『戦人・一 ~サフィウムの会戦~』
新暦661年5月末、ディリオン軍は各地方へ進軍を開始した。
スレイン地方へはクラウリム公ハウゼン率いる2万5千人が、バレッタ地方へはメールのオーレン率いる2万人が、そしてライトリム地方へはリンガル公ジュエス率い精鋭軍1万8千が向かった。
ジュエスは途上の領主や諸都市を軍勢の威容で引き締めつつ南下を続けた。進軍は滞り無く進み、要衝フィステルスを通過してライトリム地方へ入っても尚順調だった。敵軍の反撃は弱く、先鋒隊だけで対処可能な程であった。
ジュエス自身は罠の存在には十分注意していたが、配下の中には勝者の驕りに包まれた者も少なからず存在した。
現状では高い戦意と練度が弛緩を押しとどめ危機を招くことは無かったが、事前に引き締めておく必要性はあった。
ジュエスは特に先鋒のテオバリドには偵察を欠かさぬよう厳命していた。先鋒という配置上からの理由もあったが、命令権を行使する事で直情的で反骨的な部下を押さえつけておきたいという意図も大きかった。
人を憎む時には相手の事情は関係しない。相手の才能も業績も使命も何もかも、考慮には値されない。
そして、若き勇将は現状に対する憤りで満たされていた―――
◆ ◆ ◆
【新暦661年5月 ライトリム地方 将軍テオバリド】
巨大な軍勢が地均しされた街道を進んでいる。大都市から離れた場所では厚い石畳では舗装されておらず馬車が一台通れる幅しか無いが、軍隊の移動には十分整備されていた。
磨かれた鎧兜を身に纏い、大盾と鋭槍を手に持つ鉄の軍団。隊列は乱れること無く進軍の足並みは整然として、無数の足音と武具の擦れる音が壮大な行進曲を奏でている。
彼らこそ内戦を征したディリオン王国が誇るメールの精兵である。
そして戦列の先陣を馬上にて昂然と進むはメール軍の若き勇将、ザーレディン家のテオバリドである。
二十代半ばの若々しさが精悍な戦士の覇気と入交り、正しく勇者らしい威容を誇っている。大柄な体は隆々とした筋肉を備え、威風堂々とした立ち居振る舞いが一層彼の猛々しさを増させていた。
兜から覗く黒い瞳は常に戦意と野心に燃え、テオバリドという男の性質を余す所無く表していた。
だが、本陣から返って来た伝令を前にした彼の瞳には怒りと憎しみの彩りが付け加えられていた。伝令はもう幾度も同じ連絡を繰り返しテオバリドに齎していた。
「リンガル公からの御返信です。"報告は受け取った、以後も続けて斥候を放ち偵察を怠る事なかれ、先鋒として前衛の任務を抜かり無く果たすべし"。以上です、閣下」
「……ああ、了解した。御苦労だったな下がってよい」
敬礼をして走り去る伝令を眺めながら"司令官殿"からの"命令"を反芻する。
――怠る事なかれ? 抜かり無く果たすべし?――
自然と手に力が入り、ぎりぎりと握りしめる。兜で隠れていなければ米噛みに浮かぶ青筋も伺えたかもしれない。
――あの餓鬼が、俺に手綱を着けようってのか、このテオバリド様に! 一々、手を出してきやがって!――
ジュエスからの"命令"は事ある毎にテオバリドの元へ飛んで来ていた。軍の展開の様な重要事だけでなく、兵の配置や食料の分配等の細かな事柄にさえ口を出し、その判断を縛ろうとしていた。
そして、ジュエスは組み伏せる姿を見せ付ける為に態と直接的で配慮を欠くやり方を行っている。だからこそ尚更怒りが煽られるのだった。
この力尽くで相手を縛り、強引にでも利用される側へと押し遣るやり方はジュエスについてプロキオン家の連中から聞き及んでいた態度とは全く違うものだ。
恐らくはこの顔こそがリンガル公ジュエスの本性なのだろうと思われた。
――あの野郎に将としての力量があるのは分かる。それだけの実績はあるからな。だが、一体俺とどれ程違うと言うのだ? この俺をコケに出来るほどに違うと言うのか!?――
苛々が募り、将として褒められた行動では無いと分かっていたが隊列から少し離れた所まで馬を進ませた。近くに敵影は無く、遭遇しても一撃で追い散らせる程度の兵しか今の所いなかった。
少しの距離とは言え人混みを離れて馬を歩かせるのは気分が良く、苛つきが多少軽減された。以前は故郷メールの盆地ではよく遠乗りしたものだった。
