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ビヰ玉Ⅳ  作者: 由城 要
7/7

伍)傷ついたのは、生きたからである

 いつの間にか目の前は真っ暗になっていて、七緒は足を止めた。階段に足をかけた気がしたのだが、前にも後ろにも何もない。辺りを見回しても、先ほどまでの宮内家の風景はなくなっていた。闇の中に広がる、真っ暗な夜。

 ふと、背後から僅かに光の線が延びる。七緒が振り返ると、そこには一枚の襖があった。向こう側には空間があるらしい。外に出られるのだろうか。七緒が襖に手を伸ばすと、向こう側から声が聞こえた。


「……また、いらっしゃったの?相変わらず物好きなお方やね」


 伸ばしかけた手が止まり、七緒は硬直する。聞き覚えのある耳障りな声。僅かに開いた隙間から、先ほどの女とは違う、けばけばしく彩られた着物を着た女の姿が見える。髪を結い上げ、貰い物の派手な簪をした背中。

 七緒は手を下ろした。女は格子のついた窓辺に座り、外の人間と会話をしている。

 いつも通りの風景だと、七緒は思った。彼女だけではなく、他の女達もそうだ。通りを行く男達に声をかけ、中へと誘う。猫なで声の耐えないこの小屋が、七緒の家だった。


「ああ……外から見る分にはお金がかからないと聞いてね」


 向こうから声が聞こえた。相手が男だということは姿を見なくても分かっている。しかし、彼女は相手のその言葉を聞くと、媚びるような口調をやめてため息を吐いた。


「しょうがおまへんなぁ……」


 彼女はそう言うと、立ち上がって部屋の外に声をかけた。何を言っているのかは分からなかったが、きっと客を迎え入れる準備を頼んだのだろう。

 耳をすますと雨音が聞こえていた。雨が降ると客が減る。雨の日の客は、珍しかった。

 やがて部屋の中に男が通されてきた。彼女は用意させた酒で酌をしながら男の傍らに座る。二人は小雨の降る外の風景を見つめながら、無言だった。


「……京ことばは使えるようになった?」


 ふと思い出したように男が言う。女はただ無言で笑ってみせると、窓辺に視線を戻して口を開いた。


「……でけしまへん」


 女の返答に男は笑ってみせた。そして再び二人の間に沈黙が下りる。

 女は再び男に酌をする。男は首を振ってそれを断った。男はあまり酒に強くないらしい。藍色の着物を着た男だった。白い肌が他の男達からすると軟弱に思えるが、その背中は大きく見える。

 男は小雨の一粒一粒に目を細めながら、酒を煽った。女が少しムクれた様子で言う。


「……いつも、雨の日にいらっしゃる。ほんまにいけずなお人やわぁ」


 この芸者小屋はあまり儲かってはいなかった。雨の日に客足が減ると、客引きが値切ってでも男を連れてくる。

 男は口元を押さえて苦笑すると、長い髪を耳にかけた。七緒はぼうっと、その後ろ姿を見つめている。男の姿は、はっきりと頭に残らないものの、その存在感だけはしっかりと胸に残る。

 まるで霞を見ているようだ、と七緒は思う。


「そうかな。でも……もう、ここに来ることもないかもしれない」

「……」


 女は自分の両手を重ねると、僅かに力を込めた。パタパタと雨樋を打って流れ落ちる雨の音が響く。七緒は襖の隙間から、じっと二人の男女を見つめていた。雨が強弱を付けて振り出し、外には逃げるように通りを行く人の姿が見える。

 パタ、と畳の上にも雨が滴り落ちた。


「……あんさんはまるで、この世のお人ではないようやわぁ」


 クス、と男は笑う。


「そうだね。そうかもしれない。……ああ、空が明るくなってきたよ」


 僅かに窓辺から日が差し込んできた。それでも降る雨は止まず、女は腹に右手を置きながら静かに涙する。


「狐の嫁入りどすぇ……」


 女は僅かに俯いた。その横顔が、七緒にはっきりと見える。生まれてから数年、毎日見続けてきた女の顔だった。ただそこに七緒に向けるような嘲笑的な笑みはなく、ただ打ちひしがれるように涙をこぼしていた。

 女は涙を拭うと、一人呟く。


「……我が袖は、潮干に見えぬ沖の石の……人こそしらね、乾く間もなし……」









 いつの間にか、また屋敷は夜に戻っていた。孝次と左一は顔を見合わせ、子狐はしきりにしっぽを振っている。振り返るとそこに階段はなく、人の気配もなくなっていた。ここは何処なのか。孝次と左一は互いに手を取り合いながら、闇の中を歩き出す。


