背後に置かれたセファロス子飼いの新兵が剣を此方に向けている以上、逃げることは出来なかった。逃げても殺され、降伏してもこの混乱では無視されてしまい、攻め寄せる敵軍相手に死闘を繰り広げるしか道がなかった。
意外な前衛部隊の奮戦で激しい戦いが中央で展開される一方、出遅れたルドン首長へネスは配下の氏族兵5000人を率いての迂回・包囲攻撃を狙った。セファロス軍左翼方向に向かって部隊を動かしたヘネスだったが、戦功欲しさにやはり単独で動き、他の部隊との連携は著しく欠いていた。ルドン氏族隊はサリアン軍本隊と離れ、間隙を作ってしまった。その隙間をセファロスは見逃さず、"赤服"の一隊を送り込み、ダークス人傭兵の一部も前進させてルドン氏族隊を側面から叩いた。ルドン氏族隊は崩れ、首長ヘネスは混乱を収集しきれず後退を強いられた。
セファロス軍の反撃で強かに打ち据えられたサリアン王は冷静さを取り戻し、一旦軍勢をまとめようとした。各氏族の熱狂的な攻勢は確かに強力ではあるが、統制の取れた攻撃はそれを遥かに上回る。しかし10万近い大兵団を集め統御し直すのは果てしない労力が必要であり、無理に押しとどめようとする事で式に混乱を来たしかねなかった。それでもサリアン王は半数程の兵を再掌握し、統制下に置き掛けるまでに至っていた。
その時、せファロス軍前衛が突如として崩れた。傭兵と氏族兵の寄せ集め部隊が抵抗を止め後退したのだった。サリアン王はこの敗走に乗じて攻勢を強めるか、機を逸してでも軍の統御に注力するかの選択を迫られた。サリアンは追撃の誘惑を振りきれず、兵の統御もそこそこに軍に続けての攻勢を命じた。このままセファロス軍の中央を貫き、敵軍全体を崩壊に至らしめようと図った。
前進を続けたサリアン派軍の目の前に現れたのは無傷のセファロス子飼いの新兵達だった。長槍と大盾を備え、密集陣形を採る子飼い兵は先程までサリアンが戦っていた前衛部隊ともダークス人傭兵とも異なり、その戦闘力と防御力は極めて高く、数で圧倒するサリアン軍の足を止めた。
血みどろの戦いを繰り広げたセファロス軍中央部隊だったが、サリアン軍の前進を完全に停止させる事は出来なかった。徐々に徐々に押され、中央部隊は後退し始めた。だが押し込まれながらも戦列は維持し続け、次第に凹型の陣形に変化していた。
敵中央部隊の後退を見たサリアンはここで決着をつけるべく、自軍の最強戦力である王の精兵6000人を投入した。メガリス兵の中では特異的に整然とした隊列で突撃を掛けた王の精兵の衝撃力はセファロス軍中央を更に押し込んでいった。
サリアンは勝利を確信していた。
◆ ◆ ◆
【新暦664年11月 スクルニーンの戦場 書記官ガビニウス】
――これは、何と、凄い――
メガリス王位を巡る一大決戦。サリアン王は十万近い軍勢で押し寄せ、王弟セファロスは遥かに劣る兵力で迎え撃つ。スクルニーンの戦場では全域で激しい攻防が続いていた。
ガビニウスは戦場には居らず、後方の陣地化されているスクルニーンの見張り台から戦況の推移を驚きと共にを注視していた。
だがガビニウスが驚愕していたのは兵士の多さでも戦闘の激しさでも無かった。
――全て彼の言った通りになった。ここに至るまでも、至った後も全てだ――
ガビニウスはセファロスが戦いの前に言った事を思い出していた。それは敵対勢力の心の動きまでも見透かした"予言"だった。
――"私はわざと交渉だの調略だのと鬱陶しい遣り口を採った。これによって今回の件をサリアンは政治闘争と捉えるだろう"――
王弟はガビニウスの聞き及んだ限り、戦場での事しか考えない人物だった。だが今回は他の将帥と同様に話し合いや交渉の術を多く用いた。
――"つまり、サリアンはより多くの協力者を集めてより多くの政治的影響力を確保することが勝利である、と認識するわけだ。どう兵を動かしどう戦うかじゃ無くてな"――