その思いが伝わってしまったか馬が駆け出しそうになる。テオバリドは馬を宥めながら空を仰いだ。
――奴のあの目も気に入らん。馬鹿にした様な、何でもお見通しだと言わんばかりのあの目付きだ。オーレン殿が嫌うのもよっく分かるぜ――
初夏の澄んだ青空には太陽が燦々と輝き、大きな雲が浮かんでいる。
雲は風が吹くと様々に形を変えて流れ、太陽に被さるとその輝きを独占し、地上には影だけが投げかけられる。
空には飛び立つ美しい鳥も舞う濃緑の木葉もいるというのに、形を持たぬ真っ白な雲だけが光の恩恵を受けていた。
「ちっ」
気を落ち着かせようと空を見たのに嫌な連想をしてしまい舌打ちをした。下を向いて影だけ見るきにもなれず、ぼんやりと遠景に目をやった。
――ランバルト様は何故彼奴ばかり重用なさるのだ。俺ならまだしも、オーレン殿さえ差し置いて最上位に置くなんて信じられん――
ジュエスがランバルトの幕下に加わるまではテオバリドが同年代の中で最も有望で主君に重く用いられていた。
今後、オーレンやハルマナスら古参家臣の後を襲ってメールの、引いては国政の枢要を担う人物となる筈であった。
だが、今は一軍の指揮すら任せられず、プロキオン家の陪臣とその扱いは殆ど変わらない。
こんな所で前衛として小間使いをさせられている。
――今までずっとあの方に尽くして戦ってきたのに。メールの山中でも、蛮族の集落でも、アイギナやリリザの戦場でも、王都の壁でも、だ。俺だって同じだけの働きが出来る。俺だって出来る事はご存知の筈なのに――
確かに政の場面に於いては仮にもリンガル公として一地方を管理し、死ぬ寸前だった国王軍を生き永らえさせた経験を持つジュエスの方が一歩上回るだろう。
だが槍働きでは決して負けない。
成人する前からずっと辺境の蛮族相手に腕を振るってきたのだ。それだけの自信があった。
――その上ランバルト様は妹君のサーラ様まで彼奴に渡そうとしているらしい。何故、そこまで信頼なさるのだ! 俺ではなくあんな餓鬼の事を!――
それは暗い妬みの感情であるのか、それとも不当な評価に対する憤りなのかはテオバリド自身には判別が付かなかった。
いや、付かせたくなかったのだ。年下の若造相手に遅れを取った事以上に、前を行く彼奴に嫉妬しているなど認めたくなかった。
気付けば馬が歩みを止めていた。これ以上考え事をしている訳にもいかない。先鋒だけとはいえ多くの兵士を指揮する将ではあるのだから。
馬首を翻し隊列の方へと駆けさせる。移動したことで雲の影から這い出し再び太陽の光を身に受けた。
――この戦で必ずや俺の力を認めさせてやる。ランバルト様が信頼せずに置かない程に。あの緑目野郎が頭を垂れざるを得ない程に!――
太陽の輝きを感じ、馬の躍動に身を委ね、居並ぶ兵達を見ながらテオバリドは強く決心をした。
――天の煌めきを手に入れるのは、この俺だ!――
◆ ◆ ◆
結局、南下するディリオン軍を阻む者は無く、進軍は順調過ぎる程順調であった。補給線への攻撃もなかったのは単に幸運であるのか罠であるのかはディリオン軍には判別出来なかった。
だが快進撃も公都サフィウムに到達する迄の話であった。ディリオン軍にとってもメガリス軍にとっても重要な戦略拠点である為、大規模な攻防戦が展開されることは明白だった。
事実、サフィウムには旧ユニオン遠征軍だけなく、王弟セファロス率いる増援部隊が入城しており戦いに備えていた。
新暦661年6月、サフィウム近郊に到達したディリオン軍を王弟セファロス麾下のメガリス軍とライトリム軍残党からなる4万の兵が待ち構えていた。
これまで接触を避け続けていたこともありメガリス軍の損失は無く、万全に近い状態での戦いとなった。
勿論、それはディリオン軍も同様であり、リンガル・メールの精鋭が全力を出せる事を意味していた。
野戦を挑んできたメガリス軍に対し、彼我の兵力差にも関わらずジュエスは対決を選択した。
大都市の城壁を攻撃する困難を王都攻防戦で身に染みて知っていたジュエスは罠と疑うよりも、幾ら大軍で在ったとしても敵軍が野戦を挑んてきた事を寧ろ有り難いとすら考えていた。
内戦を勝ち抜いてきた自軍の攻撃力に大きな自信を持っていたことも確かだった。