「孝次、壁……ありそう?」

「いいや。兄ちゃんは?」


 互いの表情すら見えない真っ暗闇だったが、兄の返答があまり変わらないことは孝次にも分かった。壁すらない闇の中。右も左も見えてこない。もはや屋敷の中なのかすら、二人には分からなかった。

 ふと、手をつないで歩く二人の後ろから、笑い声が追いかけてきた。咄嗟に硬直する二人。


「あはは……!」


 子供達の笑い声が二人を後ろから追い越していく。もちろん姿は見えず、声だけが一人歩きしているかのようだった。


「い、今のは……?」


 左一の足が止まる。孝次はじっと笑い声の駆け抜けていった方向を見た。

 するといつの間にか、前方に障子戸が見えてくる。下の方に穴があき、ボロボロになっているものの、見覚えのある障子戸だった。

 左一はふと、目の前が明るくなっていくのに気付く。月が大地を照らし出す仄かな光。障子戸の向こう側には光が見える。


「これ……僕らの部屋?」


 ふと破れた障子戸の間から、子供の手が見えた。布団が敷かれていて、小さな手が転がっている。障子には女の影が映り、優しい声が聞こえてきた。


『ねんねんころりよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねしな』


 左一と孝次の手が離れる。左一の腕の中にいた子狐が耳をピンと立てた。


『ねんねこねがたに つるあうし およって起きたら 何あげべ』


 覚えのある声だ、と左一は思った。覚えはあるが、数年間忘れていた。もう聞く事の出来ないあの声。あの優しい子守唄。

 障子には子供の頭を撫でながら唄う母親の姿がある。孝次は呆然としたまま、障子の前に立ち尽くしていた。


『あんずきまんまに ととそえて 黄金のお箸で あげましょう』


 ふと、左一の右手が戸にかけられた。そうするのが自然であるかのように、左一は手を伸ばしていた。孝次もまた、その様子をじっと見つめていた。

 手を伸ばしてこの戸を開けば、そこには母がいる。亡くなってから、何度も会いたいと思っていた母が。


『ねんねこ ねんねこ ねんねこや』


 左一の手に力が入った瞬間、突然子狐が鳴き出した。犬のように高い声でキャンキャンと喚くと、左一の着物を加えて引っ張っている。ふと我に返ったのは孝次だった。脳裏に巽と交わした約束が浮かんでくる。

 キミ達が帰れなくなる。その一言が頭を掠めた。


「兄ちゃん!」


 力づくで障子から手を離させると、そのまま左一の手を握って反対方向へと走り出す。探しているのは死んだ母ではない。この妙な場所に迷い込んでしまった七緒だ。終わってしまった思い出ではなく、生きている、自分たちの友人なのだ。

 子守唄が遠くなっていく。名残惜しい感覚にキツく歯を食いしばり、孝次は走った。









「七緒!七緒っ!!」


 響き渡るような大声で、七緒はふと我に返った。その瞬間、隙間の開いていたふすまが光の塵になって消える。突然のことに七緒は驚き、そして声のする方向を見る。

 最初に見えたのは小さく白い物体だった。それがあの子狐だと気付くまでに随分かかった。


「!」


 子狐はピョンと跳躍して七緒の胸の中に収まった。ふわふわとした感触に、七緒はやっと頭の中が落ち着いてくる。


「七緒っ」


 闇の中から、孝次と左一が転がり出てきた。七緒は驚き、そして同時に顔を顰める。何故こんな場所にこの二人がいるのか。しかしその疑問はすぐに左一が答えてくれた。


「探してたんだよ、七緒。一緒に帰ろう」


 左一の言葉に七緒は安堵のため息を漏らした。しかし、孝次が辺りを見回して言う。


「でも、帰るったって、どっちに行けば……」

『その狐についていけば大丈夫だよ、兄ちゃん』


 ふと背後からそんな声がした。聞き覚えのない声に振り返ろうとする孝次を、七緒は咄嗟に前を向かせる。チラ、と横目で確認すると、丁度襖のあった辺りにユキが立っている。

 不思議そうな顔をする孝次と左一の頭を抑えながら、七緒はユキに軽く頭を下げた。


『行って、七緒。時間が残り少ないよ』

「……っ、……」


 七緒は声の出ない唇で礼の言葉を紡ぐと、左一と孝次の手を握った。子狐は先導するように走り出す。ユキの姿が徐々に遠くなり始めた。走り出した七緒の背中に向かって、ユキは静かに言う。


