『戦人・二 ~第二次フィステルスの会戦~』
新暦661年6月、メガリス軍に敗れたジュエスは北へと撤退した。後退はライトリム地方で留まらず、フィステルスに着陣した。
メガリス軍からは本格的な追撃は無かったがディリオン軍は追い立てられていた。
サフィウムでは損害を最小限に抑えていたが物質面での話であり、精神面では少なからぬ衝撃を受けていた。
これまでディリオン軍は戦場では常に優勢にあった。城攻めでは劣勢の局面も存在したが、正面からの野戦では大勝し続けていた。
しかし、今回の戦いでは万全の状態で挑んだ野戦であり、自軍の強みを最大限に発揮したにも関わらず混戦に引きずり込まれ、敗退させられた。
殆ど一方的に手玉に取られたという事実は特に司令官であるジュエスの心に大きく伸し掛かっていた。
またテオバリドら一部のメール軍指揮官は局所的に圧勝を手に入れていた為に撤退を不満に思い、再戦への意欲も含めて戦意は危険な方向へ高まっていた。
これらの事情を受けてジュエスは王都のランバルトへ出馬を要請した。
一軍を任された早々に敗北と救援要請などとは恥であり失態ではあったのだが、それでも尚ランバルトが必要な程の危機的状況であるとジュエスは判断していた。
つまり、自分の手には負えないと認めたのだった。
要請を受けたランバルトとしては思案所であった。
ランバルトはジュエスの能力をよく信頼し、単なる指揮官以上の大局を視る力があると考えていた。まして選り抜きの精鋭軍団をも預けている。そのジュエスが助けを求めてきたのだから、相当に切迫した事態であろうことは理解出来た。
しかし、一方で出馬はジュエスの失態を公式に認める事になり、ジュエスの権威を損なわせる事に繋がってしまう。
軍事・国政のほぼ全権を手に入れたとは言え、王家の傍流で強力な軍隊を保有するリンガル公の力をまだ必要とし、自らの理想に共感を示すジュエスという個人の力もまた同様であった。
ジュエスの力を削ぐ様な行いは現状ではランバルトの望む所では無かった。
思案の末にランバルトは出陣を選んだ。ミーリア女王が助けに応じる事を求めたという事情もあったが、やはりメガリス軍がこれ以上勝ちに乗る前に、そして未だ燻ぶる反乱の火種が盛らない内に叩こうとの判断だった。
ただ彼にも今回の決断に迷いが無いわけではなかった。
ランバルトは後事をハルマナスらに任せ、親衛隊3千人を引き連れて王都を発った。
更にバレッタのオーレンに命じてメール兵2千人を分派させ、中途合流しつつフィステルスへと向った。
新暦661年8月、ライトリム方面軍と合流したランバルトはこれからの方策を決めねばならなかった。
メガリス軍は既にサフィウムを発ち、フィステルス近くまで迫っていた。ジュエスによる遊撃や徴発隊への攻撃も行われていたが、セファロスに苦も無く撃退され効果は上がっていなかった。
先月までとは攻守交代した形となった現状、自身の政治的立場を鑑みた上でこの強敵をどう処理するかが求められていた。
尤もメガリス軍は明確な戦いの意思を示しつつ接近しており、選択肢は限られていた。
フィステルス付近に布陣したディリオン軍は来る戦いに向けて準備を整えていた。
それが一体誰の為の戦いで、何の為の戦いであるかは、若き貴族にはある望まない予感があった―――
◆ ◆ ◆
【新暦661年8月 フィステルス リンガル公ジュエス】
フィステルスは街道沿いの要衝である為に決して小さな街ではない。大都市という程でも無いが、地図には記載される程度には発展した商業都市だ。
今回の内戦では商業都市ならではの要領の良さを発揮して所属陣営を変え続けた為、近隣での大規模な戦いにも関わらず傷跡は最小限に留められていた。
そして側にはディリオン軍の野営地がフィステルスを補給基地として築かれ、無数の天幕と防柵が設置されていた。その中央には慣例に従い司令官用の大天幕が配置され、その中にはディリオン軍の諸将が集まっていた。
大天幕の中に置かれた将机の周りに指揮官達が着座している。
ジュエスを始め、セルギリウス、コンスタンス、フェブリズ、セイオンらリンガル勢。
若手筆頭のテオバリド、アールバル、レイツ、バレッタ方面軍から分派されたメネートらメール勢。
そして王家の金蓮華とアルサ家の銀十字旗を背に最上座に座るのが最高指揮官たるメール公ランバルトであった。
また言葉の通じない蛮族コルウス族は族長ロシャであってもいつも通り招かれてはいない。彼らを同席させても軍議を荒れさせる事にしかならないからだ。
軍議の雰囲気は今までのランバルト幕下には見られない色彩を帯びていた。メール勢からは周囲の空気が揺らめく程に怒り混じりの戦意が放たれ、リンガル勢は心内に冷たく醒めた炎を燃え盛らせている。
この未知の雰囲気にジュエスは表面上は平静を保ちながら心の中で嘆息した。
――ふう、参ったな。この中の何人が"お前の所為だ"と思っている事だろうか。寧ろ僕を褒めて欲しいくらいなのにな――
先のセファロスとの戦いが全ての元凶だった。
メガリス軍の巧みな動きにディリオン軍は翻弄され収拾の付かない混戦に巻き込まれてしまった。司令官であったジュエスは致命的な被害を被る前に撤退を決断したのだ。
局所的な大勝を挙げていたメール軍の面々、特にテオバリドは司令官の臆病で勝利を不意にされたと感じ、仮に判断が正しいのだとしてもそもそも混戦に持ち込まれたジュエスの指揮が不味いのだとすら考えている様子だった。
その批判的なメール勢にセルギリウス、コンスタンスら主君に忠実なリンガル勢が激しく反発し、戦中にも関わらず両者の関係は険悪なものとなってしまった。
