肆)人生は往復切符はなく、出立した者に帰る手段はない
「孝次?」
声をかけると、孝次が震える指先で廊下の先を指差した。今では空き部屋になっているはずの部屋。僅かに開いた襖の奥で、何か白いものが横切る。
咄嗟に左一は弟の袖を掴んでいた。ヨシとは違う小さな背丈、微かに響いてくるパタパタという足音。思わず後ずさったとき、背後からヨシが階段を上ってくる音が聞こえてきた。
このままだとヨシと鉢合わせしてしまう。孝次はまだ震える奥歯を噛み締め、空き部屋へと向かって歩き出した。
「た、孝次……?」
孝次は部屋の前まで行くと、思い切って襖を開け放った。その瞬間、真っ暗だった世界が一変する。急に目の前が真っ白に染まり、二人は思わず目を瞑る。
「っ!……?」
目を開くと、そこは昼間に変わっていた。部屋の壁際には三面鏡のついた鏡台が置かれ、畳の上にはでんでん太鼓が一つ、転がっていた。僅かに開いた窓からは柔らかい光が差し込んでいて、つい先ほどまで誰かがいたかのように思えた。
呆然としながら、左一は部屋の中に足を踏み入れる。
「これ……この部屋って」
孝次は足下に転がったでんでん太鼓を手に取る。音を鳴らしてみると、優しく懐かしい音が響く。絵の部分は塗りが剥げていて、手によく馴染んだ。
「母さんの部屋だ……」
左一は辺りを見回す。記憶は孝次よりも左一の方が多かった。今は三面鏡しか残されていないが、昔はこんな風に玩具がよく転がっていた。幼い頃、どこからか孝次が持ち出してきて、その辺に散らかしては何故か左一も一緒に怒られたような気がする。
まるで今でも母がそこにいるかのように、部屋の中にはぬくもりが残っていた。ふと、壁際に視線を向けると、掛け軸の下にあの白い子狐がちょこんと座っている。
子狐は左一に擦り寄ってくる。
「ここ……母さんも、いるの?」
左一は子狐を抱き上げながら、そう問いかける。狐は僅かに首を傾げると、孝次に視線を向けた。孝次は何かを考えるようにでんでん太鼓を見つめている。
暖かな光の中に、二人の影が長く伸びた。
☆
涙が涸れてきた頃、やっと七緒の心は落ち着いてきた。ここはどこで、自分は何故ここにいるのか。泣いてばかりではなにも解決しないことを、七緒はよく知っている。しかし、声が出ない状態では、相手に問いかけることも出来ない。
どうしようと悩む七緒。美しい着物を着た女は、泣き止んだ七緒に作ったばかりのみそ汁を差し出した。
「……少し飲む?」
七緒は目をぱちくりさせて女を見た。漆塗りのお椀は家の者専用の椀だった気がする。しかし差し出されたみそ汁を断るのも気が引けて、七緒はそれを受け取った。
両手で包み込むように持った椀は温かい。一口口をつけると、七緒はまた目を大きくして女を見る。隣にいたユキが笑っているのが分かった。
「おいしいでしょ?」
七緒は呆然としながら頷く。家の仕事を手伝っている七緒だが、未だにみそ汁だけは作らせてもらったことがない。まだ十分にかまどに手がとどかない七緒には危険だと、ヨシがかまどを触らせてくれないせいもあるが、本当の理由は別にある。ヨシの信条なのか、この家の習わしなのかは分からないが、みそ汁だけは長年この家に使えている人間が作る決まりになっている。
もちろんヨシのみそ汁も上手い。しかし、目の前の女の作るみそ汁は全く違っていた。
「どうかしら?」
問いかけられて、七緒は我に返って何度も頷いた。女は椀を受け取ると七緒の頭を撫でる。あまり頭を撫でられるのは好きではなかったが、女の手は抵抗なく受け入れられた。
ふと、食事の準備に戻った女の背中を見つめながら、七緒は思う。隣にいるユキ、そしてこの艶やかな着物の女性。もしや、と七緒は振り返り、台所から廊下に顔を出した。