サリアン王がこれに対抗して交渉や政治力を駆使して戦う事を選んだのは事実だった。軍兵の動きもまた戦闘での勝利ではなく、支持者を集めるための動きであった。
――"腐れ首長どもとお遊戯したければさせておく。その後でサリアンも配下の連中も引きずり出し、戦場で叩き潰す。その為には敗北や消極を演出する必要もあるだろう。だが、最後の決着は戦場で付くのだ"――
サリアン勢はセファロスが釣り下げた餌に食いつき、功績争いの結果、軍の尽くがこのスクルニーンの戦場に現れた。王自らもだ。ここで決着が付かないなどあり得ようか。
――"戦場にサリアン共を尽く引き摺り出す。連中は戦功を巡って先を争って攻めてくるだろう。あるべき統率は望めまい。多分、私の側に付いた汚点のあるジクード辺りが抜け駆けるだろうな。幾ら数が多かろうと纏まりのない攻撃などどうとでも出来る"――
セファロスはサリアン王の大軍を相手に一歩も退かない戦いを展開している。各々勝手に攻撃するサリアン軍を撃退し続けている。
――"後は敵の注目を引きつつ待つだけだ。仕込んだ罠が発動するのを、な。キャロンやプラトゥスの奴らに近づいたのも、スクルニーンを敢えて取ったのも最後の瞬間の為だ"――
最後の瞬間の為に全て仕込んでいる、と彼は言った。何もかもがだ。ただ、その時に私はそこ迄上手く行くだろうかと尋ねた。サリアン王や首長達がそのように動いてくれるだろうかと流石に疑った。
それに対してセファロスははっきり答えた。
――"動くね。そういう風に誘導するから。彼奴等が欲しがってるもの何て考えなくても分かる。私の首さ。これを上手い事ちらつかせ続ければ簡単に引っかかってくれる"――
彼は自分の命をあっさりと囮にすると言ったのだ。確かにトリクロスでも自殺行為の如きの策略を用いて数で圧倒するラトリア軍を撃破した。
――"例えば、ここぞという所で相手の陣列が崩れたら? その先に新しい敵がいるのだとしても勢いに乗ってそのまま突き破りたくなるのが人間というものだ"――
これもまた言った通りになった。サリアン軍は一度統率を取り戻しかけた。王の下に兵が集い始めたのだった。
しかし、その瞬間、自軍の中央前衛が突然列を崩し後退した。後衛の例の新兵隊が列に隙間を開け、前衛が逃げる事を可能にしたからだった。
そして前衛部隊が崩れたことでサリアン軍は秩序を取り戻す事を止め、再度の攻撃を始めていた。
――"奴は最後の最後で、これは戦争だった、と思い出す訳さ。ま、その時には全てが手遅れだがね"――
ここまでの全てがセファロスの"予言"通りになった。一つも違えなかった。
――恐らく、いや確実にこの後もセファロス殿下の思った通りになるのだろう――
ガビニウスは見張り台の手摺をぎゅっと握りしめた。手は緊張と興奮の汗でじっとりと湿っている。
その時、血みどろの戦場の彼方に二つの砂煙が見えた。立ち上る砂煙の大きさから見ても、集団の人数はそう多くはない。数百人もいないだろう。
一つは北から、もう一つは西から向かって来ていた。血に塗れた赤い服達が。
それがこれまでに仕込んだ罠であり、最期の瞬間が迫っているのだとガビニウスにも分かった。
――確かに、勝ち目がある、どころの話では無かったな――
ガビニウスからは到底見えはしないのだが、彼には確信出来た。
――きっと、彼、笑ってるぞ――
同時に、今ひとつセファロスが言った言葉を思い出していた。
――"つまらん戦だが、折角だし少しは楽しめればいいが"――
そう言いながら、彼の顔には笑みが浮かんでいた。トリクロスでも見た、あの顔だ。
ガビニウスは思った。
――つまらない戦いであの笑みならば、果たしてつまらなくない戦ではどの様な顔をするのだろうか――
◆ ◆ ◆
勝利を確信し前面の軍を撃ち破る事だけに集中していたサリアン軍をセファロス軍の別動隊が襲った。離反氏族の元へ派遣され、失敗して逃げ散った筈の"赤服"が戦場に駆け付けたのだった。スクルニーンは離反したキャロン・プラトゥス両氏族領に通じる集結点であり、背後を攻めるには絶好の位置だった。