ジュエスはリンガル・メール双方をとりなしながら穏健的な連中に働きかけさせて一応の収束を見せさせた。若いが故の権威の無さが致命的な結果をもたらしかねない事を痛い程味合わされてしまった。
無論、分かっていたからこそテオバリドの様な反抗的な輩に手綱を着けようとしたのだが。メール勢は軍の指揮系統に於いては部下ではあっても、身分の上で同格の陪臣でしか無い事もジュエスが強気に出来れない要因でもあった。
しかし、人生とはままならぬもので味方同士の対立を収束させ憤りの炎を燻らせた事で却って"元凶"に対する戦意が大いに燃え上がり、冷静さを欠く有り様に成りつつあった。
但しジュエスにとっては、"元凶"がメガリス軍だけでなく自分をも意味する者が存在する事の方が問題と言えた。
――どいつもこいつも、あの戦いがどれ程危険だったか、彼奴と戦う事がどれ程危険なのか分かってないのだから困り者だ。全く――
だが敗戦は敗戦に変わりなく、失態は失態だった。強気に出ることも出来ず受け身の姿勢でいなければならないのは中々に疲労を伴った。
面倒事や疲労感を覚えると、最近は無性にサーラに会いたくなっていた。
彼女のはにかんだ笑顔や明るく屈託の無い振る舞いに触れると体に力が漲るのだ。
サーラの美貌も良いが、やはり全身から放たれる活力や華やかさが素晴らしかった。
ミーリアやファリアには無かった魅力だ。同じ女性でもこうも違うものかと衝撃を受けたものだった。
そして、同時に今も他の男が近づいているのかもしれないと思うと、強い不快感も覚えていた。
――少しの時間でもいい、彼女に会いたいな。兄の方では無くて、さ――
とは言えランバルトが来援したお陰で少なくともこれらの面倒事からは解放されるだろうと思うと僅かに肩が軽くなった。
ところが、肝心のランバルトの態度に違和感を覚えた。これまで常に冷徹さを崩す事の無かったランバルトも何処か状況を扱いかね持て余している様な印象を受けるのだった。
その違和感は彼が珍しく軍議を自身の発言で始めた事からも感じられた。
「先の戦いの結果はこれからの戦いの結果でこそ決まる。接近するメガリス軍にどう対処するか決めねばならない」
ランバルトは一同に視線を向けながら話したが、視線の冷たさも特有の諧謔さも妙に鳴りを顰めている。
司令官の言葉に立ち上がらんばかりの勢いでテオバリドが応える。
「来るというのなら戦うべきでしょう。我が軍はメガリス軍に対しても十二分に優勢に戦えます。サフィウムでもその事は証明済みです」
テオバリドは一段と声を大きくして発言を続けた。
「ましてやランバルト様が指揮なさるのです。勝利しうる事疑いありません。掴みかけた勝利を取り零すなど万一にも在り得ないでしょうから」
――此奴また面倒な事を。僕に対する侮辱以上に厄介を巻き起こしてくれやがったことが業腹だよ――
「貴様! ジュエス様を侮辱するなど許さんぞ!」
"氷の男"セルギリウスが渾名に相応しくない激情を見せ、音を立てて立ち上がる。余りの勢いに椅子が倒れた。普段の冷徹さも敬愛する主君への侮辱で一瞬の内に消え去ってしまっていた。
「いい、止めろ。セルギリウス」
ジュエスは家臣が自分の為に戦う事に心地良い優越感を覚えながらも事態を収拾させる為に彼を宥めた。今は面倒事を起こさない方が大事なのだ。
「しかし!」
セルギリウスは食い下がり、実に悔し気な表情を向ける。吐かれた唾が"御主人様"に向けられていたのが我慢出来ない程の怒りを掻き立てているらしい。
「侮辱されたなどと感じるからには心当たりが十分お有りなのですな?」
「ぐっ、貴様……!」
テオバリドがわざと火に油を注ぐ。セルギリウスの顔が青黒くなり、憤怒の色がより強まった。
――いい加減にしてくれよ……折角収めようとしているのに、余計な嵐を巻き起こさないでくれ――
ジュエスは苦り切った心中を表情に出さないよう努め、落ち着いた態度のままテオバリドも宥めようとした。
その時、最上座から一喝が飛んだ。
「もうよい! 黙れ!」
総司令官ランバルトの一喝には身も凍る様な力が込められている。僅かに迷いのある態度の所為か一層対照的に感じる。
「は……申し訳ありません」
「……」
これにはテオバリドもセルギリウスも矛を収めて着席するしか無かった。二人共憮然とした表情だが静かになった。
ランバルトは軍議を進めた。彼はジュエスに問うた。
「ジュエス公、奴はどう出ると思うか? 彼奴と戦ったお前の意見が聞きたい」
「私にはセファロスの考えは読めません。ですが彼が"戦い"に来る事だけは確かです」
ジュエスは答えた。事実、セファロスの手の内は全く想像が付かない。何をしでかすか恐れてさえいるかもしれない。
しかし、これだけは確実だった。
「セファロスは我々と"戦い"に来ます。正面から殴り掛かって来るでしょう」
「ふむ……やはりそうなるか。尤も此方としても下手に時間が掛かるよりそちらの方が都合が良いがな」
「では会戦を挑むのですか? 彼の望みに応じて?」
ジュエスは思わずそう言っていた。テオバリドなどは露骨に臆病者に対する視線を向けてきた。
「そうだ。ジュエス公には何か意見があるのか?」
「いえ、そうではありませんが……」
深い考えがあった訳ではない。サフィウムで見たセファロスの楽しげな顔を思い出した時、得も言われぬ悪寒を感じて反射的に言っていたのだ。
ただ、ランバルトが何かを感じ取って違う判断をしてくれるのではないかという期待があった。
「では問題は無いな。メガリス軍を迎え撃ち、撃破する」
