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ビヰ玉Ⅳ  作者: 由城 要
3/7

壱)花に嵐のたとえもある、さよならだけが人生だ


 庭先の桜の枝が丸い蕾みをつけはじめ、冷たかった風が少し柔らかくなる。庭先を箒で掃除しながら、七緒は朝日に目を細めた。和泉家の前を忙しなく歩いていく百姓達は、鍬を肩に畑へと向かっていく。田畑では新しい季節に向けて種が蒔かれるのだ。

 思えば、七緒が此処に引き取られたのは去年の夏のことだった。新しくやってくる春が過ぎれば、もう一年の月日が経つ。時間が過ぎるのは早いものだと、七緒はヨシの口癖を心の中で真似てみた。


「……?」


 ふと足下を見ると、あの子ギツネがすり寄ってくる。七緒は箒を門に立てかけると、子ギツネを抱き上げた。そういえば、この子は一体どこから来たのだろう。七緒は餌を与えたことなど一度もない。それでも子ギツネは出会った頃の姿のまま、今でも七緒に懐いていた。

 キツネは七緒に抱かれると、だらりと体を揺らした。抵抗する様子もない。その体はまるで小春日和の日陰に残った白雪を思い出させた。


「……こんにちは」


 ハッ、七緒は後ろから声が聞こえたことに驚いた。振り返ると骨董屋の主人、巽が門の前に立っている。七緒は慌ててキツネを隠そうとした。巽はどうか知らないが、この街には狩猟を行い生計を立てる者達もいる。

 しかし、子ギツネはピョン、と七緒の手から離れると、巽の足下に擦り寄っていった。


「おや……可愛い狐だ」


 七緒にするように、子ギツネが巽の足下で丸くなる。七緒は首を傾げ、そして巽を見上げた。巽は長い髪を春風に揺らしながら微笑む。


「大丈夫。……キミはこの子の警戒心の無さを心配しているようだけれど、この子はちゃんと善悪を判断出来る。そうだね、たとえば……」

「七緒っ、表の掃除にどれだけ時間かけてるんだいっ」


 家の中から聞こえてきた使用人の古株、ヨシの怒鳴り声に七緒はすくみ上がった。すると子ギツネも驚いたように巽の背後に隠れる。しばらくすると、その声の主が玄関から出てきた。

 七緒は慌てて門に立てかけていた箒を手に取る。


「七緒、終わったなら食事の準備に……っと、お客様かい?骨董屋の……」


 巽は困ったように笑う。七緒は2人に挟まれたまま、キョロキョロと周りを見回した。ヨシは巽のことを頗る嫌っている。どうやら女のように長い髪、男らしくない白く透き通った肌……軟弱に見えるところが気に入らないらしい。


「巽さんだったかね?和泉様のご友人だからといって、坊ちゃんたちや七緒にちょっかいを出すのは止めてくれませんか」

「はぁ……」


 ふと、ヨシの背後で、おいでおいでと合図を出す秋代の姿があった。どうやら巻き込まれないようにこっちにこい、と言っているらしい。

 七緒は困ったように苦笑している巽を見上げ、軽く頭を下げた。ヨシの横を通り過ぎ、玄関へ戻る。


「冬の一件だって、七緒が気づかなければ大変なことになっていたかもしれないんだ。あんまり危険な目に遭わせないでおくれ。……もちろん、七緒も」


 はた、と七緒は足を止めた。振り返って玄関からヨシの背中を見る。

 あの一件は巽が悪いわけではない。勿論、結果的にこの家の子供である左一と孝次が冬の蔵の中に閉じ込められてしまったが、あれは母屋の雪が入り口に落ちて、一時的に扉が閉まってしまっただけのこと。


「……」


 七緒はヨシの曲がった背中を見つめながら、胸の奥がジンとしていた。誰が悪いわけでもないと、きっとヨシも知っているのだろう。それでも危ないことをさせたくないと、ヨシはそう思ってくれている。主人の息子である左一や孝次だけではなく、使用人である七緒のことも。

