『隣国』
ディリオン王国では広大な領土を支配する為に大貴族達が地方を統治していた。彼らは"公"と呼ばれ大幅な自治権を与えられていた。元は独立した王達であった彼らはディリオン王国に屈した後も強大な力を持って生き延びていた。
リンガルの隣国コーアにも"公"が存在し、地域一帯を治めていた。有力ではあっても単なる貴族に過ぎないプロキオン家とは違い、広大な領土と伝統を持っていた。
そして、領主の役目は戦うだけには留まらない。若き貴族は隣国の"公"の元へ赴いていた―――
◆ ◆ ◆
【新暦656年11月 コーア公都オリュトス 貴族ジュエス】
ジュエスは腹心の家臣達と共に隣国コーアへ赴いていた。近年急激に増えた盗賊の流入に関してコーアに補償と対策を求める為である。
コーアは王国北部に存在する地域で、北のアノール川を越えてやって来た蛮族を前身としている。風俗習慣もその他の地方とはやや異にしているところがある。
コーア地方の中心都市がここオリュトスであった。そのオリュトスにジュエス達はやってきていた。
オリュトスの大広間でジュエス一行を出迎えたのは一人の老人だった。
「よお、ジュエス坊や! 久しぶりじゃないか! 二年ぶりか? デカくなったな!」
広間一杯に大声を響き渡らせる豪快な老人こそがコーア公にしてマールーン家の当主ケイズである。
頭にはすっかり薄くなった白髪がへばり付いている。右頬には戦で付いた大きな傷跡が恐ろしげに残り、勇猛さを示していた。
身長は大きく、ジュエスより頭三つ分は上だった。老人にも関わらず逞しい体は未だに筋骨隆々で、見るだけで力強さを感じる事が出来た。
ジュエスとケイズは初対面ではない。プロキオン家の当主となった際、祝いに来たケイズとは対面している。その時にジュエスは彼に妙に気に入られてしまっていた。
公座から立ち上がったケイズはジュエスに近づいてくる、手には二つ大杯を持っている。
――やっぱり、例の儀式はあるのだな……――
ジュエスはケイズを見ながら思い出していた。
近づくなり、ケイズは有無を言わせず片方の大杯を手渡した。中には並々と麦酒が注がれている。
「忘れてはいないだろうな、坊や? さあ飲め! 友人には命の水を、だ!」
コーア人は外来の異民族を前身とする集団である。
その為か、蛮族の長の流れを組むコーア公にはディリオン王国の一般的な習俗とは異なる習慣があった。
このいきなりの飲酒もその一つであった。
「え、ええ、勿論覚えていますとも、ケイズ公」
ジュエスはげんなりしながら、無理に笑顔を作った。
この並々と注がれた麦酒を一時に飲み干さねばならない。
前回会った時もケイズはこの儀式を求めた。まだ十四歳になったばかりのジュエスには辛い儀式だった。
家臣達も止めようとしたが、隣国の主の歓心には代えられないと思い耐えたのだった。その後の記憶は無い。ただ翌日ケイズ公が大いに喜んでいたので成功したのだなと思った記憶しかなかった。
今回はジュエスも十六歳。酒を飲む事も平然と行える年齢だ。この程度の酒なら何とかなる。
「では頂きましょう」
大杯に口を付け一気に飲み下す。麦酒自体は上等な代物で、芳醇な味わいが口に広がった。
とは言え量が量なだけに、吹き出さない様にするのは一苦労だった。
――はあ、これで満足かい、爺さん――
そして、大杯を飲み干して空にしたジュエスの目の前には満面の笑みでもう片方の大杯を差し出すケイズが立っていた。
「さあ、飲め。二年分だ!」
二杯目を飲み終えた時にはジュエスはフラつきを感じていた。外交交渉に来たのにこれではいけないとは思ったが、どうしようも無かった。
ケイズは全身を振るわせて満足そうに笑った。
「相変わらずいい飲みっぷりだな、坊や! 儂も頂くとしよう」
ケイズは従者に麦酒を二つの大杯に注がせ、一息に飲み干した。
ケイズは今年で六十歳になるが、その元気さは衰えを見せないようだ。
「二年越しの友情はどうですか、ケイズ公。私は感激でふらふらですよ」
バランスを崩さない様に多少注意しながらジュエスは言った。顔と頭に火照りを感じる。
「二年分? 馬鹿な事を言うな。今のが一年分だ!」
そう言うとケイズは再び麦酒を二つの大杯に注ぎ、飲み干した。
流石にジュエスも苦笑を禁じ得なかった。
◇ ◇
儀式を終え――他の家臣も執り行った――ケイズとジュエスは執務室へ向かった。
今回の来訪の本題を話す為だ。頭の酔いも冷めてきている。まともに話は出来そうだった。
執務室の中は簡素な作りで、中央の机と幾つかの椅子の他には暖炉とケイズの武具が置かれているだけだ。暖炉は煌々と燃え、部屋の中を暖かさで満たしている。
「さて、話とは何だったかな?」
着座したケイズが訊ねた。テーブル上には麦酒の注がれた杯が置かれている。
ケイズは武人としては名を馳せているが、統治者や行政者としては落第だ。既に話は通しているのにこの有り様だ。
「コーアから流入している盗賊の件です。去年から数えて大小合わせて十二回です。彼らが我が領民に与えた被害に補償をして頂きたい。そして、この様な事が二度と発生しないよう対策して頂きたい」
ジュエスははっきり伝えた。この爺さんには一々暈しても仕方がない。
「むう、流れ者の件は申し訳ないと思っとる。補償に関しては出来るだけのことをしたいのだが、儂らも金が無くてな。知っとるだろう? 王都からは引っ切り無しに税金と賦役の要求が来る。国王陛下の命令では従わざるをえん。宰相殿の口添えもある事だしな」