ランバルトの決定にメール勢もリンガル勢も高まった熱意と戦意に支配されたまま強く頷いていて賛意を示していた。
早くも各隊の布陣や先の戦いではいい様に使われたコルウス族の投入法など細かな戦術に軍議が進む中、唯一人ジュエスだけは積極的には受け入れられずに皆の熱狂を一歩退いて見ていた。
――今のランバルトは地に足がついていないように感じるな。何処か浮ついて、確固とした思考の下に動いていない。家臣の熱気に煽られているのもあるだろうが……いや、そもそも家臣の狂熱如きに左右される人では無かった筈だ――
ジュエスは全身に纏わり付く嫌な感触を覚えていた。まるで何も気付かずに底なしの沼地に足を踏み入れているかのような感覚だ。
――我々は主力を率い平野部で待ち受けている。全力を出せ、此方から攻めるべき状況である。それなのに、何故か攻め"させられている"ような違和感がある。間違っていない判断の筈なのに、何故か誤った道に進んでいる様な気がするのだ――
大人しくしているジュエスを尻目に諸将は激しく論を交わらせていた。
「重装歩兵の突撃で敵は蹂躙出来ます」
「コルウス族を遊ばせておくのは勿体無い。何とかして使いたい所だな」
「此方から動いて主導権を握るべきだ。機動力を活かし、奴に考える暇を与えるな」
――主導権? 確かに握れれば優勢には立てるのだが……もし、既に敵に握られているのだとしたら? もし、我々が握ったのではなく相手に意図的に握らされているのだとしたら?――
根拠は無い。しかし、それならランバルト公の浮つきも納得が行く。拭えない嫌な考えが頭を巡った。そして勝利を求めて集う諸将の姿を見て、三年前の戦いの日を脳裏に過ぎらせずにはいられなかった。
――フィステルスは縁起が悪い――
◆ ◆ ◆
サフィウムの戦いで勝利したメガリス軍は直ぐには北上しなかった。
セファロスが故意に追撃を控えてディリオン軍を逃させた事も要因だが、消耗した軍勢の再編が必要だった。
特に敗走させられた非メガリス系混成部隊は大きな損害を受け、兵力は半減していた。
セファロスは混成部隊の再編を進めると同時に調練を行った。
単一の指揮官・単一の部隊で戦うよう作り替えた。調練の手本にはメール式密集陣形を採用した。但し機動力の発揮や突撃力より強固な歩兵戦列の形成が目的であった。
セファロス自ら行った調練は極短期間ながらも苛烈で徹底していた。懲罰や処刑も手ずから行い、同軍のメガリス将兵が混成部隊兵に同情する程の猛調練であった。
その結果、混成部隊は数を更に減じて実質8千人にまで縮小したが、その練度は飛躍的に上昇し、強力な戦列を築きあげて高い防御力を発揮出来るようになっていた。
また、混成部隊は勿論の事、それを見ていたメガリス兵もセファロスを敵以上に恐ろしく感じ、服従心を抱くようにもなった。
再編を終えたメガリス軍2万5千はサフィウムを発ち、一路要衝フィステルスへ向けて北上した。
ディリオン軍が平定後の治安を考慮して主に後方かあ補給していたので、ライトリム地方の物資は潤沢で補給が滞る事は無かった。
補給を現地徴発に頼る事が出来た分メガリス軍の輸送力には空きがあり、セファロスは輸送隊に逆茂木や杭などの加工済みの施設材料を搭載させ運ばせていた。
全てはセファロスが彼自身の欲求の為だけに命じられた準備だった。
新暦661年8月、ディリオン軍が布陣するフィステルスの南まで到達したメガリス軍は来る戦いに向けて準備を整えていた。
それが一体誰の為の戦いで、何の為の戦いであるかは、南の首長には薄々分かっていた―――
◆ ◆ ◆
【新暦661年8月 フィステルス付近の野営地 首長オルファン】
ディリオン軍との再びの戦いが目前に迫る中、マクーン首長オルファンとアンニー首長エルベドは司令官セファロスに召集を受けていた。セファロスの召集や軍議は不定期に行われ、基本的に司令官の気紛れに依った。そして召集されてもセファロスの決定事項をぞんざいに伝えられるのみであった。
今回も「話がある」とだけ伝えられての召集だった。オルファンは早い内に諦めて受けれいていたが、エルベドなどは大いに不満に思い司令官との個人的な確執を深めていた。
野営地に立てられたセファロスの天幕は豪華な調度品や装飾が施されている一方で、つぎはぎの布地やボロボロの旗等で造られていて、何ともちぐはぐで奇妙な外見を成している。
――何時見ても妙な混在の仕方だな。注力した箇所と興味の無い箇所がはっきりし過ぎている――
「ちっ、本当に雑な天幕だ!」
エルベドは小声で悪態を付いた。何でもいいから怒りをぶつけたいと言った所か。
「そうボヤくな。殿下がお待ちだ、入るぞ。殿下、失礼致します」
「ああ、入ってくれ」
エルベドと共に入ったオルファンを王弟は天幕の中で待っていた。
セファロスは色彩豊かなゆったりとしたローブを身に纏い、座り心地の良さそうな長椅子に寝そべっていた。その口には火の着いた香煙草が咥えられている。
「来たね。適当に座ってくれ」
セファロスは寝そべったまま顔だけ此方に向け、二人が近くの椅子に腰掛けるのを待たずに話し始めた。
「さて、幾つか話しておきたい事があって呼び出したんだ。分かってるよね?」
勝手気ままに話すのは何時もの事である為、オルファンもエルベドも動ぜず頷いた。
「先ず前にも伝えた通り、ディリオン軍とは戦う。これは決定事項だからね。次に兵の配置について必要な事を伝えておく。中央には兄上の兵隊を置く。指揮はエルベド君に任せるよ」
「は、自分がですか?」
「うん。後、私の鎧と兜も使っていいよ」