これらの判断は決して誤ってはいないものの、万全の態勢を期すべき状況から考えれば浅慮と言えた。
ジュエスもまた無意識の内に自らが"主導権を握っている側"、"攻め立てている側"、そして"勝利しつつある側"に位置するものだと思い込んでいたのだ。
そして、両軍それぞれの思惑の中でサフィウムを巡る戦いが始められた。
サフィウム近郊の平原に両軍は布陣した。
総兵力1万8000のディリオン軍は左翼にリンガル軍1万3000、右翼にメール兵2800、後方にコルウス族1500が配置された。
ジュエスはリンガル兵からなる選抜した予備部隊1000と共に司令部に在った。
左翼はセルギリウス、コンスタンス、フェブリズがリンガル兵団4000人ずつ率いて戦列を組み、トリックス家のセイオン率いる騎兵1000騎が側面を守るべく最左翼に展開していた。
騎兵だけを集めたリンガル軍最左翼は重装備の騎士や騎乗勇士、軽装の平民・傭兵騎兵の混成部隊であり、破壊力のある突撃部隊としてよりも機動性と攻撃力を兼ね備える火消し部隊としての役割を期待されていた。
右翼は全体をテオバリドが指揮し、アールバル、レイツがそれぞれ重装歩兵の4個方陣1200人を率い、側背にはメール軽騎兵400騎が配置された。
兵力こそ2万人に満たないがメール式重装歩兵の突撃とコルウス族の蛮勇は破壊的な攻撃力を生み出し、発揮される戦力を二倍にも三倍にも増加させる事が期待出来た。
メガリス軍は総勢4万を数えた。
右翼にメガリスの氏族兵1万7000を配置し、アンニー首長エルベドとマクーン首長オルファンが部隊を指揮した。
左翼にはライトリム軍の残党、フェルリアからの徴募軍、南方蛮族テイム族の生き残りからなる兵2万が配置されたが、統一された指揮官は意図的に置かれず個々の部隊で戦う事となった。
司令官セファロスは王家の精鋭部隊、王の精兵を中核とする兵3000人を直率し後衛に位置した。セファロスは戦場のメガリス戦士にしては珍しく馬上にあり、真紅に染められた鎧と幾本も羽飾りの付いた兜を被っていた。
メガリス軍は軽装歩兵を主力とし、弓や投石・投槍などの投射兵による攻撃と勇猛な剣士隊による切り込み攻撃が基本戦術であった。
馬は伝令や長距離偵察、輸送を除けば軍には用いられず、大規模な部隊が編成されることも無い。指揮官でさえ徒歩で戦う事を名誉とする文化があった。
サフィウム近郊の開けた平原を戦場に両軍は布陣した。
メガリス軍の野戦を挑んだ強気な姿勢とは裏腹に守備に傾いた陣形と右翼の脆弱さを見たジュエスは彼我の兵力差にも関わらず積極的な攻勢に出る事を決めた。
ディリオン軍の重装歩兵達は横一線の戦列を組み上げ、メガリス軍に向かい突撃を掛けた。特に左翼のメール軍に対するテオバリドの攻撃命令は猛烈を極め、麾下で戦う士官が困惑する程だった。
メガリス軍は弓・投石による迎撃を加えながら歩兵突撃を正面から受け止めた。しかし、重装歩兵団の衝撃力を抑えられる筈もなく、みるみる内に戦列は押し込まれていった。
自軍の優勢を見て取ったジュエスは決めの一手としてコルウス族を送り込んだ。
比較的開けた平原であった為、コルウス族は族長ロシャを先頭にその機動力を以ってメガリス軍の背後へ回り込み、強敵を求めて吸い込まれるように王弟セファロスの在る本陣へ向った。
セファロスはディリオン軍の展開を読んでいたかの様に素早く行動し、直率する精鋭部隊と共にコルウス族を迎撃した。
元々メガリス兵は切り込み攻撃を主とする事もあって混戦を得意としており、突入して来たコルウス族の狂戦士との戦いでも互角に立ち回っていた。
コルウス族最強の戦士である族長ロシャは最大の標的であるセファロスを狙い戦いを仕掛けた。
しかし、セファロスは個人的な武勇にも大変秀でており、ロシャの膂力を持ってしても仕留めることが叶わずにいた。
止めとして投入したコルウス族が思わぬ停滞に見舞われている間、主戦場である歩兵戦列では状況が大きく変わりつつあった。
メール軍の猛攻に耐え切れずにメガリス軍左翼のライトリム・フェルリア人混成部隊が崩れ出したのだった。
メガリス軍左翼は押し込まれながらも戦列を維持し攻勢に耐えていたが、片翼が崩れた以上メガリス軍の勝利は遠のいたと思われた。