全てはセファロスの計略だったが、戦略的な展開を戦術単位の舞台に反映させるのは正に人智を超えた神業と言って過言では無かった。
200人ずつ二隊の"赤服"がサリアン軍の背後から強襲を掛けた。サリアンは狼狽しながらも懸命に防衛に当たり、直属の王の精兵も送り込んだ。しかしセファロスが手ずから鍛え上げた"赤服"の本気の攻撃は凄まじく、王の精兵といえども翻弄され、その進撃は押し留められなかった。
別動隊の襲撃に呼応してセファロス軍中央の新兵も両翼のダークス人傭兵も攻勢を掛けた。サリアン軍は勝利の酔いの虚を突かれ、別動隊の側背からの攻撃で浮き足立った。押し込んでいるつもりがいつの間にか凹型陣の深みに誘い込まれていた事もサリアン軍の混乱に拍車を掛けた。
そして、満を持してセファロス率いる直卒の"赤服"六百人が敵陣目掛けて突入した。
浮き足立ったサリアン軍などは幾ら数が多かろうともセファロスの敵ではなかった。六百と一つの狂気がサリアン軍の陣中を思うままに駆け、蹂躙した。氏族兵も王の精兵もどうすることも出来ず、されるがままに圧倒された。
サリアン王は敗北を悟り逃走を選んだが、最早彼には選択肢など与えられていなかった。瞬く間に追い付かれたサリアンは共に出陣していた長男と共々、セファロスに容赦なく斬り殺された。命乞いをする余地さえも存在しなかった。
サリアン軍は王の死で止めを刺され、雪崩を打つように潰走を始めた。数万人の大軍勢の敗走はそれだけでも語り草になる迫力があった。セファロス軍の追撃もまた激しく、戦場は血飛沫で包まれた。サリアン軍の中には先程までの味方を襲ってセファロス軍に寝返ろうとした者が後を絶たなかったが、セファロスは関係無しに追撃を掛けた。
最終的にセファロス軍は寄せ集めの氏族兵・傭兵ら4000人とダークス人傭兵2000人、中央部の新兵1000人、"赤服"50人を失った。対するサリアン軍は敗走時の同士討ちもあって2万人が戦死し、3万人もの負傷者を出した。更にサリアン王と王子を始め、キャロン首長ジクード、ルドン首長ヘネスやその他多くの首長や豪族、隊長が討ち取られた。
言うまでもなく、セファロス軍の圧勝であった。
◇ ◇
新暦664年12月、スクルニーンで敵軍を撃破し、サリアン王を討ち取ったセファロスは軍勢を率いてメガロ海以北の平定を進めた。圧倒的な勝利を手にしたセファロスに道中の氏族は抵抗せず寝返った。プラトゥス氏族や首長を失ったキャロン氏族も諦めて再度降伏した。
セファロスは一々降伏勢力を罰したりせず、彼らを受け入れた。その姿勢はこれまでの様な政治的行動よりも、従来の無関心さから至ったものであった。そうしてセファロスはスクルニーンでの勝利から一月足らずでメガロ海北岸からブラウ河に挟まれた地域を手中に納めた。
キュラス河に陣取っていたサリアン派軍の艦隊は河口を封鎖されて挟み撃ちに会う事を恐れ、直ぐ様キュラス河から撤退した。途中スクルニーンの敗残兵を回収し都ギデオンへ向かったが、艦隊を離れてセファロスに投降した船は十隻や二十隻ではきかなかった。
ギデオンに辿り着いたのは二万の敗残兵と"王の艦隊"を中心とする百隻の軍船だけだった。兵はペトラ首長アグーにひきいられていたが、その士気は著しく低下していた。
◇ ◇
一方、メガリス北部でも事態は大きく動いていた。
ベルガラを拠点にしたマクーン首長オルファンもまた迫るサリアン派軍に勝利し、ブラウ河沿いに南下を続けていたのだ。
オルファンは兵を能く動かし、セファロスの様な華麗で圧倒的な勝利ではないものの着実に勝利を重ね、柔軟な交渉・調略術で敵陣営を切り崩し、戦力差を覆してサリアン派軍に対して優勢を確保していた。その進軍は今やアンニー氏族の主邑タガーロスにまで到達していた。