「はあ。陛下の兵を任せて頂く事に否やは御座いませんし、武具も有り難く使わせて頂きますが、自分の氏族も共に中央へ?」
エルベドは得心がいかず疑問を訊ねた。王弟の考えを理解するのには努力を要するが今回も同様だった。
セファロスはエルベドの質問に面倒臭そうに煙を吐くと答えた。
「いや。君の兵は預かる。別の場所で使うから」
「申し訳ありませんが、どういう意味でしょうか?」
「今言った通りだって。君は私の鎧と兜を付けて、兄上の兵隊を率いて中央で戦ってくれって事だよ」
司令官の回答にエルベドは当然満足出来なかったようで語気を強めて問いただした。
「では自分の兵や部下は誰が指揮するのですか?」
「君には関係ないだろ」
「有るに決まっているでしょう! 私の兵なのですよ!」
エルベドは憤りを押し隠せずに言った。セファロスは鋭い眼光を放たせ反抗的な部下に返した。
「君、には、関係ない、だろ? 命令するのは私。服従するのが君だ」
王弟の声は恐ろしい程の異常な殺意が篭っている。従う者にも優しくは無いが、逆らう者には微塵の容赦も見せないのがセファロスという男だった。殺意の対象になっていないオルファンも言葉を聞くだけで鳥肌が立った。
「で、では何故私が王の兵と共に中央に配置されるのですか」
エルベドは顔をどす黒くさせ言葉に詰まりながらもまだ抵抗を続けた。声は明らかに振るえ、恐怖心が曝け出させられている。
「兄上の兵は我が軍の精鋭だ。それを私の武具を付けたエルベド君が率いる。君もそこそこの戦士だろう? 敵のコルウス族共は獣だから、これだけの獲物を見つけたら躊躇無く飛び掛ってくるだろう。だから事前に罠を張っておくんだ。その為に逆茂木やら杭やら枯草やらに手を加えて持ってきただろう? 上手く使って燃やしてしまえ」
セファロスは恐ろしい声色は和らげ無かったが、瞳に燃え盛る火を宿らせ始めていた。戦に関わる時だけ彼の目は輝くのだった。
「そ、それは、つまり私に囮になれと言うことですか」
「そうだよ。その間に私は別の所で戦う。獣退治なんてつまらないからさ」
「しかし、あの蛮族の強さは私も見ました。特にあの巨人は普通じゃありません! 殿下でも無い者が太刀打ち出来る筈がありません!」
エルベドは泣き言まで言い始めた。セファロスには僅かも通用しないと分かっているのに。
「だから罠で上手い事やれって言ってるだろ? 簡単だよ」
「そ、そんな……し、死んでしまいます!」
「なら、死になよ」
セファロスのその一言は先程までの異常な殺意や熱情は篭っていなかった。至って何気無い言葉の様に、王弟の口から転がり出た。
「君の命で戦機が手に入るなら安いものだ。精鋭を預けられ、最高級の武具を与えられ、対抗する罠まで貰っておきながら尻込みする臆病者の命でもそうすれば多少は役に立つってものだろ」
「……で、殿下……」
決死の任務を与えられ、逃げ腰になるや臆病者と断定されたのだ。彼の心に残る武人としての挟持をくすぐる巧妙なやり口だった。
エルベドの顔は真っ青になっている。様々な恐怖と奮い立たせた勇気が綯い交ぜになった表情だった。
「わ、分かり、ました……御命令に、従い、ます」
暫く黙っていたエルベドは口を開いた。息も絶え絶え、言葉を突っかえさせながら答えた。
「そう。君への話は以上だ。エルベド君は下がって宜しい。オルファン君は残りたまえ」
セファロスは新しい香煙草に火を付けながら無情に言った。エルベドはふらふらと立ち上がると立ち去った。
――何時もそうだ。気付けば殿下の思い通り嵌められてしまっている。自分の正しい判断をしているようで、全て筋道立てられてしまっているのだ。それにしてもここ最近は特に強烈だ――
オルファンはずっと黙って見ていた。口を出せる様な状況でもなかった。セファロスは寝そべっていた長椅子から起き上がり、座り直した。
「さてと、それじゃあ軍議にしようか」
「……今までのは軍議では?」
「いや。話しがあると言ったじゃないか。だからさっきのは"話し"だよ。エルベド君を軍議に参加させる意味無いしね」
悪びれる様子も無くセファロスは香煙草を燻らせている。そして王弟はそのまま話し始めた。
軍議と言っても実質は先程までの"話し"と変わらない。セファロスが考え決めた事項を部下に伝達するだけだ。違いは軍の配置・展開・機動についての詳細である事だけだ。
前回と同様、セファロスは敵味方の動きを予想した作戦を立てていた。それは戦場に立つ全ての人間の心を読みきった上での巧妙極まる策であり、神がかった予知と言ってもいい程だった。
――サフィウムの戦いでも初めて作戦を伝えられた時、そう上手く行く筈が無いと、何処かで破綻するに決まっていると思った。しかし結果はあの通りだった。殿下の予想通りとなった――
余人の誰にも真似の出来ない策でもセファロスという異才ならば実行可能であると、最早オルファンは疑いを持っていなかった。だが、セファロスが奇策を通り越して異常な策を考えている事も分かっていた。そしてその策は他人には言わないことも。
「一つ質問させて頂きたいのですが宜しいでしょうか」
「うん、いいよ。何?」
「中央に張った罠ですが、もしや味方ごと焼くおつもりですか?」
中央に配置したのは無能と蔑むエルベド首長と嫌っている兄から押し付けられた兵隊達だ。罠の発動を確実にする為にも彼らを生贄として火に投げ込むと言っても不思議ではなかった。
「あ、やっぱりオルファン君には分かっちゃった?」
セファロスは悪戯を見咎められた童の様に軽く笑って言った。
「オルファン君だと分かっちゃうからエルベド君に任せたってのもあるんだよね。本気でやって貰わないと餌にならないからさ」