崩壊する敵部隊を見たテオバリドは独断で麾下の部隊に追撃を命じた。仮にも三千人に満たない兵力で数倍の敵兵を潰走に至らしめた事実は彼の目を曇らせるに十分な戦果であった。
崩壊した混成部隊の内、幾つかは立ち止まり反撃した。これらはセファロスが敢えて統一した指揮官を置かなかったが故に、各指揮官毎に判断した結果だった。
メール軍の方もテオバリドの独断に困惑した状態で反撃に直面した為、追撃を続けた部隊と再び戦闘を始めた部隊とが混在することとなった。
しかしながら当然と言うべきかメール軍の勝手な動きに左翼のリンガル軍は協働する事が出来ず両部隊は連携を欠き、戦列に間隙が出現してしまった。
ディリオン軍に傾いた筈の勝敗が一気に逆転しかねない危機的な穴だった。
そして、"彼"はその穴を決して見逃すことは無かった。何故なら、状況を予期し、誘導し、創り出したのもまた"彼"なのだ。
若き貴族は"彼"が天の神々に祝福された存在、或いは呪われた存在であることをまだ知らなかった―――
◆ ◆ ◆
【新暦661年6月 サフィウム近郊 リンガル公ジュエス】
「……どうなってる……」
ジュエスは一人呟いた。無論、誰にも聞かれないよう小さく、短くだ。普段なら弱い言葉はそもそも発する事はしないのだが、今回は言わなくては心の安定が保てなくなりつつあった
状況はディリオン軍優勢の"筈だった"。
メガリス軍の戦列を押し込み、敵の司令部に突入し、片翼を崩壊に至らしめた。敵軍を追い詰めていた"筈だった"。
にも拘らず。
――にも拘らず、何故、我が軍に危機が訪れている? 何故、敵司令官を討ち取る事も出来ず、戦列に穴が空いている?――
崩壊した敵左翼を追ってテオバリドは独断で追撃を掛けた。
フィステルスでの出来事は頭を過ったが、あの時とは敵軍の状況が違ったし、崩壊した軍勢への追撃なので止める必要はないと判断した。
テオバリドも無能ではないし無闇には攻め込まないだろうとの思いもあった。無理に止めて勝機を逸する事を恐れたのも事実だ。
ところが奴は周りと協同しない無茶な攻撃を行った。
自身の隊列さえ整然を欠く有り様だ。その上崩壊した筈の敵軍の内、幾つかの部隊がどういう訳か立ち止まり反撃してきた。
ただそれもまた統一性のない孤発的な反撃ではあった。
しかし、それだけに追撃した連中は想定外の反撃にも巻き込まれて結局足が止まっている。
司令部に突っ込ませたコルウス族も予想外に停滞している。メガリス軍が混戦に強いのは知っていたが、ここまで耐えられるとは驚きだった。
もしかしたら、より混戦に耐えられる精鋭を集めていたのかもしれない。ハウゼン公もアイギナで似たような事をしていたし、対策を立てていたとしても不思議ではない。
そして、不思議以上に信じ難いことだが、敵の司令官セファロスはあの化物ロシャと互角に立ち回っている。
戦列に穴が空いたことで彼らの戦いを視認することが出来た。
真紅の鎧を着た男がロシャの振り回す巨大な鉄球を軽やかに避け、朝笑うかのように逆に斬り付けている。
ロシャの動きは鈍ることなく、怒りでより激しい攻撃を繰り出している。
――こうまで上手くいかないとはな。僕の失態か? それとも敵が上手なのか?どちらにしろ認めたくはないぞ。取り敢えず穴を埋め、テオバリドを呼び戻さねば――
ジュエスは手元の予備兵力に戦列の間隙を補充するよう命じ、テオバリドに伝令を走らせた。
その時、視界の先で赤いものが動き、近づいて来るのが見えた。
そいつは馬上にあり、真紅の鎧を着ていた。そいつは先程まで化物と死の舞いを踊り狂っていた。そして、そいつ――セファロス――を追って彼の兵とコルウス族が混在したまま殺到してきているのが確認出来た。
ジュエスの背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
――奴がいる。いるのが見える。何時見えた? そうだ、戦列が空いて姿が見えたんだ……"僕の位置"から……――
筋肉の強張りとは対照的に鼓動はどんどんと強くなっていく。
――穴が空く前から奴は一番近くにいた……何処が空くか知っていた? わざと"ここ"を空けさせた?――