サリアン派軍はタガーロスを拠点に集結し、防衛線を張らんとした。しかし、そこでスクルニーンでの勝敗の報が両軍にもたらされた。サリアン派軍を率いるコナンド首長モレイリィはこれ以上の異郷での戦いを嫌い、自氏族の兵を連れて引き上げてしまった。テルケン首長ブランケンもまた背後をセファロス本隊に押さえられることを恐れ、北部を離れた。後に残されたアンニー首長エルバダンは激怒しながらも降伏は選ばず、タガーロスでの抵抗を選んだ。
スクルニーンの勝報で俄然勢い付いたセファロス派軍は兵力を2万人にまで増しており、対するサリアン派はアンニー氏族の6千人だけであった。エルバダンはタガーロスに籠城し、サリアン派或いは反セファロス派の決起を待つつもりだった。
敵軍の籠城を前にしたオルファンが取った策は実に単純だった。籠城軍に対しエルバダンの首を持ってきたら全ての敵対行為を放免すると告げ、エルバダンの縁者に次期首長の座について支持すると持ち掛けたのだ。そしてエルバダン自身には今降伏すれば、セファロスに赦免を口添えし、煽られた氏族からの保護も与えると約束した。
籠城軍の団結を阻害し、それぞれの利益と生存本能を揺さぶった策は見事に当たり、流石のエルバダンも自己の生命には代えられないと諦め開城した。エルバダンはアンニー氏族と切り離されて軟禁され、タガーロスにはオルファンの手勢が配置された。
こうしてメガリス北部もセファロス派の手に落ちた。オルファンはベルガラでディリオン軍と対峙しながら北部を平定していくという困難な任務を達成したのだった。
◇ ◇
新暦665年1月、東部と北部はセファロスの手中に入り、王を失ったサリアン派の勢力は後退を続ける一方だった。軍勢はペトラ首長アグーと共に都ギデオンへ到着していたが、その地もサリアン派にとっての安住の地とはとても言えなかった。既に市内では来るセファロスに迎合しようと騒乱や暴動が頻発していた。一番の問題はこれらの争いを抑えるべき権威者であるアグー自身がセファロス派に転向し、サリアン派残党の捕縛に乗り出した事だった。
市内での騒乱は忽ち戦闘へと発展し、各所でセファロス派に転じた者とサリアンの一族を奉る者達が衝突した。勢力の大きさは今やセファロス派が勝り、サリアン派は追いつめられていった。バルター氏族の一人ユーダハトは何とか兵を掌握し"王の艦隊"を従わせると、サリアンの次男サロネンスを引き連れて都を脱出した。王妃や他の王子、王女も置き去りにして王子サロネンスだけを連れたユーダハトの動きは素早く、セファロス派の追撃を振り切ることに成功した。
アグーの転向によりブラウ河西岸平定の手間が省けたセファロスはオルファンを引き続き北部の守りに派遣すると、スクルニーンの勝兵やキュラス河から進軍した艦隊と共に騒乱冷めやらぬ都ギデオンに入城した。サリアン派残党の軍勢や艦隊は既に都落ちしており、セファロスの進軍に抵抗する者は誰もいなかった。
セファロスの到着は騒然としていた都を一瞬で鎮まり返らせた。これまでセファロスは単なる勇武の人としてしか認識されていなかったが、今やメガリスの支配者である。そして直に見るセファロスと彼の赤服達の姿は人々を刮目させる覇気と狂気に満ちており、誰もが押し黙ってしまうのだった。
セファロスは王宮に入り、玉座の主となった。
◆ ◆ ◆
【新暦665年1月 都ギデオン 書記官ガビニウス】
都ギデオンに築かれた極彩色の宮殿は風通しがよく、玉座の置かれた謁見の間も同様である。勝利者達は今やこの極上の王宮を手に入れていた。
ガビニウスも含めた以前の反乱者達は勝利者として乗り込み、堂々と立ち並んでいる。本当は余所者であるガビニウスも身内の成功のように感じ、何となくいい気分になっている。
そして彼らの首魁にして最大の功者、新たな王たるセファロスは玉座に座している。戦の只中にあったとは思えないゆったりした衣を纏い、兄王を殺して奪った冠をぞんざいに頭に被っている。
「この椅子は良くないな。もっと良い椅子が欲しい」
黒光りする黒壇で造られた玉座は彼の趣味に合わないらしく、セファロスは大層心地悪そうにしていた。普段彼が好んで座る類の椅子とは全く作りが違うのだから当然とも言える。