――簡単に途轍もない事を言う。条件が合えば私だって囮にする訳だ。尤も自分自身でさえ囮にしてしまう人だ。他人であることなど決断の障害にならないのだろうが――
「どうせ彼奴等に抑えきれる訳も無いし、上手い事敵だけを罠に引き込むなんてあの蛮族相手には無理だよ。纏めて燃やしちまうのが一番確実さ」
「しかし、殿下。余りに無情な策ではありませんか? 仮にも味方の兵でしょう。幾ら有効でもやたらに、その、死なせる策と言うのは如何なものでしょうか」
オルファンは生贄と為る彼らへの同情も込め司令官を止めようとした。多少の不興は被るかもしれないが"普通の人間"としてはこう言うべきだと考えた。
しかし言われた側のセファロスはきょとんと、不思議そうな顔をしていた。
「あー、うん、えっとどういう事? 言ってる意味がよく分からないんだけど……」
セファロスは怒るでも殺意を振りまくでも無く、心底意味が分からないと言った様子で腰掛けていた。
「兵を消耗させる方向の策は再考が必要なのでは無いかと……」
「え、何で? 兵なんて何時でも補充できるじゃない。兵が何人かいなくなる程度で全部上手く運ぶんだよ? 何の問題が有るの?」
セファロスは寧ろ困惑している節さえ伺えた。オルファンははっきりとその言葉を聞いたことで今まで以上の戦慄を覚えた。
――殿下にとっては兵は単なる物言う駒なのか。いや、命有る者と分かっていて尚消耗品以下の存在でしか無いのだ――
オルファンはそれまで比較的本心から司令官を止めようとしていた。自身に飛び火する危険もあったし、消耗品扱いの同胞達に同情していたからだ。だが、その努力が身を結ぶ事は決して無いと悟った。そして戦慄と共に急激な脱力に襲われていた。
「いえ、もう良いのです……殿下の良きように為さって下さい……」
「うん? そう。なら良いんだけど」
セファロスは香煙草の芳醇な煙を深く吸い、吐き出した。目に灯った炎が勢いを増して燃え盛る。
「次の戦いは今言った通りになる。ディリオン軍はそういう動きをする奴らだし、そうなるようにも誘導してきた。とは言え私としてはそうなってくれない方が嬉しいんだ」
大好きな娯楽を前にした子供の様に期待に満ちた声で言った。他の何も気にならなくなったのか、視線は遠くを向いている。
「途中で彼らが"変わってくれれば"最高なんだけどなあ。変わってくれるかなあ?」
「……」
――私は見誤っていた。殿下には戦って勝つ事が全てなのかと思っていた。だがこの人には敵も味方も自分自身さえも戦を味わう為の駒に過ぎないだろう。もしかしたら勝利も敗北も関係が無いのかもしれない。ただただ戦に身を委ね続けていたいのではないのだろうか――
オルファンは短いながらも濃密な王弟との付き合いの中で、遂に悟らさせられた。諦めて受けれ入れなければならないのだと分からされた。
――殿下は狂人ではない。これが彼の正常な姿なのだ。寧ろこの世の誰とも思いを分かち合えない孤独な人間なのだ――
その思いで見た時、目を輝かせて次の戦いに想いを馳せる王弟の姿が友を作ろうと必死になっている独りきりの少年に重なって見えた。
◆ ◆ ◆
新暦661年8月21日、戦闘の準備を整えた両軍は遂に雌雄を決するべく陣営地を出撃した。
ランバルト率いるディリオン軍2万4000とセファロス率いるメガリス軍2万5000はフィステルス近郊に布陣し会戦した。
戦いの舞台となる平原は歴史上幾度と無く戦場となっており、三年前にも大規模な会戦が生起している。
ディリオン軍は最右翼からメール軽騎兵400騎、親衛隊3000人、テオバリド・アールバル・レイツ・メネートら率いるメール重装歩兵24個方陣7000人、セルギリウス・コンスタンス・フェブリズ率いるリンガル兵団1万1000人、セイオン率いるリンガル騎兵隊1500騎が配置された。更に全軍中央の前衛にコルウス族1300が配置されていた。
ランバルトは親衛隊と、ジュエスはリンガル騎兵隊と共にあって指揮を執った。
メガリス軍は中央に"王の精兵"2000人を配置した。中央部隊はセファロスの武具を帯びたアンニー首長エルベドが指揮を執っており、杭・陥穽・火計による罠を密かに設置していた。
両翼はそれぞれ前衛に混成部隊、後衛に氏族兵を配置していた。前衛の混成部隊は長槍と大盾を装備した密集陣形を取り、機動力は見込めないものの高い防御力を発揮出来た。後衛の氏族兵は戦列の外側によっており、一見すると側面の防御を重視した配置に見えた。
右翼はマクーン首長オルファンが率い、混成部隊5000人、氏族兵7000人が展開した。一方の左翼には混成部隊3000人、氏族兵8000人が配置され、一般士官と同じ装備の王弟セファロスが直接指揮した。
ディリオン軍は先ず前衛のコルウス族を単独で突入させ最重要目標セファロスの動きを封じて逆に敵戦線を混戦に陥らせ、その間に重装歩兵戦列が正面から最短距離で突撃を掛けて押し潰すという作戦を立てていた。
簡素で単純だがそれだけに漬け込まれる隙の少なく、味方の長所を最大限活かすことの出来る作戦であった。
また、将兵は士気高く戦意に燃え滾っていた事も攻勢・突撃を選んだ一因でもあった。
そして、正面からの突撃を選んだのは側面への機動攻撃は戦列が崩れやすく、間隙を攻められると恐れたからでもあった。ランバルトは間隙を生まないよう戦列を密にせよと厳命していた。
メガリス軍中央に精鋭部隊が配置されている事と真紅の鎧の将を確認したランバルトは中央へ向けコルウス族を投入した。
族長ロシャ率いるコルウス族は命令されるまでもなく強大な敵を求め殺到した。