『七緒、知ってた?……七は幸福。緒は、いとぐち。……七緒って名前には、幸せになる子って意味もあるんだよ』


 擦れていくユキの声を聞きながら、七緒は着物の袖で涙を拭った。









 暗闇の中をがむしゃらに走り続けていると、いつの間にか外に出ていた。光の消えた宮内家。人気が感じられないところを見ると、まだここはあの世界らしい。

 宮内家の門には紫色の膜のようなものが出来ていた。これをくぐれば、あちらの世界に戻れる。狐は3人の様子を確認すると、ピョンと跳躍して膜の向こう側へと姿を消した。


「……これで、戻れるね」

「うん……」


 左一は膜を指で突く。感触はクモの巣にも似ていた。あまり気持ちが良いものではないが、これをくぐれば元の世界に戻れる。じゃあ、行くよ。そう言って左一は門をくぐった。膜を抜けるとその姿が掻き消える。やはりここは元の世界とは違っているらしい。

 七緒が孝次を門の前に引っ張っていく。孝次も膜の向こうを確認しながら呟いた。


「なぁ……七緒は、あっちに戻るのか?」


 あっちとは、おそらく芸者小屋のことだろう。七緒は俯く。一度戻れば、しばらくは宮内家に戻れなくなるかもしれない。否、状況によっては……二度と戻れなくなる事もありうる。

 あの芸者小屋で、あの女はかなり好き勝手をやっていた。高い着物を買い、金を借り……着飾りながら、何かを忘れようとするかのように、生きていた。それが七緒を捨てた女であり……母だった。


「……」


 忘れようとしていた。おそらく、あの雨の日のことを。忘れる事で救われようともがき苦しむ彼女にとって、あの日を思い出させる自分は酷く憎らしい存在だっただろう。

 けれど、何故か今の七緒には母を憎む気持ちは湧いてこなかった。



 我が袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそしらね 乾く間もなし



 ぽつりと、母の一言が唇から漏れた。今も母は今際の際にそう思っているのだろうか。

 行かなければ。七緒はゆっくりと顔をあげると、門に片足を踏み出した。咄嗟に孝次がその手を掴む。


「七緒!俺、信じてるからなっ。もし帰って来れないなら、迎えに行くっ!何度だって……っ」


 孝次の言葉が聞こえたのか、ふと、七緒は笑ってみせた。









 七緒に『七緒』という名前が付けられたのは、ちょうど十一年前の夏だった。

 まだ春先だというのに、太陽に支配されてしまったように、気温は初夏を思わせる。蜻蛉がゆらゆらと、七緒を誘っていた。

 頭に簪をつけた七緒は、宮内家の面々に頭を下げた。頭上では桜の木が花びらを散らしている。都までは秋代が同行してくれることになった。

 七緒は改めて和泉に頭を下げる。


「落ち着いたら手紙をおくれ。……みんな待っているよ」


 頷いて、七緒は使用人達に視線を向ける。使用人達は皆、袖で涙を拭っていた。ヨシの姿が見当たらないのは、どうやら湿っぽいのを嫌ってのことらしい。ヨシらしいと七緒は思った。

 一年前、ここに来てから様々なことがあった。七緒は孝次と左一に手を振る。声が出ない七緒にとっては、それが別れの言葉だった。


「気をつけて、七緒」


 左一の言葉に七緒は頷く。孝次は何も言わず、口を真一文字に結んでいた。秋代が七緒の肩を叩く。


「さぁ……行きましょうか、七緒」


 秋代の言葉に七緒は頷いた。出会いは初夏で、別れは桜の舞う季節。道の先にはいつものように、あの子狐が陣取っている。

 ふと、秋代が何かに気付いたように振り返った。


「あら……?」


 七緒がつられて視線を向けると、そこには道の向こう側から歩いてくる巽の姿があった。和泉は目を細めて笑う。

 少し古めの藍色の着物と長い髪。七緒はハッとして着物の袖を握りしめた。そして次の瞬間、足が地面を蹴り出していた。


「おっと……」


 巽の胸に飛び込んでいった七緒を、巽は優しく抱きとめた。巽は七緒に視線を合わせると、その頭を撫でながら小さな声で囁く。


「いってらっしゃい、七緒。……私の分も、宜しく伝えておくれ」


 藍色の背中に桜が舞い落ちる。胸が苦しい。きっと母はこれ以上の苦しみを抱えながら生きてきたのだと七緒は思った。苦しみと同時に幸せを噛み締める。

 幸せの糸口をたぐり寄せ、幾重にも織り連ねる幸福なる子。

 七緒は顔を上げ、真っ直ぐに空を見上げる。田舎の空は澄んだ空気に包まれて、美しい色に輝いている。生きていかなければならない。たとえどんな苦しみがあろうとも。歩いていかなければ。

 この幸福な世界を。




FIN.

 最後までお付き合いいただきありがとうございます。


 今回がこのシリーズの最後ということで、少し幻想的なお話になりました。


 読み終わった貴方の心に何かが残る作品に仕上がっていると嬉しいです。

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