――幾万の人命が掛かった王座さえもセファロス殿下、いや陛下には出来の悪い椅子扱いとは。実に底知れぬお方だ――
「それで、誰に合わねばならないのか。さっさとしてくれ」
「はっ、陛下。先ずご裁断頂きたいのが王族の方々に御座います。おい、お連れせよ」
ペトラ首長アグーが答えた。いち早くセファロス側に与して都を譲り渡し、既に一画の地位を占めるようになっている。変節と変わり身の速さに批判も相次いでいるが、かつての敵軍内でも地位を保っているのだからその才覚は確かな物があると言わざるを得ない。
アグーの指示と共に、衛兵に取り囲まれてバルター王家の人間が現れた。王妃ヨレイナ、末の王子サリーナス、王女達、そして戦死した王太子の妻や子達である。皆サリアン派の残党軍とサロネンス王子に置き去りにされていった者達だ。セファロスには義姉に当たる王妃ヨレイナは騒乱で負傷したのか、左腕に血が滲んで赤くなった包帯を巻いている。
皆一様に青褪めた顔をし、俯向いている。悲しみ憤り恐れ、全ての負の感情が混ぜ合わさった表情だ。
「ああ、そう言えばそうだった。皆久しいな。これだけ集まるのは新年の祝いくらいだなものなあ。時節も丁度今頃だったかね」
セファロスは足を組み換えつつ言った。何故彼らが沈鬱な表情であるのかを気にも掛けていない様子だった。
――彼らにとって、とんだ新年の顔見せとなった訳だ――
「よし、それで次は誰だ?」
「……へ、陛下?」
「何だ。さっさと次の奴を連れて来たまえ」
「……へ、陛下。申し上げにくい事では御座いますが、王族の方々のご処置如何致しましょうか」
アグーは困惑と共に尋ねた。その言葉にセファロスは逆に戸惑っていた。
「む、処置だ? 別にどうでもいいではないか」
「そ、そうは参りますまい」
「はあ、面倒くさいな……そうだ、書生くん。君はどうしたら良いと思う?」
突然のセファロスの振りにガビニウスは焦った。
「え、あ、私の考えですか? まあ、その、陛下のご一族の方々で御座いますし、残された者は皆子女ばかり。家長として慈悲をお見せになり、手厚く保護なされてはどうでしょうか」
「そうか。じゃあ、そうしてくれ。これでいいな」
セファロスの、実にセファロスらしい無関心で粗雑な回答に誰もが苦笑せざるを得なかった。それは生死を握られていた筈の王族らも同様だった。余りに想定外の事が起きると、空気もまた弛緩してしまうらしい。
そう思った矢先の事。
「……セファロス陛下!」
王妃ヨレイナが頭を地面に擦り付けんばかりに下げ、セファロスへとにじり寄った。声は震え、哀れな女の声をしていた。
周囲の護衛は誰であろうと主君に近寄るものへの警戒を怠らなかった。近づこうとする王妃ヨレイナに剣先を向けようとした。
しかし、セファロスは手を上げ、皆の動きを制止させた。その時、側にいたガビニウスだけが彼の表情の変化を垣間見ることが出来た。
――どうして笑っているんだろうか――
「御慈悲を賜り誠に言葉も御座いません……全ての不徳お許し下さいませ!」
「ああ」
ヨレイナはついにはセファロスの足元に縋り付き、怪我をした腕を庇うように跪いた。幾ら側近くまでよったとしても、所詮は傷ついた女。如何ほどの脅威であろうか。誰もがそう思っていた。
「おぉ、陛下……」
縋り付いていたヨレイナの目が一瞬細まった。
「あっ」
そして周囲の人間が呆気に取られるほど素早く彼女の傷ついていた筈の腕から白刃の光が煌めいた。巻かれた包帯から短剣が飛び出て、その柄はしっかりと無傷の手に握られていたのだ。
だが、ガビニウスが驚いたのはその事では無かった。ヨレイナの手から白刃が煌めくよりも素早く、セファロスの手が彼女の腕を掴んでいたからだった。
セファロスは笑みを浮かべながらヨレイナの短剣が握られた手を掴んでいた。ヨレイナは呻き、手を振りはおうとしていたが微動だに出来なかった。
「うっ、くっ!」