先の戦いでセファロスを仕留め損ねたロシャを先頭にしたコルウス族の狂戦士による猛攻はメガリス軍中央の防御を容易に撃ちぬいて内部へ雪崩れ込んだ。
"王の精兵もセファロス無しではロシャを抑える事が出来ずにいた。
だが罠や障害物として設置されていた杭・陥穽が予想以上の効果を挙げ、コルウス族を中央に引き付けさせていた。
中央に突入したコルウス族は奮戦する精兵と逃げ回る真紅の将との戦いに完全に熱中していた。女族長もまた振りかかる"火の粉"に気付いていなかった―――
◆ ◆ ◆
【新暦661年8月 フィステルス 族長ロシャ】
敵兵が突き出した剣をひらりと躱し、巨大な鉄球を逆に叩きこむ。"果実"が弾け赤い飛沫が撒き散らされた。頭を失った敵兵の体が地面に倒れ伏した。
――二百八十三!――
血を滴らせた鉄球を再び振り上げ、獲物を求めて視線を巡らせた。
ロシャはこの戦いで既に二十人の兵を討ち取っていた。何れもメガリス軍での中でも目立った精鋭達だった。普段の戦であるならば"戦神"への捧げ物として十分な程の戦士ばかりだった。
しかし、彼女は些かも満足していない。何故なら、この戦場にはこれ迄捧げてきた戦士全てが霞む程の絶世の生贄がいる筈だからだった。
――あの真紅の鎧を帯びた戦士! 彼奴を捧げれば"戦神"は満足なさる!――
件の獲物を探して駆け回る。既に軍馬は失っていた。至る所にある杭や落とし穴にやられたのだった。コルウスの同胞連中も突っ込んだ勢いで罠に陥り多くが死んでいる。無論、ロシャは死んだ連中を気にも掛けない。戦ではあらゆる死が襲い来るのだから。
途中、負傷して呻いてる敵兵の頭を踏み潰して止めを指した。捧げるべき命は此奴のものではない。
――二百八十四! だが、此奴では駄目だ。彼奴でなければ"戦神"は満足なされない!――
これ程必死に特定の獲物を探して駈けずり回った事は今まで無かった。他の何を置いても殺さねばならない相手にはついぞ出会ったことが無かった。
必死になるあまり、焦慮さえも覚えていた。早く、一刻も早く、奴の命を獲りたい。その想いは違う獲物が視界に入る度に強く激しくなった。
――何処にいる! 何処だ!――
焦りと猛りを叫び放とうとロシャは空を仰いだ。
その時、天を覆い尽くさんばかりの大量の矢が此方に向って飛来しているのが見えた。矢は先端に火が着いており、空を焼く無数の火球と化していた。
火矢は雨の様に降り注いだ。単純に矢が突き刺さって死んだ者もいたが、そちらの方がいっそ幸運であったかもしれない。
至る所に配置されていた逆茂木や柵に火矢が幾つも突き刺さり、火が燃え移った。杭の台座に敷き詰められいた乾いた袋もあっという間に燃え上がり、杭ごと炎に包む。
落とし穴の中にも火矢が飛び込んだ。底に油か何かでも仕込まれていたのか、火炎が穴から燃え立ち、巨大な火柱が何本も何本も現れた。
障害物の数々は逃げ道を遮る火の壁となり、落とし穴からは骨焦がす劫火が吹き上がる。
煌々と燃える炎は敵も味方も関係無しに全てを内に取り込んだ。火達磨になって転げまわる者。まるで巨大な松明の様に上半身が燃えている者。足に燃え移った火を消そうと必死に払っている者。肉の焦げる臭いもが辺りに満ち始めた。
亡者を焼き尽くす冥界の底の如き有り様だった。
突然の火に戦場は混沌に陥った。
「火だ! 燃える!」
「火だ火だ! 何処も燃えているぞ!」
不甲斐ないコルウスの同胞共は火如きで目が眩んでしまっていた。
「フォーゴ! ポルキエ!?」
「エンボラ、アインダ!?」
容赦なく味方に焼かれた敵兵も彼らの言葉で叫んでいる。
コルウスの同胞もメガリスの戦士達も火炎に煽られ逃げ惑った。前後左右何処を見ても火の壁が行く手を遮っている。炎の熱気はそれ自体が焼けるような暴風を巻き起こし、熱い嵐が戦場に吹き付けた。
――味方ごと焼き払うとは。何という胆! 何という剛!――
豪火もロシャの意気を挫く事は無かった。寧ろ敵のつわものぶりに一層の戦意が煽られた。
逃げ惑い擦れ違おうとしたコルウス族の同胞に鉄球を叩き付けて二度と無様な行いを出来ないようにすると、ロシャは再び例の標的を探し始めた。
そして、幸運にも直ぐ彼女の視界の先に赤い鎧を身にまとった馬上の戦士が現れた。両者の間には火の壁が傲然と立ちはだかり燃え盛っていた。
目の前の男は本当は真紅の鎧ではなく、ただ炎に照らされて赤く見えているだけかもしれなかった。だが、そんな事はロシャの足を止める理由にはならなかった。
――"戦神"よ、照覧あれ! 必ずや奴の命を貴方に捧げてみせます!――
ロシャは微塵の躊躇も、僅かばかりの恐れも無く炎の渦に向って飛び込んでいった。
◆ ◆ ◆
セファロスの策によりメガリス兵ごと火計に嵌ったコルウス族は完全に混乱し崩れ去った。
さしもの狂戦士も身を焼く炎には抗う事が出来ず、同じく壊滅した王の精兵と逃げ惑うこととなった。
ロシャや一部の生粋の狂戦士達は獲物を求めて駈けずり回ったが、燃え盛る炎と焼けた障害物に阻まれ個々の武勇を発散したに留まった。
コルウス族が火計に嵌ったのを見てもランバルトは当初の作戦は変更しなかった。
敵戦列を混乱に陥れる事とセファロスを封じる事にはは失敗したが、中央の精鋭部隊を壊滅させた事には変わりなく正面からの衝突となれば依然ディリオン軍が優位だと考えていた。
総司令官の号令一下、隙の無い戦列を組み上げた重装歩兵達がメガリス軍に向け前進した。
中央部へは攻撃出来ない為、メール軍とリンガル軍で左右へ分かれて敵戦列へ攻撃を掛けた。