ケイズは杯に口を付け半ばまで飲み下した。
「それにな、坊やは去年で十二回というが、儂は先月だけで十回は盗賊退治に向かったぞ」
――それは自慢するような事じゃないだろう、爺さん――
ジュエスは心の中だけで毒を吐いた。
この老人は公の様に大きな力を持つ貴族としては珍しい事に王家への忠誠心が非常に熱いことで有名だった。義心に満ちているのか単に間抜けなのかは分からないが、大事なのはケイズが王の命令に忠実に貢物を収め、足りない分をこれまた忠実に民衆から取り立ているということだった。
「それとこれとは話が違います。王への貢納を滞りなくするのは宜しい。ですがその結果としての我々への被害に対しても弁償するのが筋というものでしょう」
「言いたいことは分かるがなあ。無いもの無いのだどうすることも出来ん」
「実際に苦しんでいるのは民衆です。その民衆にどうすることも出来ないなどと言って捨て置くのは、それこそ不忠と言うものです」
勿論、ジュエスは民衆、特に領地でないコーアの民衆がどうなろうと知ったことではない。だが統治のためには民衆にも気を配る名君であると皆に思わせておかねばならないのだ。
だが言われた側のケイズは肩をすくめ、かぶりを振っただけだった。
その時、執務室の扉が叩かれ一人の男が入ってきた。
「失礼します、父上、ジュエス殿」
「おお、ケイトセンか。どうした?」
入ってきたのはケイズの子ケイトセンという男だった。父に似ず陰気で神経質な男だった。
ケイズとケイトセンは性格の違いもあって反りが合わず、親子仲は良好とは言えなかった。
ケイトセンのジュエスを見る目には嫉妬と僻みが内含されており、ジュエスはこの男が嫌いだった。
とは言え、争いを表面下させる必要もないので出来るだけ刺激しないように立って会釈だけしておいた。
ケイトセンは父ケイズに一通の書状を渡した。ロラン王家の印章が押されている。
「王都から新たな命令です。街道整備の為に銀貨五百枚と三百人分の賦役を要求しています」
「ううむ、またか……だが王命と在らば致し方あるまい。リンガルに対する補償と共に領内から徴収するとしよう。それと盗賊対策の巡回を一層増やすよう指示しておいてくれ」
――それでは流れ者を増やすだけだ。その上リンガルの為にと布告するのか? それなら何もしてくれない方がまだ幾分良いくらいだ――
ジュエスは口を挟もうとしたが、それよりも前にケイトセンが話し始めた。
「父上。要求は拒否して下さい。我々にはもう余裕が無いことは、幾ら父上でもご存知でしょう」
「馬鹿な! 王命には従うのが義務だ! 拒否など我が名誉に賭けて決して許さんぞ!」
「義務も名誉も今は関係ありません。もっと現実な話をしているのですよ、父上。拒否するのが最善です」
ケイトセンは溜息混じりに言った。統治に疎いケイズの代わりに息子ケイトセンが領地の内政を引き受けていた。
コーアで頻繁に盗賊が発生しているのも、ただでさえ決して優秀ではないケイトセンの内政をケイズが掻き回してしまう、という事が一因にあった。
ケイズは純朴で単純な老人だ。義に厚く、忠実。だからこそ王も調子に乗って頻繁に要求してくるのだろう。ある程度は味方の筈なのにだ。
ジュエスが交渉相手にケイトセンではなくケイズを指名していたのは、面識があるのも理由だが、より馬鹿な奴の方が操り易いと判断したからだった。
「それにジュエス殿、我がコーアの窮状はご承知のことでしょう。補償に関しては申し訳ないとは思いますが、分かって頂けますかな」
ケイトセンは抜け抜けと言った。
――苛つく奴だ。立場が逆だったら、お前は何を言われても金をせびり続けるのだろうに――
ケイズはじっと此方を見ている。なんとも申し訳無さそうな顔だ。
「……仕方ありませんな」
ジュエスは諦めた。無い袖をふらせて隣国の心象を悪くするのは上手いやり方ではない。ここは引き下がって恩を売っておく方が有益だ。
「補償に関しては何も言わないことにしましょう。盗賊対策だけは何かしら講じて頂きたい。これはコーアの為でもあります。その代わりに――」
――何にも請求しないのも格好が付かないからな。少しばかり言わせて貰おう――
「これからも変わらぬ友情を期待させて頂きましょう」
ジュエスは人好きのする笑顔を作って言った。
「おお、おお、勿論ではないか! 坊や……いやジュエス殿。貴殿の誠実さにはこのケイズ、感服致した」
一転して嬉しそうな顔を綻ばせてケイズは続けた。
「この次に貴殿が来た時のために麦酒をもっと用意しておこう!」
そう言って景気付けのつもりか、杯の麦酒を飲み干した。
ジュエスは苦笑した。
――友情と言っても、そういうことでは無いのだが……まあ良いか。少なくとも恩義は感じているだろう――
「ジュエス殿、賢明なご判断に感謝する」
ケイトセンは嫌味な声で言った。その目にはまだ妬みが張り付いている。
感謝を口にするならせめてもう少し隠して欲しいものだ、とジュエスは感じていた。
――それにしても、――
ケイズが新たに差し出してきた"友情"を受け取りながらジュエスは思った。
――忠誠心の厚いケイズですらこの窮状ぶりなのだから、他の諸侯の心中はいかばかりか分かったものではないな――
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