 そしてその気持ちは巽も分かっているようだった。


「……分かりました」

「それじゃあ、用件を聞きましょうか、巽さん。今日は和泉様はいませんがね」


 伝言なら伝えておきますよ、とヨシはぶっきらぼうにそう言う。すると巽はいっそう困った表情を浮かべ、そして笑った。


「いえ、今日は七緒に用があったんですが……」


 ヨシの背中から不機嫌な空気が漂ってくる。ヨシの下で働く者にしか分からない、怒り出す前の暗雲だ。ハラハラしながら2人の様子を見守る七緒に、秋代は、あらあら、と苦笑して見せた。


「……でも、今日はやめておきます」

「……そうかい。是非ともそうしておくれ」


 強調してそう付け加えたヨシは、クルリと背を向けて歩き出した。巽は苦笑を浮かべると、ふと口を開く。まだ強い春風が、巽の着物の裾を揺らした。

 七緒は気づく。いつの間にか巽の後ろに隠れていた子ギツネが消えている。


「ああ、でもひとつだけ。……いつか渡したあの(かんざし)、あれを肌身離さず持っているように、と」


 伝言をお願いしますね、とヨシの背中にそう告げる巽。踵を返した紺色の羽織の背中が、家から離れていく。その後ろ姿に、七緒は何故か寂しさを覚えた。何故そんな感覚に陥ったのか、自分でも分からない。

 まだ桜の蕾みが膨らみ始めた初旬のことだった。









 夕方近くなると、家の中が騒がしくなる。縁側でクモの巣を取っていた七緒は、渡り廊下をバタバタと走り回る孝次にため息をついた。


「七緒!! 眞治達と西川に釣り行ってくるからなっ」


 学校から帰ってきた孝次はさっさと鞄を投げ出し、釣り道具を片手に渡り廊下からこちらに叫ぶ。ヨシは今街の方に買い出しに行っている最中だ。おそらく七緒からヨシに伝えておけという意味だろう。

 七緒は返事の代わりに、持っていた竹箒を釣り竿に見立てて軽く振り、首を傾げてみせた。


「釣れるのかって?もちろん釣れるに決まってるだろ。期待しとけよ、今日の夕食を一品増やしてやるからなっ」


 ビシッと指を指す孝次に、七緒は肩を竦ませた。孝次が大口を叩く時は大抵一匹も釣れないのだ。以前かなりの大口を叩いたときは、一匹も釣ることが出来ず、友人の眞治から魚を分けてもらったと聞いたことがある。

 七緒は疑いの視線を孝次に向けた。しかし当の本人は気づいているのかいないのか、ぴょん、と縁側に降りると、軒下の木箱の中から糸と針を取り出した。


「あっ、あと兄ちゃんはまだ学校だから、もうちょっとしてから帰ってくるって。……そんじゃ」


 行ってきます、と大声を出そうとした時、丁度入り口に人影が見えた。初老の男だ。飛び出して行こうとしていた孝次が足を止める。以前此処で七緒と衝突してから、少しは反省したらしい。

 七緒は人の気配に気づいて玄関に小走りで向かった。孝次は門の前で男と二三、言葉を交わすと、何かを受け取って相手を見送った。客人ならば秋代を呼ぼうとしていた七緒だったが、孝次は首を傾げながら一枚の紙を七緒に渡す。


「七緒。お客じゃなくて電報だって」


 お前に、と突き出された紙を広げ、七緒は首を傾げた。元々教養のない七緒に文字は読めない。声が出ないのならばと、最近左一が勉強の合間に文字を教えてくれるのだが、それもまだ平仮名程度のものだった。