巨大な一つの鉄塊となっての正面突撃はメール式重装歩兵の面目躍如と言える威力で、ランバルトの厳命でより密集していた為にその突撃力は一層高まっていた。
メガリス軍前衛の混成部隊はディリオン軍の猛攻に直面しても、訓練・陣形・装備で防御力を高め只管防御のみを行う戦術によりと突撃を受け止めていた。
更に司令官セファロスが退けば殺すと命令していた為に混成部隊の兵達は一歩も引き下がらなかった。
苛烈極まる調練の中で形成された自軍の指揮官への恐怖心の方が敵に対するそれよりも遥かに上回っていたのだった。
混成部隊の想定外の善戦で一撃で切り裂く事には失敗したディリオン軍は両翼共に更なる突撃を行った。
しかし、下手に方針を変えて隙を作ってしまうよりも込める力を大きくするべきという考え、コルウス族の壊滅もあっての勝利に対しての焦りがそこにはあった。
ディリオン軍は短いが熾烈な攻防の中で自軍が知らず知らずに右方向への攻撃に注力している事に気付いていなかった。
メール式の重装歩兵は左手に盾を持つ為に右半身は守られていない。歩兵達は無意識の内に身を守ろうと右へ右へ寄っていく傾向があり、今回はその傾向が戦列維持の厳命で強まっていた。
傾向は極々微小なものであったかもしれない。だが、兵の心の中には確実に存在していた。
左翼のリンガル軍は猛攻で遂にメガリス軍前衛を突き破り勝利を掴んだかに思われた。
だが、外側に偏った配置が為されていたメガリス軍後衛が軽装ゆえの快速を活かして左翼方面から切り込んできた。
右方向への集中、勝利の兆しという一瞬の油断がメガリス軍の浸透を許してしまった。
高い戦意と勝利しつつあった事実が裏目に出て、切り込み攻撃による動揺はリンガル軍を覆った。
セファロスの策への警戒へ急激に意識が転向したことも合間って、個々の行動に齟齬を来したリンガル軍は一瞬の内にメガリス兵との乱戦に持ち込まれてしまった。
右翼のメール軍は同じく外側に寄っていたメガリス軍後衛が右側面へ移動して来た事で右方向への集中が上乗せさせられていた。
その時、火計の場となっていたメガリス軍中央部を通り抜けセファロスが別働隊1000人を率いて左側面からメール軍戦列に襲いかかった。
メール軍は燃えるメガリス軍中央部を終わった場所、通過出来ない地点だと考えてしまっていた。コルウス族とメガリス軍の精鋭部隊を葬り去った程の場所なのだから、通れる筈が無いと思い込んでいた。
勿論、火の中を通過したメガリス軍別働隊も無傷では済まず、半数は脱落していた。
しかし少数の部隊でも完全に虚を突かれた事、そして何よりもセファロスに乗り込まれてしまった事は致命的だった。
メール軍は右側面からのメガリス兵の切り込みに対処しようとしたがセファロスを筆頭に別働隊が戦列の中を暴れ回る為に十分な対抗が出来ず、戦列が崩れかかっていた。
各中級指揮官の必死の督戦で最後の一線は保っていたが、全面的な崩壊は時間の問題と思われた。
そしてセファロスはディリオン軍の大将首を狙って本陣へと突き進んでいた。
ディリオン軍は崩壊しかかっていた。
この段階までランバルトだけに限らず全てのディリオン軍将兵の考えは王弟セファロスに悉く見抜かれ、利用され尽くしていた。
絶対の危機に直面した若き貴族は己の命を賭けるべき時、賭けるべき相手を悟った―――
◆ ◆ ◆
【新暦661年8月 フィステルス リンガル公ジュエス】
漂う煙と燃え滓の異臭、激しい剣戟の音色、人と人がぶつかり合う衝撃。死者と負傷者の悲鳴が合唱となって"戦い"に流血の彩りを添える。
「陣形を密集させろ! これ以上押し込まれるな! 騎兵小隊に歩兵陣を援護させるんだ!」
ジュエスは枯れんばかりに声を貼り上げた。この狂騒では幾ら叫声を響かせても足りる物ではない。
――まただ。また、僕達は負けた――
状況は悪化の一途を辿っている。一瞬の隙を突いたメガリス軍の怒濤の攻撃を押さえ込めず、切り込まれるがままにされていた。ここから戦況を覆し、勝利を掴みとる事は限りなく不可能に近い。
――いや、"負けていた"んだ。戦う前から。この場で剣を交える前から――
全ての面で一手を上を行かれた。策略や武力を競う以前に心の動き、心理を完全に読まれ誘導されていた。
今にして思えば、この場で戦うという選択そのものがセファロスの神懸かり的な心理操作だったのだろう。
あの時覚えた誤った道を進まされているという違和感は正しかったのだ。ランバルトが手に余らせていたのも、全てが相手に握らされた選択だったからなのだ。
――僕達は気付いていたのに。そんな筈は無い、在り得ないという自尊に従いさえしなければ、事態はもっと変わっていたかもしれないのに――
麾下のリンガル軍の陣形は今や内側から寸断され続け、個々の兵士ごとに戦わざるを得ない状況に陥っている。そして密集陣形と重装備が災いし、軽装のメガリス剣士に対処しきれていない。
戦場の此方側にはセファロスはいないにも関わらず追い詰められている。王弟と対峙している右翼側のランバルトはどうなっているか、想像したくもなかった。
――ランバルトも勝てなかった。もう無理だ。こうなったら死ぬ前に逃げるしか無い――
今まで死を恐れた事は無かった。初陣で身を張って戦った時も、大軍と対決した時も、堅固な壁に挑んだ時も恐れはしなかった。敗北による失墜を恐れはしても、怯懦になったことは無かった。退却や後退を選んだ時も先に何らかの見込みがあった。
しかし、今は何の見込みもありはしなかった。セファロスの突き付けた狂気の刃に慄然し、この身を切り裂かれる末路に恐怖した。
ジュエスは怯えていた。
――もう駄目だ! もう……――