身体を悪寒が駆け巡り、頭の中に警鐘が鳴り響く。
――嵌められたのか?――
その事に思い至った時、これまでの出来事全てに一本の筋が通った。
――抵抗なくここまで来れたのも、守りの姿勢を見せて攻撃を誘ったのも、平原を戦場に選んで我々に敢えて機動力を発揮させたのも、片翼を犠牲にしてテオバリドに追撃させたのも、コルウス族ごと戦列に飛び込んで混乱を撒き散らしたのも、何もかも全部奴の狙い通りってことか? 僕は、僕はしてやられたのか!?――
逡巡の猶予は無かった。
動きが止まる一瞬の間にもセファロスを先頭にする怒涛の群れは此方へ迫って来る。
目の前に迫りつつある男の姿はジュエスの余裕を奪った。
ただ一人の男が放つ押し潰される様な圧迫感。
ただ一人の男が出す焼き尽くされる様な覇気。
セファロスの顔に浮かぶ表情が怒りや憎しみではなく、楽しくて仕方がないと言った様な表情、まるで子供が遊びに熱中しているかの様な純粋な表情であると気付いた時、頭から足の先まで恐怖の槍が貫いた。
「出れる兵は前へ出ろ! 戦列を作れ!セルギリウスに援護を伝えろ!テオバリドの馬鹿を呼び戻せ!!」
ジュエスは大声を張り上げ命令を下す。形振り構っていられなかった。他人にどう見られているかも気にしていられなかった。
フィステルスでもオリュトスでも王都の城壁でもここまでの危機感を感じることはなかった。
司令官の命を受けて近くの兵達が動き出す。予備の兵が戦列を一応の防御陣で埋めたのと、セファロスを先頭とした群れが殺到したのはほぼ同時だった。
予備隊が選抜した兵で構成していた為、流石にセファロスらメガリス軍に突破されることは無く押し止めていた。
しかし、それもロシャらコルウス族の狂戦士達が飛び込んで来るまでの束の間だけだった。
瞬く間に両軍の兵は再び混ざりあった。乱戦に持ち込もうと切り込んでくるメガリス兵と敵味方関係無く暴れまわり混乱を撒き散らすコルウス族によって収拾が付かなくなりつつあった。
さらに、兵の間を楽しげに翔ぶセファロスと獲物を仕留めようと猛り狂うロシャによって混沌は広がる一方となった。
怒声と剣戟の音が周囲を充たす。聞く者の理性を奪い、判断を歪める地獄の響きだ。
命に従い援軍にやって来たリンガル兵も追撃を引き留められ戻ってきたメール兵もあまねく引きずり込まれ、混沌に包まれた。
――やられた……完全にやられた。全部奴の思い通りなのだとしても、この状況まで陥らされてしまった以上決めなくてはならない。どうする? どうすればいい!?――
ジュエスは決断を迫られた。
これ以上の被害が出る前に諦めて退くか。
狂気に身を委ねて勝機を毟り取りに行くか。
――退くべきか? それとも奴の首だけは何としても獲りに行くべきか?――
このまま戦い続ければ、兵と自らの命全てを失う代わりにこの狂人を討ち取り勝利を手に出来るかもしれない。この後も続くであろう戦いを今日終わらせられるかもしれない。
しかし……―――
苛烈になる一方の戦場の歌を耳にしながら、数瞬の沈黙の後に命を下した。その決断が今のジュエスという人物の本質だった。
「撤退だ!」
◆ ◆ ◆
セファロスの攻勢を前にしたジュエスは撤退を決めた。
ディリオン軍は混乱から強引に足抜けした為に相応の被害を出したが、そのまま戦い続けるよりは遥かに軽い損失で済んだ。
とは言え、それでも死者・負傷者併せ2千人もの損失は出ており、幸先の悪さは目に余るものが在った。
メガリス軍はディリオン軍の撤退を追撃せず見送った。
自軍の被害以上に司令官セファロスの個人的な意思が理由として大きかった。セファロスは今後の事を鑑みてわざと何もせず逃がしたのだった。
その判断が真にメガリスの勝利の為であるかは、未だ本人しか知り得ない事である。
ディリオン軍によるライトリム侵攻は出鼻を挫かれ、それまでの勝利の雰囲気は一掃されてしまった。
そして、勝利の天秤がどちらに傾くかはまだ定かではないがサフィウムの戦いでさえ前哨戦に過ぎないという事は誰の目にも明らかであった。
お読み下さり本当に有難う御座います。
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