 秋代に読んでもらおうか、と思ったその時、孝次がひょいっと再び電報を取り上げた。


「おい、俺だって漢字読めるんだぞ。えっと、なになに……ええと……」


 七緒は訝しげな瞳で孝次を見る。しかし自信満々で電報をひったくった孝次の表情が、次第に暗くなっていった。


「……母、危篤……連絡ヲ、待ツ……?」









 母危篤、連絡を待つ。電報には確かにそう書かれていた。夕食後、和泉の部屋に呼ばれた七緒は、正座をして目の前に置かれた電報を見つめていた。

 主人の和泉は電報の文字を確かめ、そして重いため息を吐く。七緒の後ろには秋代が座っていた。電報を読んだ和泉が秋代を呼んだのだった。


「七緒」


 和泉の声に七緒は顔を上げる。何を言われるのかは、何となく想像がついていた。和泉もそれが分かっているのだろう、七緒の側に寄るとその頭に大きな手を乗せた。


「暇をやろう。……しばらくの間、あちらに戻るといい」


 七緒は頭を撫でられながら、畳の目に視線を向けた。

 あの母親が病気だということを、七緒は知らなかった。もしかしたら七緒を芸者小屋から追い出してから病気にかかったのかもしれないし、最初からそうだったのかもしれない。七緒は考えを巡らせたが、答えは何一つ浮かんでこなかった。

 後ろに控えていた秋代が頷く。


「和泉様。もし七緒が戻るようなら、私が街まで送ります」

「ああ、その時は頼もう。……七緒」


 2人の会話を聞きながら、七緒はふと考えにふけっていたことに気づく。和泉は両手で七緒の頬に振れると、顔を上げて瞳を覗き込んだ。

 秋代も、ヨシも、そして和泉も。大人達はみな一様に同じ表情を浮かべている。哀れみと悲しみの入り交じる、梅雨の雨空のような色だと七緒は思った。


「行くか行かないかは、明日聞こう。……今晩はゆっくり考えなさい」


 時間はない。それでも即決出来るほど七緒の気持ちは固まっていなかった。下がっていいと言われ、七緒は和泉の部屋を出る。秋代はそのまま部屋に残り、七緒が街に戻る場合の交通手段を考えるようだった。


「……」


 渡り廊下に出ると、強い春風が中庭の池を波立たせていた。すきま風が入ってきて体が震える。そういえば夕食もまともに取っていなかった。汁物だけでも口にしておけば良かった、と思いながら、七緒は獅子脅しが風で煽られる様を見つめていた。


『ああこれで、泣いても怒ってもうるさくないのね』


 母の無情な言葉を思い出す。七緒と名付けた理由を聞いた時の、あの残酷な言葉も。浮かんでくるのはそれくらいのものだった。それ以外にも母との会話はあったはずなのに、思い出せるのはそれだけだった。

 七緒は息を吐いた。何か言葉を呟いたはずだったが、音にならなければ意味がなかった。

 もう寝床へ行こうと、七緒は思った。食事の片付けやその他の仕事はヨシが他の使用人達に割り振ってくれた。今日は一晩、ゆっくり考えることが出来る。こうした周りの配慮に七緒は心から感謝した。そして同時に、心から詫びたくなった。

 目尻を擦り、階段へと歩いていく。二階へ行こうとしたとき、ふと階段の上から物音が聞こえてきた。ころころ、カタン、トットット。ころころ、カタン、トットット。

 まだ二階には誰もいないはずだった。使用人達は主人や左一達の風呂や寝床の準備が出来てから、自分たちの寝床を用意する。


「……?」


 暗闇の中から落ちてきたのは、小さくて丸い球体だった。階段を落ちた衝撃で跳ね上がったビー玉は、トットットと音を立てて七緒の足下に転がってくる。首を傾げて、七緒はそれを拾い上げた。廊下が薄暗いせいで色が分からない。

 きっと左一か孝次のものだろう。だとすれば青か、赤のはずだ。台所まで行けば、明かりでどちらか判別出来る。寝床に行く前に左一達の所に届けにいこうと、七緒はそう思った。






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