「悪くはありませんな、義姉上。ですが、まあ、貴方ではこんなところでしょうか」
セファロスは腕を握ったまま、自分に向けられていた短剣をゆっくりとヨレイナの顎下に近づけていった。ヨレイナの鼻息が荒くなり、一層強く抵抗した。
「くっ、あっ! この狂人! お前など死んでしまえ!」
そうヨレイナが言った直後、セファロスは短剣を彼女に突き込んだ。
セファロスは手を離し、ヨレイナは倒れた。
「は、母上!」
呆然とする虜囚の列から一人の男子が飛び出し、血塗れのヨレイナに駆け寄った。末の王子サリーナスだ。
「母上! 母上!」
必死に母の名を呼び、血塗れの体を抱き寄せる。サリーナスは母に刺さった短剣を引き抜いた。
「……」
サリーナスは血塗れの短剣を握りしめ、じっとセファロスを睨みつけていた。その目には憎しみと殺意、そして言い様もない畏れが溢れんばかりに込められていた。
――おお、何と凄絶な……。叔父が両親を殺し、彼の不倶戴天の敵となるとは――
回りの護衛兵はサリーナスが握る短剣を取り上げようとしたがセファロスはそれを留めた。
「短剣は取らなくていい。連中はもう部屋に帰せ」
よろよろと出て行く虜囚達、鮮血に染まった王妃の遺体、そして短剣の柄をぎゅっと握り最後までセファロスを睨みつけていたサリーナス。
サリーナスの視線を笑みとともに受けていたセファロスは最後に言った。
「こんな事があるなら、もっと早く王になっておくべきだったかな。彼みたいなのが増えてくれるなら、"慈悲"を掛けるのも悪くない。なあ、そう思わないか、書生くん?」
流石にガビニウスは何も言えなかった。
◆ ◆ ◆
サリアンの末子サリーナスは特に傷つけられる事無く、王宮の片隅で暮らす事になった。セファロスの無関心にも助けられ、バルター氏族の穏健派の庇護の下にサリーナスは生き延びた。そして仮にも王の一族であるサリーナスをセファロスの不興を買ってでも態々害しようとする者は居らず、セファロスの足元に居ることで寧ろ安全とさえ言えた。
セファロスは王家の生き残りだけでなく、かつての敵達を特別罰したりはしなかった。彼特有の無関心さで降伏者を受け入れたのだった。一方で降伏者や民衆に対して慈悲を掛けたりもしなかった。略奪や乱暴狼藉を禁止したりもせず、それぞれの首長や氏族達の自制に任せていた。幸いにもセファロスが進言を受け入れて国庫から金品を報奨としてばら撒いた為に兵士達の欲望は満たされ、都ギデオンが略奪の嵐に巻き込まれることはなかった。
◇ ◇
ギデオンから逃げたサリアン派の残党は次男サロネンスを立て、支持者の残る西方へと向かった。北部での戦いを忌避して後退したとはいえ、コナンド首長モレイリィもテルケン首長ブランケンも反セファロスの姿勢を保っていた。
更にサリアン派残党はこれまで中立であったペラールを味方につける事に成功した。セファロスは同盟者であるラトリアを優遇しており、ラトリアは同時にペラール市の商売敵でもあった。ディリオン方面での影響力を大きく失ったペラールはこれ以上商業的優位性を損なうわけには行かないと、交易特権を条件にサロネンスの王位を支持したのだった。
そして早くもセファロス治世下のメガリス王国では反乱が発生していた。降伏者をそのまま受け入れていた為に諸氏族や豪族らは力を保ったままにセファロスの平定をやり過ごしていた。それら勢力を温存出来た氏族らの一部が再び蜂起したのだった。彼らの多くは必ずしもサリアンの一族を支持するものではないが、それ以上にセファロスの治世を嫌悪していた。
セファロスは方々に討伐軍を派遣しながら、自らも嬉々として軍を率い出撃した。メガリスでの内乱は未だ収束には時間が必要であった。
ディリオン王国はこの隣国の動乱に積極的に介入しなかった。彼らには彼らの事情があり、十分にその動きを束縛するものであった。
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