ジュエスは馬を翻し一目散に逃げ出そうとした。全身がそうすべきだと訴えていた。
だが、出来なかった。否、しなかった。
心の奥底、理性の彼方に敢然と聳え立つ一つの想いが彼を押しとどめていた。
――で、でも、僕がここで逃げたら……"彼女"はどうなる?――
敗北し無様に逃げ散れば敵軍は容赦無く攻め込んでくるだろう。躊躇無く王都へ雪崩れ込み思うがままに暴虐の限りを尽くすだろう。
"彼女"を引き倒し、嬲り、剣を突き立てるだろう。"彼女"を穢し、壊し、殺すだろう。
"彼女"の笑顔が真っ黒に塗りつぶされていく。
その光景を夢想した時、ジュエスの心は強い決意で固まった。
――駄目だ! そんな事させるものか!――
他の誰を犠牲にしてでも防がねばならなかった。自分自身の命さえも例外ではない。
己以外の誰かの為に命を捨てようとしている事にジュエスは今、何の疑問も抱いていなかった。
"彼女"を守るためならば最早この身を失う事の一体何が惜しいものか。
――サーラ!――
ジュエスは麾下の騎兵に集合命令を下した。戦闘中の召集でもあり、集った騎兵は四百騎しかいなかった。決して十分ではないが、それでも行かなくてはならない。
「司令官を救う! 僕に続け!」
例えセファロスに大敗したとしても、まだランバルトの力を失う訳にいかなかった。サーラを守る為には今はまだ彼の力量は欠かせない。
騎兵達はジュエスに従ってリンガル軍の陣から離れた。ジュエスにとっても彼らにとっても同胞を見捨てる事になる。だが、今はそんな事よりも優先しなければならない事がある。
「急げ!」
ジュエスは馬を駆けさせた。鞭を何度もくれ、腹を蹴って馬を駆り立てた。集中の余りに感覚が過敏になり、時間の流れが遅くなったようにも感じていた。
リンガル兵の戦列を横目に通り過ぎ、中央の燃え立つ火炎の側通り過ぎた。そしてメール軍の陣へと辿り着いた。此方の状況も予想通り酷いものだった。
「もっと速く! もっと!」
崩れかかるメール軍戦列の中程に一際崩壊した集団が見えた。集団は親衛隊の左翼とメガリス兵の混淆であり、ランバルトの控える本陣までもう幾らかの距離も無かった。
その中に奴が見えた。
くるくると死の舞を踊る奴の姿が。
まるで楽しくてたまらない子供の様な表情をした奴が。
――いた! 間に合え!――
ジュエスは集団に向って馬首を向けた。後ろに続く騎兵隊にも同様の命令を下す。
そして、震える体を押さえつけ叫んだ。
「突撃!!」
剣を振り上げ、軍馬を全速力で衝突させる。動きも時間も何もかも、全てが遅くに感じる。
集団をかち割り、側面からランバルトとの間に乱入した。戸惑う味方の兵も何人か引き倒したかもしれない。
敵兵を切り倒し、一路セファロスを目指す。
恐れや怯えはあった。だが、今はそれを上回る強い決意が心を満たしていた。
「うわああああ!」
叫び声を上げながら立ち向かった。勝鬨などではない単なる雄叫びだった。
セファロスは此方に振り向いた。ジュエスを見た彼は一瞬驚いた後、嬉しさと慶びで一杯の表情になった。それは清々しさを覚える程の満面の笑みだった。
ジュエスは忌々しい面目掛けて剣を振り下ろした。
◆ ◆ ◆
戦況の悪化と司令官の窮地を悟ったジュエスは麾下の騎兵を連れて救援へ向った。残されたリンガル軍を見捨てる形になったが、この判断はディリオン軍の危機を救う事となった。
ジュエス率いる騎兵隊は本陣近くまで迫ったセファロスの別働隊に割り込み、進撃を阻止することに成功した。
ジュエスの捨て身の奮闘によりランバルトは難を逃れることが出来た。戦列から離脱したランバルトはこれ以上の戦闘継続を諦め、全軍への撤退命令を下した。
当然ながら混戦の渦中にある崩れかかった軍勢を勝ちに乗った敵軍の前から撤退させる事は至難の技だった。
ジュエスの奮闘、メール・リンガル諸将の窮地で発揮された統率力、練度の高い兵達の動き、そしてセファロスが独断でメガリス軍の動きを抑制させた為に大きな被害を出しながらもディリオン軍は撤退に成功した。
理由はどうあれ今度もセファロスは積極的な追撃をせずに退いていった事は大打撃を受けたディリオン軍には不幸中の幸いであった。
激戦の結果、ディリオン軍は多くの死者を出した。メール兵2000人、リンガル兵3000人が失われ、コルウス族に至っては実に1000人をも失っていた。
更にセファロスの突撃を最初に受けたメナートが戦死している。メール軍の高級指揮官初の戦死である。
対するメガリス軍も王の精兵1500人、混成部隊2000人、メガリス氏族兵1000人が戦死した。此方もコルウス族の囮となったエルベドが戦死した。
フィステルスの戦いはディリオン王国よりもランバルトにとって大きな痛手となった。
失われた兵は手勢たるメール・リンガルの兵士達であり、彼らは著しく補充の効き難い兵だった。
メガリス側も多数の兵が死傷しているが氏族兵は十分換えの効く兵であり混成部隊に至っては征服地の徴収した現地民でしか無かった。
言い換えればメガリス兵3千人程度の戦果と引き換えに貴重なメール兵・リンガル兵を5千人も失ってしまったのだった。
そして、ランバルトはこれまで自身の圧倒的な武功・武勲を背景に政権を恣意的に動かし独裁権力を握っていたが、今回の敗戦で彼の不敗神話は消え去ってしまった事になる。
王国に於けるランバルトの地位に影響を与えないわけにはいかず、処置を間違えれば致命的になり得る危機的な事態だった。
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