暖かな陽の光は目の前の階段を照らし出していた。この家の使用人になってから幾度となく見てきた風景。廊下に足を踏み出すと、人の気配が辺りを満たしていた。姿は見えないが、人が辺りを行き来しているのが肌で分かる。何と言っているのか分からないが、人の声も伝わってきた。自分には見えないが、人が生活している匂いがする。
ふと、透明な声の中に、一つだけはっきりと耳が捉えた音があった。誰かが会話をしている。懐かしい思いに駆られ、七緒はふらりと階段に足を向けた。
「七緒?歩き回ると、迷っちゃうよー」
ユキが台所の入り口から七緒にそう問いかける。しかし、七緒が階段に足をかけた瞬間、ふわりと風にかきけされるように彼女の体が日差しの中にかき消えた。
ユキはパチクリと瞬きをして、きょろきょろ辺りを見回す。そして台所にいる女に向けて声をあげた。
「お母さん!七緒またどこかいっちゃったー!」
女はふと振り返ると、少し困った表情で天井を見上げる。そしてもう一度ユキを見ると、口を開いた。
「探していらっしゃい。奥まで行ってしまっては帰れなくなるわ」
「ええー。僕も迷っちゃうから嫌だよー」
「……誰が、迷ってしまうんですか?」
ふと、唇を尖らせていたユキの表情が変わった。親子の視線が台所の端に向けられる。裏口の前に、いつの間にか髪の長い男の姿があった。ユキは男の姿を見つけると、こそこそと台所を後にする。逃げるようにしていなくなった少年に苦笑し、彼は女に視線を向けた。
「巽さん」
手を拭きながら、女は深々と頭をさげる。巽は柔らかく微笑んだ。
「お久しぶりです。……キヨさん」
「お久しぶりです。主人の相手をいつもありがとうございます」
キヨは目を細めて笑う。巽は首を横に振った。
「ふふっ……相手をしてもらうのはいつも私の方です。左一君にも、孝次君にも助けられてばかりで」
「あら。でもこの間は孝次が助けていただいたそうで、ありがとうございました。それに、あの子も……」
振り返り天井を見つめるキヨに、巽は苦笑してみせる。先ほどまで側にいたユキの気配は消え、キヨに言われた通り、七緒を追っていったようだった。
巽は辺りを見回す。やはりこの場所は、何年経っても変わりがない。
「知っていたんですか」
「ええ。巽さんが思っているより、ここは噂が早いんですよ」
クス、と口元を隠して笑っていたキヨが、巽の目を見る。
「あの子のことも、存じております。優しくて、真っ直ぐな子。……ユキの悪戯で泣かせてしまったようですが」
「大丈夫ですよ。……彼女は父親に似ず、強い子ですから」
キヨは少しだけ目を見開いたが、すぐに柔和な笑みを取り戻した。巽は台所に足を踏み入れると、ユキと七緒が去っていった廊下に視線を向けた。
上の階から声が聞こえてくる。しかしそれは七緒の声ではなく、二人の少年達の声だった。僅かにキヨの笑みが強ばる。
「……あの子達も、ここに来てしまったのですね」
「ええ。……どうしても、彼女を助けたいみたいで」
巽は視線を階段の上へと向けた。
「ここへは辿り着かないと思いますが……少し、まずいかな……」
「どうかされました?」
巽の瞳には、階段を下りてくる孝次と左一の姿が映っている。しかし二人は台所から顔を出している巽の姿に気づいていない。左一の腕に抱かれた子狐だけが気づいてしっぽを振っているが、二人に気づく様子はなかった。
やがて階段を下りてきた少年達の姿が、七緒と同じように消えていく。巽のいる場所に辿り着く前に、二人の姿は光の中に消えてしまった。
「七緒が随分と奥まで迷い込んでいるみたいです。……このままだと、あの二人も奥に行ってしまいかねない」
「……ユキは、間に合うでしょうか?」
キヨが心配そうな表情を浮かべている。あの子は気まぐれだから、という言葉に巽は苦笑してみせた。そしてもう一度天井を見る。
「ユキ君と管狐は『道』を知っています。……それに賭けましょう」